はてなキーワード: 教育学とは
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
「教育学とか史学とか民族学とか文化人類学とかそれ系」に関して言うと
前提が多いのはかまわないのだが
それ系の論説を読むと
クセジュにまみれて論説ヵ所が埋没していたり
話が横道にそれて私的なことが書かれていたり
そもそも主張したい内容が不明であったり、結論がなかったりするのをよく見かける。
そう言うのを見ると残念な気持ちになることはある。
そう言ってもらえると多少は救われた気になるけれど、複雑な気分だな(増田は違うみたいだけれども、経済学や法学への不信を口にする理系人はやはり少なくないし、後者の学問はダメって言われているようなのもちと悲しい)
自然科学は入り口程度の知識しかないけれど、それでも自然な法則をほんの僅かな式で綺麗に表現する手法は本当に凄いし、物事を明晰に分析してみせる理系の知人のことは尊敬しているよ(だから、文系的センスのみで理系を切って捨てる人間には嫌悪感を感じる)。
文系の人間でも確かにそういう感覚は理解できるのだけれど、そのことと価値を混同した話をする理系の人が居て、「勘弁してよ」と思わされることはあるなあ。例えば近代史なんかを語る時、前提として知るべき情報量が多くなるのは仕方がないことだし、その文脈を把握すること無しに変にして解釈されたら恐ろしいことになる、ってことが伝わらなかったりするのは凄くもどかしい。理系の人が文系的分野を「モデル化」するとき、時として演繹的判断が行き過ぎているように見えるのは分かってもらいたいな(もちろん、それは理系の人全てが陥る罠ではないけど)。
文系・理系は車輪の両輪のようなものだと思っているので、出来ればほんのちょっぴり我慢して、文系の世界も理解してもらえたらなあ、といつも思ってる。
応用を無視して理屈だけこねくり回してたい人はいるわけで。
ただ純粋理学は自然の性質を解き明かすっていう恩恵があるのに対して、
職種によるんじゃないかな?
自分は工学だけど、多少は役に立ってるし、医学や法学は、医師や弁護士には十分役立ってるわけで、同じように、教育学も教員の役に立ってほしいのだけれど、現状はそんなに役立たずなのか。
何でだろうね。教育学の学問としての歴史が浅いのか、そもそも教育はさほど重要じゃないから、リソースを割いてもらえないのか。そんなんで良いのかね。
http://anond.hatelabo.jp/20080625232654
それはそうなんだろうけど、
分数の割り算、の一番わかりやすい教え方、とかを習う機会はない。
それらの教え方はそれぞれの裁量次第、というのが現状。
とか
その授業が役に立ったということは一切無い
とか、それこそ「マジで?」だよ。
効果的な教育方法とか、その理論とか、基礎から応用までの系統立った物がないわけ?
一体何を研究してるわけ?
わかるけど、その「教育学」ってのは具体的な教え方の役には立たないのかと。
学校毎に生徒毎にそれぞれ違うとか、分数の割り算の教え方なんていちいち教えてられないとか、それはそうだけれど、座学でまなんだ背景にある学問としての体系と、実際の現場とを結びつけるのが実習じゃないの?
とか思うわけです。
国立と私大でだいぶ違う。
国立の方は旧師範学校のノリを残しているから、教師育成メインて感じね。
大学によっては教育実習が4週間×3回とかある。詳しくは知らない。
学生も、普通の学部よりは教員になる率は高いかも、くらいの程度。
実践的な科目は少ない。
ただね、教師になる前に教育学やっとくというのは、教育の原罪的な面を知るのにいいかも知れない。
基本的に今のシステムは教員養成を専門学部に限定しない「開放制」てやつで、
元増田がよかったと思えるような先生をなるべく増やそうという狙いがあるよね。
そううまくはいかないんだが。
カウンセラーから「機能不全家族」「アダルトチルドレン」というキーワードを投げられた俺はありったけのアダチルに関する知識を掘り起こしたわけだ。
これまで鬱病だとか、不安障害だとか、いろいろ言われたけどさあ、思い切ってこじ開けてみたら家庭での心的トラウマの宝庫よ。
機能不全家族って言葉を初めて知った。教育学勉強してるくせに。
アダチルも思ってたイメージとは違ってた(家帰ってウィキペった)。
児童心理学で勉強した「ヤングアダルト」が思い浮かんで「アダルトチルドレン」とごっちゃになってやがんの。
おいおい人格障害の一種かよ。症例がほぼマッチングよ。まいっちんぐマスダ先生よ。
いかれた家庭のいかれたエピソードを延々と話すカウンセリングの60分。
家族病理だと!?俺はあんな家族と関わりたくないんだ!あ、それがだめなのか!
抑うつ状態から急に快活になった。霧が晴れ始めたんだと思う。
自分の状態が掴めるってなんと素晴らしきかな。
なーんだ、だから少しの失敗でびっくりするほど気分が鬱屈するのね。
ほんでもって、対人不安が人一倍高いのも納得だわ。
はははははははは。俺はアダルトチルドレン。今日もお薬飲みましょう。
ごっくんごっくんごっくんと。
「苛めた人」の中に100%の悪がある、って説明は、単純すぎて現実に即さないとオレは思う。
たとえば、「最終的ないじめの実行者」の背後に、「それを強制した人(黒幕)」がいるとすればそいつは明らかに実行者よりも悪だよね。
じゃあ、集団のノリで誰かを「からかう雰囲気」ができているときはどうなの? あるいはその「からかわれる雰囲気」を察知してその人が自分以外の誰かをターゲットにしようと動いた場合は? その場合に周囲がソレを見て引いてた場合と必ずしもひいてはいなかった(そのノリについていく雰囲気はあった)場合とでは? 苛められることが分かっていて集団に自分から入っていく人もいるよ。なぜなら「それ以外の人には最初から無視されるから」。ある集団で「ネタにされる」方が「無視される」よりずっとマシだから、イジメと分かっていてもそれを甘受する、その人が甘受することに甘えて集団のいじめが加速する……結果ひどいイジメが発生する、なんてことも現実にはよくある。そういうケースでも「最終的な実行者が100%悪い」で済ませていいんだろうか。 イジメの現場では最終的な実行者がくるくる変化することだってある。画に描いたような分かりやすい「いじめっ子」がいて「いじめられっ子」がいて…というような単純なものではない。たとえば、最終的には自殺した「いじめられっ子」というのが、実は先月まで誰かをひどく「いじめて」いた「いじめっ子」だったせいで、今度は自分がハブられて自殺…なんて場合、本当に悪いのは誰なんだ?
集団力学、社会学、心理学、教育学、哲学、その他諸々の議論がきちんとなされないと、「いじめ」を解決するには至らない。分かりやすい「悪」を見つけて叩くというような稚拙な正義感の発露は、それ自体として否定するわけではないけれど(元ブログのように叩く言い方はやりすぎだろと思うからああいうエントリを自分のブログでやろうとは思わないが)、少なくとも「問題の解決」を真摯に行おうとする努力を静かに見守るとか応援する方向で発揮されるべきであって、特定の「悪」をリンチするような「雰囲気」作りをするのは、余り良いことではないと思う(それが元ブログの意図だったとすれば、それは理解できる)。
自分のために要約。
僕は塾講師や人に物を教える立場に立とうとしている人間です。教育についての疑問で、できるだけ同じ立場にたったことのある人や深く考えたことのある方にお聞きしたいです。
私は、幾ら頑張って教師が教えても生徒自身の質が悪ければ学問は身に付かないと考えます。
そこで、私は勉強を考えるときに、シリアスに「何故分からないのか」を考えるよう追求します。
しかしそれが幾ら私が「真実に思う」こととは言え、こういった考えを生徒に押し付けてよいものなのでしょうか。
こういったことは教師は無関係にするべきでしょうか。
教える際はどうしても個人の主観が入ってしまい、特定の思想の押し付けになってしまうような気がします。
現代の教育学ではどう厳密に議論されているのでしょうか。
一言に「教える」といっても認識には様々な要素が絡んできます。
「出来ない」を単に「頑張らない」のせいにせずに、ちゃんと論理を持って考え指導したいと考えています。
私はそういった考えが「生徒のためになる」と考えるのですが、逆にいえば個人の価値観を押し付けることにならないか不安です。
一般的に教育の理想の価値観など既に存在するのでしょうか。何か情報などありましたらお知らせください。
因みに、まだ現場では教えていないです。
以下自分の意見。
もう結構前から、小さい頃から「煙草はダメだ」って教育学校とかでもされてると思うけど。悪友にそそのかされる年齢なんか特にそういう注意やるじゃん。そういう注意を受けた上で悪友にそそのかされたなんていってもなあ。
裁判官や警察官の冤罪判決や誤認逮捕・逮捕後無罪における刑事責任と民事責任、行政過誤、教育過誤に対する責任
以上のようなことを踏まえてご意見を伺わせていただきます。ここに当事者がいらっしゃるかは分かりませんが、一般人の意見としてでも構いません。
質問があれば伺わせていただきます。宜しくお願い致します。
尊敬に足る実績を過去残せていない教育学も問題なんじゃねえの。ま、人文系の学問って、実は大半が社会的影響という「実績」を残せてないわけだが・・・。
いじめの温床になる「ぬくもり」とか「ふれあい」とかいう同調圧力重視のイデオロギーがまだまだ根強く残っている現状があって、ろくでもない教育学会の大御所が死滅するまでまだ大分かかりそうだったりするので、そんな恐ろしいことは考えたくないなぁ……。
http://anond.hatelabo.jp/20070313112314
医学の世界に全くのド素人が口を出すことだってしょっちゅう。自分の世界だけ特別だと思っている時点で論外なお子様。
だが、一般人のクソ意見なんて、全く話にならないし論理性の欠片も無く、根拠なんて意識すらされていないことばかりなのは同意。
だけど教育学者や日教組の意見や方針も全く話にならないことも少なくないよな。
文系人間は「科学的根拠」ってモノが理解出来ないらしい。科学的根拠の欠片もない意見で方針を決める。アホかと。
「ある国ではこういうときにこういう方法でこうなりました。それが根拠です。」もうね、どこまでアホなのかと。
http://anond.hatelabo.jp/20070313112314
これ、実によくわかる。
ブクマコメントにも書かれていたけど、教育というものは誰もが経験する――最初に教育される側、のちに教育する側として――が故に、誰もが教育について語ってしまいがちになる。しかし、「自分が語っている教育とは何なのか」については、案外みんなよく知らない。教育学をかじったことのある身としては、そういう「よく知らない」人たちの話が聞くに堪えないことはよくわかる。
だがしかし、だ。
「せめて教育六法読んでから出直して来い」、「そういう話がしたいなら学問的なルールの上でお願いします」というのは、ちょっともったいないんじゃないかな。
もったいない理由は次の2つ。
(1)「**でなければ語る資格はない」という言説になってしまっている。
この場合は、教育を語るには教育学の基礎知識がなければならないという議論になっているのだが、果たしてそのようにして語る資格を囲ってしまってよいのだろうか。
確かにうんざりするような主張は山ほどある。でも、それだって立派な意見とは言えなくても情報資源にはなる。なぜそういう主張が出てくるのか、それらをどう手当てすればよいのか、考えるニーズとヒントがそこにはあるはずだ。
あなたが教育学の素養を持っていて、議論の相手が教育学の素養を持っていないとしたら、ここには知識の不均衡がある。つまり教育へのニーズとチャンスがあるわけだ。ならばあなたは相手に教えることができるし、そうすべきなんだ。相手の主張は教育学的にはどのように問題なのか。教育学の世界は世の中の問題をどう捉えているのか。そういったことを、噛んで含めるようにして教えていく必要があると思う。ほら、医療の世界でも患者への説明が求められてるでしょ。あれと似たようなものです。
相手の視野の狭さを嘆くのなら、もっと見晴らしのいいところに連れて行ってあげればいい。それはとても難しいし、うんざりしそうになることだけど、やってみる価値はあると思う。
教育学を知らない一般人と話すのは疲れることだろう。でももし「教育六法読め」なんて突っぱねられたら相手はどう思うだろう。それこそ「俺たちの感情も経験も知らないで、ホーリツやらガクセツやらにかまけて、その上俺たちを見下しますか? 誰がそんな奴の話聞くかよ」って、ますます話を聞いてもらえなくなるだろう。そして、教育にまつわる居酒屋談義が続くことだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070313112314
その中でしかモノを考えられない人だけで考えると、
ゆがんだものしか出来上がらないからじゃないだろうか。
教育学を突き詰めたい人は、
教科書に書いていないいろいろな事が必要なんじゃないかな。
ウンチクたれたいオヤジよりもそれらの面においてすべて勝っているなら、
おまえの言い分もわからなくもないが。
その絶望は良く感じる。何で教育だけは居酒屋談義で決まるのか。
みんな自分が受けてきた範囲だけの教育をベースに考え、賛美したり罵倒したり。あまりに居酒屋談義で決まるので、俺は日本には教育学とか存在しないのかとある時期まで本気で思ってた。そんなに発言力無いのか、教育学。
一部以外は皆素人の上に、受けた教育、あるいは教育から受けたモノが釣鐘の外れ値みたいな人間が雁首並べてる。研究所の所長に作家、文学者、企業の会長、劇団の団長などなど、専門家でない上に素人の代表すらできない人々。薩摩焼宗家十四代って何がしたいんだっつの。ホントにそいつらが「教育に対する識者」なのか? どういう基準だよ。
まったく何故なんだろうな。幅広い層からの見識をという思想なのかもしれないけど、その前に専門家の議論を尽くしてくれと毎度思う。思いつきベースだからこそ朝令暮改モードにもなるんだろうしさ。
数学科のひとに、数学でケンカしたいと思いますか?法学部の人に、日本の法律についてウンチクたれたいと思いますか?
……なんで教育学部の人に、教育に対してケンカを売ろうとする人が多いのだろう、と思います。居酒屋レベルでないところで教育についてウンチク垂れたいなら、せめて教育六法読んでから出直して来い。社会教育と学校教育と生涯教育の違いくらい自分で定義できるようになってから文句を言え。
教育学部にいると、最近の教育に対する不平不満をなぜか「分かってないお前らに俺が教育してやる」といわんばかりの上から目線で、まるでそれが世界の常識のように語る人がいるのでうんざりします。