はてなキーワード: カリキュラムとは
京大の工学部の専門科目の試験に出される問題っていうのは、その分野の基礎を取り扱ったものばっかり。これがわからなきゃモグリ、みたいな。
まあ、大学受験でいえばセンター試験みたいなもの。しかも毎年傾向が一緒。内容を理解するために高いIQや学力が必要なわけじゃない。
むしろボトルネックとなるのは、教材が充実していないこと。
ほとんどの授業は教官が自己流で教えていく。教科書に沿って授業を進めていくなんてのは非常に珍しい。
だから、試験勉強をする時に、体系的に学習するための資料を用意できるかどうかが肝となる。
てなわけで、以下に思いついた理由を並べてみた。
まあそんなわけで、来年になればまた例年の水準に戻るんじゃないかな。
俺はオシロ君タイプだった。そして、研究開発に配属されたが、会社で苦労している。
なので、君とは逆の立場の話をする。
どういう部署に行きたいか聞いてみると、そろいも揃って「研究開発」。
まあ、そういう人は入ってから苦労するよ。というか、卒論・修論の時点で苦労するはず。
俺は変な工学部生で、学生の頃は数学や物理ばかり勉強していた。大学が基礎的な勉強を奨励するカリキュラムだったということもあるが、俺はそれに輪をかけて変なことをしていた。自分の学科の科目を捨ててまで理学部の科目を聴講して、それを単位にして卒業した。
なんでそんなことをしていたかというと、工学部のカリキュラムが「各論」ばかりに見えたからだった。理論といってもたかだか数十年の歴史しかないものを勉強して、そのうち覆されてしまうのではないかという不安があった。だから「総論」を勉強しておけば、パラダイムが変わってからも対応できるんではないかと。
だが、それは錯覚だった。抽象的な一般論を理解していても、結局は手が動かせないと何もできない。理論の意味というのも、結局は泥臭く計算して実験してみないと本当に理解したことにならない。それで得られるものといえばせいぜい「成績」だけだ。でも、大学の成績ほど無意味なものもないだろう。
そういうわけで、俺はオーバースペック気味な抽象論の知識をひっさげて企業に入社したが、非常に基本的なものでさえ自分で作るためには一苦労している有様で、肝心の実験がまともに進まない。理論だけで学生生活を送るのもよしあしなんだなと思ったよ。毎日怒られながら、追いつこうとなんとか頑張っている。君みたいに、手を動かせる人たちが羨ましいと感じる日々だ。
ただし、君みたいな生き方が本道かというと、そうも言えないと思うんだな。
少し補足をすると、データロガーの件は、
研究室に入り立ての俺らが研究室で使う測定器になれるための実験の妨げになるからよくないって言うのと
悪いけど、それじゃダメだ。君のやることは発想は面白い(卒論生にしては)。でも、残念ながら「手抜き」と呼ばれても仕方ないよ。精度が甘いというのは実験の質を下げることだ。もし君がここで、精度の高いロガーを作ることができていたのなら、褒められこそすれけなされはしなかったはずだよ。
だから、教授に怒られて助教授に褒められたというのも、余り片方だけの意見を聞かぬように。教授も上教授も正しいことを言っているのだ。実を言うと、教授と助教授というのは、一般的に研究室内の暗黙の「飴と鞭」の役割分担をしていたりする。残念ながらたぶん君は教官に踊らされているよ。
プロの研究者をなめてはいけない。国立大の研究者ともなれば、並の学生が思いつく凡庸な発想はたいてい試しているものだ。何しろキャリアが違う。君はまだ研究のキャリアはほとんどゼロだが、教授も助教授はこの世界で何十年もやっているのだ。君の通った道は彼らはまず間違いなく通っている。彼らを出し抜くのは簡単なことではないよ。逆に言えば、だからこそ出し抜く価値があるんだけどね。
だから俺は理論に強くなってオシロ君を見返したい。少なくとも同等の立場になりたい。院試の点数で勝ったら少しは見直してくれんのかな。
でもむりっぽいな。はあ。
無理だな。院試の点数なんてセンター試験の点数ほどの価値もないよ。
はっきり言って、現場から見れば君もオシロ君もまだまだ使い物にならない。まともに理論が扱えない君も、まともに手を動かせないオシロ君も、二人とも致命的な欠陥を抱えている。その意味でまだまだ君らは半人前だ。
これから君らの勝負が分かれるとしたら「俺はこいつより偉い」と思ってしまった方の負けだ。有り体に言って君らの実力は五十歩百歩だ。君らはコンビを組めばなんとかそれなりの能力を発揮できるようだが、要するに二人でやっと一人前ということだ。君らは二人とも半人前だ。それが自覚できただけよかったじゃないか。
これから大学院を出るまでの間には、二人とも、曲がりなりにも一通りのことができるように努力するんだな。そうして、自分の強みをのばしていけば、どこにでも胸を張って出られるようになるよ。お互い、近くに見習うべき相手がいたんだからこれは幸せなことだ。
がんばりたまえ。
えとね。
それはオレと同じ大学生活だ。
大学生活の最大の使命は、なんだ?
勉強すること?
違う。
今後何十年とすることになるであろう自分の天職を見つけることだ。
それも2年以内にな。
3年になれば就職活動が具体的な形になってくるから実際のところは3年目は使えないだろう。
(オレはなにもしなかったのでよくわからないんだが、たぶん)
それ以上の時間はないと思ってくれ。
本来自分があるべき姿がどういうものであるのかを探り当てる。
それを二年間でやってくれ。
不要なものを削ぎ落としてスリムになれ。
狙いを持つことが重要。
企め。
そして、もしできるならそれを試せ
遅くなってすまぬ。
その地方ごとでまとめても、北大・東北大・東大は地元出身じゃない人の方が多いし
なんで「地元の都市部の人間が一番多い」というのが「地元の地方の人間が過半数を占める」っていう話にすり替わってるのかわからん。俺が言ってるのはそういう話ではなく、例えば名大なら名古屋とか静岡あたりの文化がベースになって大学文化ができるだろってこと。言っておくけど「名古屋文化圏」の人間の数は「名古屋市民」の数と一致しないからそこは勘違いしないように。
実際、都市部出身の学生の数と地方出身の学生の数の比率は人口比では説明がつかないと思うよ。
一方で、いわゆる駅弁大学にはなぜか早稲田や慶応あたりの並みの学生よりもよっぽど優秀なのが結構ごろごろいる。この事実をどう解釈するかは難しいところだ。
いや、そんな単純な話なら「難しいところだ」なんて書かない。都市部にだって貧乏人はいくらでもいるよ。そもそも、地方から東京の国立大に通わせるより、東京の人間が私大に通った方が間違いなく安くつくわけだし。
俺が疑ってるのは、いわゆる「地頭」(←これって「じとう」としか読めないよなあ)のいい奴が必ず高学歴を得られるかというと必ずしもそうなってないんじゃないかということ。特に、周囲に東大出身者がいない環境では「東大には天才でないと入れない」という誤認識が平気で罷り通っていて、その心理的効果が大きいんじゃないかということ。
ああそうなってんのか、なるほどな。それで私学が優位な訳か。私立トップ校ではだいたい、中学の内容を1年間で終わらせて高校の内容をじっくり4年半かけて教えて、最後の半年を受験対策にあててるんだが、中学と高校のカリキュラムの密度の違いを考えるとこれはかなり理にかなったものだと思うがどうだろう。
俺は「受験テクニックとかくだらねーw」とか言って適当にやってた反社会的人間だから(無論地頭は良くないw)その辺の事情はあまりわかってなかったりする。
あんまり関係ないけど「受験テクニックくだらねーw」って話をしてる人の中でどれだけ実際の入試問題見たことある人がいるのか俺はかなり疑問なんだよね。東大入試なんて小細工の通用しない基礎的な問題がほとんどだと思うんだけど。
じゃあまず撤回するところからはじめろよ。くぐるまたぐらを激しく間違えてんだよ君は。
撤回したってことでとりあえず納得しておこう。
君が「古典なんて役に立たないものはやめてしまえ」と主張するのでなければね。
俺はやめてしまえなんて一言もいってないけどね。要らない、役に立たないとは言ってるが。
だいたい、文学の価値を社会的経済的国政的有用性で測ろうなどというのがそもそも冒涜だ。
君の人生はそれで楽しいのかも知れんけど、「教えるべき」まで言っていいのかは疑問だな。
「きっと将来楽しく思い出せるから、このくらいやってもいいんじゃない?」程度のもんだろ。
俺は単に君の主張を崩しにかかるための一番やりやすい点として「役に立たないから」という部分を選んだにすぎない。
そこであまりにも派手にやり方間違えたんだよ君は。で、実際役に立たないというのは論破できてないし。
知的社会的政治的有用性で芸術を測ってる段階で、俗物だと思うけどなあ。
たとえば、英語が半ば世界標準語になっているのはおかしなことだが、「英語帝国主義粉砕!」と叫んで英語を勉強しない人間が、英語帝国主義の体制を崩せる力を持てると思うのか?
俺は「相手の土俵に乗り込んで相手を倒すべき」と言っている。どっちが前向きかは明らかだ。
追認して差別を拡大再生産してるだけじゃん。で、その股くぐって何が変わるの?
源氏物語や万葉集が読めるようになって具体的にどう有効なんだよ。お前一度も答えれてないじゃん。
欧米の古典文化には、確かに今でも通じる知的、思想的、社会的政治的意義はあるよ。
だから、文化格差的な論点を無視は出来ないものの、価値自体は認めざるを得ないよ。くぐるべき股ぐらだよ。
文芸的な、要は道楽としての価値は認めるが、それ以上のものはないだろ。やっぱぜんぜん違うよ。
そんなもので格差が生じるんだとすれば、それは差別に過ぎない。スノッブで鼻持ちならないね。
日本は所詮アジアだよ。それが証拠に、自由主義も民主主義もまるで精神的なところに根付いてなくて、簡単に前時代的な思想に転ぶじゃないか。
なんで「すべて」の話をしてんだ? アベレージをほどほどに高く保ちつつ、それで足りないようなエリートは海外で一流の教育を受けて来い、って言ってるだけなんだが。
そんな極少数のエリートのために世界最高峰の教育機関を整備するコストは、バカにならんと思うがね。
どうしてイスラム文化は無視されてるんだろうねえ?
イスラム文化には見るところが多くあったよね。で、日本の古典に何があったって?
笑止な。線型代数も理解できない奴に工学を訳知り顔に語るな。ほれ、これが東大と京大のカリキュラム。機械工学や電気工学のような従来型の工学に勝るとも劣らないほど理論的な教育が行われていることがわかるか?
それを言うなら、そもそもFORTRANも知らんバカが情報工学を語るなw
実践的なことばっかやってんじゃねーか。お前がその実践性を理解できてないだけだ。
おやおや都合よく逃げ出した。でも、数値計算にFORTRANが使われる理由は、低水準な処理が出来るからというわけではないのだが。
他に何か一つでも具体例を挙げてから言う台詞だなあ。
ひとつしか挙げられず、それも論破された上で、負け惜しみにしかなってないだろそれ。あほ。
もはやかわいそうになってきた。君にわかりやすいようにと思って説明したことが変なツボを衝いてしまったみたいだな。
そうなった原因としては、君と別の人を混同していたからというのもあっていらんことを言ってしまったせいかもしれないから、もう一度だけ整理してやる。
あのね、古典が文化資本として役に立つなんて主張はいつ撤回したっていいんだよ。君が「古典なんて役に立たないものはやめてしまえ」と主張するのでなければね。
だって、そんなの俺の信念でもなんでもないんだから。俺の本音は「人生を楽しむための基礎として、普通高校では基礎的な文法事項を教えるべき」というものだ。
それだけのことだ。俺は単に君の主張を崩しにかかるための一番やりやすい点として「役に立たないから」という部分を選んだにすぎない。だが、君がこれほど物わかりが悪いとなると、その作戦は失敗だったのかもしれないがね。
以上。ここまで言っても俺を教養俗物と主張するならもはや藁人形論法だからな。
何もしない自分を肯定できる理屈を並べるオナニーがそれほど楽しいですか?
せめてオッサンの俺達くらいは正しいことを笑わずに正しいと認めてやれなくてどうするよ。
何もしない自分を肯定する理屈を並べ立ててるのは君でしょ。
たとえば、英語が半ば世界標準語になっているのはおかしなことだが、「英語帝国主義粉砕!」と叫んで英語を勉強しない人間が、英語帝国主義の体制を崩せる力を持てると思うのか?
君は「これが正しい、だから通るべき、通らない世の中はおかしい!」と主張しているだけ。俺は「相手の土俵に乗り込んで相手を倒すべき」と言っている。どっちが前向きかは明らかだ。
それから、勝手にオッサンにするな。俺は十分すぎるぐらい若者だ。
そういうのを下司の勘繰りという。例えば俺はアキバ系文化は大嫌いだし文化と呼べる価値はないと思ってるが、ことあるごとにアキバ系文化が弾圧されることについては、「アキバ系文化は日本の現代文化としてもっとも国際的に受けいれられたものだ」ぐらいのことは主張するよ。そしてそれは嘘を吐いているというわけでもなかろう。
まさか俺から「文化資本」なんて単語が出るとは思ってなかったんだろ、油断してただけだろw
ある意味では、ね。正直、君のことを単なるリベサヨ拝金主義自己啓発馬鹿だと思ってたんだが、どうやら時代遅れ左翼だったらしいな。その結果、君に受けいれられやすい例を出したつもりで逆に変なスイッチ入れてしまったみたいだからね。
よく読め。「先進国」と書いただろうが。IMF によるとアジアの先進国は日本と韓国と台湾と香港とシンガポールだけだ。いずれも、有力な大学を自国に抱え、国内の大学でエリート層を自給できている国だ。
あとこれも読め。君の大好きな欧米先進国様のランキングについて挙がっているよ。
ほんとうに君はいらん邪推ばかりしてくれるね。経済力と、旧大英帝国圏から優秀な学生を集められるという事情は他の国にもあてはまらんでしょ。それでも、数ではともかく質で日本の大学全てを圧倒できるような大学はないよ。設備や研究費が潤沢にあるのは羨ましいが。日本のプロ野球とメジャーリーグだと思えばわかりやすい。トップのいくつかは日本のオールスター並みの陣容だが、あとはそうでもない。
それはどうぞご勝手に。ただし蛇足として付け加えておくけど、湯川秀樹は自身の業績を「漢籍の素養があったからだ」と回想していた。これをどう評価するかはともかく、少なくとも誰にでも明白な関係がないことは確かであって、グレコ・ローマン思想と近代科学の関係だってそれと五十歩百歩だよ。それに、ルネッサンスで近代科学が萌芽して、さらにグレコ・ローマン思想が再評価されたというのは、実は十字軍が出会ったイスラム文化の先進性に影響されてのことだ。西欧はイスラム経由でグレコ・ローマン文化と先進的な科学を学んだのだ。(「アルゴリズム」の語源はイスラム圏の数学者の名前だぞ)。どうしてイスラム文化は無視されてるんだろうねえ?
これが他の学問なら多少は分かるが、情報工学はあまりにも実学だよ。大学でも、もちろん「使える」ものを教えているという側面が強い。
笑止な。線型代数も理解できない奴に工学を訳知り顔に語るな。ほれ、これが東大と京大のカリキュラム。機械工学や電気工学のような従来型の工学に勝るとも劣らないほど理論的な教育が行われていることがわかるか?
誰も「低水準言語」なんて言ってない。厳密な定義のある言葉を避けて「比較的低水準寄りの言語」というふうに表現に気をつけて使っているんだが、専門分野と自認する分野でそういう言葉の微妙な感覚がわからない人は科学や技術に携わるには余りにも勉強不足だね。
他に何か一つでも具体例を挙げてから言う台詞だなあ。
あのさー、個人の得になるなんて誰も言ってないんだよね。日本の観光資源になると言ってるだけ。
経済学者じゃないんだからそんな具体的な数値を求められても困るんだけどさ。算出する方法なんてないと思うし。観光業者にとっては内需外需含めてそれなりの利益配分になると思うんだけど。
それに、ここでは敢えて金の話だけに絞ってるけど、「古典を理解できた方が人生が楽しい」というのは決して無視できない理由だぞ。というか普通に考えたらそっちの方が大きな理由だしね。そういうのは、本人が興味を持つ前に教え込んでおかないと勉強する機会がないというのもあるからね。
カネの話するなら、数学教育をもうちょっとまともにしたほうがいいと思うがね。昔みたく高校で行列教えるようにカリキュラム組みなおせと。相当広い分野で使うんだし。
いやー、理系人間として言わせてもらうと、以前高校で教えてた程度の行列教えたって役に立たないよ。行列というか線型代数は、固有値を理解できてなければなんの意味もないものだ。
シェイクスピアはともかく、モーツァルトがいなかったらオーストリア(特にザルツブルグ)の生活水準は間違いなく一段階落ちるよ。あそこは観光立国だからね。イギリスにしてもそうだけど、没落した帝国が過去の遺産で食べるための創意工夫として古典を普及するというのはよい手段だとおもうけどな。そして、日本も人口が減る、即ち国力は低下するわけだし。
多摩美は教員も結構いいし、カリキュラムも工夫されてると思うよ。
私立の芸術系の中では一番かも。
本気でいろんなことに挑戦したら、きっと得るものは大きいよ。
おもいっきり同意しかねる。オリ増田はこれから情報系の大学生になる人だろう?
C#やJava、その他 lightweight 言語などのメモリアロケーションを自動でやってしまうような言語から入門しても内部動作の理解ができない。
文字列の連結は a . b でおk!ってだけでは情報工学を専門とする学生ではお粗末すぎる。
Cから学ぶのはプログラミングだけが目的ではなくて、コンピュータがどうやって動いているのかを理解しやすいからでもあるのだ。
プログラミング入門として、オブジェクト指向をとりあえず脇においておけるのもいいかもしれない。
その後オブジェクト指向として C++ に移行するのが大学のカリキュラムとしては王道じゃないかな。
ランクの高い大学だとその後 Java とかは、知っているものとしますので予習しておいてください、という流れになるんだろうね。
後は lightweight 言語のどれか1つを趣味でやっておけば、大抵の言語は入門ぐらいなら1日でできるようになる(なってほしい、ちゃんと概念を理解、体験していればなるはずだ)。
サンプル数1の話で申し訳ないけど。
うちの弟は小学校4年生の一年間を、海外のアメリカンスクールで過ごして英語漬けになったら、英語が出来るようになって(あっちの家族と日常会話を苦労なくこなし、英語で読み書きができるレベル)帰ってきたよ。単純に計算して朝から晩まで1日16時間の勉強×365日=5840時間くらい、英語の勉強に費やしたことになる。(ちなみに半年で日本に一時帰国してきたときはまだ片言の英語しか話せない状態だった。つまり、2920時間じゃ、英語習得には至らないということ。)
一方で、今の日本の英語教育は、月曜日から土曜日まで毎日1時間かならず英語の授業があったとして、年間の授業日数(250日)×6年間=1500時間にしかならない。
こういうことから考えると、たとえば、今後、「小学校6年間も、毎日1時間は英語の学習に時間を割きます」なんて政策が取られても、小??高校で3000時間しか英語の学習時間は取れず、日本人は英語が出来ないということになるね。完全な英語習得を目指すなら、早期教育は無駄かもよ。
英語を完全に習得するんではなくて、読み書きとか、日常会話のみとか、目的を絞って学習するなら、もっと短期間で習得できるかもしれないね。実際、読み書き能力に限って言えば、旧帝大や、早慶に行く人たちの全てが5000時間も英語を勉強してるとは思えないし。たぶん、そういった大学入試レベルなら1000時間くらいあれば充分なんじゃないかな。
そんなわけで、俺の結論としては、英語を完全に習得するには早期教育が必要なのではなく、圧倒的な勉強時間(5000時間くらいか?)を短期間に集中して、こなすことが必要なんだと思う。また、目的を絞った部分的な英語の能力を習得するだけなら、今のままの英語学習時間でも充分対応が出来ると思う。したがって、現状、日本の学校のカリキュラムでは、どんなに頑張っても(小学校6年間に英語の時間を導入しても)3000時間程度しか英語の学習時間を捻出できないことから考えれば、これ以上いたずらに学校での英語学習の時間を増やすより、部分的な英語能力習得に特化した、より効率的で、かつ、脱落者を出さない教授方法の確立を目指すと良いでしょー、ってこと。
「どうして小、中、高の教育カリキュラムの中に算数や数学が含まれているのですか?」
「理由は二つあります。一つは社会生活を営む上で最低限必要な知識を習得するためです。例えば、数字や四則演算は物の数を数えたり、暦を見たり、町で買い物をしたりする時に必要です。少し込み入った話になると、ローンの利息計算などの資産管理や、移動時間の見積もりなど、数学が必要な場面はたくさんあります。
もう一つは進路保証のためです。専門的な職業につく場合において、より高度な数学を必要とする場合があります。測量、統計調査、機械設計などがそれにあたります。これらの作業を行う際には三角関数、微分積分、数列、グラフ、オートマトンなどが必要になってきます。子どもたちは中学、高校を卒業したあたりから進路を考え始めると思いますが、それまでに、どんな職業でも通用するような基礎的な知識や学力を蓄えることが、数学に限らず、学校のカリキュラムの意義だと思います。そうでなければ、若いうちから子どもの可能性を奪ってしまうことになるという危惧があります。
数学はあくまで便利な道具すぎませんので、必要なければ微分積分などを無理に覚える必要はありません。
必要なときに必要な数学を学んでいただければ、それで十分だと思います。文系、理系を問わず、どんな方でも、実際に使用する公理、公式以外には興味がないことがほとんどです。」
俺の行った高校は1年次のHR合宿を皮切りに「ディベート」が自然にカリキュラムに組み込まれていたし、問題が生じたときは全校でまる1日授業を全部無しにして、クラスごとに討論会をやったよ。そういうの若い頃に経験してない人にはなかなか理解できないかもしれないよね。だから「しなくていいじゃん」なんて言っちゃうんだろうね。
というわけで、元増田だ。
http://anond.hatelabo.jp/20071215225109
で、なんでそういう「馬鹿教育」になるかというと、要するに日本は公教育に配分する教育費をケチってるからだよ。
教師のレベルが低いのは
これは、個々の教師、あるいは集合的教師のレベルの問題じゃないんだ。
習ってない漢字を書くと×をつけられる、習ってない解法で算数を解くと×をつけられる、これは、「日本の公教育」にあっては
実に普遍的な現象だ。
30年前の小学校での話。俺ではないよ。
http://blog.livedoor.jp/ia94305/archives/51179421.html
茂木健一郎が英語教育を例として語っている。コメント欄に国語の例を語る人物が登場。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/08/post_be39.html
他にも、実例はググるだけでいっぱい出てくる。
http://shingakunet.com/career-g/mmag/041206/interview2.html
http://tokkun.net/merumaga0312.htm
http://benesse.jp/blog/20060620/p1.html
小学校に方程式がない件は、親が子の宿題の面倒をみるのに方程式を禁止されてかえって辛いってことで、
ググるともう、ものすごい件数で出てくる。
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
そもそもゆとり教育がなんなのかって話しはWikipediaによくまとまっている。ゆとり乙とか言うやつは背景ぐらいつかんでるんだろうか。
1996年7月の第15期中央教育審議会第1次答申において、1970??80年代の団塊ジュニア世代頃の詰め込み教育、管理教育、受験戦争によって発生した校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生などにより、子供達の生活の現状にゆとりが無いことを指摘。その上でゆとりを持った教育環境においてゆとりのある教育活動が大切であり、仲間や教師と楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけていくことが重要であると指摘した。この提言を受けて週5日制など「ゆとりの教育」が始まったとされている。具体的には週5日制に移行した2002年4月からいわゆる「ゆとり教育」が始まった。
そもそも校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生に対する対策として導入されたのがゆとり教育。その結果現在の教育現場はどうなったか。学級崩壊、加速するいじめ、ひろがる格差。電車に乗って遠くの塾に行き、必死で勉強をする小中学生。これが現実。
当然開始当初から学力低下への懸念はあった。勉強の時間が減るんだから、全体的に見てテストの点数が下がるのは当たり前だと思う。しかし、前述のような状況に対する非難ではなく、学力低下に対する非難をうけて方針転換する文科省はどうかしてると言わざるを得ない。非難する方もする方だが、される方もされる方だ。迷走する文科省のおかげでさらに現場は混乱するのだろう。
もうひとつ、今回各所で話題になっているPISAだが、文部科学省のページ((Home > 公表資料 > 統計情報 > PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査))によるとこういうテスト。
【調査の内容】より一部抜粋
PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。
これって「楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけて」いる学生ならきちんと答えられるはずではないだろうか。
ネット社会では「ゆとり」だから悪いと盲目的に非難される節があるが、何が悪かったのかを早急に考えるべきだ。もっと言うなら、ゆとり教育を受けたものを非難するぐらいなら、文科省のやりくちや、教師の怠慢のほうがよほど非難されるべきだ。