今話題のkaawngo氏のプレゼンによって、ハヤオ・ミヤザキ氏が叱責をした。という内容のニュースが賑わっていますが、
とある絶望、というのは世間に対するものではなく、あくまで私自身に対するもであることを、
先に言っておきます。
私自身はあのニュースを見て、Youtubeの動画を見て、kawango氏はある意味技術屋、研究者という立ち位置(それが生み出している本人か、ディレクション側か、統括なのかというポジションではなく、どちら側か?という話しで)にいる人は、こういった少し常識を外れているものを発信し続け、その結果として、表現者という立場のハヤオ氏が、それをどのように扱うか、というだけの話しだったように思う。
それを障害者に失礼という言葉で叱責したのは、その枠組から外れた、あくまでハヤオ氏自身の個人的な見解であって、kawango氏にとっては「相手が悪かった」という感想しか浮かばないわけである。元々kawango氏が「障害者の動きを作りました!」というなら今回のような周りの反応になっても納得できるのだが、そうではなく「AIが生み出した動きの面白さ」というもの自体を提供したのであって、それを「障害者をバカにしている」というのは、果たしてどうなのだろうかと。「障害者を連想させるかもしれない。実際に私も少しそう思ったし、知人を連想した。だから採用は難しい」という反応なら納得できる。不採用の理由ではなく、叱責の理由としてというのは納得が出来ない。という意味である。
それに対して周りの反応がkawango氏自身の性格やそもそもの人間性がこういうものを生み出した。というコメントが多いように思ったし、kawango氏が悪いという感想が多いように感じてしまった。(ニュース媒体がその方向で記事を書きそれに乗っただけかもしれないけど)
そこで、ここから私の気持ちの動きなわけだけど、要は私は他の人がクズとかあり得ないとか、だめと思っている感性を正しいと思ってしまっている事にある。
人は多種多様な考え方があるからそれはそれで良い、のは確かだけど、私自身が人によっては非常識人たりえる可能性があると知っただけで絶望してしまったのだ。私はなんてダメな考え方をしてしまっているのだ。というような。
その結果どうしようとか、どう変わったか、なんて事は特にはない。あればブログに書いてるし、無いから増田でチラ裏してるんだけど、
世界と自分との差を感じたような気がした。もちろん悪い意味で。
HPが赤ゲージまで減ることはもちろんないけど、クリティカルヒットの表示は出てしまったのだ。
あぁ、世界よ、こんな私でも生きて良いと受け入れてくれたまえ。