テーマは何でもいい。
好きな作品、映画、漫画、テレビ番組、学問、スポーツ、芸術なんでもいい。
今、インターネットという不特定多数の人間と匿名性のあるコミュニケーションを取ることができる時代になった。
誰が書き込んだのかも分からないし、数年前の発言だってログさえあれば聞くことができる。
時間と空間を超越し、誰が発信したのかも分からない情報のやり取りはおよそ現実世界で行う会話とは異質なものである。
もちろんリアルタイムの交信形式も存在するがそれは現実世界の知り合い同士のコミュニケーションの延長線上に存在するものである。
おおよそ、インターネットが存在しなければ交信しあうこともない莫大な数の人間と接触することができるが、
人間性を形成するために必要な多くは現実世界においてのコミュニケーションであるということは未だ代わらない。
そういった背景を元に様々な価値観がインターネット上では入り乱れる状況になっているが、
得てしてマクロ的な環境ではマジョリティがもっとも大きな力となる。
作品が好きな人と嫌いな人、どちらがより多いのかということに興味を持つ人間も多いだろう。
それによって自分の価値観の選択範囲を広げることもあるだろうが、
逆に狭める結果になっていることに気付いている人間はまだそう多くはないと考えている。
勿論テーマによるであろう。
例えば"人を殺すことは良いことか?"という問いに対してまともな常識人ならば悪いことだと答えるし、
自分の今まで持っていた価値観を放棄してそれに順応することはできないだろう。
それはその者にとってその価値観が他人から環境から否定されても譲ることのできないものだからだ。
人は自分の中に必ず神を飼っている。
そしてその神は自分で作り替えることができるし、環境にも影響を与え、それと同時に環境によって影響を受ける存在なのだ。
タイトルについて話を戻そう。
それを顔も知らない他人の評価を参考に簡単に規定してしまっていいのだろうか。
環境に左右され続けていくことを根底の価値観にするのならば、それも悪くはない。
しかし、自分が長いものに巻かれていることに気付かずに他人に死ぬまで書き換えられ続けるのも不幸だと考える。
それは人間が生きてきた環境というのは個人ごとに違うものであり、
染色体の違いやフィジカル・メンタルの違いによって必ず違う形を求めているはずだからだ。
それの根底的な欲求を濁らせる同調意識や長いものに巻かれる行為を自覚しなければ永遠に良くも悪くもないぬるま湯に浸かったままでいるだろう。
他人から言われて揺らぐとしたらそれは本当に求めているものではないのではないか。
なら何を自分は求めているのか。
一度正面から向き合って話をしてみてほしい。
周りの人間が人殺しを日常的にしていたとしても、自分の今まで持っていた価値観を放棄してそれに順応することはできないだろう。それはその者にとってその価値観が他人から環境か...
無知の知
内面化してるおまえが悪いという説教するマンよくいるけど内面化をやめても外的環境がそういう視線を持ちつづける以上認識を変えようが追い込められるのは必然だろ