2018-11-30

なぜ浦沢直樹風呂敷が畳めないと言われるのか

次の文章 浦沢直樹先生は風呂敷を畳めない訳じゃない、あまりにも「序盤力」が高過ぎるんだ: 不倒城 についてだけど、

浦沢直樹風呂敷を畳めない訳じゃない、という点には同意する。

でもこの文章、結局は、浦沢直樹風呂敷を畳む能力が(序盤力に比べて相対的に)劣っている、という趣旨だ。

でも「浦沢直樹風呂敷問題」?のポイントは、畳む能力のあるなしや能力が劣っているかどうかにはないと思うのだ。

浦沢直樹は、風呂敷を畳めないのではなく、そもそも風呂敷を畳むことが面白く魅力的だってことを本気で分かってないのだと思う。

これは個々の浦沢作品からも感じられる。

Monster』は、やろうと思えばできるはずの説明すらほとんどせず

(テンマに会う直前までルンゲ警部真相に気づいてなかったと思ってる人、けっこういるよね?)

そこを素通りしたまま物語の終幕を作ろうとするから肩透かしをくらう読者を大量に生み出すことになる。

ちなみにインタビューによると『Monster』のテンマとヨハンの結末は最初の段階で決まっていたとのこと。

知ってて読むと確かにそこに収束していくようなストーリーになっている。

(この辺りは宮部みゆき比較するといいかもしれない。宮部みゆき真相が明らかになるのとは別の場所クライマックスを作る作家だけど、

からといって読者への説明手続きおこたるわけではない)

マスターキートン』も、

この人は実はこういう人だったとかトリック動機はどうだといったことが結末やその付近で明らかにされることが多くて、話の構造ミステリに近いのに、

実際にマンガを読むと、そうした事実真相の開示や説明といったミステリ手続きがすごくあっさりしていて、

それ以外の部分に力とページが割かれている(『マスターキートン』の場合は逆にそれが多層的かつ独特の面白さを産んでいるのかもしれない)。

風呂敷を畳むことの面白さに鈍感なのは、浦沢の次の発言からも窺われる。

ミステリーやサスペンスカタルシスって、ぶちまけているときなんです。

それを収束させるのはむしろまらない作業

おそらく横溝正史はそれをよくわかっていたんでしょう。

からその部分を金田一耕助に負わせて、最後に語らせることでとっとと終わらせたんだと思う。

おまえは横溝正史をまったくわかってないな、と言いたくなるのは置いといて、

横溝正史すらそう読んでしまうくらいに、彼は風呂敷が畳まれることの楽しさに極めて鈍感冷淡なんだと思う。

ただ浦沢直樹に限らず、謎の解決収束に重きを置かない創作者はけっこういる(マンガより小説分野に多い気がする)のに、

なんで浦沢直樹がことさら風呂敷が畳めないと言われるのか。

というとそれは浦沢直樹が、物語を分かりやす説明して収束させる、というエンタメの基本手法はとことん冷淡なのに、

その一方で、次回への引きはすごく重視していること(これもインタビュー発言あり)が原因だと思われる。

浦沢直樹は、『Monster』以降、ミステリーやサスペンス成分の強い長編が増えたわけだけど、

そういうタイプ作品で強い引きを作ると、読者としてはそれに見合った説明収束を望むことになる。

なのに浦沢本人は相変わらずそうした部分に冷淡なままだから風呂敷畳みに魅力を感じる多くの平均的読者は繰り返し落胆することになる。

今でも長編中の短編エピソードなんかについては高く評価する人が多いのも、短編で終われば引きによって生じる無用の期待を読者に与えないからだろう。

Happy!』のような作品をねらって意図的に描ける人だから

風呂敷を畳む部分にも力を注いだ作品を(浦沢本人が感じるカタルシスとは無関係に)作れると思うのだけど、それを求めるのは無理な望みだろうか?

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