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はてなキーワード: 等価とは

2008-05-04

日本語の弱点とか言ってる奴

これとそのブクマね。

幸い「日本語論理的でない」というトンデモさんが出てこない(日本語論理的でなかったら学術書の和訳ができるはずがないだろう)ので少し安心しているが、それでも「日本語は情緒的」だとか「日本語曖昧」だとか「日本語は回りくどい」言ってる人が多いので溜息。

そういうこと言ってるお前ら、どれだけ日本語以外の言語知ってるのかと。

お前らが日本語の「欠点」が見えやすいのは、お前らが日本語をよく知っているからだけの話。実際は他言語でもそういう言い方はいくらでもある。

日本語以外の言語で情緒的だったり曖昧だったり回りくどかったりする表現が可能なことは、ラカンだのなんだのの訳のわからん衒学的なポモ文が、明晰と言われるフランス語発祥であることからもすぐにわかるはずだ。「ソーカル事件」でぐぐるといい。あれはフランス語英語における、言語曖昧さを駆使したハッタリの実体をよく暴露したものだと思うよ。


ついでにいうと、言語の機能の話をするとき、文法・記法と語彙の問題がゴッチャにされる傾向があるのはなんとかならんかね。プログラミング言語で言えば前者は構文や「機能」、後者ライブラリに相当するわけだが、大抵のプログラミング言語チューリング完全であるというのと似たような意味で、日本語と他言語能力等価であると考えて差し支えないだろう。

ただし日本語の語彙体系は和語と漢語(和製漢語含む)と西洋外来語がぐちゃぐちゃになってわかりづらいことは確かだ。文字体系も同様。このため、書き言葉において日本語は非常に学習が難しい言葉とされているのは確か。

とはいうものの、語彙体系の煩雑さは英語だってかなりひどい。ゲルマン系・ラテン系ギリシャ系がぐちゃぐちゃ。しかも、selectionとelectionみたいに、もともと同じ言葉が生のラテン語フランス訛りとで違う意味を持ったりする。また、書き言葉が難しいといっても中国語より簡単なのは明らかだし、日本語の書き言葉学習中国人から見れば困難ではないはず。そして日本語の発音体系は非常に単純かつ標準的なので、日本語は話し言葉として見ればかなり簡単。

そういう意味日本語はごく当たり前の言語。今まで挙げた要素すべてで日本語より明らかに効率的な言語はたぶんイタリア語スペイン語ぐらいじゃないか。


あと、「漢字情報圧縮」と言っている人へ。漢字という文字が仮名文字やアルファベットよりはるかに複雑であることは一目瞭然であり、一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。

それから、敬語日本語独自のものではない。英語敬語だって難しいぞ。謙譲語も尊敬語も丁寧語もある。ある程度「話法の助動詞を使う」という原則はあるが、細かい表現はいちいち覚えていくしかない。

2008-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20080425161509

>死刑って更正不可能の人間に対してのものじゃないの?

いろんな価値観があるから一概にはYesとは言えない。

今回の判決でも犯人の更生が低いとは言っても不可能であるとは言ってない。

「今回の事件を法に基づいて裁いた結果、更生の可能性などを考慮しても該当するのが死罪だった」というだけの話だろう。

2人殺害した罪が死刑というのが妥当かどうかは難しいが、命が等価であるというのが真実なら理解できない話ではない。

>悔いてってのは単純に「後悔して」って意味じゃないよね?

いや、そのまま「後悔して」って意味

「自分の罪を後悔しつつ執行日を待って死刑になる」のも理のある幕の引き方だと思う。

2008-04-12

暗号方式はたぶん胡散臭くないよ

この記事にはブクマを見る限りだいぶ懐疑論が集まってるみたいだね。残念ながらWebで資料を探しても見つけることができなかったので、憶測でしか語れないけれども、たぶん大丈夫だと思う。もっとも、「理論的には」の話であって「実用的に」どうかは知らないけどね。

大矢氏がハッタリをかます動機がない

まず、大矢氏はその道では有力な研究者で、名前も売れてます。俺のような門外漢でも知ってるぐらいだから。だから、胡散臭いものに手を出すという動機がまずないんですよ。

ただし学者というのは自分の仕事を宣伝してナンボという商売でもあるから、まだ残っている欠点を敢えて黙っているということはあるかもしれない。でも、少なくとも「CABは完璧暗号である」とは言っていないはず。そういう意味で、嘘はついていないことは信用していいと思います。

確率0」というのは「絶対に解けない」ということではない

次に、大矢氏の発言「鍵空間は無限大ですから、鍵を推定できる確率ゼロ」という発言は数学的に普通かつ真っ当なものであって、レトリックでないことを指摘しておく。

数学では、確率は長さとか面積とか体積とともに「測度」という概念包含されるんだけれど、「確率0」というのは「『点』は『無』ではない」という話と本質的には同じものだ。例えば、中学校の時「点には大きさがない、長さも幅もない」「直線には幅がない」「平面には厚みがない」と習ったはずだけれど、つまりこれは「点の長さは0」「直線の面積は0」「平面の体積は0」って話なんだよね。点とか直線とか平面というのは「無」ではなくちゃんと存在するものなのに長さとか面積とか体積が0(こういうのは「零集合」なんて名前もついてる重要なものだ)という話、当初違和感をもたなかった?多分、今になってみれば感覚的に「そんなもの」だと理解できているはずだけど。つまり、「長さや面積や体積が0ということと、存在しないということは別物だ」ということ。

確率が0というのもこれと同じなんだ。例えば、0<x<1を満たすxを全くのランダム(あるxが別の数より選ばれやすいということはないものとしよう)に選んでくることを考えよう。これはまさに「数直線0<x<1上、x=0.5という一点の長さはいくつ?」と聞いているのと同じことで、答えは0になる。別に変なことではないでしょ?

アルゴリズムの実用化の難しさ

もっとも確かに、「現実コンピュータ上で、鍵の候補が無限大なんて関数が作れるのか」という疑問があると思う。俺の理解が間違ってなければこれは確かに無理だ。でも、そういう言い方をするのは無理なことではないんだ。

というのは、アルゴリズム理論を作るときは、暗黙に「コンピュータには無限メモリがある」と仮定してしまうことがある。もちろん現実にはそんなことはない。でも、必要なだけメモリを増設すればいくらでもその状態に近づけることはできるので、実用はともかく理論としてはそれで十分と考えることがあるんだ。

もう少し詳しくいうと、チューリングマシンっていう数学モデルがあるんだけれども、これはメモリ無限にあるコンピュータ等価能力を持っている。そして、情報工学の問題はチューリングマシンに対して考えられることが多い。しかし、現実コンピュータメモリが有限しかないから、これは本当は「有限オートマトン」(基本情報処理試験にも出るから知っているはず)とよばれる非常に単純なモデルで表せてしまうものだ。これの能力は余りにも限られているので、たとえばカッコ対応問題(たとえばCやJavaで"{"と"}"の数が釣り合っているかを確かめる問題)すらも一般的には解けない。実際、メモリ内で表現できる最大の数以上のカッコを与えてやればいい。もちろん、そんな沢山のカッコを与えるなんて現実には無理だけどね。

そういう風に、アルゴリズムについて理想と現実の壁は大きく、常に実用化の壁というものがつきまとう。そういう意味で大矢氏の新暗号が本当に画期的なものになるのかどうか、これはやってみないとわからないと思う。今後の展開に期待だね。

追記

生半可な知識で下手なこと書くもんじゃないですね。専門家からのご批判を頂きました。

http://d.hatena.ne.jp/smoking186/20080412/1208008068

というわけで、この記事は反面教師として下さいませ。この記事単独では、間違ったことは書いてないつもりですが、前提を理解していませんでした。

2008-03-20

シュレーディンガーの猫の誤解

あのさー、「シュレーディンガーの猫」の喩えを日常生活に持ち込むのは勝手なんだけど、もうちょっとちゃんと解釈してくれないかなあ?

別に、「観測したことが観測対象に影響を与える」なんてことは全然珍しいことでもないんだよね。横たわってる人間を生きてるかどうか調べるために殴りつけたら、単に寝てるだけだったらぶち切れて殴り返してくるだろうよ。これも「観測が対象に影響を与える」立派な事例だ。そんなことが20世紀になるまでわからないほど物理学者がバカだったとでも思われてるのかなあ?

別に確率が絡んだら特別なことが起こるっていうわけでもないんだよね。たとえば、宝くじの抽選結果を見るまではこのくじは「当たり」と「外れ」の重ね合わせだなんてバカなことを言う奴は誰もいない。もちろんそういう言葉づかいはできるけれども、それが「物理」でないのは明らかだよ。

問題は、何が「観測」かということなんだ。これはまたややこしい話があるので省略するけど、少なくとも日常生活で「見る」とか「ヲチする」とか、そういう言葉で表現できるものと等価なものが物理的な「観測」だってのは明らかに間違いだからね。そこだけはいっておくよ。

2008-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20080319113737

概念レベルで、箱っていったらフォルダ

ディレクトリ(階層)構造は、ファイルシステムツリー構造になるってこと。

ツリー構造って言葉がでてきた時点で拒否るんじゃないかな。

結局利用者側からみたらほぼ等価といっていいんだけど、概念では別物なんだよ。

2008-02-29

[]「,」と「=>」の違いについて

結論→一緒。

すまん嘘。

ほぼ同じ意味だって言いたかったの。カンマもイコールダイナリもほとんど同じ感覚で使用できる。

唯一つ違うのはイコールダイナリの左辺に置いた文字列は裸でも良いってところにある。

どういうことか?んー。


my @hoge = ( 'foo' , 'bar' );

これはカンマを使っているわけだが、当然文字列を指定する場合、シングルクォートでくくらねばならない。

しかしイコールダイナリを使えば左辺の値のみシングルクォートでくくらなくてもよくなる。


my @hoge = ( foo => 'bar' );

こういうことだ。当然こんな風にもかける(普通あまりこんな書き方はしないが)


my @hoge = ( foo => bar => baz => 'hoge' );

これらの書き方はハッシュに値を代入する際に良く使われる傾向がある。


my %hoge = (
	foo => 1,
	bar => 2,
);

しかし、気をつけなければならないこともある。いくらシングルクォートが必要ないとは言っても記号が混ざってるとその限りではない。


my %hoge = (
	10-1 => 'bar',
);

これは引き算と見なされる。10引く1というわけだ。

ドットの扱いにも注意が必要だ。


my %hoge = (
	foo.bar => 1
);

このように文字同士だとstrict環境下でエラーになる。だが数値同士ならエラーにならない。


my %hoge = (
	1.1 => 'foo'
);

この場合、「1.1」というキーが生成される。

また、vの扱いにも気をつけなければならない。


my %hoge = (
	v1 => 'foo'
);

上記は「v1」というキーが生成されるが、


my %hoge = (
	v1.1 => 'foo'
);

上記はエラーになると思いきや、エラーにならずバージョン文字列に変換されてうまく動いてしまう。

標準関数等も文字列として扱われる。


my %hoge = (
	rand  => 'foo',
	undef => 'bar',
);

関数を展開したくば()をつけると良い


my %hoge = (
	rand()  => 'foo',
	undef() => 'bar',
);

アンダーバーの扱いにも注意する必要がある。


my %hoge = (
	a_a => 'foo',
);

これは「a_a」というキーが生成され、正しく動いてくれる。が、数値同士を繋いだ場合は話が別だ。


my %hoge = (
	1_1 => 'foo',
);

これは「11」というキーになってしまう。この問題は1_1と11が等価であることに起因する。気をつけたし。


しっかし、「,」と「=>」はほぼ同じと言っておきながら「=>」を使う場合は裸の文字列の扱いに対する注意が多すぎて困る。

やはり文字列は文字列で明示的にシングルクォート等でくくるのが一番なんじゃないだろうかと思う今日この頃である。

プログラ増田のあなぐら

2008-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20080215165308

http://anond.hatelabo.jp/20080215165308

この増田は何を言いたいのだ?文章を読んでもさっぱりわからない。

なんでこの増田にはてぶがつくの????

文系人間が全て論理的思考ができないとは思わないが、自ら「文系」を名乗る人間がこんな論理的ではない文章を書くと、「文系」という幅広い分野が論理的思考が弱いような印象を持ってしまう。

さらに、文章を読む限り、元増田はどうも論理的思考について軽んじているように感じられるが、元増田には「論理的思考ができていないと、文章の説得力がなくなる」という当たり前のことを知って欲しい。

増田の書いた文は、まさに論理的思考のなされていない文章だよ。

論理的思考力というのもそうなんだが要するに集中力と持続力ですよ。

だから、1年かけて絵を仕上げたとか、不利な対局でも投了を認めざるを得ないとこまでがんばるとか、そういう事と等価な部分はあるでしょう。

それまでの議論が「数学論理的思考力を育む」「論理的思考の習得が数学である必要はない」という数学の必要性→論理的思考の習得が妥当かというものであったのにもかかわらず、いきなり「集中力と持続力」の話を持ち出してる。数学に「集中力と持続力」は直接関係ないでしょう。もし、関係があると考えているならば、数学と「集中力と持続力」がどのようにつながるかを説明しなければならない。

さらに、「集中力と持続力」のつながりで「1年かけて絵を仕上げる」「不利な局面で粘る」という例を示しているが、この例は数学とは全く関係がない。「そういう事と等価な部分はある」と何か価値があるように書いているが、まずもって「そういう事」とは何なのか、等価だから何か言えるのか、何も書いていない。

うんざりするような単純作業を、完成形をイメージしてこつこつ進めるという事は、「すぐに結果を出すこと」とは矛盾するし、頭のよい人ほど安直に結果を出すことを求められがちになるけど、みんながそれをやったら責任のなすりつけあいと業績のかすめとりあいで社会が貧しくなるので。

この文章も、まったく数学の議論と関係がない。

論理的思考が必要な理由の一つは、「安直に結果を出さない」または「安直に出された結果を許さない」ことにある。

責任のなすりつけあいや、業績のかすめとりあいを引き起こす原因の一つは、論理的思考の欠如にあると言っても良い。

「あのときアイツがミスったから、全部ダメになった。」 → 失敗の原因を安易に特定し、責任をなすりつける

「自社製品を売るために、独自の規格で販売しよう。」 → 自己の小さな利益にとらわれ、市場規模拡大や消費者利便向上を無視している

常日頃よくみるタイプの考え方だが、様々な要素をモレ・スキのないように埋めていく論理的思考があれば、このような「安直な結果」は生まれない。

http://anond.hatelabo.jp/20080215222923

この元増田が書いているが、

数学の問題を解くときに

1) x > a の時

2) x < a の時

3) x = a の時

のような答え方になる時があるだろ?あれは全ての場合を考えてスキのないようにしているのだ。


この数学で学ぶ論理的思考が、「安直な結果」を生まない思考能力を育てる。


あとは長いし、文章に意味もないので割愛するが、一点だけ気になるところが。

エンジニアリングがうまくいって世の中に人工物が溢れた結果が、数学があんまり役に立たない、という現状をもたらしたともいえます。

この理屈からしても、「数学があんまり役に立たない」のは、あくまでエンジニアリングに携わらない人間に限るということは注意しなければならない。万民に数学が役に立たなくなったわけではなく、数学が必要な人間と、数学が必要のない人間とに別れているということだろう。(万人に数学が不必要なんて書いてないが、)

あとは、自分の論理的思考と、数学に対する所感

マーケティング情報通信、金融、販売、農業etc、自分の頭を使って何らかのシステム(数字を扱わないものも含む)を作る行為を「広義のエンジニアリング」と捉えると、論理的思考はそれぞれに必要な技能ではないかと思われる。様々な状況に応じて対応することの出来るシステムを構築するには、「AだからBになる」という演繹的な考え方や、「A/B/CからDが推察される」という帰納的な考え方が必須になるから。

その、論理的な思考を育てる方法として、数学が最も適しているかどうかは正直に言えばよくわからない。ただ、論理体系がしっかりしており基礎理論が固まっているという点で、等しく多くの人間に行う教育としては適切だと思う。

蛇足だが、作られたシステムを享受するだけの人間単純労働者)や、まったくシステムとは離れた所で活動する人間芸術家など)には、数学は必要ないかもしれない。

2008-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20080215144415

論理的思考力というのもそうなんだが要するに集中力と持続力ですよ。

だから、1年かけて絵を仕上げたとか、不利な対局でも投了を認めざるを得ないとこまで

がんばるとか、そういう事と等価な部分はあるでしょう。うんざりするような単純作業を、

完成形をイメージしてこつこつ進めるという事は、「すぐに結果を出すこと」とは矛盾するし、

頭のよい人ほど安直に結果を出すことを求められがちになるけど、みんながそれをやったら

責任のなすりつけあいと業績のかすめとりあいで社会が貧しくなるので。

ただし特に数学をやっときゃよかったと思うのは「数式の読み方」がわからないことです。

オイラー(理系数学者/天文学者、有神論者)が無意味な数式をディドロ(文系哲学者

無神論者)に突きつけて、「ゆえに神は存在する、返答せよ!」と恫喝した、という

ネタがありますが(ちなみに実話ではないそうです)こういう不安感は一介の文系としては

いつも持っています。そうすると、ちょっと数学を知っている人が tips 的なものを書い

たり、最新科学の業績について「わかりやすく」解説した本とかを買って読んで何の役にも

立たないといったことにもなるわけで、そういうのが嫌なら少し勉強したほうがいいです。

まぁなんというか工学的制御の結果として「一定速度」とかを実現している電車

到着時刻を考えるのに微分方程式は要りませんよね(時刻表を見ればいい)。で、最短

ルートを求めるという「組み合わせ最適化」についていえば数学ができることは

それほど強力ではないし。エンジニアリングがうまくいって世の中に人工物が溢れた

結果が、数学があんまり役に立たない、という現状をもたらしたともいえます。

2008-02-11

われ発見せり

われ発見せり

社会システム論と物象化論

金田智之

 かつて真木悠介が『現代社会の存立構造』においてサルトル廣松渉を踏まえて指摘していたように、疎外と物象化は労働の出来事なのではない。一般的等価物としての貨幣への物象化とは、貨幣経済としての資本主義、そしてその下で生じる労働疎外という現象の別の名なのだ。この両者の根底には、紙幣への物心的崇拝が潜んでいる。

 ところで、二クラス・ルーマンによれば、近代社会とは社会的機能の機能分化が徹底して行われた社会なのだという。この徹底した機能分化により、教育政治経済、法、宗教などなどといった機能システムはそれぞれ他の機能システムとは無関連に自律的に作動するようになった。また、こうした特徴を持つ近代社会にとって、「社会を維持すること」とは「コミュニケーションを維持すること」を意味するようになる。そして、このコミュニケーション接続にとって重要な鍵を握るのが、コミュニケーションメディアと呼ばれる特殊なメディアなのであった(主なものとしては、経済システムにおける貨幣や、家族システムにおける愛などなどがある)。もしルーマンの言うように、現代社会が機能分化した諸機能システムと、その内部におけるコミュニケーションによって特徴付けられるとするなら、私たちはもはや物象化と疎外についても、それを経済領域だけに留めておくことはできない(また、当然ながら、経済領域は「土台」なのではない)。したがって、疎外/物象化論はその他の機能システムへも敷衍される必要があり、それぞれの機能システムにおけるコミュニケーションメディアにおいて疎外/物象化が論じられなければならない。たとえば、「愛」をめぐっては、そこからの疎外として「非モテ」が論じられているが、しかしこれは「愛」というメディアへと関係性の価値を物象化、物神化しているがゆえに生じる議論なのだ。多極化/疎外状況を捉え、象徴的メディアへ批判を加えること。それが今なお可能な「唯物論」だろう。

編集後記 今回の徹底議論のタイトルにある「スカラベ」は『マルドロールの歌』に由来すると同時に、等しく『中島らも列伝』に依拠する。太陽をころがして地平線に消えたスカラベは、暗闇のトンネルを抜けて、今はまたここにいる。永遠の不断製。生者と死者は分かたれず、反転されたパースペクティブにおいて過去はそのままで未来だ。※中島らもという作家は他者を知らない。彼に語りかけられる言葉は彼の言葉であり、またそれは私の言葉として偶然に開かれるページに飛来する。だからこう言おう――「私はスカラベは知らない。そして知っている。」※特集にあたって多大なご協力を頂きました中島美代子氏に感謝します。(Y.S)

ユリイカ 2月号 第40巻第2号(通巻547号)

2008年2月1日発行

編集人・山本

発行人・清水一人

発行所・青土社

101??0051東京都千代田区神田神保町1??29市瀬ビル4階

電話編集03??3291??2806/営業03??3294??7829

印刷所・ディグ/方英社 製本所・中條製本

ISSNS 1342??5641

定価・1300円(本体1238円)

2007-11-28

フィクションノンフィクションについてつらつらと

フィクション
[fiction]虚構。小説
ノンフィクション
[non fiction]小説の種別の一。

事実小説より奇なり」というけれど、それはつまりたいていの事実物語よりも平々凡々でつまらないということを逆説的に説明しているのであろうし、「時に」という前置詞があってはじめてこの言葉が成り立つのだろうと思う。

冒頭の引用にあるように、僕は「ノンフィクション」というものが厳密に成り立つとは思っていない。だけれど、「事実」と銘打たれたものに必要以上に(先ほどの前提に立てば、フィクションノンフィクション等価である、とはさすがに言い切れないけれど、客観的にみると必要以上だと思う)惹かれる自分も自覚していて、そろそろこういう感覚に名前をつけるべきだと思うのだけれど、これはどういうことだろうと思う。

例えば、ケータイ小説だとか、各種2chのまとめだとか、電車男だとか(これは前者に包括されてしかるべきだとは思うのだけど、事実かどうかが結構話題になっていたように記憶しているので別記する)、実際どうかは兎も角、「事実あったこと」を前提としての盛り上がりであるというのは先人の指摘するところである。

語学の習得にはその言語圏の文化をある程度知る必要があるけれど、物語を理解し、楽しむためには、その虚構世界の成り立ちをある程度理解する必要がある。例えば、「剣と魔法世界」という言葉があって、「現代日本」というくらいの説明力があるけれど、それに慣れ親しんでいなければなかなか理解は難しいだろう。つまり、「実話に基づいた物語」という惹句世界設定を示しているのではないだろうか。実話には魔法は出てこないし、死者は生き返らない。そして、実話の基となる現実世界は読者がいちばん慣れ親しんでいる世界である。

実のところ、現実世界現実的である必要はない。世の中には死に至る難病があり、犯罪が発生し、人々は難しい言葉など使わない。ある側面からみればどれもこれも正しい。けれど、これを組み合わせすぎると、嘘くさくなる。この嘘くささはつまり、自分の生きてきた世界との差異である。ケータイ小説女子高生あたりに(と敢えて書く)受けているのは、彼女たちの経験の少なさであり、未来の大きさを示しているんじゃないだろうかと思う。そして人々が「実話」に惹かれるのは、自分が(どういう立ち位置で登場するかは兎も角)体験した、或いは体験するかもしれない世界に構築されているからではないかと思う。

2007-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20071127145931

男「だけ」の役割と言うのは無かったのでは。戦争とかか?

いいところに目をつけたな。そうだな。兵役は完全に男の役割だ。

で、古代社会においてなんかは、兵役の義務と共同体における市民権参政権等価だったりした。そこらへんが女性子供政治権力がなかったことの基礎的理由。

そうした価値観は近代においてもそれなりに影響があって、近代において女性の権利が拡大した(しえた)理由のひとつとして、第一次・第二次大戦といった近代戦争においては「国家総力戦」の傾向が発生し、産業や支援活動といった面で女性の協力が不可欠になったということも挙げられる。

女性の力がなければ戦争ができない。だから女性が権利を主張することができ、それを認めざるを得なかったということ。

現代日本では軍事について考察すること自体が忌避されていたり、シビリアンコントロール概念も普及してるから奇異に思えるかもしれないけど、歴史を考えるときには軍事と政治社会関係を抜きにはできませんよということで。

2007-11-12

人ひとりの命は地球より重い

これ正論だよ

社会から見りゃそいつの命は六十億分の1なんだけどね

そいつにとっちゃ自分の命は世界全てと等価なんだから

それだけに命は圧倒的に重い

セカイ系みたいなこと言っちゃった

2007-10-19

レス

http://anond.hatelabo.jp/20071019113829

第二優先以下がない状態ってのは、食っていくことさえできれば、どれだけ苦しくどれだけ嫌な思いをする仕事であっても、等価値であるということだよ。


議論がループするけどさ。

苦しく嫌な思いをする仕事は体か心を壊して、長続きしないから、食っていけないことになると思うよ。

だから、なるべく健康でいられて、楽しい仕事を見つけたほうがいいよねというのが俺の考え。

押し付けるつもりはないけど。

好きな仕事のために死にたいなら死ねばいいと思うし。

アニメーター漫画家のように)

http://anond.hatelabo.jp/20071019114113

「好きなものこそ上手なれ」とはいうけど、

「向いている仕事(適正)」と「やりたい仕事(嗜好)」は別だよ?

2007-10-16

オタク人間としての尊厳がないので差別レッテル貼りをしても問題ない

なぜ在日韓国人などへの差別レッテル貼りが問題になって、オタクへの差別レッテル貼りが問題にならないのか?理由は単純。在日韓国人などには人間の尊厳があるが、オタクにはそれがないからだ。

差別がなぜ問題になるのか。それは人間の尊厳を傷つけるからだ。人は自ら生きていく過程で人としての誇り、尊厳を獲得していく。その誇りや尊厳は生きていく過程で身に着けていくものであるので、まさしくその人の人生そのものである。それを傷つける行為はその人を否定することに等しい。しかしその様な行為を尊厳という点で等価値にある他人がしていいはずがない。差別は人としての尊厳を傷つけるので問題になるのだ。

レッテル貼りが問題になるのも同じ理由だ。世の中にはさまざまな人生があり、人はその中で人としての尊厳を獲得していく。そのなかでレッテルを貼るというのはそうした多様性、しいてはそのなかで形成される尊厳を否定することと同じだ。だからレッテル貼りも許されない。

しかしオタクにはそれがない以上、差別があっても問題ない。自分の趣味がばれたら見下されると思っている。そしてひたかくしにする。自らに誇りを持っていない。尊厳がない以上差別しても否定される人生存在しない。レッテル貼りをしても否定される人生がない。差別レッテル貼りが一時的にオタクの感情を害することはあるかもしれない。しかし感情は一時的なものだ。感情など一週間もすれば忘れる。だからオタク差別したり、レッテル貼りをしても問題にならない。

オタクへの差別レッテル貼りが問題になるのは、オタクオタクとしての誇りを持ったときなのである。

2007-10-08

とある元エセ数学屋のぶつくさ

「頭のいい人は説明もうまい」問題で、一番肩身が狭いのが数学屋と哲学屋。哲学屋さんの弁解は哲学屋さんに任せるとして、エセ数学屋の立場からその弁解を書かせて欲しい(哲学屋さんも事情は似たようなものだと思うけれど)。

まず、世間では誤解されてると思うのだが、数学というのは理系の他分野(物理学とか、生物学とか)とは少し性格が違う。数学は、具体的な対象を想定しない。むしろ、具体的な対象と遊離したところを記述するための「言葉」を作る学問なのだ。

よく言われることだが、新たな数学理論発見とは、わかりやすい概念や記号法を発明することといっても過言ではない。一番わかりやすいのが「未知数をxなど文字で置き換える」というものだろう。これによって、古代エジプト古代ギリシャ賢者大勢を悩ませた問題も、中学生の練習問題に早変わりする。しかし一方で、多くの賢人を悩ませた問題を少数の記号やキーワードに集約するのだから、そもそもそんなものを簡単に説明できる方がおかしい。中学校あたりから数学が途端に難しくなるのはこのためだ。

抽象概念を説明することの難しさは、プログラミング世界とも共通している点があるだろう。たとえば、「多態性 (polymorphism)」という言葉機械音痴の人に説明できるだろうか、考えてみてほしい(このたとえのわからない人は、次の段落まで読み飛ばしてほしい)。もちろん、例えば「同じ『鳴く』という動作でも、犬は『ワン』で、猫は『ニャー』だ」などと、わかった気にさせるようなたとえ話でごまかすことはできるだろう。だが、そんな「説明」が役に立たないことは明らかだ。「そんなことの何がすごいのか、ポリバレントだかなんだか知らないがそんな偉そうな名前をつけるほどのことか」とかいわれて終わりである。現実に「説明」を求められる場合とは、「誰かに金を出させるために説得しなければいけない場合」なのである。ユーザ企業に「オブジェクト指向による開発」の必要性を説得するとき、そのような子供だましでは金を出してもらえないことは明らかだろう。

そして数学は、プログラミング言語よりもっと包括的に「人間の思考の一部を記述する言語」なのである(正確には、コンピュータサイエンス数学の一分野である)。そして、プログラミング言語などという概念たかだかこの数十年のものにすぎないが、近代数学は数百年の積み重ねがあるのである。素人専門家の乖離にもそれだけの差があると思ってもらって構わない。説明が絶望的に困難なことは明らかだ。その困難さは、たとえば英語を知らない子供に「関係代名詞」を説明するのと同じぐらい難しい。いや、数学は「頭の中の普段使っていない部分」を使う言語だから、英語などよりもっと難しいと言っていいかもしれない。英語日本語の間では直訳はできないことはないが、数学語やプログラミング言語日本語の直訳は不可能だからだ(できるのならば、プログラマは全員失業である)。

しかし、こうした事情を多くの人はわかってくれない。そこで、「数学屋(と哲学屋)は物事をわざわざ小難しく説明する権威主義者だ」だの「他の分野の専門家に比べて説明能力に欠けている」だのと非難を浴びるのである。こういうハンディを背負っていることがなかなかわかってもらえないのである。

追記

多態性のあたりはあまりいい例ではなかったかもしれない。犬はワンで猫はニャーというのは、多態性という概念の発想を適切にとらえたたとえ話ではあるからだ。純粋数学の場合は、こういうわかりやすい例が見あたらないものも多いのである(たとえば「解析関数」を「複素数」や「微分」を知らない人に説明するとなるともうお手上げだ)。無論、こういうたとえ話が、多態性概念プログラミング世界でいかに有用であるかを説明することにほとんど貢献していないのは明らかだけれども。プログラミング経験がない人には、それだけのことがいかに役に立つのかなど到底実感ではわかってもらえないだろう。

蛇足

なお、こんな記事が話題になっているが、この程度の説明ならまともな数学屋なら誰でもできるので念のため。このスレッドの住人はsinとかcosのような高校数学概念も怪しかったわけだが、そんな人を相手に文中に出てきた「バナッハ空間」だの「ヒルベルト空間」だのの説明をさせられたらとても困っていたはずである。正直、これらの概念専門家には「イロハのイ」レベルのことに過ぎないが、ピアノで「猫踏んじゃった」しか弾けない人に「エリーゼのために」を教え込むのと同じぐらいは難しいだろうと思う。それぐらいのレベルの差がある。

蛇足の蛇足

ついでに、上のスレッドで挙がっている「日本語論理的でない」とか「英語フランス語数学に向いている」というのはウソと言える。言語能力は、相互に翻訳ができれば等価であるといってよいからだ。実際問題としては、論理的で厳密な文章ほど、直訳は簡単である。つまり、言語による論理能力の差というものは存在しないといってよいのだ。言語によって一番表現力の差が生じるのは、むしろ「前衛詩」のような、一番「論理的でない」部分である。

2007-10-05

女って・・・

最近、よく思うのは、女はよく働く、真面目、使えるやつが多い。でも優秀なやつは少ない。

一方、男は、不真面目なのが多く、使えるやつは少ない。でも優秀なやつはとても優秀。

人間に点数をつけられるとすると、女は平均点は50点。主に30点から80点に分布。

男は平均点は40点。0点から90点まで分布。

こんな事を書くと男尊女卑のように思われるかもしれないけど、平均は絶対的に女が上だと思う。

その平均の立派さと、男の中にいるとても少ない優秀さは等価だと思う。

結婚する人が減ってきたのは、女の60点とか70点の人達釣り合う男が少ないからなんじゃないか。

同じ点数くらいの男は、なんか非モテ気質っぽい気がする。

昔は黙ってたけど、男のバカさに黙っていられなくなってきたんじゃないか。

この文を読み返しても、俺、バカっぽいw

2007-09-22

仕事楽しいものじゃない、楽しむものだ

http://anond.hatelabo.jp/20070922215202

どんな仕事も、恋愛ネトゲ増田、2ch、フットサル音楽活動に比べたら、全然面白くない。

仕事が面白いって言ってる人はよっぽどつまらない人生を送ってきたのではないかと心配してしまう。

音楽だろうが、スポーツだろうが、エンジニアだろうが、趣味仕事にした時点で

くだらないどうでもいいことをいっぱいやらなきゃいけないし、いろんなリスクをヘッジしていかなきゃいけない。

仕事が面白いですとか言ってる人は、

勉強が面白いと言ってるのと同じレベルの痛々しさだ。

論理飛躍すれば、リア友よりmixiって言ってるのと等価

まあそれでも、仕事を楽しもうという姿勢は評価するべきだろう。

どうせ、仕事しなきゃ、人間は飯を食えない。

「だったら、楽しく仕事しようぜ!!」

それはオッケー。

だけど、相対的につまらない仕事人生の大半を消費するのは馬鹿げている。

俺の人生経験から言えば、

楽しいからやってる」とのたまう奴は、トップにはいけない。

ガリ勉で終わる。

トップに立つやつは、もっと自分を客観視している。

俺みたいにな。

2007-09-05

入口と出口

最近、自分が「末端的な人間」であるということを、ときどき感じることがあります。上から教えられることは瞬時に吸収できるのに、下にそれを上手に伝えることができない。

楽器を教えている後輩は全く音感がないから、まずそれを直さなくちゃいけないのだけれど、自分は入部してすぐ絶対音感がついたから、音感がない、という状態がどういう状態なのか理解できない。それでも、自分が吹いた音を再現できないのを見てると、「どうしてそんなことすらできないの?」という気持ちになることが、最初の頃はたびたびあった。

でも、後輩から見ればそんなことはとんでもないことだから、同じ目線に立って、正確な指導をしなくちゃならない。口で言うのは簡単だけど、これって実際はすごく難しいんですよね。

自分がやってきたメソッドが自分にしか適用できないことだから、後輩に合ったメソッドを考えなくちゃならない。これってつまり、後輩の体で練習をしていくことと等価なわけで。

ところが、逆にあまり楽器が上手じゃなくても、指導がとても上手い人もいる。本人の話だと、自分がやってきたことを後輩に教えているだけ、というけれど、私は同じことをやっても上手くいかない。

結局、「得る」才能と「与える」才能は全く別物なのだな、ということを、じわりじわりと感じる毎日です。

他人なら気にしないんだけど、自分が責任のある人だから余計に辛いわー。

http://anond.hatelabo.jp/20070905193752

高校のころ神林長平にはまっていて、「質量とエネルギー等価なら情報エネルギー等価なんじゃね?俺ってばノーベル賞とか取れるんじゃね?」とか考えてた。

そしたらトップをねらえ2の3話だかで同じような話をされててなんだかしょっぱい気分になった覚えが。

でもこの理論はいつか俺の代わりに誰かが証明してくれるはず。

2007-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20070831012738

そのキャラに尽くすために恋人振ったくらいだから、恋人等価存在なんじゃないの。

恋人の代わり」ではなく「恋人そのもの」。

2007-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20070823213039

僕が興味あるのは「元増田は彼の言い方で自分が正しいと思っていることを文系の人や原丈人に伝えられると思っているのか」「そもそも伝える気はあるのか」ということです。

少なくても、0か1かの問題ではないでしょう。

伝える気があっても、手間をかける気がなければ、

表面的には、伝える気がないことと等価に見えるかもしれません。

今度は、ここが増田だってことを思い出してください。

たかがインターネットで叫んだところで無意味です。

あなたがどんなに正しいことを、丁寧に書いたとしても

原丈人に伝わることはまずありません。

話し相手は増田なんですよ。

そして、これは単なる対話なんです。

2007-08-21

日本がやばい!!

もし日本が食料を輸入できなくなったら・・・

食料は配給制になり、それによって摂取できるカロリーは約1000kcal。

子供がじっとして一日を過ごすカロリー等価

最低摂取カロリーを2000とすれば、

日本人の半分が飢えで死ぬことになる。

参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号33ページ

日本には水がない

牛丼1杯作るのに、1890リットル

チーズバーガー1050リットル

月見そば750リットル

実は、食料を作るには大量の水が必用だ。

日本は食糧を国内で作っていないから、水がたくさんある。

だけど、輸入できなくなったら・・・

水不足がやってくる。

水がなければ食料を作るのも難しい。

輸入食料を日本人1人あたりの水輸入量で換算すると、

1日1460リットル

これは実際に使用した総水量の約73%に相当する。

輸入をやめたら、1.36倍の水が必要になることを意味する。

ちなみに、牛肉1キロ作るのに、水は2万リットル(20トン)必要。

日本国内で牛を生産することは、かなりリスキーなのだ。

参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号46ページ

参考ページ

http://www.bund.org/opinion/20050925-2.htm

http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/indexJ.html

はてブより

http://portal.nifty.com/2007/08/10/b/

2007-08-10

キミ、トモダチいないでしょ?

http://anond.hatelabo.jp/20070810165253

自分の考えが浅いにもかかわらず、オレってヒトよりふっかいなー、ってところがニオウので、君の周りにはヒトがいなくなる。

芸能ニュースも下世話な話も増田における哲学思考(笑)も、等価にくっだらないってことに気づきなさい。

え?

ボクもトモダチいませんよww

結婚

結婚率と収入の相関関係に、私も疑念を抱いてます  めぐままの育事日記

http://d.hatena.ne.jp/megmama/20070806#p2

いまどき結婚なんて趣味と同じで、するもしないもさして大きなことでもないと思う。

筆者の思考背景に「結婚している>結婚していない」という価値観があるのだろうか。私にとっては両者はフラットというか等価値であるから、結婚しないことを精神的に未熟であると言われても、フウンとしか言いようが無い。気持ちはわからなくもないんだけどさ。人は己の立場をつい正当化したくなるものだとはよく言ったものだ。あと、筆者の義弟はお金のない兄の結婚嫌悪感を持っているようだが、それは将来的に金貸してとか言われるのが予感できたりしてそういうのがイヤなんじゃないかとも思う。自分も兄弟が無職結婚するとかいったら反対しそうだし。

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