あまり認めたくない話の一つなのだが、人間には感情というものが存在する。
例えばデブが服屋に行った時に「デブは着れる服が少ないんだからこーいう服でも着てろ」なんて言いながら服を差し出す店員なんていない。「身体のラインが柔らかい人はこんな感じの服が似合いますねー」とかなんとか、外敵から種を守る綿花のように、或いは訪れた人間の脂肪のように柔らかい言い回しを必死に探しながらサイズが大きくて身体のラインが隠れる服は無いものだろうかとサーチして少しでも小気味よく服屋を後にしてもらおうとするだろう。言ってる事は同じで事あるにも関わらずどうやらこの違いは心象というものに大きな影響を与えるらしい。
商売に限らず人間関係というものにおいてネガティブな言葉なんぞ使うべきではない。そんな文明人にとっては真夏の晴天に太陽を見るより明かな不文律を物ともしない人種がいる。それは殊職場というコミュニティに存在し、そうでなくとも度々見掛ける事がある「良かれと思って人に辛辣な事を言う人間」だ。人の落ち度や欠点を孔雀の羽のように押し広げながら恫喝しそれを悪びれもせず虫を潰して遊ぶ子供の如くくりかえす。そんな人間がこの世にはテーブルコショウの瓶に入っている胡椒の粒程度には存在する。
これが頓珍漢な事を言ってるならまだマシでコミュニティから駆除の対象になるだけであるのだが、鯵刺が魚を捉えるが如く寸分の狂いも無く正論を叩きつけてくる人間がいる。得てしてそういう人間は、本人は「デキる」人間であるが為にコミュニティの地位も高く、対して言われた方はぐうの根も出ない状況に追いこまれ雨風に晒されるトタンよろしく初めは徐々に、やがて一気に錆が回ってくる。
この手の人間への対処法として、よく「見返してやれ」という意見が存在する。非常に前向きな意見であるが、それは人参を吊されて延々と走り続ける馬の如く愚かな行為である。仮にその過程の上で一定以上の実力を得て相手を「見返せた」として、その相手は「アイツは俺が育てた」というハウステンボスもびっくりの花畑を咲かせそれを自身の成功体験にしてしまい、また別の人間に「教育」を施し悲劇の再生産が始まる。成功体験がある以上その過程で心が折れた人間がいたとして「使えないヤツだった」と思うだけでそこに自らを省みる思いは存在しない。
一つだけこれを回避する「見返し」かたがある。それは相手を凌駕する実力と地位を身に付けた上で「私怨」を報しめながら自身のやった事を反芻させ相手のコミュニティ地位を下げる事である。修羅を狩る物はまた修羅にならなければいけない。だが概ねの場合そうはいかないだろう。それまでその人物がそのコミュニティにいたということはその存在は許容されている訳であるから、「余計な騒動を引き起こした」という事で自身のコミュニティ地位も一緒に下がる事を覚悟しなければいけない。コミュニティに全体に対する寄与と差し引いた時の総評がどうなるかは場合によりけりだ。
これが頓珍漢な事を言ってるならまだマシでコミュニティから駆除の対象になるだけであるのだが、鯵刺が魚を捉えるが如く寸分の狂いも無く正論を叩きつけてくる人間がいる。得てし...