サッカーは、どこでも誰でも楽しめる、身近で親しみやすいスポーツだ。ところが、トレセンというシステムが、純粋なスポーツの楽しみ方を歪めているのではないか。トレセンは、地域のサッカー文化を牽引する役割を果たすべきものだが、今やその役割が偏った方向に向かい、「特別な才能を持つ子どもだけ」を選別し、他を排除する場と化してしまっている。
トレセンが掲げる「才能の育成」という美名の裏にあるのは、特定の基準に当てはまる子どもたちを集め、技術を磨くことだけに焦点を当てるという選別的なアプローチだ。確かに、トレセンに選ばれた子どもたちは、技術を磨き上げる環境に恵まれる。しかし、そのシステムが真に「サッカーの未来」を支えているのかと言えば、答えは違う。なぜなら、トレセンに選ばれた子が必ずしもプロになっているわけではないからだ。
私たちが目指すべきなのは、選ばれた一部の「上手い子」だけを強くすることではなく、地域全体の子どもたちがサッカーに触れ、楽しみ、成長することであるべきだ。トレセンは、技術的に優れた子どもを発掘することに躍起になりすぎて、本来サッカーが持つべき「誰もが楽しめる場」という概念を見失ってしまっている。
また、トレセンに選ばれた子どもたちが、その後必ずしもプロの道を歩んでいるわけではない現実を見過ごしてはならない。トレセンに所属していた多くの子どもたちが、その後プロにならず、サッカーの道を離れているのだ。それは、トレセンというシステムが子どもたちに本当に必要なものを提供できていない証拠ではないか?一時的なスキル向上は達成できても、長期的な成長や競技への愛情を育む環境にはなっていないのだ。
プロになるために必要なものは、単なる技術だけではない。むしろ、競技への深い愛情、チームメイトや指導者との信頼関係、そして何よりも、自分の力で困難を乗り越えようとする内なる力だ。しかし、トレセンのような「選ばれた者だけのシステム」は、こうした重要な要素を育むことなく、ただ「才能のある者」を選び出し、その短期的な技術の向上だけを求めている。
少子化が進む現代、サッカーが「選ばれた特権的な者のためのスポーツ」となってしまえば、競技人口はますます減少し、地域全体でサッカーを支える力も衰えてしまうだろう。今こそ、トレセンのような選別システムを見直し、本当にすべての子どもたちが平等に成長し、競技を楽しめる場を作り出すべきだ。
トレセンのようなシステムは、地域におけるサッカーの未来を奪っていると言っても過言ではない。サッカーは誰もが楽しむべきものだ。そして、すべての子どもが、どんな技術レベルであろうと、等しく成長する権利を持っているはずだ。トレセンの「選ばれた者だけが輝く」仕組みでは、地域のサッカー文化が深まることはない。むしろ、すべての子どもが一緒に学び合い、成長するための場こそが、真のサッカーの発展に必要なものだ。
トレセンが本当に不要だという理由は、単なる選別のシステムであるというだけではない。その存在が、サッカーというスポーツの本来の姿を歪め、子どもたちが夢を追いかける機会を狭めてしまっているからだ。トレセンを取り払うことで、初めて地域全体がサッカーを支える力を取り戻し、すべての子どもが自分のペースで成長できる、真の意味でのスポーツの楽しさが広がるのではないか?
トレセンは不要だ。すべての子どもたちが平等にサッカーに触れ、共に成長するための環境を作り出し、サッカーというスポーツが再び「誰もが楽しめる場」として地域に根付く未来を実現しようではないか。これが、私たちが目指すべき本当のサッカー文化なのではないだろうか?
独身おじさんをボールにして蹴ろうぜ ネオサッカーだ
将棋で言えば奨励会以外は将棋指しにあらずみたいな状況だろ? もう詰んでるねサッカーは おとなしく卓球でもやろうや?