はてなキーワード: 平積みとは
http://anond.hatelabo.jp/20100526095826
続き。
別れてから2カ月が経った。付き合っていた期間は多く見積もっても約4カ月程度なので、付き合った期間の半分程度は経ったこととなる。
正直、いい加減彼女の事をずーっと考えるって言うステータスは終わって、飯もそこそこに食えるし、眠れる様にもなってきたけど、とはいえ気分が鬱屈している状態にあることはあまり変わりなく、時々、レキソタンのお世話になりながら、毎日を過ごしている。
# ちなみに体重は15kg程減った。もともと太いのでまだデブ。
仕事の忙しさがあれば、もう少しマシなんだけど、〆切のない仕事ばかりを平積みしているので、モチベーションが上がらず、なんだか微妙。仕事に没頭するって言う訳でもないので、無駄な事を考える時間があるのが苦痛。
週末は幸か不幸か、引っ越しの作業が続く毎日だったので、暇することなく地道に作業をしていた。でも、これは逆に言うと引きこもり状態であったことを示し、せっかく転勤、引っ越ししたというのに、その先での活動範囲は広がっていない。
とりあえず、新しい事を始めないといけないな。と思って、今まで通ったこともないスポーツジムに入会手続きをしてきた。料金精算の関係上、今日から通えることとなっているので、今晩にでも行こうと思っている。
女性関連の新たな出会いっていうのは皆無。うん。新しい職場には色々と女性はいるものの、正直もう、社内はいいや・・・と反省中なので、食指が動きません。かわいい子はいるんだけどね・・・そういう気分になれません。
その他、新たなこととして、料理教室に通おうと色々と調べてみたのだけれども、四国の田舎では男性が土日に行ける料理教室なんぞ見当たらない。女性限定だったり、平日昼間だったりして、なかなか思うようにはならない。
mixiを使って、地味に活動しているサークルを探し、そこに飛び込もうと思い、コミュニティ参加。イベント参加も予定したが、当日は体調不良になってしまい、参加できず仕舞い。月一程度の頻度でやっているらしいので、8月上旬に参加できるように今度は体調を整えたい。
新たな趣味が必要だよねって思っているので、新たな趣味が欲しいのだが、土日で出来て、人との交流がそれなりにあって、運動系ではない趣味って言うのは何があるだろう?何かおすすめがある人は教えてください。
とりあえず、現状をまとめてみた。
さぁ、どうする?次の一歩は?
甘えすぎワロタ
とりあえず「この世でいちばん大事な「カネ」の話」を読んでから、
西原理恵子本人の前で思いの丈を語ってみて欲しい。
「てんで性悪キューピッド」→「幽☆遊☆白書」→「レベルE」→「HUNTER×HUNTER」の冨樫
「カメレオンジェイル」→「SLAM DUNK」→「BUZZER BEATER」→「バガボンド」「リアル」の井上
みんなこれぐらい把握した上で、文句言ってんの。
おまんま食べたいなら、売れる作品作れよ。
「うちのトコでは」
http://www.asukashinsha.co.jp/book/b55093.html
出版年月日 2010/01/23
3日前の近所の紀伊国屋ではワンピース新刊が並ぶようなとこに、
POPも立って平積みになってる。
手元の真っ白な原稿に立ち向かって、
目線上げてやるべきことあるでしょ?
他の人も書いてたけど、個人事業主なら作って売るまでが仕事だよ。
作るだけなら趣味の人。
作って売れないなら才能無い人。
離脱したようだけど疑問だけ残しておくよ。
1. なぜ「2次元"児童"ポルノ嗜好"だけ"変態性癖である」とするのか?
しかしもっと言ってしまえば実写の写真に欲情するのもおかしくないか?
恋愛至上主義に則ったら好きな人以外で欲情するのも変態性癖とされるかもしれん。
ここが無根拠ではっきりしないのに2次元"児童"ポルノだけが標的にされると違和感がある。
無論児童ポルノ自体は規制されるべきだが、これは被害者がいるから規制されるべきとなっているんだ。
決して変態性癖だから規制されるべきとなっているわけではない。
そうであったとしたらスカトロやSM等も児童ポルノ並に厳しくなってないと話がおかしいだろう。
流通段階で表紙が直球でゾーニングもされずに平積みされてることを言っているの?
それならばゾーニングをしっかりするべきだとは思う。
表紙くらいは人目につくものだから自粛するべきだろうとは思う。
3. "コンテンツ業界は「2次元児童ポルノ」を自主規制しろ。"と"どんな変態趣味のエロ作品も(犯罪性の無い限り)存在していい"が相反している
自主規制求めるのは自由だけども、そうじゃないと規制するよとか規制されるよとか脅して自主規制を迫るのは法規制と何が違うのか。
存在を認めるならば自主規制は不要。存在を認めないのならば根拠を出すべき。不安だとかは根拠にならない。
4. "マイナスイメージを払しょくするような方法"ってそれこそゾーニング撤廃しか無くね?
影でこそこそ隠れて何やってるかわからないから異常だとかに思われるわけで普通に流通していて誰でも購入できて気軽に話題にできるようになれば、世間に認知されてマイナスイメージは消えるよね。
"自分の変態趣味を人前で御開帳"はある意味マイナスイメージ払しょくの一手段なわけだ。誰がやってるかしらないけど。
こんな感じ。個人的にはゾーニングで十分だと思う。現段階のゾーニングが適切かと言われれば多分適切じゃないけど、流通規制とか表現規制はされるべきじゃない。せっかく成年向け指定があるんだからそれを利用して青少年の目になんとかつかないような方法をとれば良いだろう。
一般人とかいうくくりは嫌い。一般人と変態なんて区別は無い。青少年を脱して大人になったらどんなコンテンツにだってアクセスできる自由があるのが平和ってものだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20091215072940
外山滋比古の思考の整理学が本屋で平積みになっていた。家に帰り、久しぶりに件の本を棚から引っ張りだしてパラパラと捲った。その中の一段、時の試練という項目で取り上げられている、当時は天才と持て囃されたけれども時代とともに忘れ去られた島田清次郎と、当時賛否両論であったのに現代は国民的作家となった夏目漱石との対比の例を見て、ふと脈絡なくスレイヤーズのことを思い出した。
富士見ファンタジア系、といってもそこまで詳しくないのだけれど、当時見ていて覚えているのは、スレイヤーズ、天地無用、セイバーマリオネットとかだろうか。確かに面白かったし、同じ文脈を持った同年代と出会うと大抵話題に上る。けれども、そこで終わり。懐かしむ以上のものはない気がする、といったら傲慢だろうか。
順調に年を取り、或いは40年後、擁護老人ホームで溜め込んだオタクコンテンツを消費する生活になったとして、何を見るか、何が残っているか、みたいなのを夢想する。もしかしたら、その頃にはアニメをみていないのかもしれない。今でさえもうリアルタイムで追っていない。もしくは、アニメという産業自体が存在しているかどうかも分からない。
近年で言うと、DVD,BDともに一番売れた化物語が数年後どうなっているのかとか。個人的に西尾維新は好きだけれども、数年後は分からない。空の境界などはどうだろうか。こちらもDVDが売れているみたいだけれども。と思ったら、ニコニコ動画のチャージマン研ブームのように、局地的に意外な視点で取り上げられることもある。SFが好きなため、ハルヒは一巻の頃から追っていたが、あそこまでブームになるとは思わなかった。突然話がずれるけど、書痴は何でも読むから書痴なのであって、当然ライトノベルも読む。そこで、当時図書館でスレイヤーズと一緒に借りたのが・・・記憶が曖昧だが、それが確か島田清次郎の何かだったかも・・・というのを思い出した。いや、出来すぎだから多分記憶違いだろう。
今年も様々なアニメ作品が放映されるけれども、どれだけの作品が残るのか、というのも興味深い。ちなみに、掲示板の質問で、どんなアニメをみたらいいか、という内容のときたまに上がるプラネテスだけれども、あれは正しいと思う・・・みたいな感じで作品は語り継がれていくのかな、とも思ったり。
平積みされてる本を下から取ろうとしてそういうことやってる奴のこと言ってるんだよね?
「邪魔」と言ってわざとぶつかるようにしてる。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
繋がりがわからない。
っていうか「人生に残された時間が有限だから無駄なことしたくありません」って人間がなぜ増田でこんな論争をしているのかがわからない。
増田でのこの議論もどきは効率的に書を選び読むことよりも有益なのだろうか。
どこにトラバ付けたらいいかわからなくなってるけど。
なんていうか、みんな若いんだなー。人生に残された時間は有限なんだぜ。例えば死ぬまでにあと10冊しか本を読めません、となったらもうちょっと真剣に本選ぶだろ?俺は偶然による衝動買いはしたくない。したい人もいるんだろうけど、経験上平積みされてる本の8割は糞本だからなー。
村上春樹に興味はまったくなかったが(ノルウェイの森だけ読んで、つまんないと思ってそれ以外読んでなかった)、この度のスピーチさわぎで少しだけ興味を持って、ネットで調べ、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読もうと決めた。
ところが、職場最寄り駅の本屋に行ったら、結構大きな本屋なのに、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の下巻だけ3巻並んでいて、上巻がない。
仕方なく別の本屋に言ったら、平積みで「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が並んでいたが、上巻は残り1冊だけ。一方、下巻は5冊くらい積まれていた。
そりゃ、上下巻を読む時上巻だけ買って様子見するのはよくあることだけど、「にわか村上春樹読み」が多いんだなあ、と思った瞬間だった。
私もだけど。
で、「ザ・シークレット」が平積みされてて、立ち読みした感想。
ザ・シークレットってようは引き寄せの法則。
「自分に起きた出来事は、すべて自分の意思や思考が原因で引き寄せたものだ」という法則のこと。
引き寄せの法則は、物事の捉え方、あるいは考え方のひとつの方法に過ぎないが、理にかなっていると思う。
ただし、さすがに「すべて」ではなく「ほとんど」であると思うが(例えば、人の死は思考でなく寿命、運命が原因でしょ)
もっとも、引き寄せの法則を語る連中は、法則をさらにスピリチュアルに発展させ、「ただ強く願う(言う、紙に書く)だけで、現実化する」というが、これは甘い期待だ。
やりたかったり、やらなきゃいけないとずっと思っていても、「けじめ」や「規律」が欠けているため、できないときがある。
実業家とかで、願ったら叶ったという人は確かにいるが、それは周囲がお膳立てしてくれる金持ちのボンボンやエスタブリッシュメントがあるからに過ぎない。
引き寄せの法則関連によく出てくる、「一部のエリートのみが」云々は、引き寄せの法則が秘密だったからではなく、願っただけで叶う温室育ちの環境は一部の上流階級でしかありえないからじゃないか。
また、思考は現実化するため、ネガティブなことは決して考えてはならないとも書かれている。
精神衛生とか、メンタル的にはネガティブなことをくよくよ考えるべきではないし、ポジティブで明るいことを想像すると、安定した心理状態を得られるのは事実だ。
しかしだからといって、否定的なこと、起きて欲しくないリスクについて考えを巡らすこと自体を禁止してしまうのは、飛躍し過ぎだし、恐ろしい思想統制だ。
メンタル、あるいはメンタル状態が大きくパフォーマンスを左右するスポーツの競技中は、ネガティブな感情は消しさるべきだ。
しかし、将来に向けてロードマップを計画しようとするとき、あるいはビジネスの世界では、常にリスクを意識し、対処することが不可欠だ。
最後に、やや話は脱線するが、光があれば影があるように、ネガティブな思考を完全に除去することはできない。だからあえて目をそらさずに、その存在を認めた考え方のほうが、より現実を表しているのではないか。
根がオタクだったりオタク趣味に興味津々だったりするのにそういうのにツンツンした態度取っちゃう人っているよね。例えば俺の友人の場合、突然こんなことを言い出す。
いつもこんな調子。さらに続けて
「大体何なんだ?あの美少女イラスト表紙のオンパレードは!?」
終いには
「昨日もいかーにもなオタクがライトノベルコーナーで立ち読みしながらニヤニヤしてたんだよ。マジキメェ……。本屋であそこだけ異空間を形成してるんだよ!!」
ときた。まあ、いつものことだが、コイツのオタ嫌悪はドコからくるんだ?
……ふふふ、だが俺は知っているぞ。お前、小説コーナーで立ち読みをするフリをしながら、隣のラノベコーナーをチラチラ見まくっていただろ?書棚の影から俺にヲチされてるとも知らずにな。そのうち、我慢できなくなったのか何度も何度もラノベコーナーの前を往復しだしたところで盛大に吹いちまったwwwお前は通りすがりにこっそりチラ見してるつもりなんだろうが、平積みされたラノベの「美少女イラスト表紙」に釘付けなのは誰の眼にも明らかなんだよwww流石にここまでくると滑稽というよりむしろ萌えてしまったんだが。なんか庭先に餌をまいて家の中から小動物の観察しているかのような気分になった。
後日、奴からこんなことを聞かれた。
……俺は答えに窮した。まさか
「それはお前のことだよ」
とは言えないよなぁ……。
1月毎の売り上げに比例して数字を決めるとか、そんなんでいいんだろうけど
別に数字は大事じゃないんだ
連載第一回目を読んで「これは面白い!!」と興奮して
2回目、3回目と読み進めるも期待を裏切らなくて
友達と漫画雑誌の話をしていたらそれとなく教えてあげていて
そんな漫画が単行本を発売した途端、書店で売り切れになり、平積みになり、「この漫画がスゴイ」に載り
友達に「○○って漫画面白いよ?」と言われ、「それ俺が教えた奴じゃん!!」とニヤニヤしながら返すような
そんな時はたまらなく嬉しいんだ
極めてせこくて自己満足的な嬉しさで、本当にすごい人は漫画家さんと編集者さんなんだけど
そういう時はすっごい嬉しい
そんな人達が楽しくなれる為だけでいいから
マンガ株が必要なんだ。
具体的にどう使うかって言うと
「○○は買いですね。」とか「○○はストップ高ですね。」とかそんな会話がしたいだけなんだ。
怖いから増田に書くけど、amazonの書評の評価って全然当てにならないよね。
というのは、とある知り合いがライフハック系の本を出版したので購入ついでにAmazonに星5の書評載せたのよ。
んで、出版者の他の知り合いも星4とか5の評価をAmazonにのっけてレビュー7,8件で平均評価4.7くらいになったの。
そっから一般人の書評も入りレビュー15件前後で平均評価4.2くらいになったんだけど、
その時には第2版、3版と結構なヒット作に。
dankogaiの所でも取り上げられはしたけどあまり褒められてなかったし、
俺自身そこまでヒットするとは思わなかったから、
書店で平積みされはじめたのもAmazonでランキングに入ってからだし。
それ以来、(今更だが)Amazonの書評を全然信用できなくなった。
じゃあどうすんだっていうと自分にあったレビュアーさん探すか、
まぁ一番は書店に行って立ち読みして良さそうな本を買うことだなぁ、とWeb1.0時代の手法に逆戻りするのでした。
※文中の数字はちょっと誤魔化してます。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。