はてなキーワード: 瓜田李下とは
安倍さんの「将棋はいいのか」発言、蓮舫さんの「2位じゃ駄目なんですか」発言並みの迷言だと思ってるし、
もうそろそろ安倍さんにはご退場頂いても良い頃合いなんじゃないかと思っているのだけれど、
それはそれとして「首相は利害関係者と交遊を持ってはいけない」という論調にも正直思う所がある。
1. 相手が組織の長でなくとも「友人が所属している会社・業界だから優遇したんですね」と言われることまで考慮するなら、
一国の首相ともなれば「利害関係者」とは即ち国民のほぼ全員な訳で、
瓜田李下を忌避するなれば首相在任中はほぼ全ての交友関係を断たなければならないことになる(同職の国会議員のみセーフ?
2. しかしながら、政治を行う上ではただ首相という立場から、上から目線で俯瞰やヒアリングなどをするのみならず、
同じ立場・目線から、各業界の事情や現場の本音を耳にすることも非常に大切なことでは?
政治家批判の常套句として「現場のこと、業界のことを分かってない」というのがあるけれど、
それを知るために大切な 「人脈」 を首相在任中は断てというのは、杓子定規にして机上の空論を助長しかねない。
(現在含め歴代首相がどれだけ現場の声を反映できてきたかは兎も角。「更に悪化」と言った方が良いかも。)
また、よく「経営者は孤独」と言うけれど、一国の首相にはそれ以上の孤高を求めるというのは、
首相も首相である前に一人の人間な訳で、精神衛生上、ホントにそれが正しい政治判断力や国民の益に繋がるのか疑問。
3. 加えて、『瓜田李下』と言うならば『疑心暗鬼を生ず』とも言う訳で、人の疑念というのは何処にでも生じ際限がないもの。
加計問題にしたって極端に言えば、例え友人優遇であろうとも、それが国民にとっても益になる政策ならば然程問題は無く、
「・・・私としては、この男を罪人よりもむしろ虎の仲間に分類するね」
さの対策。三項目の問題点、最後に可能性を探る。
はじめに
はてサは、路傍に立つ鮮血の防犯・喚起板は「性差別を助長する」と看板撤去の全国運動を展開しているのでも、
錠前メーカーに「貴社の製品は社会の荒廃化をもたらす」と苦情を訴えているのでも、
悲惨なニュースを肴に「商売女と間違えられてもしかたない」、「親の顔がみたい」といった孫娘に向けられたお茶の間文明論を糾弾しているわけでもなく、
まして「自衛の言説の流布」と「予防拘禁」を天秤に掛けているわけではない事を確認する。
(1)[男は獣]
夜中に一人出歩く、基地周辺をロイタリングする、腿を露出する婦女子らに遭遇すると、陵辱せずにはいられぬ男を獣と(自)称するのであれば、
(2)[獣は檻に]
現状は「獣は檻に」を肯定する(曽野自身牽引役である)社会なのだから、あなたの定めた男性らは皆、檻へと収容されちまいますがよござんす?という反問、下らぬ稚気を社会規範に押し上げんとする不平な言い草に対する揶揄である。
現行の「檻」に反発せず、文脈から抽出し殊更危険視するのは、むしろ「アンチはてサ」なる党派性の表出とされてしまうおそれがある。
被告の態度如何で「矯正の可能性が認められず、極刑もやむを得ない」といった一般予防の見地が加重された判決が出される度「真っ先に批判してくださる」ので、「非常に心強い」といった皮肉を返されるおそれがある。
現実と齟齬する状況を想定してまで思考実験を続けたいのであれば、
もし現実の犯罪被害者を侮辱した曽野への批判を、反語ではなくフィクションで―往年の膝上スカート姿の筆者がピンボールマシンに押し付けられ陵辱されるポルノ作品を以て揶揄したならば、「権利に紐をつけるな」論者らが果たして「この醜悪なポルノを描いた作者自身の独善性、暴力性が露呈した」と先んじて警告を発するものかどうか一考してからでも遅くない。
(「ポルノを対抗言論に貶めるな、芸術に政治をまぶすな、フィクションはそもそも論説ではない」といった批判は想定しない)
対策
「獣は檻に」の言説には、曽野の寄稿に「一理ある」、「李下に冠を正さずだ」といったタガの外れた擁護が存在した事実を踏まえなければならない。しかし、曽野発言、渡辺の提言(男は獣)をまっさら肯定する以外、はてサを哂う論立てを増田が見いだせなかったのも事実である。
かのように無理筋を厭きるほど繰り出し、臆面もなく継ぎ足せば、相手から罵倒、もしくは黙殺を引き出す事は可能であろう。やり取りを眺め、はてサの「顕著な専断主義」、「狭量」を再確認し満足する外野もいるだろう。
[余録]
「とにかく幼女をポルノショップに立ち入らせる馬鹿はいない。若い娘に夜道の散策を推奨する馬鹿はいないさ。「瓜田李下」、姪っ子や娘の学友を自宅に招きたくば職業や趣味を選ぶ事。「あなたは悪くない」と慰撫される羽目に陥りたくなければ自由の制限を受け入れる事さ。富時には富に縛せられという。窮屈な縄の上をびくびく渡る、始末のつかぬ自由に如何なる価値があるというのか。我々は友人と、家人らと囲みつつ、犯罪被害者を無遠慮に傷つけてきた。我々はひそかに他人の性癖、食い扶持を蔑み、その面目を損ねてきた。それもこれも文明の呪詛、敵のぺてんに罹るのが馬鹿馬鹿しいからさ。殺人者の多くは真の意味での罪人ではない。野獣にすぎなくて、我々はナイフで頸を切られたくないので、少年を排除しなければならなかったにすぎない。アンブローズ先生答えて曰く殺人者が人を殺すのは積極的な素質からではなく消極的な素質からだ、と。殺人者は人を殺めぬ人間が持つ何物かを欠いている。得るより失うが容易いのは道理だから、我々はみな未来の殺人者、二流の悪人であり、卑劣漢に転落するわけさ。個人は平等に強くなり、平等に弱くなった。この自業自得の弊竇に目をつぶる、メディアの愉悦を積極的に生活に取り入れながら卑劣の謗りを免れる事はかなわぬ。少年は世間、即ち他でもない君に顔を知られたのが、名を知られたのが苦痛であったのだ。我々は檻にかんぬきを差せと騒ぐが、しょせん獣であって畢竟檻に入れられる身だ。天子あらざる我々にのがれるすべはない。博徒に限らず、男に限らず、読者ならぬ作家でさえも」
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p1
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091207/1260198508