はてなキーワード: アウトプットとは
あなたば、おそらくネイティブの喋る英語が聞き取れ、それに返答することはできるのはわかった。(日本人の多くは、簡単な英会話すらできないのだから、それはそれでたいした事なのだ)
で、周辺社会や自分の周囲に対して、何かプラスとなるあなたからのアウトプットは、あったの???
どうもそこらへんが聞こえてこないのが、このエントリーが他人からの共感を得ない一つの理由だと、自分は感じた。
俺の住む世界はアイティーとやらに支えられているらしい。
アイティーに関われば、俺の住む世界をさらに素敵なものにしていけるに違いない。していきたい。
そう願って、何も知らなかった文系新卒の俺が金融系のシステム会社に入って、もう一年以上が経つのだ。
昔、お遊びでゲームを作ったことはあった。RPGツクールなんかが好きだった。
パズルみたいで楽しかった。コンピュータの中身が理解できて、わくわくした。
楽々と基本情報技術者の資格を手にし、半年後にはほとんど勉強もせずにソフ開も取得した。
研修の課題では同期の誰よりも速く、短く効率のいいソースを仕上げた。
現場に出て、本番機に触った。
30年間親会社を支え続ける偉大なシステムの中身を、わくわくしながら覗いた。
そこには、俺の求めていた世界とはまったく違うものが広がっていた。
俺が産まれる前から、入れ替わり立ち替わり何人もの手によって継ぎ足されたロジック。
何千行にもわたって、似たような処理が何回もひたすら繰り返される似たようなモジュール何十本。
1993年に行う臨時処理のロジックが、今もコメントもなしに埋め込まれている。
仕様がわからなくなれば、キャビネへと走って、黄ばんだ方眼紙に鉛筆で書かれた仕様書を探し、
そして修正履歴のみが書かれているのを確認して肩を落とす。
半年後に臨時で行われる業務に対応するため、いくつかのモジュールについて、処理可能なユーザーコードをひとつ、条件に加える。
与えられた期間は2週間だった。ずいぶん長いなと思った。
何枚もの設計書を書いた。つまり、方眼紙状のExcelテンプレートに同じ文章をコピペした。
追っていったモジュールはどれも、ヒープもソートもメモリ管理も論理演算も出番がなかった。
あるのはただ、IF文とMOVE文とばかりだった。ソースの難易度は使われている命令の数とは関係ないことを学んだ。
テストデータを作るため、階層型DBを何回も辿ってデータをアウトプットさせるモジュールを書いた。資格試験で学んだSQLは、無用の知識だった。
協力会社への仕事割り振りやユーザー対応に毎日忙しそうだった上司が、夜遅くまでの残業続きでくまのできた目を皿のようにして設計書をレビューした。
2日後、承認が出た。フェーズが設計から開発に移った。
ロジックを丸々コピペしてソースを修正し、コンパイルし、実行した。
2週間はあっという間だった。
俺のせいで、半年後以降は使われないロジックがソースにまたひとつ増えた。
今回の対応については、Excel方眼紙にレポートをまとめて共有ドライブに入れておいた。
だが共有ドライブの検索には時間がかかるし、Excelシートの中身となれば検索から漏れることも多い。
きっと誰にも読まれないだろう。
2バイト文字が使えない関係上、原則、ソースにはコメントはあまり入れられない。
数年後の新人はきっと、俺の書いたモジュールを見て「このロジックは何だ」と首を捻るんだろう。
数年後の俺はきっと、今回のレポートを共有ドライブから探し回って新人にパスを教えてから、
協力会社の管理に追われる作業に戻って目の下にくまを作るのだろう。
俺がやりたかったシステム開発って、こんなものだったのか。
俺は部署の中で、俺の望む仕事を探し続けた。
先輩たちは忙しくて誰も興味を持ってないけど、自動化できる作業はいくらでもある。
よく使われるExcelシートを改造し、定例作業をクリックだけでできるようにした。
ExcelVBAとはいえ、書いていて心地よかった。引数が明確な関数と変数のスコープと全角文字があったからだ。
COBOLで打つプログラムより、控えめに見て100倍くらいの生産性を発揮できていたと思う。
先輩たちは喜んでくれたが、ただし俺の仕事を、あまり仕事とは見なさなかった。
それでもよかった。業務時間外は俺は相変わらずスクリプトを書いていた。とても楽しかった。
VBAから入って、WSHなんてものを知り、やがてJavaScriptを学び、ネットで資料を探し、はてなを知り、はてブでWeb技術についての記事を読みふけった。
知れば知るほどに、どんどんCOBOLが、メインフレームが嫌いになっていく。
先輩は誇らしげに言う。システムはたいしたことをやっていない。業務知識こそが大事なのだ。
ユーザーより詳しく業務を理解し、適切に提案し、設計する能力。
協力会社を率いて、わかりやすい文書で指示を行い、スケジュールを調整する能力。
人を動かすぶん、責任も大きくやりがいもある。優秀な人材こそが我が社の強みだ。
そんな人材が育つよう、我が社は安定して働ける環境と福利厚生を整えている。
ああ、そうだよ。先輩、あなたは正しい。
俺だってメインフレームの信頼性のすごさはわかってる。
密なユーザーとの関係から生まれるシステム子会社としての強みも認識してる。
それだけじゃない。社内環境も悪くない。給料もいいし休みも取れるし先輩は優しい。
ここは、いい会社だ。
けど駄目なんだ。
30年前のシステムを枯れた言語でツギハギする仕事じゃ、俺の心はやっぱり満たされない。
ユーザーの業務知識ばかり身につけたって、俺自身の人生には、いいことなんてない。
俺が求めていたのは、この仕事じゃないんだ。
社内の誰も、TumblrもTwitterもやっていない。ライフハックなんて聞いたこともない。
Joostやモバゲーや2ちゃんねるが社会に与える影響について誰も語れない。
休日はゴルフや酒に興じている。自宅にPCを持ってない人までいる。
おかしいことじゃない。普通の人たちだ。
それどころか彼らは、仕事とプライベートを切り分けている、立派な人たちだ。
でも、やっぱり俺の生きていきたい世界は、ここじゃないんだ。
たぶん俺がいるのは極北なんだろう。
ここが、人月計算とExcelとスーツの世界というやつなんだろう。
俺は80文字×32行の緑文字を見つめながら、遠い夢を見続ける。
て事は、2ちゃんねるはいわゆる「女」に似ているとも言えるんじゃないかろうか。
「意思決定は雰囲気次第(理論じゃないね)」
「アウトプットから中身は測れない(化粧や作った言動で)」
「中の人も何をしているか分からない(流れに左右されて自分が見えていない)」
「突然炎上して火の粉が降ってきたりする(激怒する理由がよくわからん事も)」
「自分から目だたなければ火の粉が降ってくる確立は激減する(変な刺激しなけりゃまあ大丈夫)」
あと、悪い事はいつまでも引きずる粘着質な所もある。妬み僻みも凄まじい。
…ほらね、女の女たるイメージに近いでしょ?
箇条書きマジックの可能性ありだけどな。
http://anond.hatelabo.jp/20070720202759
活字がどれだけ好きだったっかは知らんが、その蓄積がアウトプットに表出していないところをみると、おまえの自称本好きも知れたものだな。
わかりやすく言おう。
恥を知れ。
5年前からの友人が彼女に振られたそうだ。
恋愛ってなんだろうか。
人はいつも寂しそうだ。苦しそうだ。それを敏感に、拡大して感じるのは、昔からのようである。
前の恋人が精神に異常をきたし、ファンタジーの世界へ旅立ってから1年半。俺の被害妄想アンテナはインプット力よりもアウトプット力を成長させた。
俺は女がどうだとか男がどうだとか難しい話はわからない。経験もそれほどないし。
ただ、異性にしろ同性にしろ、人は穴を埋めたがっている。そう感じる。(セックスの穴埋めは、段階の違う話になるのだけど。)
開いた穴をそのままにすることは、とても不安定なのだ。何かでふさがなければ、人前に出ることができない。もしくは、ビクビクしていなければならない。
自分だけではダメだ。他者がいる。理想の他者による完璧な穴埋めを追い求めるのが、俺たちの業だ。
その他者はどのような形で表象されていても構わない。つまり、文学だろうがアニメだろうがジャニーズだろう団地妻だろうがが構わない。
穴埋めは、とても内的で観念的なものだ。表象を飛び越え、自己の中でそれらは再構成される。穴に合致する何かを得んがために。
ここで語る<他者>とは、穴を埋めるための理想的な他者。
それは自らと反発しあうこともあるし、自らを傷つけることもある。だけど、そうすることで自己を修正し、他者と折り合いをつけながら、より穴のふさがった状態を求めていく。
だけれど理想的な他者は、常に分離・解体の可能性にある。
気をゆるめれば、すぐさま離れていってしまう。彼らは常に同じ所へ留まっているわけじゃないんだ。
何の話だっけ。ああ、恋愛の話。
俺は自分が他者との接合を求める一方、他者との接近に強く怯えを抱いていることを自覚している。
穴だらけの自分は、求める他者の前に近づくことさえも適わない。
そんな折、ペルソナを持つことを覚える。人前に出るためのペルソナ、孤独を癒すためのペルソナ。
もともとが観念的なことに敏感で、過剰反応してしまう性質の俺。ペルソナは極端な別人格のように表出され始めた。
大阪人なのに標準語で話し、たばこ嫌いなのに喫煙し、同期に敬語を使い・・・。
様々な突然の変化と、それが常でないことに、周囲が困惑を見せる。
たばこを吸うペルソナや、敬語しか使わないペルソナなどを抱えながら、制御のとれない状況に自分も困惑している。
恋人のペルソナを設けた。俺を限りなく愛してくれる。一緒にいると、胸がドキドキする。
そいつは俺を殺したがっている。
俺はどうやら切り替えの早い人間らしい。
頭の回転は遅いが、不要な考え方や自分自身の失敗の原因になっている行動などは、
さっさと捨てて、切り替える。
基本的に、対人関係が得意ではないので、そうしないとやっていけない。人が失敗しないような
細かい部分でも失敗しているからだ。
そんな自分なので、言っていることがコロコロ変わるらしい・・。
自分としては、「アウトプット(表現)」が変わっただけで、「大本の考え方」は何も変わっていないのだが、
どうやら、「根っこにある自分自身」と、「周りの印象」とは大きく食い違っているらしく、
これが大きな誤解を生んでしまい、出鼻をくじかれることになる。
原因としては、自分自身の考えと、口に出した時に発せられる表現に大きな開きがあるかららしい・・。
言ってみれば、ひどく自分の気持ちを表現するのが下手なのだ。
伝えたいことも、脳内から外に出すのに時間がかかる。
言いたいことがあるのに、タイミングを逃してしまい、それがその相手と親しくなるチャンスを逃してしまったり・・
「相手に言いたいことがある」→「この人にはどんな言い方をしたらいいだろう」と考えているうちにチャンスが逃げていってしまうんだ
もどかしい、もどかしいな・・
どうにか、思ったことをそのまま表現出来るようには出来ないだろうか。
デザインってスゴイんだってことをもっと本気で言わなきゃダメだと思う:DESIGN IT! w/LOVE
三行しか読んでないけど、アツイ思いは伝わってきました。で、この人はそのアツイ思いをもって、実際にどんなものを作ってるんだろう。
本を書いたりセミナーを開いたり、Webでいいこと書いてても、実際の仕事で何を為したのかがわからん人が多すぎる気がする。特にCSSな人たちとか、ディレクター系の人たちは、ほとんどそんな感じなような。どうなんだろう。もったいない。
知識があるのはわかるけど、アウトプットが全然見えないから、どうにも尊敬できないんだよなぁ。みんなあまり気にしないんだろうか。
あまりの反響に腰をすえて色々なご意見にお答えしなければと思いつつ、議論の焦点がぼやけているためにアニメやらイラストやら消費形態やらいろんなものの系譜を頭の中で整理していたらとてもじゃないけどすぐ書ける様な話でなくなってしまったので、脊髄反射で思ったことだけ書き記しておきます。
本文のクオリティは保証しないので、君はこのエントリを読んでもいいし、読まなくてもいい。
さて、元エントリ「なぜ作画の評価は割れるのか?」では、あえて“脚本・演出”の評価と“作画”の評価を切り離しています。これは、最近みられる“作画崩壊”に対するネット上のアニメファンの反応における問題点を明確にしたかったからです。
『グレンラガン』#4は脚本がダメだったから叩かれているのに、小林作画を擁護しているのは検討違い。本当にグレン観てるの?という批判については、上記の理由より「いやそんなこと申されましても…」としかいえません。
ちなみに、今回シナリオにも小林治の手が入っていますが、自分としては小林演出と、氏の描く女子の可愛い表情、仕草は大好物ですので、ふつうに楽しめてしまいました。
ゆえに「ふつうのアニメファンには見向きもされない」と『BECK』を評された増田様におかれましては、「じゃあふつうのアニメファンって何を観てるんだ?!」と激しく抗議申し上げたい。
冗談はさておき『グレンラガン』#4はあくまで元エントリを書くことになったキッカケに過ぎず、各人にとってそれが面白かったかどうかは、今回述べたかったことではありません。
「作画崩壊祭り」に限らず、「トレス祭り」「パクリ祭り」など、ネットでの炎上事例は枚挙に暇がありませんが、本来、非難されるべきでないものまで含めて祭りの対象となっている様に思われるケースが多々みられます。
祭りに参加している人には「わざと叩いてる」荒らしもいますが、中には、ブログのエントリやまとめサイトに煽られて、かなり真剣に批判的な書き込みをしている人がいる様に思います。
例として適切かどうかわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「晴レ晴レユカイ」の振り付けはトレスである(パクリである)というエントリが一部で話題になったことがあります。このダンスについては、京アニの山本寛がアイドルユニットBerryz工房の大ファンであり、作画スタッフは絵コンテとともにPVを幾度となく見せられたというエピソードが公開されていて、“盗用”ではなく“オマージュ”と見るのが正しい受け取りかただと思うのですが、このエピソードを知らなかったとしても、ハルヒのEDとベリ工のPVから同じ動きのカットをならべて「トレスだ!」「パクリだ!」と言うのは、ちょっと違うんじゃないのといいたくなるわけです。
教養主義や世代論でこの問題を解決したいとは思いませんが、クリエイターや著作権に対する無知・無理解、あるいはリテラシの欠如が、こういった祭りを加速する要因のひとつだととらえると、元エントリのような教科書的にジジむさい説教も書かずにはいられないのです。
実際のところ、自分もアニメーターブーム直撃世代ではなく、その後のキャラクターデザイナー、イラストレーターが注目される時期に、アニメにはまっているので、キャラ萌え、ビジュアル重視という傾向にむしろ拍車をかける様な消費形態をとってきました。ゆえに、作画やアニメーターに関する知識においては半可通であるという負い目もあって、あえて増田で書いているわけですよ。出来ることならばタイムリープして自分に説教したい!
そんなこんなで、誰かを突き放したり、権威ぶったりするのではなく、消費する中で自分が獲得した視点とか面白ポイントを、Web2.0的に共有したり継承したりできればいいのになと思って頑張って書いてみたのをご理解いただけると増田うれしい。
あと、anond:20070424113453の増田さんはおそらくバランスのとれたアニメの観かたをできている人だと思います。「あー、おいしかった」というアニメの観かたの中には、知識の有無は関係なく「アニメーターの凄い仕事」に対する感動が含まれているハズだと思います。「作画崩壊祭り」の輪の中にいる人たちの言動が、あまりにも極端に「絵の美麗さ」と「キャラクターの一貫性」を非難の根拠としていることから、元エントリも極端な反論になっているので、実際バランスをもっている人にとっては、そんなことないよと反論されるものだと承知しています。
「さすが京アニ」を「さすが京アニ」にとどめず、ちゃんと理解することが、理想的な状況につながる突破点だと考えているのですが、それを記すには膨大なリソースが必要となるので、いつかまたどこかでやりたいなと思ってます。あるいは某アルファブロガーとか某アニメライターとかがやってくれないかと思います!!たりきほんがーん!!
キャラクターの一貫性に対する寛容・不寛容については、同人におけるキャラクター消費の盛況から、実際は若いファンほど寛容であるという意見があったのですが、公式キャラクターグッズのひとつとしてのアニメ、DVDという観点からより強力に一貫性が求められる傾向にあるという理解です。この議論につっこんで「データベース概念」や「キャラとキャラクター」という話を始めると、「批評うざい」といわれるので、あまり掘り下げることはしません。というかこれ以上、泥沼に足を突っ込みたくありません!
最後にひとつだけ、ガイナックスというスタジオは、少なからずその出自を“オタク”に持つ、あるいは持っていると思われることで、アニメオタクから支持されてきたはずなのに、なぜ今回のような事件を起こしてしまったのかが、残念に思えてなりません。
もっとも、エヴァの時点で庵野秀明がいろんなことを言っちゃってますが、そのフラストレーションのアウトプットとしてそれ相応の作品ができてくることで、むしろ根源的な部分で切っても切れないオタク性みたいなものを炙りだしていたので、自分としてはほほえましく思いました。
しかしながら、ガイナックスの内部スタッフがキモオタ氏ねというコメントを(意図的ではないにしろ)発表してしまい、そこに赤井孝美が乗っかってるというのは正直どうよと。いつからそんな風になっちゃったの!と。オタク目線をわすれないガイナックスというのはもはや幻想なのかもしれないと感慨にふける14の夜(嘘)でした。
追放運動でもしたら?
俺も同期に病んだ奴がいる。
旧帝大出のできる奴だった。
まぁ俺に言わせれば、ちょいと頭でっかちのきらいはあったが、それでも優秀なのは誰もが認める奴。
けど、そいつが病んでしまった。
もちろんメンヘル系ね。
今は抗鬱剤飲んでがんばっている。
そいつを病ましたのは先輩だった。
その人の同期は少なく、少ない理由はできる奴は他社に転職したためと言われる、そんな世代の生き残り。
で、その人は会社に残り、で順当に地位を持つ。
その立場で下々に命ずるのさ。
真面目な奴だったのだよ。
俺みたいに不真面目なら、話半分に命令を聞いて、酒飲んで憂さを晴らすけどさ。
彼は真面目に真面目にこなして。
で、潰れちまった。
嗚呼。
今、俺はその先輩氏に反抗をしている。
できる奴が威張るのは良い。
けど、年齢だけで威張るな。
下の、例えば俺や同期の彼のような連中のアウトプットを手前の成果にせずに、まともな成果を出してみろ。
あんたが書いた計画だ。あんたが実現して見せろ。
って喧嘩を売って、2ヶ月ほど。
プロジェクトは死にかけている。
下の、例えば俺とかの、私生活を犠牲にしてやっと成立するような計画だからね。
奴自身にはスキルなんてないし。
とはいえ、そろそろ俺自身の立場が悪くなるほど、死にかけ。実際、今からリカバリーを考える目が眩む。
けど、そいつが折れない限り、反抗しようと思う。
奴が折れるか、奴を重宝していた上司が反省するまで。
#まぁもし今、俺が折れたら、俺の責任で問題になるしね・・・
って、状況が似ていたから愚痴ってみた。
それだけ。
ブログを書いていてそれなりに人が集まるようになった
ただ最近はウヨ的言論だけでなく
もっと広い視野から物事を見ようと
ちょっとサヨちっくなことも書くようになった
すると以前からの読者は当然困惑するわけだが、
俺はもっと広い視野を持つためにサヨやリベラル系の考えも取り入れるようになった、
本質はこの日本をどういう国にしたいか、そこを考えて欲しいと表明したところ、
「あなたには期待していたのに残念です」
という感じのコメントがついた。
ブログを読んでもらっていたのだろう
私の行為は彼にとって裏切りである
だが、私自身にとっては、思考の範囲を広めるための成長の途中なのだ
死ぬまでこの思考というものを続けていきたい
そして思考は続ければ続けるほど、
昔の思考に疑問を抱いたり、否定する場面に出くわす
俺はブログをこの思考の結果生み出された日々のアウトプットを書き連ねてきたに過ぎない
だから、彼が私を裏切り者と称するのに抵抗感がある
ついていけないなら読むのをやめればいい
書くのも自由、読むのも自由、やめるのも自由
それがネットじゃないのかい?
抽象で考えることができる領域が広いのはすごいことだが、抽象のままアウトプットに失敗しているのは能力が高いと評価できるか疑問だ。
論文を書くときや人に説明するときは、共通の枠組みとして多くの場合ロジックが使われる。だから自分の頭の中で抽象的に考えたことをいかにうまく論理に載せ代えることができるか、というのは一つの能力になるのだ。まぁ、いかに理解しやすい説明をできるか、という話になるのだが。
つまり、一口に能力が優れているというときでも、
という別個の能力に分解できる。
高度な抽象思考を行えても、それを相手に理解できる形で提供できなければ評価されない。「何を言っているんだ?」とキチガイの一人として処理されるかもしれない。
だからなんだ、というと、元ネタの記事が理解しにくい文章だ、ということだ。個別の事柄に関するメモがあるだけで、結局何を言いたいのか明確ではない。文章にトピックセンテンスがない。「ふむ。個別の事柄については分かった。で、それらのことから何が言いたいの?」というメッセージの要の部分がない。理解できなかった、というだけだ。
ひょっとして、元ネタの記事は単なるノートだったのかもしれない。そう考えれば、文章として発散しまっくっていることに関して理解しやすい、かな。
これは間違いなくweb2.0の原則のひとつ。
多くの人々に使いやすいインターフェイス
レッシグのこのエントリでは動画やイメージについて語ってるんだと思うけど
WIKIにも同じことが言えるわけで、ここまではサイトとかアプリとかスクリプトっていう人間外の、モノ側、機械側の話。
上記のようなコンテンツの構築の方法に特化した
素早く効率的にハックとリミックスが可能な、人間の脳というか思考というか意識、精神のあり方。
それは本読んだり喋ったりっていう従来の情報の出し入れの方法に特化した現代人のそれとは違うのでは。
新しいコミュニケーション方法、新たな環境に特化した知性の集約方法、
集団((かつては地理的地域が主だった))の知恵の構築と保護の方法を
研究し獲得する
新しい道具、メディアに合った、知性、知的情報のインプット、アウトプットの回路、それを具現化する言語体系とそれを扱う能力ってのが
必要になってくると思ってるのって俺だけ?