はてなキーワード: 迷信とは
風邪のときの高熱、つらいですね。扁桃腺とつきあってうん十年、大分、かぜ薬に頼らない対症療法が確立されてきた、と自負しているのでちょっと書いてみます。ご意見お待ちしております。
悪寒がして、体ががくがく痛くなるころです。
体を暖めてください。とにかく、フリース重ね着しようがなんだろうが、悪寒がとれるまで暖かく着込んでください。暖かい飲み物、ビタミンCをたくさん取りましょう。果汁100%のオレンジジュースでもいいです。ちなみに、風邪のときにオレンジジュースを飲むのはアメリカ式民間療法です。カフェインがはいった飲み物はお勧めしません。体を冷やし、眠れないからです。どうしても飲みたかったら、ミルクを多めにいれましょう。とにかく熱が上がりきるまで、体を暖かくして、ビタミンCを錠剤かフルーツで多めにとり、スポーツ飲料やゼリーとかで水分をこまめに取りましょう。
体を冷やしてください。首筋とかにアイスノンをくっつけるのもいいし、薄着で寝るのも効果があります。ふだん布団だったら毛布に切り替えてもいいでしょう。そして、食欲が無くても何か食べましょう。最低でも炭水化物、お粥、消化に良いもの、ネギがたくさんはいったうどんもおすすめ。体で活躍する菌を退治するには、エネルギーが必要です。ビタミンCは体内からどんどん排出されるので、ビタミンCは引き続き錠剤やフルーツ、ジュースで取り入れましょう。勿論スポーツ飲料、ゼリー、麦茶等もかかさずに。熱があるときに、汗をかいて熱をさげよう、というのは迷信です。かえって脱水して衰弱して、治るのに時間がかかってしまいます。体を冷やしたところで、どうせほっといても汗はかくので、肌着、寝巻きはこまめに変えましょう。
以上です。お役に立てば幸いです。
「自己責任云々の前に正しい知識を共有するべき - 狐の王国」(http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081201/1228092446)を読んでもっともだと思う部分もあるのだけど、対象を変えてもそう思えるだろうかと考えた。
たとえば痴漢冤罪なんかはどうだろうとか。この場合でも冤罪の被害者に法的な落ち度は無くて、悪いのは犯人だ。
正直それはどーよ、って思うんだよな。別に自己責任だなんて思わないし犯人はがっつり捕まえてぎっちりしめあげとけとか思うんだけど、被害者に非が無いとまでは俺には言えない。
という風に思えるだろうかということ。他には美人局などもあるか。
デモに参加したら警察につかまったとか、ただ歩いていたら職務質問されたとかはどうだろう。
もう少し違う方面でいくと、はてなブックマークがリニューアルしたことによって旧ブックマークのヘッダーなどの設定が消えてしまったことなんかも「正しい知識」でなんとかすべきなのかとか。ダイアリーのデータが全て消える可能性だって無いとはいえない。
危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーションというのはあるはずだし、それらはもっと広く研究して「正しい知識」を得るべきだ。従来はなんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。
とにかく危険を避ける力を身に付けることを否定しないで欲しい。必要なのは、正しい装備と計画をもって登山に望むことだ。それで遭難した人が責められることは無いのだから。
http://anond.hatelabo.jp/20080914011152
俺の田舎だけかもしれんけど、犬や猫ってペットっていうより労働力の一端なんだよね。
犬は番犬。猫はネズミ退治。
田舎って家がデカイから番犬とかいるとちょっと安心なんですよ。
キャンキャン吼える奴は困るけど、家が離れてるからまぁ、問題ない。
吼えない奴は逆に役立たずだなぁ。それでも捨てたりはしないけどね。
散歩はおじいちゃんの良きお供だし。何かあると助けてくれるという迷信もあるわけだし。(トリビアで否定されたけど)
で、猫はネズミ退治。これ重要。だから首輪とかつけない。(違う)
本当にネズミがいなくなる。都会だと違うかもしれんけど、田舎でわざわざ猫がいる家に入ってくるネズミなんていない。
俺の家の場合はイタチまでいなくなった。猫最強。
まぁ、勢い余って巣を作ってるツバメとかも食べちゃうんだけどねww
丁寧に羽だけ玄関に置いてたりねwww
その辺はご愛嬌www
労働力として貰ってくるっていうイメージが強かった。地元だけかもしれんけど。
でも「飼うのが面倒だから捨てる」ってのは無いかな。引っ越すから保健所とかはあるような気がするけど。
だから品種とか血統とかどーでもいい。はぁ?って感じ。
ある特定の宗教を持っている人は、自らの信仰の正統性を証明するのに、その宗教の聖典と文献資料を論拠とする場合が多い。そして聖典の解釈論の是非を問う場合としては、その聖典と解釈論との論理的整合性を証明することに心血を注ぐ。
同じ宗教をもっている者同士、または違う宗派であっても、同じ宗祖を源とする場合はその宗祖の言葉を正統性の物差しとして議論を進めるのが伝統的な通例だ。
宗教をもつ人同士で議論する場合、文献(一部には統計学や体験)が常に強い力を持っている。
しかし、宗教の証明には、自然科学のように、実験証明によって何度やっても同じ結果を得られるという決定的論拠というものではないので、白か黒という二者択一的な思考ではその結論を出せない。
アンチ宗教は聖典や文献云々をその論拠に持たないぶん、宗教をしている人の人としての人格云々や自分自身の気分、または自然科学的な白黒思考を論拠にして裁断しようとする。
よって、宗教を持った人はアンチ宗教の人の主張を聖典や文献では論破出来ない。
アンチ宗教には行動や人格形成の基盤となる聖典が無い代わりに、そこにあるのは自分自身の心だけだ。
その自分自身の心というのは、いつも風に吹かれて揺れ動いている。
利害が絡めば利のある方向にすぐ動き、特に根拠は無くてもウザイと思えばそっぷを向く。
ところで、自然科学の思考と人文科学の思考は相反するものだろうか?
えーとね、こういうのは経験しないとわからないことがあるから余り俺の意見を言っても仕方ないと思うんだよね。むしろ、人の意見を下手に聞くと間違って鵜呑みにして余計変なことになるのがオチだから、結局は自分で考えるしかないんだけどね。
仮説というほど根拠のあることとは思えない、論理的に飛躍がある、というなら是非、その部分を指摘して、僕の仮説なんかコテンパンにのしてしまって欲しいのですが……僕が一番望んでるのは、それです。僕自身一番認めたくない考えだから。
じゃあちょっとやってみようか。
しかし、既に「問題が解ける」ならば、その問題はあまりやる必要がなくて、寧ろ、解けないものこそ解けるようにすべきなわけだろ。
とすると、勉強をしていて「楽しい」と思う瞬間ってのは、イコール受験・資格勉強的には無駄な時間であって、受験・資格勉強的に有意義な勉強というとどうしたって苦しくならざるを得ないのだろうか?
ここの第一文と第二文が飛躍じゃないかなと思うんだ。なぜかというと、
この辺の話がすっ飛ばされてる気がするからなんだ。
わかりにくいから、ゲームでたとえてみようか。
まず前者は、神竜でもダークドレアムでも何でもいいんだけど、反則的に強い裏ボスを倒すために必死こいてレベル上げしたりするわけだけど、そのレベル上げ自体が苦痛な作業なのかな、ってこと。好きでもないゲームのレベル上げなら苦痛だろうけど、「裏ボスを倒す」という目標を持ってのレベル上げなら苦痛ばかりとは言えないんじゃないの?
後者については、そのレベル上げが終わった後の話ね。裏ボスでも瞬殺できるようなレベルまで上がったとして、君はその裏ボスを倒さずにゲームをやめてしまう?そんなことはないよね。実際は裏ボスを実際に倒してみる。そして、そうしないとわからないこともあったりする。実はレベル上げが足りなかったとか、レベルをそこまで上げなくても勝てたんだとか、いくらレベルを上げても戦術が下手だったら無理なんだとかね。そういうことを繰り返していってはじめて、ゲームの腕も上がるってもんじゃないの。
それを受験勉強に当てはめてみるとどうなるか、ってことだよ。
「楽しいと感じる勉強に意味があるのか」の「意味があるのか」は、精神論的な意味ではなく、「無駄ではないのか」の意味です。「意味があるのか」と書きますと、精神論的なそれと間違いそうになるので、できれば「無駄ではないのか」に変えて欲しいです。
いや、精神論馬鹿ってのはね、「苦しんでやらない努力は無駄」というような迷信を根拠もなく信じてたりするもんなんだよ。
まあ、それはおいといて、俺が言いたかったのは、自分で考えて結論を出せそうもないことを延々と考える方がよっぽど時間の無駄じゃないかな、と思ったわけ。たとえば、星一つない真っ暗な山の中で道に迷ったとき、「方角がわかれば迷わずに出られる」と発想するのは間違ってはいないんだけれど、そこで「北はどちら向きか」と考えても、手がかりがなければ結論だせないでしょ。だったら、一か八かでもどっちかに歩き出すか、あるいは日が昇るまでじっとしているか、何かそういうことをしたほうがいい。
そもそも、自分の勉強のやり方に意味があるかないかを自分で判断できないようなら、まだまだ経験の蓄積が足りないんじゃないかな。失敗も成功も含めてもっと経験を蓄積した方がいい。そうやって体で覚えないとなかなかものの考え方って身に付かないからね。
実を言うと、受験勉強自体が体育会的なんだよね。「これを勉強してなんか意味があるの」と聞かれても、たぶん答えは出ない。正直「勉強したらわかる、それを信じるかどうかは君次第だ」としかいいようがない。なんでかっていうと、学校で教えてることは、今までの人類の長い歴史での知識の蓄積を圧縮して詰め込んだものでしょ。昔の大天才が一生費やしても解けなかった問題を君は練習問題としてこなしていたりする。それが味気ないのは当然だよ。でも、その辺を一度は通過しておかないと、人類の現段階の到達点にはとても追いつけないでしょ。
そういうわけで残念ながら、現代では知の最先端に到達するためには「知識を詰め込む技術」というのもどうしても必須になる。そして、受験勉強をやるということは、その技術を習得するための過程でもあるんだ。むしろ教科書の中身よりも大事なのはそっちかもしれないね。教科書の中身を忘れることはあっても、勉強のやり方を忘れることはないからね。
早い話、オールオアナッシング思考って、よく考えたら余り合理的じゃないよね。何か迷信じみた思いこみだよね。で、どうして迷信じみた思いこみに陥るかというと、現実が見えてなくて怖いからだよね。おおざっぱに言って、科学が発展すると呪術が廃れるのはだいたいわかるでしょ。
うおおおっ、そうなんだ、俺自分でも分かってるんだよ、要領悪い考え方だって。本当は変えた方がいいんだよな。これでも4月からこういうことを繰り返してきたから、ちょっとずつ変わってるつもりなんだけど、また今やらかした。結構ノってたのに…
確かに、怖いからだと思う。結構レベル高いトコ狙ってんだけどさ、だから余計に、「もっと勉強しなきゃいけない。完璧に」「俺の頭じゃ、人並み以上にやらなきゃ」って思いこんでて、(実際そうなのかもしれないんだけど)だから普通にやれただけだと、「こんなんじゃダメだ」とか思っちゃって、結構無理な計画とか立てちゃうんだよ……でも、ノってるときは、結構できるんだけど、突然の用事(今回は、ばーちゃん家行くことだった…ばーちゃん家はいいんだけど、親戚皆集まるから、勉強用具もってっても絶対勉強できないんだよなぁあああ…)はいってきて、計画倒れすると、もうダメで。「ああ、遅れてる。やらなきゃ」って思うんだけど、もともと自分のキャパギリギリの計画立ててるから、一気に「遅れた二日分」とか着たりすると、全然間に合わなくて、それでいやになっちゃって、こうしてネットにちょっと逃げちゃったりする。そうすると当たり前だけど余計遅れる、の最初書いたとおりの無限ループでさ…本当いやになる。4月にもこういうことがあって、その時は、「合格体験記」とか読みまくって、なんとか立て直したけどまたなった。成長してなさすぎワロス……でも一つだけ成長してるとするなら、前回よりブランク期間が短くはなったってことか……前回は二週間もそれで鬱々してた。
で、勉強法だけど。
受験勉強ってのは、「勉強すること自体」が目的になってるからもう少し違う。これを勉強することによって「勉強」の中身自体から何が得られるか、という行き先が曖昧だからね。必然的にモチベーションは保ちにくい。
だからここは、本当にゲームだと思ってしまった方がいいね。RPGでいうなら、やり込みをするんでなく、効率よくラスボスを倒す方法を考えてしまった方がいい。まずは自分の現時点での能力を把握して、攻略本を読んで必要なアイテムやレベルを逆算して、それを効率よく収集する方法を考えるんだね。
逆説的だけど、意地でも長い時間机に向かおうと考えるより、勉強を効率よく終わらせて、余った時間で何をするかを考えた方がかえって有益かもしれないね。
ま、さしあたりは目の前にある課題を片付けることだね。ある程度のノルマをこなせばボーナスとして遊んでよいという風に決めてはどうかな。そうやって少しずつやっていけば、そのうち道は開けてるよ。
あぁーマジいい言葉だわ
だよね本当だよね
あぁー、ふう。
頑張るわ……マジで。
本当は、勉強してる時より、勉強してない時の方が、精神的にキツいんだよ(ならなんでしないんだよって話なんだけど、それは手つけてない期間を認識するのが怖いからなんだよね……)。
寧ろ、勉強してるときは、目標に近づいていってる感があるから、そんなに、キツくない。
それに、勉強そのものは、案外、嫌いじゃない。
勉強してない時の方がジワジワくる…一過性の快楽は得られるけど、常に真っ黒いなにかがうずくまってて、心から楽しめないんだ、ネットだって。「こんなことしててどうする、勉強しないともっとやっていない期間が延びるぞ」って、やっぱりそういう気持ちがあって。それを振り払うためにまたネットやっちゃったりして、もうマジでバカなんだけど。
いっそ勉強やってると、寧ろ気が楽になるんだけど……本当今勉強に手をつけると、ここんとこほとんど手をつけていなかった現実、それらをリカバリーしなきゃいけない現実に目がいっちゃってうぅうううああぁぁ…
親や友達に言っても「いいからうだうだ言ってないでやれ!」(それはまあ正論なんだけど)って言われそうで愚痴れなくて、一人うじってたから……今ちょっと手をつけてみたよ。とりあえず数学は思ったよりは覚えてて安心した。英語のリスニングがさぼってた分心配だけど……うぐうぅ……
あぁあ、怖いね、怖い。怖いけどやるしかないよな。
うん腹くくれた。かなり忘れてたとしても、受験本番までその溝うめてくしかないよな。もうなりふりかまわず埋めるしかねぇ。オールオアナッシンとかカッコイイこといってる場合じゃないな。覚えられるだけ覚えて理解できるだけ理解してくしかねえな。うん。よし。よし!
あー、受験生さんか。すまん。卒論生や大学院生以降の人を対象にコメントしてたよ。
そういうことなら、さっきの話はもうちょっと先に行きすぎてたので忘れて欲しい。「研究したいことがあるのに必要な知識を身につけるためにはどうしたらいいか」というようなつもりで書いてたんだ。
オールオアナッシング思考が若干あるみたいで、一度計画倒れするとほんと俺ダメなんだホント弱い。
やってるときは結構集中してんだけど…
いや、それ、結構真理に近いところを突いてると思うよ。勉強することの本当の目的は、知識を身につけることではなく、自分を含めた物事を客観的に見定めるための手がかりを得ることだからね。
早い話、オールオアナッシング思考って、よく考えたら余り合理的じゃないよね。何か迷信じみた思いこみだよね。で、どうして迷信じみた思いこみに陥るかというと、現実が見えてなくて怖いからだよね。おおざっぱに言って、科学が発展すると呪術が廃れるのはだいたいわかるでしょ。
知識を増やすということは、「本当のこと」を知るということだ。ある学問分野を知るということは、新しいものの考え方に触れるということだ。そして、「本当のこと」を出発点にして、自分の頭でいろんな方法を使って考えていくと、自分が当たり前だと思っていたことのかなり多くは根拠のない「思いこみ」だということに気づくはず。その思いこみを自ら捨て去る勇気を持つことこそが、勉強の最大の効能なんじゃないかな。俺はそう思ってるよ。
で、勉強法だけど。
受験勉強ってのは、「勉強すること自体」が目的になってるからもう少し違う。これを勉強することによって「勉強」の中身自体から何が得られるか、という行き先が曖昧だからね。必然的にモチベーションは保ちにくい。
だからここは、本当にゲームだと思ってしまった方がいいね。RPGでいうなら、やり込みをするんでなく、効率よくラスボスを倒す方法を考えてしまった方がいい。まずは自分の現時点での能力を把握して、攻略本を読んで必要なアイテムやレベルを逆算して、それを効率よく収集する方法を考えるんだね。
逆説的だけど、意地でも長い時間机に向かおうと考えるより、勉強を効率よく終わらせて、余った時間で何をするかを考えた方がかえって有益かもしれないね。
ま、さしあたりは目の前にある課題を片付けることだね。ある程度のノルマをこなせばボーナスとして遊んでよいという風に決めてはどうかな。そうやって少しずつやっていけば、そのうち道は開けてるよ。
所詮大学入試なんて、どこの大学であっても高校の教科書がまともに理解できてれば(他人に何も見ずに説明できるくらい)余裕だからね。逆に言えば、その程度のことが実は結構難しいのだということを実感できれば十分だ。
夏休みは暑さもあってしんどい時期だろうから、地道に少しずつがんばりたまえ。
元増田です。
だから俺は、血液型を本気で信じている人間は少ないのではないかと考えている。
ついでに、血液型で本格的に差別に発展する可能性ってあるのかな?
どの型を差別しようとしても、身内や友人、将来生まれる可能性のある子供を巻き込む可能性があるわけで、血液型を理由にした差別ってのは起こりづらいと思う。
ありがとうございます。まとめていただいた内容で整理できました。
現在、血液型で、社会問題となるような差別はないのかな、と私も思います。血液型というのは、本当にわざわざ取り上げるような必要もない取るに足らない迷信ということかもしれませんね。
それでもなんとなく気になるのは、
「権力のある人」が、振りかざした場合、カテゴライズされた人のうち弱者は不当に悲しい思いをするのではないか?
人の親や、教師や、部下がいるような管理職は、そういう偏見を冗談でも持ってはいけないような気がします。
まあ、うまく説明できないのですが…。
元増田でっす。
血液型の話が苦痛(特にB型で、自己中とか我儘とか言われるのが嫌)
この増田に関して言えば、B型じゃないor自己中でなければそこまで気になってなかったんだろうなー、と思う。
上にも書きましたが、B型自己中というのは、例で、実際の私はO型です。ちなみに自己中と言われたことは記憶している範囲ではありません。
血液型を気にしているのは、心理学を勉強している人たちの間では、「唾棄すべき迷信」という感じで扱われている血液型性格相関説が、一般社会では、なぜここまで容認されているんだろうか?結構信じてる人多そうだし…。ということが非常に気になるんです。
エーリッヒフロムの「自由からの逃走」というドイツでユダヤ人差別が起こった社会構造を解説した本を読んだせいで、理不尽な区別について多少敏感になっているということはあると思います(←ここがちょっと説明しようがなく、理解しずらいかも)。
横だけど
そのカテゴリ間に連帯感があるかどうかってのは結構大事な要素じゃないか?
「その社会で、当たり前のこととして認識されている」というのは、かなり重要なことだと思います。
「横」というより、その辺りが一番気になるところなんですが、
1.みんな血液型性格相関説を真偽のほどは別として認識し、社会自体がある程度受け入れています。
2.みんなが認識し、社会が受け入れていることって、本当は、トンデモなことでももう普通に流通しちゃうよね。
3.だから、KYで通して行こうよね。そんな大きな問題じゃないし、それで場が保たれるんだから。
4.それに対して、血液型性格相関説がトンデモだと知ってしまった私は、まあ、社会が受け入れているんだから仕方ないか…
と思いつつも、でもやっぱりトンデモはトンデモだよな。科学的に証明されていない時代であれば、他のいろんな迷信と同じように
生活の知恵として活用していけばいいと思うけど、心理学を勉強する身として、根拠のないカテゴリで人間の性格を区別するというのは、非常に違和感がある。
5.この気持ちは、私の個人的な執着なんでしょうか?できれば、みんなもちょっとは同じことを気にしていてくれると嬉しいな。
6.なぜなら、小さいとはいえ、「その人の性格と関係ない属性で性格を定義する」ということは、簡単に差別に発展しそうな気がするから(←これがなぜなのかはまだうまく説明できません。誰か知ってますか?)
以下は某所公務員の親族から聞いた話。いわゆる議員口利きコネ採用の実態について。
「うちの子を合格させるよう,どうにかしてもらえまいか」と,受験者や親族から依頼を受けた議員がすることは,人事関係部署に合否を問い合わせることだそうだ。
議員「議員のXXだ。この間採用試験を受験した誰々君だが,合格してるか教えてもらえるかな」
合格してるとわかれば議員は依頼者に連絡して「大丈夫ですから安心して発表を待ちなさい」と伝える。
依頼者は議員のコネが効いて合格したと勘違い。先生のおかげで,と勝手に恩を感じてくれる。
ダメな感じだったらそのまま何の音沙汰もなしでもいいし,発表後「力及びませんで・・・」とやってもいい。依頼者は口利きがあってもムリだったのね,とあきらめる。
こんな感じで人々の間には「議員口利きコネ採用」というものがあるという伝説が広がっていくのだ。迷信や都市伝説が伝播していく構造と同じだね。
これは某県に限定した話なのかはわからないが,こんな話を聞いたから僕は公務員の人事はどこも意外とまともに動いているのではないかと考えているんだよ。
誰でも音楽を聴いたりカラオケで歌ったりする時代なのに、結構根拠のない迷信が信じられていることにびっくりする。
クラシック好きのはずの猫猫先生がこんなことを書いててびっくりした。
戦争中から戦後にかけての日本を扱った映画やドラマやドキュメンタリーで、戦争が終るとバカの一つ覚えのように「リンゴの唄」が流れる。説明がつくと「明るい唄が人々を勇気づけ」と言うのだが、あの歌は短調だし別に明るくないだろう
この手の誤解は猫猫先生だけでなく結構はびこってるみたいなので、ネタにさせていただく。
短調の曲が暗いなんて、そんなことは嘘だ。たとえば「東京音頭」は最初から最後まで短調だが、あんな脳天気な歌も他にないだろう。一方で、"Yesterday" だとか「海ゆかば」は長調だが、これを明るい曲だという奴はどこにもいないだろう。
そもそも、長調が明るくて短調が暗いなんて、そんな紋切り型が通用するほど音楽が単純なものなわけないじゃないですか。モーツァルトの曲なんて長調が圧倒的に多いですが、モーツァルトは脳天気な作曲家ですか?猫猫先生。
ついでにもう一つ。俺は絶対音感を持っている。全盛期には基準音(チューニングの時に合わせる音)の違いが 1Hz 単位でわかったこともある。で、それをいうとやたらとうらやましがられる。特殊な才能の持ち主だと思われてるみたい。
実際は全然違うんだよなあ。俺は確かに子供の頃からピアノを習っていたが、正直なところ腕前はDQN音大生に毛の生えた程度(本職は音楽関係ではない)で、進んで人様にお聴かせできるレベルではない。だのに、そのことを説明しても「ご謙遜を」としか言ってもらえない。
違うんだっての。絶対音感なんてのは単に「音の高さを覚えている」というだけのことで、普段から楽器に触ってればたいていは嫌でも身に付くんだって。確かに、大音楽家でも絶対音感のない人もいるんだけど、逆に言えば、これは音楽性と絶対音感が関係がないことの証拠でもある。
それなのに、変な親たちは「情操教育」として「絶対音感」を身につけさせようとしてる。ほんとに意味がわからん。音当てクイズなんかに熟達したって、音楽に熟達できるわけじゃないのに。
こちらの記事の作者です。結局、叩く人だけが残った。いつものパターンですね。そこで「書くんじゃなかった」と後悔するのもいつものパターン。ただ、この方のご意見に救われた気分になりました。
「はてな」とか「文章」とか、何かがおかしいのでは無いですよ。人間ならば「冷静に読まれていたものが、ある段階から斜めからしか読まれなくなって、何を書いても悪いようにしか取ってもらえなくなる。」というのは良くある事です。何かがおかしいのではないです。
それで苦しむ事もままあります。それが普通です。
どうもありがとうございます。あそこまで憎しみを集中的にぶつけられると、さすがに落ち込みかけてきたところだったので、もう一度考え直してみる気分になりました。
なので、もう少しだけ続けてみます。
ご丁寧な回答を頂けたことに感謝します。相手に一度腹を立てた後でもう一度冷静になることは私はなかなかできないことなので、見習いたいと思います。
そうした差別を前提として話を進められるのは「大阪人から見た埼玉県民の抑圧されたイメージ」の押し付けに感じられてげんなりするわけです。ましてそれを材料に東京人批判をするのは「可哀想な埼玉県民」のイメージを都合良く切り取って使われているようでなお一層気分が悪い。
後半について、他人を勝手に引き合いに出したところは確かに不快と言われても仕方ないかとは思います。その点は申し訳ありませんでした。
ただ、全体として「抑圧されたイメージ」とまで言われてしまうと、そのあたりは正直なところよくわかりません。東京人が埼玉人を抑圧できるほどの力を持っているわけはないからです。といいますか、私があの記事を書いたときに念頭に置いていたのは「大阪は民度が低い」というようなことを平気で口にするような程度の低い人たちであって、たとえば「地方を抑圧する支配者としての東京人」なんてことを書きたかったわけではなかったので。
どうして地域による限定のない『我々は、自ら「東京人」と呼ばれたがる卑屈な人間ではない』ではなく、何で埼玉ってピンポイントに限定したの?という話をしたのです。
正直なところ、特定の知人(複数)が念頭にあったことは否定できません。もちろん、その人たちが知っている埼玉人の全てではありませんよ。ただ、「東京は中央、地方は周縁」という図式を内面化している人はどこの地方にも一部にはいるわけでして、そういう屈折がどういう風に現れるかというとこれは地域の事情が関わってくると思うのです。関西だったらそれこそボケツッコミを強要したり、とかですね。
で、そういう「悪い例」は確かにどこにでもいます。ですが、「東京に対して卑屈、他地方に対して東京の威を借りる」ような輩いえば、やはり自然と東京近郊に多くなるわけですよ。その時点で埼玉と千葉と神奈川に絞られますが、神奈川の人は横浜や川崎に通勤・通学する人も多いので、例示としては千葉と埼玉の二択となってしまうわけです。
そういうわけで、誤解を避けるとなれば、この箇所は「その手の卑屈な連中はどこにでもいるものだが、そういう連中が埼玉や千葉あたりに来たりすると、他地方を馬鹿にする割には自分が『東京人』と呼ばれたがったりするものだ。世の中には『ダサイタマ』などという心ない言葉もあるが、自分までがその言葉と一緒になって自分の街を貶めていったいどうするのだ」とでも書けばよかったのかもしれません。これほど話題を呼ぶことになると知っていれば、もう少し書き方を考えたかもしれないのですが。
さて、次はこのお方。さらに邪推を深めてくださったようで、やれやれです。
そんな迷信を信じている人を「私は知らない」のです。
知らないとなればあなたが鈍感だと言っておきましょう。前にも挙げた例を再度繰り返しますが、テレビで何の断りもなく「アルタ」なんて言葉が出てきたりすること、あるいはネットで「じゃん」や「じゃね?」といった言葉を書き込みに使う人、こういう人たちがそのあたりの迷信に無自覚にとらわれているのでないとしたらいったい何なのでしょうか。
それから、テレビドラマでも漫画でも小説でもなんでもそうですが、方言をしゃべるキャラクターというのがどういう役柄を割り振られているか考えてみるといい。関西弁はがめつくて間抜け、東北弁は素朴、広島弁は不良、九州弁は武骨、ステレオタイプそのものではないですか。このような「方言は特殊なもの」という思考は、「標準語は普遍」という原理を無邪気に信じ込んでいなければ決して出てこないはずです。
言っておきますが、そういう輩はネットやテレビの中だけじゃないですよ。「訛ってる」云々というような言葉は私が実際に何度も言われてうんざりした言葉だから挙げているわけです。前回記事であなたは私のことを「狭い半径から得たネガティブな印象を積み上げた結果でしかないものを「東京」になすり付けている」と批判なさいましたが、それはあなたにも当てはまるようですよ。
あなたは京都・大阪・神戸・奈良を東京・横浜・千葉・埼玉と比較して「よほど個性が強い」と言っている。
「文化や言語に優劣などありはしない」のが発言論旨なら、上記の言説と矛盾していると気づくべきなんだよ。
京都・大阪・神戸・奈良をいっしょくたにするなと言いながら東京・横浜・千葉・埼玉をいっしょくたにしているのは何処のどいつだ。
「個性が強い」と書かなかったら「無個性だ」ということになるという理屈が理解できません。だいたい「個性が強い」というのはこの文脈の場合「文化的差異が大きい」という意味であって、関西の四都市の文化的差異は地理的環境がそれぞれ全然違うのだから当然生じるものですよ。だって、「関西」を「大阪」で勝手に代表させるな、と言っているのだからね。「東京・横浜・千葉・埼玉が一緒くたにできるわけがないのに、どうして京都・大阪・神戸・奈良がいっしょくたにできるのだ」という話ですよ。なんでこんなことまで、「リテラシー」を云々するのが持ち味の人に説明しないといけないのだか。
それと「関西人の傲慢さ」は実は自虐ネタだったりするって書いてるけど、それって「自分の文化を持ち込みしている」って事に気づいておこう。
わざわざ「蛇足」と断っている話を、無理に元の話とこじつけて語る姿勢が理解できません。だいたい、それが「自分の文化を持ち込み」といって非難されることだとしたら、誰も自文化について語ってはいけないことになりはしませんか。だとすればそれこそ、「中心」とされている文化への無条件的屈服を要求するものではないですか。
ついでに蛇足ついでに蛇足を重ねときますが、日本人は国際舞台で日本語で話すことを通常の場合許容されないのに、英語文化圏の慣習に合わせることを強要されるとしたら(アメリカンジョークで笑えとか)それは暴力的ですよね。共通語として英語を用いる場合は、日本的な話し方も許容されて然るべきです。同様に、日本語の共通語で話すからといって「突っ込み待ち」のジョークを言ってはいけないだとか、ジョークを言うならば関東風のジョークにしなければいけない理由だってどこにもないんですよ。通じないリスクは背負わなければならないけど、それを文化の強要とまで言うのなら、言う方が強要ですよ。
ま、ここはあなたにとっても本筋じゃないでしょうから、ここでこれ以上あなたを追及するのはやめておきますが。自分まで相手と同じことをしてちゃどうしようもないからね。
b:id:feather_angel うはwwwどっちがテラ被害妄想wwwあと、都市名書いてますって「東京」はどうなんのwww/感情こめて草一杯生やしてみました。関西いじめんなうわーんな記事なら援護もついたろうに他を貶す方向に出るからですよw
誰が誰をいつ貶めたんや、言うてみい。
だいたいお前どこまでアホやねん。「東京」のどこが都市名やないんや。まさか行政単位が東京は「市」やないとかそんな屁理屈捏ねるんと違うやろな。首都が特殊な行政構造になってんのは普通のことやろが。お前にとって「日本最大の都市」は「東京」やなくて「横浜」やったんか。「ワシントンD.C.」は都市とちごたんか。初耳やわ。
どうも、この記事の作者です。前もって補足記事に追記して釘を刺しておいたにも関わらず、よくわからない反論(?)が来てしまったので、一応フォローしておきます。同様の誤解をしている人も結構いるらしいので。
実を言うと、この記事については反論することはあまりないんですね。言ってることは、細部はともかく全体としては同意できるものですし、知らないこともいろいろ書いてくれて勉強にはなりました。
ただし、唯一同意できないのは、それをもって私への反論だとしていることです。だって、この人の書いてることって、私の書いたことの「東京」と「関西」を入れ替えて、似たような立場から書いただけの話なんですから。それに私が文句言うわけないじゃないですか。そして、「関西の風土のよい点を聞きたい」といわれても、私は最初からお国自慢なんかする気はないと補足記事で断ったはずです。木によりて魚を求められても困ってしまうのですが。
この人に限らず、反応の中には、自分が批判されたと思いこんで怒っていらっしゃる方がおられたようで、それが少し気になりました。そうした方々は、私がいったい何を言っていると思ったんでしょうか。私は「東京」を批判したのではなく、「東京は中心で地方は周縁」という迷信を批判したのです。いくら私でも、東京の人の全員が「大阪人は民度が低い」なんてことを言っているとは思いませんよ。確かに、最初の記事を意地悪く読めば「東京の人間は全員偏見まみれ」と読めなくもないかもしれませんが、たとえば「アメリカでは、進化論さえも政治的な話題として扱われてしまう」という書き方だったらどうでしょうか。アメリカとかアメリカ人を全部ひっくるめて批判したことになるでしょうか?
その辺の誤解を防ぐために補足記事を書いたわけだし、題名に「東京が嫌いなんて誰が言った?」と書き、本文中に「文化や言語に優劣などありはしない」と太字を付けてまでわかりやすく書いたにもかかわらず、「お前なんか大嫌いだ」と言われるのであれば、もはやこの方は私が何を言おうと気にくわないのだと判断するほかありません。「そうですか、残念です」としか言いようがないことです。
この人ばかりではなく、同様の感情的な罵倒がいくつかあったことは残念です。「東京は中心」という迷信を批判したらそれがすなわち東京を批判したことになっているのだとしたら、その人の中では「東京こそが中心」という迷信が自明化されてしまっているのでは、とこちらまで邪推したくなりますよ、そのうち。
あと、埼玉の件が思った以上に誤解を招いているようなので、一応補足しておきます。
おそらく、誤解を招いているのはこの一文でしょう。
この「埼玉人」は集合名詞ではなく一般名詞です。つまり、「おおよそ埼玉人という奴らはすべて卑屈であって」という意味ではなく、「埼玉人の中にの卑屈な奴がいて」という話です。
たとえば「俺は百円ショップでまで値切るがめつい大阪のおばちゃんではない」と書いたとして、「大阪のおばちゃんは全て百円ショップで値切るほどがめついと思われているのか!」と読む人はいないでしょう。そういうわけで、最初は「『産む機械』じゃあるまいし、邪推も大概にしてくれ」と思って無視していたのですが、確かに主語が「我々」となってみると、「埼玉人」も集合名詞であると誤解しやすいかもしれないと思い直したので、一応念のため補足しておくことにしました。ただそれにしても、直後に
それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
とまで書いているのだから、埼玉が馬鹿にされたと読まれるとは正直思いもしなかったのですが。
あ、ちなみに、上の引用箇所の「東京人」も「(その手の)東京人」とでも読み替えてくださいな。なにしろ、ホットエントリになると思わずに愚痴を書き捨てただけだから、細かいところで舌足らずなのは正直ご勘弁いただきたいです。そこを補うために補足記事を書いたくらいなので。
以下蛇足。私が匿名日記を書くとときどき、捨て記事のつもりで適当に書いた記事に限ってホットエントリに入ったりする(受けを狙うと全くといってよいほど入らない)んですが、そのとき必ず一部の特定の同じ人たちが罵倒を浴びせてくるのはなんでなんでしょうね?毎回、全然違う話題について述べているのに。好意的な反応をくださる方は毎回顔ぶれが別なので、ますます不思議です。
もういい加減腹が立ってきた。
b:id:perfectspell 間違い探しゲーム, 100字コメント一部にそういう人がいるから「埼玉は卑屈」「埼玉は馬鹿にされている」と書くのがOKなら、「大阪は民度が低い」と全てのメディア(ネット含む)が言ったとしても、エントリ主には「一部の」と脳内補完されて無問題?
本当に「間違い探しゲーム」ですね。まず、「民度」という言葉は集団に対して使う言葉ですね。次に、「馬鹿にされている」と書くことが罵倒なら「障害者は差別されている」と書けば障害者差別なんですかね?最後に、「埼玉は卑屈」なんて書いてないでしょ。人の書いたことをわかりやすく歪めないでください。だいたい、「一部の」とかそういう問題じゃなくて、たとえば「馬鹿な男が」とか書いたら「男は全員馬鹿」って意味になるんですか、という話ですよ。誤解の余地がある書き方をしてしまったことは認めますが、わざわざ悪い方に解釈されるのは心外です。
一応つっこんでおくと、「オーストラリアの地図は上下逆」というのが迷信なのはその通りだけど、リンク先の「解答」もあんまり正解とは言い難いです。
正解はこちら
元は素朴な疑問を抱いた12歳の少年スチュアート・マッカーサーが作り出し、その後、彼がメルボルン大学在席中の1979年、オーストラリア・デーに合わせて発表した物でしたが、話題性と知的議論の喚起用、および、商品デザインの一つとして、彼の国で広く受け入れられ作られ続けているわけです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211859002
いわゆる「アップサイドダウンマップ」は、ジョークや観光みやげのためでなく、よりシュアに政治的主張、メッセージを込めた考えのネタ、宣伝素材ってことですね。