はてなキーワード: カリキュラムとは
「どうして卒論を書かせることが正しいと思うの? その理由を教えて」という問いに明快な論理で答えられる教授がどれほどいるだろう。
少なくとも指導する側は、指導者として自分なりにカリキュラムの意義を内的に構築した上で指導してると思うよ。内的な理由付けだから、人によって答えることは違うかもしれないけど、何かないとまともな指導なんてできない。
「正しい」かどうかという問いかけはちょっと微妙だな。教育というのはインタラクティブなプロセスであって、最初から正解となるやり方があるわけじゃない。教える側と教えられる側との対話を通じて、あるやり方からベストな結果を「引き出す」んだ。正解があるんじゃなくて、「正解にする」んだ。そのプロセスは参加者それぞれに固有のもので、人によって異なる。やり方の効果も異なる。ただ、より多くの学生、教師にとってよりうまい結果を引き出しやすいやり方というのはある。やり方が「正しい」という場合、それは「より多くの人にとってより良い結果を得やすい」という意味にすぎない。それも絶対的なものではない。違うやり方の方が良いかもしれない。それを探す努力は常に必要だけれども、一方で「変えてみたけどうまくいきませんでした」じゃそれで教育される方は困るんで、ドラスティックに変えて試してみることがやりにくい分野でもある。小さな試行錯誤は日常的に行われているにせよ。
君が「どうして正しいと思うの?」と問いかける時、そこまでわきまえて問うているならいいのだけれど。単にやり方が正解かどうかを問うているのなら、問いの立て方がおかしいから聞かれた方は困っちゃうだろうね。
研究を仕事に選んだ人間は、その「研究内容を伝えるプロ」ではないのだから、研究内容が生徒の役に立つという期待は余りできない。それは当然。だがそれでも彼らには存在意義がある。それは、いわゆる「隠れたカリキュラム」の効果である。
具体的には「苦行的でない勉強観」の呈示。現在の教育現場で、教師が「学ぶ喜び」を生徒に伝え切れているか…というと難しい。『「学ぶ喜び」を感じない人間に教師たる資格はない』と厳しい意見もあるだろうが、現実問題として自分の専門分野の研究を続けている教師、最新の研究に目を通している教師がどれほどいるだろうか?
子どもにとって「人生のモデル」は必要で、大抵の場合自分の親(的存在)が提示する「人生モデル」を見て育つわけだが、より豊かに人生を生きる際に「親とは別の大人」「異なる人生モデル」が有益であったりする。いわゆる「叔父、叔母」が果たす機能。
「教科特別講師」に期待されるのは、一つにはそのような「異なる勉強モデル」である。教師とは異なる「勉強観」を持つ「きちんとした大人」の存在を身近に感じることで、生徒は豊かな刺激を受けることが期待できる。
Do you ever question about yourself?
Do you ever question about what you are doing?
あなたは、ご自分が何をしているのか、疑問になったことはありませんか?
鬱に薬を処方するだけが、あなたのお仕事ですか?
話を聞く、だけが、あなたのお仕事ですか?
米国では、きちんとした、psychotherapyが行えるようなプロフェッショナルとして教育されているのに、あなた方は、何をしているのでしょうか?
たかが、5分「患者」と会っただけで、臨床心理士から話を聞いただけで、「患者」に対して処方すべき薬が分かるのでしょうか?
ご自分が、カウンセリングを受けた事もないのに、なぜ、カウンセリングを行っているのでしょうか?
なぜ、カウンセリングを行える、と、自分で言えるのでしょうか?
なぜ、薬を処方できる、と、言えるのでしょうか?
世の平均、と言われている、1日30錠の薬が、多いと思いませんか?
でも、その特殊な部分を、きちんと説明できますか?
単に、「特殊」という言葉で、本来、自分が勉強しなければ対応できないような部分から逃げていないでしょうか?
少なくとも、私には、あなた方が、逃げているようにしか、見えません。
欧米の心理学を輸入しているだけなのに、カリキュラムや制度だけは、日本独自な物で通そうとしているようにしか、見えません。
カウンセリングを受けなければ、カウンセリングなど出来るはずもないのに、
実際に、自分が、どういう事をしているのか、という事を目の当たりにしなければ、事の本質が分かるはずもないのに、
それらが、面倒だったり・したくない、という理由だけで、カリキュラムに入れず、自分にも学生にも促さず、
単に、学問としての心理学や病理だけを勉強しているようにしか、見えません。
まともなカウンセリングも出来ないくせに、お金をもらっている、というのは、詐欺ではありませんか?
きちんと、目を見開いて、ください。
あなた方によって、より深い心の傷を負っている人間が、ここにいます。
しかし、日本には、あなた方を訴える手段すら用意されていません。
あなた方が、自分の現在の無法地帯で、ぬくぬくと過ごしている様子を見ると、吐き気がします。
クライアントの状態が良くならなければ、薬を変え、カウンセリング技法をテキトウに変え、または、(本当のトレーニングを受けずに)自分で即席で勉強した物で、なんとか、対応しようとしている。
あなた方のプロフェッショナルとして意識がなんなのか、私には、疑問です。
あなた方には、15人以上の人々に会ってきました。
まともな事ができるような人々(米国でトレーニングを受け、きちんとカウンセリングを受けた、カウンセラ達)に出会えた、今、あなた方が、心底、憎い。
あなた方は、詐欺師なのでしょう。
それも、ご自分では、「患者のために、仕事をしている」と思い込んでいる、もっとも、たちが悪い詐欺師。
あなた方の棲んでいる業界の制度が、崩れ落ち、あなた方が職を失う事を、願います。
Do you ever question about yourself?
Do you ever question about what you are doing?
いや、純粋なプログラミング能力に限定したつもりはないよ。一般的な技術力の話。レイトレーシングだってFPGAだってコンパイラだって純粋なプログラミング能力とはいえない。だいいちそういうのを連携させるというカリキュラムは実務的とは言わないまでもその辺の給料もらうためだけに書いてるだけのプログラマにはできない芸当をやっていることは確かでしょ(馬鹿にするわけじゃないが)。ギークとまでは呼べないかもしれない。ただそのへんのwebギークにすぐにできる芸当ではない。当たってるかどうか知らないが、私が知っていたadvancedなトピックとしてはフォトンマッピング、HW/SWコデザイン、関数型プログラミング言語とかか。むしろページランクも分かち書きもN-gramも、web系のギークが得意な話題ではないかなとも思う。
話の流れとしてはどうでも良くて、、そういうことさえ経験できない他の大学(宮廷でもままある)の学部卒って使えないよねーという話になって、だからこそ東大IS羨ましーという話になるのです。まああんまり自分を卑下してT大を持ち上げてもしょうがないので私は似たような題材で切磋琢磨しましたが。
ふと、母校の小学校名でググってみたら、恩師M先生が寄稿したコラムが載っている新聞社のページを見つけた。
M先生の経歴に母校の名前が書かれていて、それで検索に引っかかったのだった。
実は私はそのM先生の教師生活2年目での、初担任のクラスの児童だった。
M先生は明るくて気安い熱血男教師(ただしギャグっぽい、ちょっとエロい)だったので、クラスの男子からも女子からも人気があった。
どちらかというと、教師ではなく近所の兄ちゃんのような慕われ方。
熱い。涙もろい。怒るとうるさい。(松岡修造系?)
そういう性格の教師なので授業は脱線が多く遅れに遅れ、三学期が終わるまでやるべきカリキュラムを消化できなくて保護者から苦情が来ていた。
近所の兄ちゃんとしては頼もしそうだが、教師としては頼りなかったという記憶しかない。
そんなM先生が新聞の教育がテーマのコラムに、目指す教師の姿、教師生活○○年で実感した事など、「ベテラン教師」として寄稿していた…。
いやあ、なんだかもう、すごくおかしいwwww
別に馬鹿にしているわけではなく、「あの」M先生が、「こんな」ベテラン教師になって真面目な文章を書いているなんて意外。予想外。ものすごいギャップ。
クラスの女子に「Mせんせーエローい!!キャー!!!」とかよく言われてたんだよwwwww
(女子が色気づく頃だったから、セクハラな言動に敏感に反応して騒いでた。別に問題になるレベルではない、と思う。今のご時世だとヤバイかもしれないが。)
いつの間にこんなにすごい真面目な頼れるベテラン教師になっちゃったんだ!ほんとすごい!時間の流れすごい!
(…まあ、私もいい大人になったわけで、同じ時間でM先生はもっと大人になっていたというだけなんだろう…)
M先生、
授業は遅れまくってたけど、脱線楽しかったです。
コラムによると子供からの人気は今も変わらなく、さらに保護者の評判も良い先生になられているとは、教え子としては嬉しい限りです。
そりゃ、塾通いしてた奴の方が圧倒的に多い(「ああ、お前○○塾出身なんだ」とかいう会話が成立するくらいに)。もちろん、特に受験対策せずに入ってくるツワモノもいるにはいるが、それがちょっとした武勇伝になる程度にはレアケース。
だからこそ、塾に通わなくてもいいように公教育で受験対策を充実させよ、という主張なんだろうけどさ。けどさ、考えてみるといい。早い話が「俺だけが抜け駆けしてやる!」と全員が思っていて、けれど東大早慶に入れる人数は毎年一定なわけで、その状況で受験対策にリソースを傾けまくる公教育の「役割」って何よ、とは思わないかな。
さらに言えば、学校ではどの道パーフェクトな受験対策専門のカリキュラムを組めない以上、そういうカリキュラムを組める塾に通おうとする奴は減らないだろうな。結局、塾に通わなければいけない、という強迫観念が軽減されることはない。
http://anond.hatelabo.jp/20081118005631 に対する更なる横レス
俺も国際系学部が嫌い。
直接的なものは、やはり大学で知り合った国際系学部のやつがどいつもこいつも自己中だったり、
自慢屋だったり、過度の自信家だったり、メンヘラだったりしたのが問題だったと思う。
そんな奴らばっかりじゃないとは思いたいけど、
国際ナントカと聞くと「はいはい(笑)」という気分になるのはそんなとこ。
あと、国際系のやつらがやたら「日本はダメ。○○はすごい」って論を唱えてくるのが嫌い。
その領域の何がわかるんだ?と小一時間問い詰めたい。
そんなに外がいいならもう日本に戻ってくるなよと言いたくなる軽薄な学生ばかり。
「ちょっと人より英語が得意なだけのやつらが!」と思ってしまう。
本来的に国際ウンチャラ学部ってのは存在する意義があるのだろうか。
専門を学ぶ各学部のカリキュラム強化策として盛り込まれるべきなんじゃないか?
留学しただの英語が堪能だのといっただけの人種を排出するためだけに存在する国際系学部ってどうなのよ?
とかなんとか思うんだわ。
それこそ極論だろ。
社会の無駄をなくすために教育すればいいというが理解できない人する気がない人に教えるのは無駄じゃないのか?授業受ける気のない学生なんかよくいるのが現実。
そういう一部の連中はさっさと放校処分にでもすればいい。彼らには学ぶ意志があるという前提で入学試験を受け、合格し、入学しているわけだから、それを放棄するような連中の対策は後回しでいいよ。
問題にしているのは、真面目に授業に出席している大半の学生に、理系の素養を学ぶ機会が少ない(だから国会議員ですら元増田の記事みたいな詐欺に乗せられる)という事じゃないのか?
大多数の人は理解可能な範囲で教えればいいだけだし実際今の義務教育ってそういうこと。
義務教育のカリキュラムってのは「社会に出るうえで最低限これだけは知っておくべきかどうか」で編成されているはず。「生徒が理解可能かどうか」ではないよ(当然考慮はされてるだろうけど)。
義務教育に手を入れるなら、元増田の記事みたいな詐欺を「最低限知っておくべき事」と位置づけ、それに合わせて教科書の具体的な内容を見直すという流れになるだろう。
結局なんか労働力の大安売りをしてしまったのだし、そうでもしなければ社会人経験のない30男に就職先なんて見つかるわけがないんだという暗示にかかっていたのでしょうがないことだと思う。
しょうがないことだと思う。入院していると世間から取り残されてしまうし、そうして世間から取り残された一生を過ごしている教授連中に支配されているのだから。
と同時に、30過ぎということは増田は博士課程中退で、たぶんOD?までしているこということなんだろうか。
自分も似たような境遇だからなぁ。
博士課程の院生に対しては、後の一般企業での職務に就いた場合の自分のポテンシャリティというものを十分に自覚できるようなソーシャルスキル・トレーニングをカリキュラムとして取り入れるべきだと思う。
あんまり書くと特定されるが、正規授業外ではあるものの、そういうプロジェクトをやっている大学にいま在籍していて、そういうプロジェクトに学生として参加している。意識はずいぶん変わった。それは、世間社会と大学社会のズレと同時に、自分たち(博士課程学生)が自分たちの能力を必要以上に卑下している、ということも。
少なくとも「社●●●士」なんて誰も知らないような資格を取らせるために、●●調●系の講義を取らせるよりもずっと役に立つはずだ。
「社●●●士」?なんだろう……
mixiに書いたものなんだけど、大学院を中退しました。に触発されて、公表してみたくなった。
(一部加筆・修正)
最近転職を考えているんだけど、院中退というポジションはいろいろとめんどくさい。
長い間入院していると、世間的なお金の感覚というのが分からなくなるので、去年仕事を見つけるときも、世間的な基準から見たら年相応の年収からは相当安い月収で履歴書を書いた。
当時としては、社会人経験もないことだし、仕事上のスキルもないわけだから、このぐらいの安月給から始めないと仕事は見つからないだろう、と思っての求職活動だったのだけれど、実際に仕事を始めてみると、たぶん院に進学する人種というのは学習効率が非常に高いので、仕事上のあれやこれやについての飲み込みや吸収はとても早いということを自覚するようになった。そうすると、自分の中に「こんなことなら安売りするんじゃなかった」的な気持ちが出てくることになる。
もちろん、そうしたポテンシャリティなんてものは求職中には分かるはずもなく、気づきもしなくて、結局なんか労働力の大安売りをしてしまったのだし、そうでもしなければ社会人経験のない30男に就職先なんて見つかるわけがないんだという暗示にかかっていたのでしょうがないことだと思う。企業だって、安く買いたたけるものは安く買っとけみたいな気持ちで採用したのだとも思うけれども、でも実際に仕事を始めて仕事を覚えていくと、どうにもこうにも当初の給料とは釣り合わなくなってくる。で、年一回の昇給分を考えても釣り合わないので、転職を考える、ということになってしまう。
なんかね、退院して一般企業に就職するというとき、なんかワンクッションあったほうがいいと思うのですよ。「院卒は社会人経験がないから役立たずだ」みたいな世間に流布した言説に毒されてしまうと、結局自分のポテンシャリティを見失ってしまって本当の役立たずになってしまいかねない。たぶんだけど、対社会ということを意識した場合、院生の自己評価というのは、同世代の社会人と比べた場合、かなり低くなってしまうんでは、とも思う。
ついでに大学院に希望することとしては、抱えた院生の全員が研究者になるなんてことはどう考えてもあり得ないことなので、博士課程の院生に対しては、後の一般企業での職務に就いた場合の自分のポテンシャリティというものを十分に自覚できるようなソーシャルスキル・トレーニングをカリキュラムとして取り入れるべきだと思う。そういうトレーニングをきちんとできてれば、「院生は役立たず」みたいな妙な自己暗示にかかって自己卑下をすることもなくなるだろうし、適切な年収で適切な職に就くことができるようになると思うよ。少なくとも「社●●●士」なんて誰も知らないような資格を取らせるために、●●調●系の講義を取らせるよりもずっと役に立つはずだ。
まあ、どのくらいの数の高岡信者がそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「達人ではまったくないんだが、しかし自分の極意趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない極意の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、信者の都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、極意のことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に極意を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、金銭的に過大な負担を伴う高岡英夫直接指導の講座は避けたい。
できれば専門指導員の講座にとどめたい。
あと、いくら極意的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
極意知識はいわゆる「ラジオ体操」的なものを除けば、フィットネスでピラティス程度は体験している
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「スティフルクラムの解体」を濃縮しきっていて、「フリーフルクラムの世界」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも自由だし。
ただ、ここで極意トーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、信者側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「信者が考える一般人に受け入れられそうな極意(そう信者が思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「高岡信者としてはこの二つは普遍的な極意だと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の武術系極意の達人が持ってる体捌きへの憧憬と、高岡英夫のバイオメカニクス的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも高岡英夫な
の二つをはじめとして、信者好きのするネタをメソッドにちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「中国武術のタントウ功だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の鍛錬がその後続いていないこと、これが日本では大人気になったこと、
日本なら太気拳になって、それが中国に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非達人彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり極意は武術のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「ベスト」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、このメソッドにかける高岡の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削って裏側だけにして、それでも天地の果てに達する、っていうストラクチャーのスケールが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにも極意的だなあと思えてしまうから。
ウォールの大きさを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
ベストや丹田だったらきっちり身体内に収まってしまうだろうとも思う。
なのに、意識操作で脳疲労を起こしながら巨大な身体意識を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の身体意識を形作ってきたものが捨てられない達人」としては、たとえ高岡英夫がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。メソッド自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で呼吸法をやったことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
ゆるよりも前の段階で、高岡のカリキュラムとか身体操作技法とかはこのメソッドで頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティのメソッドが高岡英夫直接指導でこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく極意好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるゆる体操でしか高岡英夫を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
身体の「ゆるみ」あるいは「重みづくり」を達人として教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「意識操作が他人の感覚を巻き込む」的な感覚が達人には共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ極意第一教程最終講座は質重量体操法以外ではあり得なかったとも思う。
「巻き込まれた」という達人の感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「達人の気分」の
源は質重量体操法にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう戦前の携行術をこういうかたちで講座化して、それが非達人に受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にゆる体操を選んだ。
基礎ゆるから始まってゆる体操で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ゆる教会以降のゆるゆる棒時代の先駆けと
なったメソッドでもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいいメソッドがありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
いぇい
俺はある地方の進学校(公立)の出身で、うちの高校は現役の東大京大入学者をぼちぼち輩出していた。俺の仲間でも現役合格した奴がいたが、そいつが特別に猛勉強していたかというとそうではない。まぁ俺の見えないところで勉強していたのかもしれないが、高3の12月まで学校帰りは週1で野球→カラオケ。昼休みはサッカーしてたし、予備校は俺と同じで週1だったことは確かだ。少なくとも中学は俺より成績が悪く塾にも行ってないことは知ってる。
ここで「学歴高い奴の方が自頭が良い確率…」とか言うつもりはなくて、有名私立の中高一貫校で6年勉強して1浪2浪で同じ大学入ってる奴ってなんなの?と思ってしまう。だって公立高校よりはるかにカリキュラム整備されてて、教師の質も高いんでしょ?多分予備校も行ってるし。
タタとかインフォシスとかウィプロとかサティヤムとか、インド系のSIerの進出著しい。少なくともグローバルで見れば、彼らは「勝ち組」なんだろう。
でも、グローバルなんとかとやらがその実アメリカン、それもモルスタ系WASPとかゴールド萬系ジューイッシュとかがたった2年のMBAカリキュラムで学んできた範囲の狭い理論に基づいているのは今さら俺が言うまでもない。
そして、そこで必ず出てくるつまらんフレームワークにハメ込むのが得意なのが、ほかならぬインド系の連中だ。インド系ということで、周辺のバングラとかスリランカとかも(もしあるんだったら)含めてしまっていい。
そういう型通りのビジネスを愚直にやる姿勢、それは過去に日本の製造業も歩んできた道だ。高度経済成長期のようななーんもない時代だったら、そのやり方も成功の余地があった。
でも、このモノ余り、カネ余り、均質化の時代で企業各社はどうやって他と違うことをやろうかとアタマを抱えてるときに、型通りのことをやるしか能のないインド系はまったく使えない。簡単に言えば、気が利かない連中だ。
そういうインド系は、少なくとも今の日本には要らない。日本企業が求めているのは、自身が問題を抱えているときに根源の理由を見つけそれの解決に現場と汗水垂らして頑張ってくれるヤツだ。インド系は、そういうシゴトは今だ残るカーストの下層の役割なんだろう。
もちろん、現場で汗水流し頑張ることは、日本人労働者でも今や下層の役割にあるとされる。でも、彼らの利点は、問題解決というゴールに実に忠実であることだ。仕様でカバーされたことしかやらない、仕様外のことが出た途端に費用を上乗せすると言っても対応しないインド系は要らない。
冒頭で挙げたインド系企業群が、IBMとかNECとか日立とかがやっているようにコンサル業務を拡大させると言われている。まったくもって馬鹿馬鹿しい。機械がガンガン音を立てる現場じゃなく空調の効いた快適なビルの一室で鉛筆ナメナメしながらフレームワークをイジってるかと思うとアタマにくる。そういう連中、あるいはそういうキャリアパスを描きながら日本に大挙押し寄せようとしているインド系は回れ右でクニに帰れと言いたい。