本稿では弱者男性論をシステム開発のメタファーで捉えることで凝り固まった見方をほぐす事を目的とする。(特にはてなにはシステム開発に親しみ深い人も多い筈だ)
特にそれが「解決策なしの問題化」であることをまずは示したい。
弱者男性論に対する反応を見ていると、弱者の訴えや社会的な問題化と、解決策の提示がセットだと思っている様な反応に出くわすことが多い。
「つまりあてがえ論でしょ?」と言う早とちりが頻出するのもこのせいだろう。「結局何が欲しいの?」「どうしたら救われるの?」と言った反応もよく見られた。
酷いものだと「弱者男性の問題は解決できない、だから問題ではないのだ」と言わんばかりのコメントも見られた。
例えば以下のブコメ欄でも、(比較的穏当なものもあるものの)一足飛びに解決の困難さに言及し「無理だ」「意味が無い」と早々に結論付けてしまう様なコメントが多い。(増田は解決策に言及していないにも拘らず、だ)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210408101204
しかしよく考えてみて欲しい、システム開発を行う際、例えばバグ票を起票する時に「解決策」を書くだろうか?それは必須だろうか?
そう、システム開発のメタファーで考えた途端、この問題に対する視界は目薬を差したようにクリアになる。
そもそも「解決策」は必須ではないのだ。まずはバグを報告する事、問題を問題化する事、必要なのはそれである。
弱者男性にまつわる問題が実存的だとか解決困難だとか、まずは考えなくていい、まずは問題化する事、解決策に頭をひねるのはその後である。
急いで解決策を出そうとするから「あてがえ論」なんて奇論が出てくる、そんな事をする位なら、解決策はまず考えずに問題化だけしておけばいい。
解決策が無い事は、問題が無い事を意味する訳では無いのだから。
しかし「問題と解決策はセット」と人々が捉えたがる事には理由がある。単純に不快なのだ。
解決策の見つからない問題、というのは世の中当たり前にいくらでも存在するが、そうした問題を意識し続けるのは不快だ。
システム開発においてタスクやバグ等の起票はそのような不快さを問題解決のモチベーションへと変換する方法論でもある訳だが、当然それは社会問題にも応用できる。
そしてそうした社会問題に対する反応も、弱者男性問題に限った話では無い。
最近では車いす利用者の乗車拒否問題で顕著だが、問題を提起した人には解決策の提示を求める声やそのジャッジが押し寄せる事に成る。
仮にもし、件の問題に対してJR側に取れる有効な解決策が無かったとしても、それは問題が無い事を意味するだろうか?
当然NOである。解決策が見つからくても問題は存在するし、その解決策を考えるのは問題提起側だけの義務ではない。社会全体で考えるべき事だ。
社会問題を目のまえに吊るされるのは不快だろう、解決策が見当たらないなら猶更だ、けれどもそれは必要な不快さであり、性急に解決策を求めて「無理だ」と結論付けるべきではない。
「しかしそうは言っても、女性差別等の差別の方が問題だし、リソースは有限だ、解決策の見当たらない問題は無視するしかない」と思う人も居ると思う。
そういう人には、弱者男性問題は今から未来に求められる事になるアップデート、だと考えて見る事をおすすめする。
例えばフェミニズムはこれを女性差別や偏見を解決した3.10まで持っていこうとしている。
そして3.10から更に弱者男性の問題も(今はまだ誰も思いついていない方法で)解決した4.15があると考えて見る。
フェミニズムのやりたい事は2.10→3.10のアップデートだ。
そしてその延長線上には3.10→4.15のアップデートがある。
どうせいつか求められる事に成るアップデートなのだ。(時が進めば3.10も「古臭い価値観」に成ってしまう)
「2.10→4.15のアップデートは飛ばしすぎだ、リソースが足りない」という意見は分かる部分も有る。しかしだからこそ、来たる3.10→4.15のアップデートに備えて、「弱者男性問題」というバグ票を起票だけしておくのはどうだろうか?
3.10→4.15のアップデートはまだ未来の話かも知れない、しかしその問題を今から捉えておく事は出来るし、早めに起票しておく事にリスクは無い筈だ。
振り返ってまとめると「弱者男性」というラベルで示されたものが、文字通りの「弱者」「男性」のことを指しているのでなかった、というのが今回の騒動。