はてなキーワード: 独善とは
「・・・私としては、この男を罪人よりもむしろ虎の仲間に分類するね」
さの対策。三項目の問題点、最後に可能性を探る。
はじめに
はてサは、路傍に立つ鮮血の防犯・喚起板は「性差別を助長する」と看板撤去の全国運動を展開しているのでも、
錠前メーカーに「貴社の製品は社会の荒廃化をもたらす」と苦情を訴えているのでも、
悲惨なニュースを肴に「商売女と間違えられてもしかたない」、「親の顔がみたい」といった孫娘に向けられたお茶の間文明論を糾弾しているわけでもなく、
まして「自衛の言説の流布」と「予防拘禁」を天秤に掛けているわけではない事を確認する。
(1)[男は獣]
夜中に一人出歩く、基地周辺をロイタリングする、腿を露出する婦女子らに遭遇すると、陵辱せずにはいられぬ男を獣と(自)称するのであれば、
(2)[獣は檻に]
現状は「獣は檻に」を肯定する(曽野自身牽引役である)社会なのだから、あなたの定めた男性らは皆、檻へと収容されちまいますがよござんす?という反問、下らぬ稚気を社会規範に押し上げんとする不平な言い草に対する揶揄である。
現行の「檻」に反発せず、文脈から抽出し殊更危険視するのは、むしろ「アンチはてサ」なる党派性の表出とされてしまうおそれがある。
被告の態度如何で「矯正の可能性が認められず、極刑もやむを得ない」といった一般予防の見地が加重された判決が出される度「真っ先に批判してくださる」ので、「非常に心強い」といった皮肉を返されるおそれがある。
現実と齟齬する状況を想定してまで思考実験を続けたいのであれば、
もし現実の犯罪被害者を侮辱した曽野への批判を、反語ではなくフィクションで―往年の膝上スカート姿の筆者がピンボールマシンに押し付けられ陵辱されるポルノ作品を以て揶揄したならば、「権利に紐をつけるな」論者らが果たして「この醜悪なポルノを描いた作者自身の独善性、暴力性が露呈した」と先んじて警告を発するものかどうか一考してからでも遅くない。
(「ポルノを対抗言論に貶めるな、芸術に政治をまぶすな、フィクションはそもそも論説ではない」といった批判は想定しない)
対策
「獣は檻に」の言説には、曽野の寄稿に「一理ある」、「李下に冠を正さずだ」といったタガの外れた擁護が存在した事実を踏まえなければならない。しかし、曽野発言、渡辺の提言(男は獣)をまっさら肯定する以外、はてサを哂う論立てを増田が見いだせなかったのも事実である。
かのように無理筋を厭きるほど繰り出し、臆面もなく継ぎ足せば、相手から罵倒、もしくは黙殺を引き出す事は可能であろう。やり取りを眺め、はてサの「顕著な専断主義」、「狭量」を再確認し満足する外野もいるだろう。
[余録]
「とにかく幼女をポルノショップに立ち入らせる馬鹿はいない。若い娘に夜道の散策を推奨する馬鹿はいないさ。「瓜田李下」、姪っ子や娘の学友を自宅に招きたくば職業や趣味を選ぶ事。「あなたは悪くない」と慰撫される羽目に陥りたくなければ自由の制限を受け入れる事さ。富時には富に縛せられという。窮屈な縄の上をびくびく渡る、始末のつかぬ自由に如何なる価値があるというのか。我々は友人と、家人らと囲みつつ、犯罪被害者を無遠慮に傷つけてきた。我々はひそかに他人の性癖、食い扶持を蔑み、その面目を損ねてきた。それもこれも文明の呪詛、敵のぺてんに罹るのが馬鹿馬鹿しいからさ。殺人者の多くは真の意味での罪人ではない。野獣にすぎなくて、我々はナイフで頸を切られたくないので、少年を排除しなければならなかったにすぎない。アンブローズ先生答えて曰く殺人者が人を殺すのは積極的な素質からではなく消極的な素質からだ、と。殺人者は人を殺めぬ人間が持つ何物かを欠いている。得るより失うが容易いのは道理だから、我々はみな未来の殺人者、二流の悪人であり、卑劣漢に転落するわけさ。個人は平等に強くなり、平等に弱くなった。この自業自得の弊竇に目をつぶる、メディアの愉悦を積極的に生活に取り入れながら卑劣の謗りを免れる事はかなわぬ。少年は世間、即ち他でもない君に顔を知られたのが、名を知られたのが苦痛であったのだ。我々は檻にかんぬきを差せと騒ぐが、しょせん獣であって畢竟檻に入れられる身だ。天子あらざる我々にのがれるすべはない。博徒に限らず、男に限らず、読者ならぬ作家でさえも」
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p1
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091207/1260198508
朝日はまとめてしまってるけど。こんなやりとりだったそうで。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091117-OHT1T00036.htm
小沢氏「君は何教だ」 キリスト教発言への質問に逆ギレ
「キリスト教は排他的で独善的」との発言が波紋を呼んでいる民主党の小沢一郎幹事長(67)が、16日の記者会見で「私は宗教論と文明論を言った」とし、撤回する意思がないことを明らかにした。小沢氏は記者に「君は何教だ」と逆質問するなどキレ気味にヒートアップ。人の煩悩の数やエベレスト登頂の意義にまで言及するなど珍妙な会見となった。
小沢氏(以下小)「私は宗教論と文明論を言ったんだ。君は何教だ」
小「仏教ちゅうの、どういうの?」
記「浄土真宗です」。
これ、記者が応じてるからいいものの、無理矢理言わせてたら消極的信仰告白の自由(告白しない自由)の侵害だよ。
「成仏するのは仏教だけ」小沢幹事長、改めて文明観披露
民主党の小沢一郎幹事長が16日の記者会見で、仏教観と文明観を改めて披露した。
10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。
これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。さらに、エベレストに挑んだ登山家の「そこに山があるから」という発言を引用し「西洋文明は自然も人間のために存在する考え方。(エベレストの)地元では霊峰としてあがめられて、征服しようという考え方はアジア人にはほとんどない」と語り、西洋思想は人間中心だが、東洋思想は人間が自然の一部だと強調。最後は「僕も君も、死にゃ仏になれるんだ、だから」と締めくくった。
何なのこいつ。死期を悟って生き急いでるとか?
小沢幹事長:キリスト教連合会が抗議「排他的発言撤回を」
日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は、キリスト教について「排他的だ」などと語った民主党の小沢一郎幹事長に対し、11日付で抗議文を送り、発言の撤回を求めた。小沢氏の発言を「一面的理解に基づくそれこそ『排他的』で『独善的』な発言で、見識を深く疑わざるを得ない」と批判している。
小沢氏は10日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山「金剛峯寺」を訪れた際、仏教を「度量が大きい」と評価する一方で、キリスト教を「非常に排他的で独善的」と批評し、「キリスト教を背景にした文明は欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」などと述べていた。
まあ、当然と言えば当然か。イスラム教の団体はどうなんだろ。
民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で全日本仏教会の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
国政に影響力を持つ与党の実力者による批判発言だけに、波紋を広げる可能性がある。
一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。
何も考えずに、もっと傲慢にやっていいと思う
自分の場合は、お互いにフォローしあっているのがいいと思ったから、
とりあえずン百人くらいフォローされている人の、そのフォロワーからてきとうにフォローしまくった。
で新規に増やした人とりあえず放置。フォローされるのを3日くらい待つ。フォローされてなかった人はリムーブ(相互じゃないと面白くもなんともないから)
でその間は適当に独善的なポストを繰り返す。返してくれた人と馴れ合う。面白そうなポストしてたらとりあえず@送りつける
フォロワーが100超えたあたりから無条件で勝手にフォローされることがあるのでその人は何も考えずにフォロー
で、もっと面白いつぶやき読みたいなと思ったら適当に50人くらい増やす。フォローされてなかったらリムーブ。
その間も適当につぶやく。いつの間にかフォロワーが増えている。馴れ合いの仲間やら、面白いことつぶやく人が増えている。
コツはフォローとフォローされているの数字を、なるべく自然な数に保つことだと思う。そうすりゃけっこうフォローされるさ、いい人とも出会えるさ。
友人からメールが来た。
生きる意味がわからないらしい。
その友人は、大学在学中に神経症に罹り、卒業後は公務員試験に落ち続けています。
”毎日病気を言い訳に勉強もせずにフラフラしてるから、そんなしょうもないことを考えるんちゃうんか!”という言葉が喉まででかかったのをかろうじて押さえて、
生きる意味なんて存在しない
みんな生活のディテールの中に小さな喜びを見つけて糊口をしのいでいる
誰だって生きるのは辛い
という趣旨の返信をしたところ
共通の知人の名前を数人挙げ、
「あいつもこいつも何も考えずに深く悩むことなく楽しく生きてる。
僕はどうしても生まれてきた意味とか考えてしまう。
僕は生きづらい人間なんだ。」
という返信が来た。
なんて独善的で幼稚なんだろう、まるではてなの匿名日記みたいだな、と思ってここを思い出した次第です。
正直、子供みたいな事言うな、って切り捨ててもいいんだけど
こういう奴に対するアドバイスの仕方で、効果的な方法があれば教えてほしい。
そういうスキルってこれから必要になりそうだし。
友人のためにもなるし。
そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。
全然違う。
以上。
ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?その二点はあんたも認めざるを得ないはずで、そしてそこを認めるのであれば俺はあんたが批判すべき対象ではない。
東洋って大きな括りで出しておいて、現代日本固有って意味で使う人間とまともに会話を成り立たせる自信がない。
そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。それも事実ではないけど。
むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史的事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。
定着してない?たとえば「生類憐みの令」が完全にそのまま続いたかどうか、というなら否だろう。ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。
西洋的発想に対抗する形で提示された東洋的発想というからには、ヨーロッパに比べて動物福祉の実践が小さかったことを示さないといけないので、「生類憐みの令などがパーフェクトに定着したわけではない」というのは反証として不十分。
もっとも、東洋で君が行ったように、君が西洋という言葉を極めて操作的に定義しているなら、比較対象は歴史的ヨーロッパ一般ではなくなるけど、そこまで察してくれと言われても、困る。
俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。
横から入ってきたって、それ以前からの議論の文脈を無視されると困る。
というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。
あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善的菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
と切り捨てて、一方で独善的菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。
何がブーメランなのかわからない。
とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。
どっちも等価であるっていうメタな視点を取れば上位に立てるっていう考え方こそ独善でしょ。
「どっちも等価」という”あなた”の主張を擁護しなければならない。
上位から裁定できる超越的な神の座から語ってるつもりだった?
それこそブーメランだよ。
ついでにいうと、実践的には自分も「食べることに感謝してる」人にいちいち文句つけて回らないよ。
自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。
あっそうですか、俺の言葉の使い方はあなたの「普通」ではありませんでした。以上。おしまい。
「動物の苦痛などに配慮するのが西洋的発想」でそれをオゾマシイと感じるものとして提示された「業を自覚する東洋的発想」が前近代日本から存在していたとするためには、君の出してくる根拠はあまりに見当はずれと言ってるだけですが?
動物への配慮一般への反証等が必要になるんだよ。
意味がわからん。誰も日本では「動物に配慮する発想自体がない」なんて言ってないぞ。むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史的事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。
私が君にからんだんかい!
途中から入ってきて前提を無視されも困る。
俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。
というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。
あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善的菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
と切り捨てて、一方で独善的菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。
俺から見れば「人道的な屠殺」こそが「業を感じる」よりもよっぽど自己満足なわけ。要するに「独善的菜食主義者の意見と普通の日本人の意見は単なる主観の問題、どっちもどっちじゃないかよ」と言ってるだけなんだよ。どっちが正しいなんて視点はあんたが勝手に持ち込んだことだ。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
とりあえず法然が漁師になにを言ったかぐらい調べてからそういうことを言ってくれ。どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
誰がそんな主張した?もう一度俺が書いたことを抜粋するぞ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
勝手に独善的菜食主義者の裏返しみたいな俺様文化帝国主義者にしないでくれ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
明らかに俺は「東洋風の信仰」と「西洋風の信仰」という風に相対化して書いてるわけで、東洋風の「信仰」こそが「大事」なんて思ってるわけないだろ。つまらんいちゃもんはよしてくれ。
元増田のひとは、すこし俺に似てるので他人の気がしないんだ。
ちょっとヒステリックで話のつうじないこともある奥さん。
ご自身は、他の人も書いてるけど、性格的に優しいところもあるけれど、気弱、
かつ「俺はがんばってるのに」的な独善があるところとか。
「あんたばっかり外でいいかっこして!」というのは、俺も何回かいわれた。
それでも、「追記」を読んだけれど、うちよりまだまだ軽症じゃないの、と思った。
俺なんかもう、妻とは絶対に理解しあえない一線がある、と思っている。
何度か、これはもう離婚しかないんでは、ということもあった。
だから人様にアドバイスする資格なんか、本当はないんだろうけれど、
最後にひとつだけいうと、
今、あせってどうこうしなくてもいいんではないか。
夫婦仲が悪いと、本当に苦しいんだよな。
でも、今回は、それなりに仲直りできたようでよかったじゃないの。
うらやましいくらいだ。じゃあおやすみなさい。
いい加減に「正社員」を雇用形態や人生のキャリアプランの最上位にあるという前提で語るのはよさないか。
そもそも「既婚、正社員」組と「独身、非正規雇用」組が勝ち組・負け組みに分かれているように見えているのも本人の思い込みのような気が。
多分、独身者は良い意味でも悪い意味でも独善的で、そういう人間は家庭を持つことをうざがるし、さらに会社に帰属意識を持つこともうざがることがあっても不思議じゃない。
「なんとなく家庭を持って結局独りよがりに生きて、かつての父の様に嫁や子供を不幸にするぐらいなら最初から結婚しない」という人間は居る。
あなたが、
そのような意見を持ち、
(部分的に浅い部分はあるにせよ)論理的(に見えそう)な文章を組み立てて、
もし、英数国理社をまったく勉強しなかったら、
英数国理社の必要な部分だけを勉強すれば合理的だと考えているのだろうか。
しかし、あなたにとって必要な部分は、(ほとんどの場合は)事後的にあなたにしか分からない。
小学校で掛け算九九に対して、「これが何の役にたつのか」疑問に思ったことはなかったろうか。
今でも疑問に思っているだろうか。
なぜ、あなたはMBAの有効性をそこまで信じ込めるのか。
あなたは、
あなたの級友が、たとえば、教師や、自然科学研究者や、作家や、政治家などにはならないと決めつけているのか。
あなたの、
「私が必要なものはみんなも必要」で「私が不要なものはみんなも不要」なる独善的な考えはどこから来るのか。
なぜ、すべての人がビジネスパーソンの考え方を身につけねばならないのか。
日本の国力増強のために、提案したいのが
どこに提案しているのか。
だれに提案しているのか。
あなたは、増田で提案すると誰かが引き受けて実現してくれると思っているのか。
なぜ、自ら具体的行動を起こさないのか。
増田で同志を募っているのか。
当初は毎朝夕メールを送るようにしていたが、自分の都合で遠ざけてしまった。
今その人がどういう人生を送っているのか深く知らない。
結局、その時は誤報となったが、また自ら飛び込んでしまった。
今はリストカットやオーバードーズを繰り返す彼女を、その親と第三者と自分で連携を保ちつつ経過を観察している。
他人の自殺は止めるけど、自身の生きるということには興味がない。
というか、自身の意思ではなく逝けることに憧れさえある。
そんな独善的で傲慢な考え方は、一度目で嫌になった。
自殺を止めること。それは少なからず人の人生に足を踏み入れること。
一度目も二度目も相談を受けている関係上、その人の人生を全く知らなかった訳ではない。
けど、その人が望む最後を阻止してしまえるだけの権限を持ちえたのか。
その人が望む最後を阻止してしまえる程の責任感があったのか。
一度目の件はきっかけに過ぎなかったが、それ以降他人との接触が怖くなり、気付かぬうちにヒトと距離をおくようになった。
答えを見付けられぬまま6年が過ぎ、また同じことを悩んでいる自分がここにいる。
その危機が予測出来た状況に置いて、自分よりその資格を有する者へ、その後のバックアップが出来る人への連絡手段を持ち合わせていなかったことは、
その後の責任を負いたくないと考えてしまう身としては、準備不足だったと思う。
自殺は、「気付いて貰いたい」、「気に掛けてもらいたい」ことが目的という意味では、充分に役に立ったのかも知れない。
本当に死のうと思う時は、誰にも言わないことは身をもって知っている。
今は、親・第三者共に疲弊して頼らざるを得ない状況なのが解るので、協力しているが、本心は逃げたい。
多分、今の自身の心理状況を分析している自分から逃げたいのだと思う。
さて、このような閉塞的な状況を打開する方法はあるのか、ということですが、
よく最近はてなで話題の「解雇規制の撤廃」で果たして問題は解決するのでしょうか?
この労働力の流動性を高めることで雇用の維持を図っている国にスウェーデンがあります。
スウェーデンではイェスタレーンとルドルフメイドナーという二人の「ブルーカラー」の労働組合の理論的支柱が作り上げた
要点は賃金交渉を中央集権的に行うことで、儲かっている産業がむやみに賃上げするのを抑えつつ、
非効率な産業をつぶし、その労働力を儲かっている産業に雇用させる、というスタイルなのです。
コレだけを聞くと労働力の流動性が高まれば、失業問題は解決するように思われますが、
このスタイルが実現しているのは、スウェーデンが小国で高負担に裏打ちされた
非常に強力な失業給付、生活保護と職業訓練機能を持っているからです。
現在の日本が、その薄弱な生活保護(GDP比でOECD中ブービー)ですらも
「自己責任論」の元に断ち切ろうとしている姿を見ると
とても実現するものとは思えませんし、
そもそも数千万の労働人口を調整することは不可能に近いのではないでしょうか?
安易な解雇規制の撤廃は社会不安を増し、景気の悪化を促進することはこの20年の日本の低迷を見れば
容易に想像ができる気がします。
私がスウェーデンから学ぶべきだと思うのは
「労働者の理論的支柱」が政治にコミットしている、という点だと思います。
やはり労働者は団結すべきなのです、お互いに憎みあうべきではない。
嫌な例ですが、今の橋下徹のように、政策提言をしながら政治に選択を迫ることもできるはずです。
その為には連合は支持政党をあらかじめ決定するのではなく、自分たちに有利なように説得し、
また組合員に対し、そのメリットを説得する努力をすべきでしょう。
私が個人的に労働者として要求すべきだと思っているのは
労働市場の監視の強化、具体的には労働基準監督局の権限、及び、人員の強化。
といったような政策を連合が要求し、政権に擦り寄らせる、というのが有効な方法だと思います。
長々と長文失礼しました。