はてなキーワード: 書き逃げとは
前半の発言は見たことないや。
後半についてはそういうこともあるのか、とは思うけど同意は出来ないや。
反応あるにしろないにしろ書き逃げしてるのは確かなわけだし。
あー書いたら早速例示してくれた人がいた、ありがと
http://anond.hatelabo.jp/20100916002336
泣くなよオッサンw
当然 http://anond.hatelabo.jp/20100916002336 には何の発言もないって
ことね。
まぁ、反論避けるというか上みたいに論もくそもない発言ばっかだから誰も
反論自体しないだろうけども・・・
以前思いついて長らく脳の片隅に押し込めてきた妄想が昨夜旧友と深酒した明けに頭をもたげたので勢いで書き逃げる。
キモオタ発想とオヤジギャグの混合物で、一般受けする要素はもちろんのこと何らかの意義・意味も一切ない。受ける層がないような気もする。
筆者は化粧の経験も美容の知識もない。ついでにUnixとか画像処理についても素人。
一言で書くと「*nixのmakeコマンドのノリで、メイクアップのイメージを生成・出力するジョークソフト」。
イメージに直接塗ったり盛ったりするソフトはあるのかも。でもそれはWYSIWYGなのでCUIで。
みたいなフォーマットでmakefileを書いて、すっぴん顔のイメージを用意して「make」すると顔がどんどんメイクアップされていくという感じ。
あえてプロセスにちょっとディレイ入れてだんだんとイメージがメイクアップされていく様を見るのは楽しい(筆者が)。
メイクアップコマンドはアクション名でもよくて「make dohade」でごってごてになるような指定とか「make clean」ですっぴんだけ残して消去するような指定をする。
実装難しそう。顔そのものの自動認識はできても、目元やら唇を自動判別してそこに適切なメイクアップ効果を重ねるのは…。
画像処理でパターン認識やってる学生さんは現実逃避の自由研究にぜひ。
ある程度テンプレート決め打ちだとまだやりやすいか。実写か二次元だとどっちがいいんだろう。
ひょっとしたら各メイクアップコマンドを適切に設計して作ればmakeコマンド自体のようなものは再発明しなくてもいいような気がした。どっちが楽かという話はある。
チラシの裏なんだから書き逃げ上等の精神で正直に思っていたことをつらつらと書かせていたただいたのですが、
予想以上にトラックバックや記事紹介、ブクマなどの反響がありましてこの場を借りて本当にありがとうございます。
率直な意見が言えて、それに対する反応を聞けるというのはやっぱり匿名というところの利点ではないか思っています。
いろんな意見があってすごく参考になったし、何より自分の視野が広がって書いてみてよかったと思っております。
ぶっちゃけると題は簡略に題を付けるとしたらこれしかないかなと思ってつけただけです。
書いていることは正直な気持ちを書きましたし、嘘はまったくないです。
それだけは本当。
チラシの裏で釣ってもしかたないので。
「あきらめません、オタクな男子と付き合うまでは。」の精神になりつつある最近です。
オタクというカテゴリーで付き合いたいと思うのは変だとか一種の変な盲信的信仰であるというのはある種当たりだと思いますし、自覚があります。
しかしながら、スポーツ好きな人が好きとか映画好きな人がいいとかそういう傾向は世の中に腐るほどありますよね。
そんな感じと一緒だと思います、実際のところ。
その「スポーツ好きな人がいい」というのもある種のフィーリング、感性が似ているという人の特徴を生かした自分とフィーリングが似た人を知るための方法だと思うのです。
だから、フィーリングや感性が似ている人を探すための手っとりばやい方法(語弊があるかもしれません)が私にとって『オタク』だったというだけです。
まぁ、簡単にいわせていただくとオタクな男子が私の異性の趣味。(まさしくオタク的発想な気がする)
あと、カノンを貸してくれたステキな元彼のおかげで結構美少女ゲーとかギャルゲーとかも良くするようになった。
実際に今、PS3でTtTをしていたりする。そんでもって好きだ。(ギャルゲーってか燃えゲーだと個人的には思うが)
さすがにエロゲーは買う勇気がないので、コンシューマーになってからとか18禁じゃないやつ限定だが。(21歳なので一応合法ではあるが)
まぁ、もっとも前からサクラ大戦とか好きだったからあんまり変わらん気もするが。
だれかと仲良く一緒にしてみたいとか話してみたいと思ったりもするが、こんなことを仲良く話せるオタク女子を探すのはオタク男子を探すより大変だというのは皆さん想像がつくだろう。
そんなのはネットでもいいと思うかもしれないが、それだけでは味気ないと感じるし寂しい、正直。
彼氏と気兼ねなくそんな話ができたらある種嬉しいし、まぁ少しどうかとは思われても仕方ないが。
あと、ゲーセンで「ゲーセンクイーン」http://anond.hatelabo.jp/20081025003044なんてできません。ごめんなさい。
基本的にチキン属性な私にそんなのはできません、ってか出来てたら今頃彼氏よりどりみどりで要るわなー。
ゲーセン行ってもマリオカートとクイズマジックアカデミーしかしない私には無理というのが本当なところな気もしますが、エロくないし。
そんな駆け引き出来る子にはなれんですよ、うん。
でトラバとかを見さしていただいてて多かったのが、オフ会やmixiでの出会いを求める方法。
確かに改めて考えるといい方法だと思います。
実はこれ書いて反響貰ったあと、ちょっとがんばってみようとしました。
遠距離で自滅した経験のある人間としては出会えたとしてもそのあとが続かないと意味ないというのをよく知っております、身にしみるほど。
オタク男子と出会うというのはあくまで第一フェーズでありまして、達成されるべき目標は「オタクな男子と付き合うこと」であります。
でも、まだこれからということでmixiあたりとかいろんなとこで頑張りたいと思います。
もちろんオタク男子だからといって人となりはみさせてもらいますし(こっちもみられますしね)、真剣な気持ちで付き合いたいと思っておりますので。
私の場合、オタク男子というのが無条件な条件ではありませんので。第一条件的なものだととらえて頂ければ。
イケメン好きとかではないので、中が基本ですが。
元彼のプリクラ見せたら友達には顔に関して「うーん、普通かな。」といわれたくらいですから。
普通の何が悪いって感じではありますが。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
見え見え過ぎる釣り(twitterの痛い発言晒したのもあなた?)だが、気が向いたので思惑に乗ってみる。
なんかイチローが200安打達成したからパンチ佐藤は偉い、みたいな変な話になってるけど、
その点は不問に付すとして、実は自発的・内発的な支援活動はこの場合何の反論にもならないんだよね。
生存「権」というからには、自分以外の何かへ無条件に要求出来る資格を有しているって意味なんだろうと思う。
でもボランティアというのは単に好きだからやってるだけで、「面倒くさいからやーめた」なんて言って、急に放り出しても
(女性専用席の図書館だって、可能ではあるんだろうけど追い出してはいないし)言うまでもなく何の問題もないわけ。
医師における応召義務と似たような形で、何らかの制度的な縛りが存在しないと、趣味嗜好の話として却下されるだけ。
法的な縛りは難しいと言うなら、たとえば実名や住所を公表するなりして、評判を人質にコミットしてみるとか色々出来るよね。
パンチ佐藤の方に話を戻せば「大学や食堂がいくら音を上げようが、積極的にどんどん収容する義務があるんだぜ凄いだろウチは」
みたいな、誰からも(たぶん・・・関係者以外)反論が来なさそうな形で実績を積まないと、傲慢さの代償として理屈に殉じる
誠実な態度とは言えないんだな。葛藤や屈託もなしに綺麗事言って説教に励む無敵の人に、貸す耳を持つ人はそう多くないから、
せいぜい努力して見せてほしい。まあ例の如く詭弁に詭弁を積み重ねて、変人と物好き以外関心を失った掃き溜めのプロレスに、
いちいち人生掛ける必要や意義は限りなく薄いと思うけど。面倒臭いしリソースの無駄だよね。
あとどうでもいいけど、狭隘な義憤に任せてうっかりヒステリックなエントリ書き上げて炎上した人がいたとして、
目の届きにくい所で悔し紛れに「本当の俺はこんなに偉いのになぜあいつらは認めないんだよ畜生」みたいな書き逃げしたって、
どこまで内容が真実味を帯びているのか、疑問に思う人が出ても不思議じゃないと思うな。
まあそこまでは人が悪くないつもりだけど、少なくともフェアな議論を心掛けるならあんまり得策じゃない態度だとは言えそう。
こんな感じでご要望には応えられたかなあ。
いや、あの状況でHALTANの肩を持てるって本人以外ちょっと考えにくいだろww
本気で君がHALTAN以外の誰かで、HALTANを擁護したいのであれば、こんな匿名の書き逃げで印象操作するんじゃなくて現地に行って堂々とやりこめてくりゃいいのに。
見苦しいから帰ってくれ。鬱陶しい。
おいおい、手提げカバンに格上げされてるお!ポーチで十分じゃなかったのかyo!!!w 次の言い訳としては「手提げ鞄やトートはポーチに入る!」って顔真っ赤な言い訳かwww
最初に
http://anond.hatelabo.jp/20080518201613
一般人は基本的に軽装だぞ。男ならサイフあれば十分って奴もいる。
ちょっと重い本持ってペンとノートとワックス髭剃りゴム等の入ったポーチを持ち歩く俺ですらリュックの必要性を感じたことなど一度もない。
って書いてあったので、ポーチを手に持って歩いているのかと読んだ俺は「鬱陶しい。」と言われる訳かww
あー、このまま返答無いと確かに「論破ーwww」とか書き込みたくなる気分わかるわw
スターやはてブはあるけど。
何故だ? これがはてな村?
同じく。書く動機として、あるいはコミュニケーションを求める意味で「コメントが欲しい」というのなら、最初の増田さんが必要としているのはブログサービスではなくてSNSだと思う。
今や区別する意味なんてほとんど無いかもしれないけど、『ブログ』と『SNS』は本来全く違うものなので、「コメント」に関する価値観が伝統的に全然違う(この場合の「伝統」つーのは、期間にすればたかだか2、3年の話ではあるけれど)。ブログのコメントに関する話については、この辺の議論とか参考にして貰うといいんじゃないだろうか。
http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2007/08/08/1765
だからホントは「他のブログサービス」よりもSNSを勧めたいところなんだけど、確かにはてなは他のブログサービスより理系の人が多くて、「本来ブログとは…」と考える人が多いせいで上記のような傾向が強い、というのはあるかもしれない。だから「他のブログサービス」ならもう少しコメントがつくかもしれない。また最初の増田さんも「SNSとは違ってもっと公共性のある場所で自分は物を書きたいのだ」と思ってはてなダイアリーを始めたのかもしれない。それならなおさら「他のブログサービス」に移行するという選択肢を考慮する意味はある。
個人的には『なれ合い』コメントとかほんとの『書き逃げ(便所の落書き)』コメントとかは嫌いなので、はてなの空気は心地よいんだけど、いわゆる「はてな村」の傾向というのとこれとは、また少し違うことなんじゃないだろうか、とこれは余談。
以下およびツリーへの返信
クネクネって何?わからないから調べてみたよ。「他愛もない話でイチャイチャと内輪で馴れ合っている」って意味ね。
はてな用語? はてな使い始めて二ヶ月も立つけど初めて見たよ(今使ってるのははてブだけだけどね)。
「はてなといえば馴れ合いきもいじゃないの?」って言ってる人もいる。へえ、はてなーって自分たちのことそう思ってるんだ。
不思議だね。何でそう思うんだろう。少なくとも私は馴れ合ってるの見たことないよ。っていうか、きみも馴れ合ってないでしょ。
相手と顔を向き合わせてコミュニケーションするってどういうことかわかる? 私がブログやっていた頃を例にするからしっかり覚えてね。
互いのブログを読む→コメントをしあう→メールをする→メッセンジャーで喋る→実際に会って遊ぶ
こんな簡単なことでもはてなーは誰一人できていないよね。かろうじてできてるのはたまたまはてなに迷い込んだ主婦くらい。
はてなーは自分からはコメントは絶対しないし、誰かがコメントしてもガクガク震えて対応できないでしょ。
トラックバックしても記事への異論・反論で自分が言いたいだけの発展性のない独り言のようなもの。お互いに目を見ずに独り言を重ねてる。
「はてなにコメントする人が少ないのははてブがあるから」? 全然違うよ! はてブはコメントの代替になっていない。
コミュニケーションっていうのは「相手と同じ場所で」「相手を尊重して」「お互い気持ちよく」するもの。
相手のレスポンスを拒絶しているはてブはコミュニケーションになっていない。
「そうじゃないコメントもある」って聞こえてきそうだけど、返答不能の場所に書き逃げして相手の反応は期待するって行為がどれだけ無礼か。
それは顔を見合わせたコミュニケーションじゃないし、ましてや馴れ合いとは言えないよ。
ついでにはてスタのことも書くけど、これこそはてなーのコミュニケーション不全を象徴したものだよね。
こういう機能がなきゃ「それ良いですね」とか「好きです」とか言えない心の弱さ。そんなに人が怖いの?
しかも、はてなーはコミュニケーションのために作られた機能ですら交流に繋げられていない。
スターつけてくれた人と喋った? せいぜい相手の日記見に行くくらいでしょ。
以上。結論としてはてなは孤立した人間の独り言が連綿と続く場所であって馴れ合っていないし、コミュニケーションもしていない。
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たまたま2ch系の紹介系サイトで話題にのぼっていたブログではてなを知る
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「みんななんか頭良さそうなこと話してんな・・・話題のニュースもわかりやすいし、いい感じ」
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三日で飽きる
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「はてブなら簡単だし書き逃げできるから楽チンだお!痛ニュ死ね」
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はてブで長文(といっても60,70文字程度)書いて☆集め
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「ぶっちゃけ、100文字程度で世の中を論じようなんてガキのやることだよな」
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だんだん虚しくなってくる
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「そういえば、ハイクってあったよな・・・」
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ハイクにはまる
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飽きる
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http://anond.hatelabo.jp/20080102124236
スレ読んで自分で考えたりしないで、「まとめ」だけ読んで知った気分になってるイナゴのたまり場、それがはてブ。批判もされずぬるま湯に浸かってる「書き逃げ」姿はイナゴとしか言いようがない。
自分は2ちゃんもはてなもぬるま湯であるべきと思う。ネットの書き込みにいちいち気合入れる必要ないだろうし。名誉毀損か何かで裁判沙汰警察沙汰になる場合は両方特定可能なんだし。
はてぶでもすてはんできるし、2ちゃんでもこてはん使える。
あと毎日2ちゃんやはてなに張りついてる人でなければidあろうが単なる文字列でしかない。みてるほうは人格には結びつかない。
ブログもってれば攻撃される可能性もあるし。
これはネラーも同じ。というかまとめブログの人も読み書きしてるんだからネラーの一部。
http://anond.hatelabo.jp/20080102154219
ネットイナゴという新語がどういう種類の人に使われやすい言葉かどうかを見てるんだが。普通の辞書にはないネットで使われる用語なんだからネットでどういう使われ方されてるかを見るのが一番正確。
>批判もされずぬるま湯に浸かってる「書き逃げ」姿はイナゴとしか言いようがない。
はてぶはまだIDが明確で、継続性があって人格が見えやすい分2ちゃんのイナゴよりましだと思う。
ブログもってれば攻撃される可能性もあるし。
それがなくても継続した人格で批判するということは大事なことだと思う。社会的にもその人の精神的健康のためにも。
あの場だけが批判の王道みたいな妄想を抱くようになると危ないと思うけれど。
(追記)
自分は2ちゃんのイナゴ。はてぶは資料倉庫で非公開。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071230111503
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/thir/20071231/1199027895
スレ読んで自分で考えたりしないで、「まとめ」だけ読んで知った気分になってるイナゴのたまり場、それがはてブ。批判もされずぬるま湯に浸かってる「書き逃げ」姿はイナゴとしか言いようがない。
そもそも2ちゃんねる本体は叩くくせにまとめブログ大好きなはてな市民の気持ちは良く理解できない。隠れたところでダブルスタンダード。
Phohoshopの使用方法紹介記事にしたって、はてなイナゴ達は「使ってみる」とかコメントしてるけど、あんなの10万円もするphotoshop持ってたら絶対知っている話なんだよね、全部。君たち何のためにphotoshop買ったの?warez落としたんじゃないの?と思うよ。