自分はこれに該当するのではないかと思った。
素人の勝手な自己判断なのでそうと決まったわけではないのだけれど
ネットでの記事をあれこれ読んでいると自分にも当てはまる箇所がある。
人との関わりを持たないという点に関しては
両親の教育方針も大きく影響しているのかもしれない。
今思い返してみるとただの毒親なのかもしれないと思う。
勉強にしろ、スポーツにしろ、遊びにしろ、その邪魔をするなと。
要はそれが自分にとっては人と関わるなというメッセージになっていた。
誰かが何かに熱中している時は「何それ楽しそう、混ぜて」という子供ではなかった。
そういう時は邪魔をしないように一歩引いて見るだけだった。
病気になった時などは「お前のせいで行かなくてもいい病院にいく羽目になった」というようなことは言われていた。
不可抗力なことに対しても両親は容赦なかった。
その時のことはトラウマになっていて、今でも電話の音やインターホンが鳴ると心拍数があがる。
それに対する両親の対応も「お前が電話なんか取るからだ」というものだった。
それでも両親は常に「お前が余計なことをするから問題が起こる」という態度で何も話が進展しなかった。
無視される経験は子供ながらに自分の言動が相手に何の変化も起こさないことを思い知らされた。
次第に自分の主張をすることはなくなっていった。
流石に両親も何も欲しがらなくなった自分を見てやばいと思ったのか
「お前の好きなもの何でも買ってやるから言ってみろ」と言われたことがあった。
しかし、自分の意見は全否定されるのだから、こういう場合何を言うべきか分からなかった。
「いや、ないよw」と笑うしかなかった。
当時は両親が何故困った顔をしているのか分からなかった。
両親の希望通りに何もしていないのに何がいけないのか。
普通の人には世の中は可塑性に満ちているのかもしれないが
自分の行動で他人の生活に変化が起こってはいけないし実際に何も変化しないという脅迫観念のようなものがある。
人に興味もないことはないが世の中のことに変化を起こしてはいけないのだから
学生時代は好きな異性が他の人と付き合って別れてというのを眺めているだけしか出来なくて胸が引き裂かれる思いがした。
そういった感情もネジが切れるように、余りに過ぎると正常に機能しなくなるような気がする。
相手が変化しない程度の接触しかないので話すことは至って平凡だと思う。
気になる異性と二人っきりで話す機会があっても「今日は良い天気ですね」くらいしか話さない。
学生時代は何かと「冷たい」とか「無関心」「いい加減」「見下してるんでしょ」などと言われていた。
こちらからは何も出来ないので言われるがままだった。
自分はこう思っている、こういう考え方というセルフイメージがあるが他人から見ると全然そう見えないらしい。
話さないから分からないものだろうなと思うし、それを訂正するつもりもない。
大人になり、仕事も覚え、いい歳のオッサンになってしまったので干渉される機会もなくなった。
やっと自由になった反面、もう自分の人生の可能性は何もかも無くなってしまった。
知識も多少は増えたので、振り返ってみると人生もっと楽しめたはずだったのになぁと思う。
あんな事したかったなぁ、こんな事したかったなぁとか、あの人と話してみたかったなぁとか。
残念だなぁと思う反面、何事も起きなくてホッとしている自分もいる。
後悔くらいなら許されるだろう。