2019-05-29

登戸川崎殺傷事件容疑者気持ち想像してみた

この記事は決して容疑者擁護するためのものではありません。

ですが容疑者気持ち想像することは同じ様な悩みを持ち孤立する人の犯罪を予防することにも繋がると考えます。わからない、怖いから、キチガイから近寄らないようにしようという思想だけではまた似たような事件は起こるでしょう。私たちは少なから社会の中で生きている一人であり、そう考えると容疑者犯罪に至らしめ尊い生命を失った当事者でもあり、予防するためには何ができたか考えていかなくてはなりません。

容疑者は51歳、80歳代の両親と暮らしていました(修正:指摘あり。同居はしておりません)?経済的理由かそれとも両親の世話が必要だったのか推測するしかできませんが、彼が自立して自由生活することは何らかの理由で阻まれていたのです。家族間で何らかの柵があったかもしれません。

ある程度の年齢を重ねた人間の自立に対して世間の目はシビアです。「なぜいい歳して一人暮らし結婚をしていないのか」と当たり前に口にする人はたくさんいます。そういう価値観の人々と共に暮らすことは彼にとってはたしてどんな思いだったでしょう。そしてそれを同じ視点共感して聴いてくれる友人知はいたのでしょうか。

何らかの理由で死にたさを抱えた容疑者である彼は住んでる場所から離れ登戸へ向かいました。なぜ登戸かは不明ですが、もしかしたら家で自殺したい気持ちもあったかもしれません。もしかしたら電車飛び込み自殺を図ることも考えたのではないでしょうか。誰にも自分の思いを悟られず、受け入れられず、自分が独りでできる社会への報復...それはテロ動機と似ています

テロ思想があったかはさておき、彼は彼の存在証明たかったのかもしれません。これだけ過激なことをしないと誰にも目を向けて貰えないという社会への絶望感と怒りがあったように思います

そこに目に入ったスクールバス、そこで待つの私立小学校に通う裕福で将来有望存在、羨ましい。なぜ自分は自立も叶わずうまくいかない人生なのに、産まれ環境に恵まれて充分な教育を受けて当たり前のように自立していく、そんなあらゆる貧困連鎖垣間見たのではないでしょうか。

それが被害者に向けられるのはもちろん許されることではありません。だけど彼が行き場のない孤独を抱えていたことは否定できないのではないでしょうか。運や環境と、自助努力自己責任論が蔓延する中で弱者側に立たされてしまう人々の苦しみや悲しみを理解するのは社会で生きる私たち一人一人の責任です。

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