はてなキーワード: 感情移入とは
「匿名」のコメで、書いた記事に対していろいろな意見を頂きました。投稿してくださった名前も知らない方々、ありがとうございます。
さて、「萌え」を扱う作品というのは、個人の感覚や感情に負ってる部分がものすごく大きいものなんですよね。はっきり言うと性衝動(笑)さらにはそれを可能にするため、ある種理想とも言えるモジュールを集め、デフォルメし、個人の感情移入がしやすい舞台設定を作ることで最適化している。んで、オレはこのように萌えている、その理由はこうだ、だから問題はないという風にね。いろんな文化論込みでコメ書いてきた人たちも、結局はそこに終始してた感がありますしね。やっぱりこれしかないか、と。
こういう個人の欲望というか情念をたくみに汲み取って、それに最適なものをバラまき、流行させたものが「萌え」の正体だと。こう結論が出ました。なんか、いろいろ言葉で武装してみたり弁護してみても、結局風俗産業とかパチンコ屋と変わんないですね、その言い訳が(笑)これは客との情欲のもつれの上での性行為だから店は関与してない、とか、これは店の外で勝手にやってる交換所だから店はその存在すら知らないって苦しい言い訳してなんとか暗黙のうちに合法なものとしてああいうところってやってるじゃないですか?誰が見ても売春であり賭博なのにね。なんら変わりませんよ。ヤバイものなのを認めずに誤魔化してるだけなんですって。だから「萌え」に中心軸なんてないわけですよ。単なる射精産業だって認めることになりますからね(笑)こういうのが個人のアイデンティティに根ざしている、という論調がありましたけども、だから言い切れないんですよね。言い切っちゃうと自分で自分を否定することにしかならないですから。これが生き方であるし自分そのものなんですからね。だから、私にはわからなかったんですよ。えー、くだらないものはくだらないものでしょ?って(笑)なんか、マジメですよね最近のオタクは。もうちょっと疑ってみたり斜めから捉えたほうがおもしろいですよいろいろ。
『吾妻ひでお「けいおん観た。空虚だ。何もない。作る方も観る方もそんなに現実イヤか?」:アルファルファモザイク』
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51518538.html
吾妻ひでおとアニメ「けいおん」に熱中するような人たちとは相容れないところがある。アニメや漫画(あるいは映画、音楽、文学など)作品に求めるものが違うのだ。いったい吾妻ひでおのような人種は漫画などの作品に何を求めるのか?そのあたりの事を作家のカフカが実に的確に表現している文章がある。
僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませる事がないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか?君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか?いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である。本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。
吾妻ひでおの作品を読んだことがある方はご存知だと思うが、一見かわいい女の子がたくさん登場し、時には夢うつつのような世界が描かれる彼の作品は、実はあまり登場人物に感情移入をしたり作品の世界に安易に浸って気持ちよく癒されるような種類のものではない。徹底的に情緒を排し、醒めた意識によって構築された作品なのである。そして彼は基本的には、熱心なSF者らしく、今まで見たことのないような世界を作品によって作り出してやるという気概をもって創作に取り組むようなタイプの作家である。
あえて乱暴に言うと萌えアニメに感動しているのは単に(吾妻が指摘するように)フェティシズムと情緒に浸っているにすぎない。子犬が死んだら泣く式の条件反射だ。韓流ドラマに興奮するおばちゃんと一緒だ。傷つかない、ゆるふわな世界で気持ちよくなりたいだけだ。作る方にも読む方にも冒険を強要する吾妻ひでお(やカフカ)のような人種がやっている試みとは別の世界なのであり、萌えを求める人たちにとって、そのような冒険などは作品に必要ない要素なのだ。
吾妻ひでお「でも俺は描く前にもうひとつ考えるよ。マンガとは何かと。」
とりみき 「と言いますと。」
吾妻ひでお「マンガはこれでいいんだろうかということを1時間ぐらい考えて、それで明日締切りだからとりあえず描き始めるわけ。」
とりみき 「自分のマンガはこれでいいんだろうかということですか、それとも……。」
吾妻ひでお「マンガという表現がこれでいいんだろうか、まだ何かやれることがあるんじゃないか、というのを。」
『失踪するなら家のローンが終わってから』より※2
※1フランツ・カフカ著・吉田仙太郎訳(1981)『決定版カフカ全集第9巻・手紙 1902-1924』新潮社(P.25〜)
http://anond.hatelabo.jp/20091015145444
自分もそういう風に考えてた。そのときは別に明日死んでもいいやってくらい人生つまんなかった。だからそれを打開するために趣味を探した。
「趣味がない」とかでぐぐって、解決法を探しまわった。「自然に見つかるまで待とう」とか「テレビを見るとか、身近なことも趣味だよ」とか「そもそも無理して見つけるものじゃない」とか、そういう答えばかり見つかった。確かに正論なんだろうけど、そういうんじゃない!と思った。趣味が見つからないことでさらに病んでいった。
自分でもわかってなかったけど、そもそも趣味がないことが問題じゃない。人生つまらないことが問題なんだと気付いた。
そして「人生 つまらない」とかでまたぐぐってみた。「ネットばっかやってないで外に出ろ」とか「自分から動かなきゃつまらないのは当たり前、甘えるな」とか。こういう回答には腹が立った。自分から動いて外に出たってつまんないんだよと思った。
そしてまた気付いた。つまらないのが問題なんだと。なぜつまらないのか。それは楽しみ方を知らないからだ。
というところまで考えついた。で、最近どうしたら楽しめるのかを模索してる。
楽しむってのは他人とか対象と、気持ちを共有したりして通じ合うことなんじゃないかと思ってる。そもそも自分は友達が全然いなくて、それは人といてもつまらないと思っていたからなんだけど、これも単に楽しみ方を知らなかっただけなんだろうね。だから相手となるべく共有できるように、少ないながらに自分の読んだ本の話をしたり、あるいは相手の興味のあるものを自分も読んでみたりした。そんなことをしてるうちに、人といるのも悪くないかなという気もしてきた。生きるのも悪くないかなとも思ってきた。
楽器が趣味の人は、弾いてるとギターと一体化してるような心地よさを感じたりしてるんじゃないかと思う。本が読めれば人生楽しいですっていうような人も、物語の登場人物に感情移入するのがうまくて、通じ合うことをしてるんじゃないかな。副次的に漫画オタ友とか楽器弾き友とかができたりするだろうし。ライブに行くのが好きな人は、自分が好きなアーティストを好きな人が集まって、リズムに合わせて飛んだりとかで。コミケとかも同好の士がいるから楽しいんじゃないかな。こんな趣味らしい趣味じゃなくても、昨日見たテレビの話を友達とすれば楽しいって人もいるよね。
楽器なんかだと弾けるようになるための練習、自分からしなきゃならない行動が難しい。だから友達と話すくらいの、行動の要求が少ないものでいいじゃんって人もいるね。
自分も好きな歌手は1人、2人程度しかいないけど、前にその1人のライブに行ったことがあった。そこでは曲に合わせて手を振るとか飛ぶとか、観客と歌手が作り上げる空間が広がってた。でも自分は自意識過剰なので恥ずかしがってただ突っ立ってるだけだった。好きな歌手のライブなのに、終わったあと、けっこうな疎外感に襲われた。手を振らなかったから、飛ばなかったから。参加する権利はもちろんあったのに。手を振るのも飛ぶのも、難しいことじゃないのに。
自分から行動しなかったから。今まで楽しめる場面をたくさん逃してきて、ようやく「自分から行動しろ」の意味がわかった。腹が立つのは図星だからだね。
話がずれたけど、趣味、何が楽しめるかは「そもそも無理して見つけるものじゃない」っていう答えの通り、時間が経つと自然に決まってくるし、誰だって1つくらい興味を持ってるものはあるよね。でも、どうしたら楽しめるかがわからない人は試行錯誤して答えを出していく必要があるんじゃないかな。
http://www.ntv.co.jp/kiminitodoke/
これは別冊マーガレットで連載中の少女漫画をアニメ化したものだが、その内容が素晴らしいので少し紹介したい。
この物語の主人公の黒沼爽子は明るく純粋で感動屋だが、見た目が超陰気なためクラスメイトから『貞子』の名で恐れられていた。だが、風早翔太に恋をしたことがキッカケで、自分が思っていることを周囲に発言するようになり、クラスに次第に馴染んでいく。この漫画では、その爽子を中心にクラスメイトとの友情、及び風早との恋物語が丁寧に綴ってある。
思えば少女漫画は少年漫画と違って、昔から『読者との等身大感』が非常に重要視されてきたように思う。
例えば、私が小中学生の頃読んでいた『りぼん』では、『天使なんかじゃない』、『ママレード・ボーイ』なんかが流行っていて、読者が感情移入するのはもちろん主人公である女の子。男性のサブキャラクターが一部に人気を誇ることはあっても、物語はあくまですんなりと読者が感情移入できるようにと配慮され、『キャラ重視』されない漫画が多かった。また、当時はまだ少女漫画がアニメ化、ドラマ化すること自体が稀であったため、それらの作品は映像化しないで終わったものが圧倒的多数であった。
それが最近の『イケメン』ブームにより、アニメ化するのもドラマ化するのも、製作側に『とりあえずイケメンいっぱい出るやつがうけるんでしょ』と安易に片付けられ、結果、視聴者が非日常感を楽しめるように、という視点での製作が進んでいったように思う。
確かに『NANA』、『桜蘭高校ホスト部』、『花ざかりの君たちへ~イケメンパラダイス~』などは素晴らしい出来だったと思うが、何故これらの映像化が受けたのかというのを製作側は深く考えたのだろうか。少なくとも私は、フジテレビが映像化した『メイちゃんの執事』、『有閑倶楽部』は『イケパラ』の二番煎じを狙ったもののように感じられて仕方が無かった。原作者の方には非常に申し訳ないが。
もういい加減『イケメン』路線が飽きられているのも製作側は分かっていると思う。なので、なおさらこの『君に届け』がアニメ化されたこと、またその出来栄えが素晴らしいことが嬉しく感じるのである。
ただ昔と違うのは、『腐女子』や『リア充』に代表されるネットスラングともいえる言葉が、視聴対象となる若者に浸透しすぎているという点だ。言い換えると、このアニメは爽子がいかにリア充としてクラスに打ち解けていくかというものを描いているため、視聴者がこのアニメの話題で、実際の学校生活で盛り上がれるか盛り上がれないかで、その視聴者の取り巻く環境を推察できるように思う。だって実際にあなたがクラスのいわゆる暗いグループに所属しているとして、「超感動した~」と盛り上がっているところを他のグループに聞かれたいだろうか?私だったら駄目だ。『こいつも爽子みたいに本当は打ち解けたいんじゃないか』なんて思われるくらいなら死んだ方がマシだ、と思ってしまうに違いない。中高の頃ってやたらとプライドだけは高かったりするし。
こういう風に書くと、『なんだ結局オタクは見るなって言いたいだけかよ』と思われるかもしれないが、それは違う。むしろオタクこそ見るべきと言いたい。このアニメに登場する人物が、たとえ主人公のライバルにせよ、どこか憎めなくて愛せてしまう性格の持ち主ばかりで、リア充だろうがオタクだろうがそんなものは乗り越えて、見ている側が30分間、自分のとりまく環境を忘れさせてくれるような作りになっているからだ。
男だろうが女だろうが、オタクだろうがオタクじゃなかろうが、この『君に届け』の世界観が、ごくありきたりの学生生活を描いているにもかかわらず、ある意味で非日常な空間を体験させてくれる。それも自然に。この点が、このアニメの一番の真骨頂であるように私は思う。
風早に笑われると、まるで自分が爽子であるかのごとくドキッとしてしまうし、クラスメイトが仲良くしてくれると本当に嬉しく感じる。そういう意味では『リア充感』を味わわせてくれるアニメ、ともいえるかもしれない。
かつて、『監督不行届』という本の中で、エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明が、妻、安野モヨコの漫画を評して語った文章の中に、非常に印象深いものがあるので紹介したい。
嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が沸いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がこういう生き方をしているから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。
この庵野監督の言っていることがそのまま、この『君に届け』には当てはまると私は思う。例えクラスでこの話題に入れなかったとしても、そんな事はどうでもいいのかもしれない。むしろ『その話題に入りたかった自分』を直視させられるキッカケとなるのが、このアニメなのかもしれない。だって爽子は、そういった自分の内側の気持ち、『皆の輪に入りたい』ということを、ちゃんとクラスメイトに勇気を出して伝えているじゃないか。不器用で天然だけど、こちらが恥ずかしくなるくらいに真っ直ぐで、だからこそクラスで受け入れられていくのだ。プライドばかりが高い誰かとは違って…。
私は、あなたがこのアニメを見終わってテレビを消した後に、非常に満ちたりた充実感を味わえることを約束する。現在2話まで終わっているので十分追いつく範囲だ。男も女も、腐女子もオタクも、見て幸せになるといい。
http://anond.hatelabo.jp/20090929012525
>どうせ納得する気ないんだろうし
あなたが何をもって勝手に決め付けているのかは分かりませんが、私が見落としている映画中のシーンや、或いは私が知らない小説などの中にあって映画では省略されてしまった情報に、ガンダルフの判断に影響を与えたものがあるのではと質問してみることに問題は無いでしょう。そういう事情なら確かにガンダルフは陸路を選択するだろうなと思えるような情報は何ですか?
>ああすればこうなったとかこうすればよかったのにとかは何の意味もなさない。
と言っていますが、私の主張は飛んでいけばよかったではありませんよ。
私の最初の投稿にあるとおり、ガンダルフがどのように考えて陸路を選択したのかを教えて欲しい、です。
仮に作者が陸路を彼らに運命付けたのだとしても、ガンダルフ自身は「作者が陸路を行って欲しいと思っているから飛んでいくのは止めよう」と考えた訳ではないでしょうから。
2008年、アニメ界を一世風靡したしたアニメがあった。その名を「ストライクウィッチーズ」と言う。
放送前に誰からも注目されていなかったそのアニメは、斬新な発想と確かな描写をやり遂げ「マクロスF」「コードギアス」というビックタイトルが放送される中、
アニメオタクの支持を一心に得て大成功のまま幕を降ろした。それをきっかけに名を馳せたのが制作会社「GONZO 第5スタジオ」であった。
ストライクウィッチーズ2期を待望される中、5スタが次に手がけたアニメがヤングガンガンにて連載中の「咲-saki-」と言うマンガだった。
コミックス2巻が出る頃にはアニメ化のオフォーがあったと言う人気タイトルである。物語の区切りになる大会決勝戦の終了の目処がつくであろう時期にして待望のアニメ化であった。
「あのストライクウィッチーズを作った5スタが咲-saki-を作る」……原作ファンは歓喜に震えた。実際に放送されたアニメ「咲-saki-」はその期待に応える素晴らしいクオリティであった。
だが、半年の放送を終わろうとしている今、アニメ「咲-saki-」は失敗してしまったと言える。それはなぜだろうか。
当初こそ原作を尊重し、原作の良さをさらに広げる神演出をしていたアニメ「咲-saki-」であった。
原作時の穴の埋めた小手返しの追加、染谷まこの実家の良改変、そしてもっともたる例が第3話でヒロイン原村和が主人公宮永咲を想い、自身の指に口付けするシーンの追加だ。
これは連載版ではあったものの、コミックス収録時に修正された幻のシーンである。それをアニメで復活させた偉業にはすべての原作ファンが大喝采をあげた。
だが、放送が進むにつれてほころび始める。
おそらく最初のほころびはコアな人気を持つキャラクター、鶴賀の蒲原の笑い方であろうか。原作では「ワハハ」と描かれているものが
アニメでのイントネーションが「ワ~ッハッハァ~」なのである。
非常に些細な違いではあるが、ここで初めて視聴者が首を傾げた。だがこの当時はまだ本編の面白さが保たれていたのでさほど気にされず流されていった。
そうした細かい所で未熟な描写が多々あるものの、各個人の「気付き」の能力の差によって大騒ぎにはならずに済んでいたアニメ「咲-saki-」であったが、
ついにブーイングが巻き起こってしまったのが、そう。副将戦での「特急券だー!」である。これはもう原作を読んでいた古くからのファンには到底受け入れられない棒読みっぷりであった。
こんな、演技指導で即座にどうにでもなる一言にゴーサインを出してしまう愚かさ。いかに制作陣の解釈がファンと掛け離れているか痛感してしまう一幕であった。
その「アニメスタッフの解釈の違い」が最悪な形で出てしまうのが決勝、大将戦である。
龍門渕高校、天江衣が出上がりをする際の演出が原作では「爆発」に対してアニメでは「炎上」になってしまっている。
それまで海底撈月と言う「待ち」の上がりで猛威を振るっていた天江が転進、「攻め」に出た時の脅威を演出したのが原作での「爆発」と言う魅せ方であった。
それがアニメでは魅せる事を考えていないような迫力のない炎の炎上でさらっと済まされてしまった。
事実上のラスボスたるキャラクターの一面を確実に削がれてしまった。
さらに致命的なのが主人公宮永咲の必殺技「嶺上開花」を「槍槓」で阻止する鶴賀の加治木ゆみのシーン。
原作ではカンをし、嶺上牌に手を伸ばそうとした所にイメージ演出として槍が降り注ぎ、「その嶺上牌、取る必要なし」とツモを制す非常にかっこいい見せ場の一つであるのだが、
アニメでは宮永がツモろうとするシーンがなかったために「取る必要なし」というセリフだけが原作通りで空回り。
副将戦の原村和vs龍門渕透華のコスプレ的イメージ演出を流用したような安易さも合わさって非常に滑稽な一幕となってしまっている。
このように、初期こそ非常に秀逸であった描写も放送中盤を過ぎたあたりから無残な醜態を晒すようになってしまっている。
この「解釈の違い」は単純に「原作と違う」事が問題なのではない事を声を大にして言いたい。原作と違っても面白い例もある事は「けいおん!」や「大正野球娘。」の成功が証明している。
「咲-saki-」は原作と違ったが故に、つまらない。では何故そうなってしまったのか?
【失敗の原因その2】 大将戦終了を原作連載と足並みを揃えようとした弊害
彼ら、アニメスタッフらはいつからか気付いてしまう。うまく調整すれば「原作連載とアニメ放送で同時に大将戦を終わらせられる」ことに。
それは確かに実現できれば否応なしに盛り上がるであろう。
その為の犠牲に、原作ストックは途中から加速度的に消化されていく。原作連載もアニメが追いつくのを待っているかのように休載を続ける。
元々休載の多い作家であったが、過去例を見ないほど休載が多くなる。そもそもアニメが放送中に連載が休載など前代未聞である。もしこれをただの偶然と思うようなら、とんだお花畑である。
加速した原作消化スピードは細部に配慮する余裕がなくなり、あれほど秀逸だった演出は見る影もなくなる。
(予断だが、「ストライクウィッチーズ」を当初からその演出の秀逸さで評価していた某ブログは、咲-saki-も考察対象にしていたものの決勝先鋒戦を最後に筆を取らなくなっている)
ただトレースするだけならともかく、先へ先へと進めるために緩急がなくなり、落ち着きのない展開になってしまっているせいで「麻雀」という「静」の闘いにアニメ的「動」を与えた
初期の秀逸さも当然なくなる。
かつてアニメ「とらドラ!」が原作文庫刊行とアニメ2クール放送終了の足並みをそろえようとし、文庫1冊分をアニメ2話で消化し、描写が圧倒的に足りなくなり、
説得力もなく感情移入も出来ない無残な結果になった。あの過ちに近いものを「咲-saki-」はやってしまったのである。
【失敗の原因その3】 個人戦
放送途中で原作に追いついたアニメは当然オリジナル展開に突入する。そう、個人戦である。今まで登場した多くのキャラクター達が今度は一人一人の戦いをする。
あのキャラとこのキャラが戦ったらどっちが強いだろう? そんなファンなら誰もが想像する夢の対決の実現。それを放送途中で原作と同時に終わらせ、余った尺を使って実行した。
だが「アイシールド21」を例に、オールスター展開がいかに失敗するか論じられたのはまだ記憶に新しいだろう。
その上、今まで登場してきた多くのキャラクター達の見せ場をたった数話で見せようなんて到底無理な話である。
そんなアニメ「咲-saki-」がオリジナル展開で何をしたかと言えば、原作で一度やった事の再利用である。
咲は一人で迷子になり、和はそれを追いかけ叱り、タコスは試合数を勘違いし、部長は牌を叩きつけ、京太郎はパシリにされ、キャプテンは開眼し、
かおりんは「みっつずつみっつずつ」をし、むっきーは「私なりに精一杯」と言わされてしまう。
アニメオリジナルとして新しい物が何一つとしてない、実にみすぼらしい作劇である。
唯一の要素としてあるアニメオリジナルキャラ、南浦数絵も「南場になれば強くなる」というタコスの類似能力しかなく、なぜ南場で強くなるかと言う理由付けもなく、
人数不足で個人戦にしか出場できなかったというおいしい設定を与えられながらも大多数のキャラと絡むことなく消えていった。
そしてアニメの不出来さは頂点を迎える。そう、個人戦の結末だ。それまでアニメ「咲-saki-」の劣化に気付かなかった最後の極少数もさすがにNOを突きつけてしまう。
これこそがアニメスタッフの未熟さが最大限に表れた結果であった。
「個人戦の結果」という事実を持って、すべての視聴者がアニメ「咲-saki-」は失敗していた事に、ようやく気付いたのである。
個人戦終了後、最終回に向けて全キャラクターが一堂に集結する合宿に入る。個人戦ですら持て余していた大人数をたった2話の合宿で活かせるはずもないのは言うまでもない。
だがそれでも一応の体裁を整えた展開をもってアニメは放送を終えようとしていた。
そのラスト2分。
全国区のキャラクター達が大挙して登場する。その特徴的なデザインは原作者が連載のために先行してデザインしたものであろう事が容易に察せられる。
そんな魅力的なキャラクター達が派手な活躍をダイジェスト的に見せる映像の興奮度の高さが逆に、物語として前後の描写の必要ない場合、すなわち原作の優秀さだけを借りてきた時に
その魅力を最高に発揮するという証明になってしまったのは、何とも皮肉な幕の引き方である。
「咲-saki-」という作品は魅力的だ。それは誰しもが認めるところだろう。だがアニメとして他者に渡った場合、必ずしもその魅力を維持し続けるとは限らない。
アニメ「咲-saki-」は優秀な原作を無駄に消化し、せっかく神アニメになり得たチャンスを逃し、「GONZO 第5スタジオ」と言う台頭していたネームバリューをも失墜させた。
見紛うことなき『失敗』である。
http://hukugyout.blog51.fc2.com/blog-entry-6239.html
ネット界大騒ぎのラブプラス、そんなにすげえのかと思い、動画を探して見てみた。
なんつーか…バーチャルな恋人関係的なものを売りにしてる割に、やり取りが非現実的過ぎて萎える…。
そんな昔のドラマみたいな歯の浮くような台詞を連呼する女はいないし、いたとしたら脳内お花畑系かメンヘラだから近づかない方がいいだろ…って感じ。
実際恋人同士のやりとりなんて感情移入してないとキモいだけってのもあるかも。
まーでも喫茶店?に入ってどうでもいい会話する辺りはある意味現実的っちゃ現実的かな、とは思った。あれでキャラが良ければまぁ萌えるかも?
そういう部分の内容を見ればもう少しまともに見えるのかなあ。どうなんでしょう。
Rainbow Girlを聞いていると、なぜか気持ち悪い。その返答歌として作られたTragic Boyを聞いていても、なぜか気持ち悪い。
と書いただけではあれなので、もうちょっと。たぶん、これにはつながったところがないんだ。つながったところというか、どこか地に足がついてないというか。これを作った人は本当にギャルゲが好きなんだろうか。
これって別に感動曲じゃないだろ?なのに、なぜか真に感動する曲みたいに扱われている。いや、それでもいいんだけど、なんというか、それはもう一歩ひいたところからというか。「恋しているけど報われない二次元少女」というスタイルで「作られた」曲に対して、ストレートに「この二次元少女がかわいそう」と感動している人と「きもいオタクが二次元に恋した歌なんだなー、泣ける」と感動している人がいるというか。だからこそ「きもい声じゃないと認めない」とかなんとか言う人がでてきたり。
でも、この曲には、ものすごい自己愛が見えて、これは劣等感を持っているタイプのオタクには感情移入できない歌だと思うんだけど、どうだろう。これは決して「オタクの心情を二次元美少女の視点を使って迂遠に表現した曲」なんかではなく、『「オタクの心情を二次元美少女の視点を使って迂遠に表現した曲」とオタクじゃない人たちが感じる曲』だと思う。
まとまってない。ごめん。あと、曲自体を貶める気はさらさらなくて、単に聞いていてなんだかムズムズした気分になるってだけで、メロディーラインとか惹かれます。
ここまで書いて思ったんだけど、別にどうでもいいんだよな。感動する曲としてこの曲を好きな人はかなりいるわけで、その人たちにとっては感動する曲なわけだし。これは皮肉じゃなく。そういうものなんだと思う。
いや、なんつーか。根本に問題があるのはわかっているが。しかしそんなことはどうでもいいので脇に置いておく。
当方おしゃれとは全く縁なく生きて来たお陰でそういうのはさっぱりなのだけれど、そのせいかラブプラスのスケジュールで「おしゃれ」を選んで、魅力パラメータが上がる時に居心地の悪さを感じてしまう。
どうやっておしゃれ加減をアップさせてるのかまず想像できないから感情移入できないし、主人公は自分の分身のはずなのにパラメータで魅力が上がっているのは主人公であって自分ではないのだと突きつけられる感じがする。
そしてネネさんにかっこいいねと言わせてしまうのに申し訳なさを感じてしまったりもするのだった。
特段3次元に興味はないが、寧々さんに相応しい男に、せめて見た目だけでもましに整えるべきだなと思うこの数日。男のおしゃれについてラブプラスの片手間にグーグル先生に質問しているところなのだけれども。
24歳関西在住、レズビアン寄り、彼女持ちのオタクで腐女子な私が答えます。ちなみに若い頃は堂山で結構遊んだりしたタイプです。
ヘテロでない私が答えてもあまり意味がないかとも思うのですが…腐女子なので。
質問に対する答えの前に、まず。
私もよく思うのですが、mixiや2chの同性愛板とか見るとミソジニーバリバリで女のこと性器の俗称で呼ぶのが普通なゲイの方ばかりに見えますが、今までリアルで会ったゲイの方にそんな人は一人もいませんでした。
1.「オネエマンズみたいなオネェ」は珍しいと思いますが、オネエ言葉を使う(もちろん場によって使い分けているのでしょうが)ゲイの知人は何人かいて、使わない知人もいて、「どちらも普通」ととらえていたので、「知っている」とは言えないかと思います。
2.これは難しい問題だと私は考えます。
ですが、少なくとも三次元でロリコンの方が自分の欲求を満たしたらそこには「被害者」が発生します。ロリコンの方が対象にする相手の年齢上、「合意」は発生し得ません。
「ロリコンであるというだけで不当に差別するな」というような言説には、同意します。
ですが彼ら/彼女らの「好きな相手と自由に恋愛や性行為をする権利」を認めるわけにはいきません。こう書いてみると、とても悲しいことですが…。
3.何がしたいのか…腐女子である自分でもうまく言い表せません。
非ヘテロな腐女子の一意見ですが、男女のラブストーリーよりも同性同士のラブストーリーのほうが感情移入できる、というところは非常に大きいです。それが自分と全く違う「男性と男性」であっても、同性愛であるということに変わりはありません。
主人公が同性愛者だという設定の作品や、少しでも同性愛に関する社会的な問題に触れている作品には、思春期の頃とても勇気づけられた思い出があります。対してその頃は「百合」作品はほとんどなく、あってもあまりに生々しく古臭くアダルティーだったりしてレズビアンとしての私の自己評価を著しく下げてくれました。大人になった今なら、楽しんで読めるかもしれませんが。
また、やおい・BLの書き手は女性が多く、登場する男性たちはかなり女性的な感性の持ち主が多い(これも「明らかにありえない世界」ですよね?)です。そういう意味で、女性として感情移入できます。
今は百合もとても多くなりましたが、「男性向け」で「男性の感性で描かれている」ので感情移入できないだろう(描かれているのが「女性と女性」であっても)という偏見や、「どうせ女性同士の恋愛を疑似恋愛扱いする作品ばかりなんでしょう?」という根拠のない(これはさすがにひどいと自分でも思います…直したいです)偏見があって、今のところはほとんど手を出していません。好きな作品もいくつかはあるのですが。
あと、これはヘテロな腐女子の方にも多いと思うのですが、「一時的に女という立場を捨てて娯楽作品を楽しみたい」という思いはやはりあると思います(男になりたいという意味ではけしてありません)。
リアルはちょっと…と実際に言い放った友人が昔、いました。何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたし、軽蔑の感情を抱きました。はっきりと、失礼だと思います。
やおい・BLの中でも無邪気なホモフォビア的表現のある作品はあります(昔にくらべればかなり少なくなったかもしれませんが)。そういった表現に私は耐えられません。
4.私はほとんどカミングアウトする側ですが、あからさまに引かれて仲がこじれたのはたぶん一度だけだと思います。ある程度相手を選んでいるので。
されたこともありますが、引いたりはしません。もちろん。
5.それは「ゲイじゃないけど相手や場合によっては男もいけるかな?」という人のことでしょうか、それともゲイの人のことでしょうか?
…ごめんなさい、男性の方の考えがよくわからないので、勝手で申し訳ないのですが女性に置き換えさせてください。
「自分がレズビアンやバイだとは思わないけれど意外と女もいける(いけた)」女性は結構います(そういった人々は往々にして責められがちですが、私は悪いことだとは思いません)。
長くなりましたが、以上です。
っぽいのでちょっと書きたくなった。
えーと、そういうのは既に通り過ぎてようよ。つうか細田監督ももうそこは通り過ぎてるよ。
そりゃみんな苦手だよ。得意な人なんかいねーだろ。ましてやヤクザな商売の典型みたいなアニメ屋なんぞになろうって人ならなおさらそれは分かってるだろ。だから一番若い嫁をこき使ったりして必死にバランスをとって、安易な家族礼賛=ナショナリズムの回路や「家族の崩壊と再生」みたいな願望含みのお涙頂戴を回避してんじゃん。
だから社会人になって冷静に考えてさ、
「アレ? うちのクソ親父って実は大した仕事してるんじゃね?」
「あのエロ叔父さんって、そんなことしてるの?」
っていう感覚、あるでしょ。そういう違和感がこの映画のコアにあると思う。ズブズブの愛憎をちょいと離れてクランをクランとして対象化して見たときの、絶妙のバランスというかキャラ立ちぶりのおもしろさ。じっさい細田監督はついこないだ結婚したわけだけど、そのことで広がった親族のおもしろさに気付いた、ってタマフルで言ってた。リアルを振り返っても、機能するからこそ法事だ結婚だと何かと理由をこじつけてはメンテしてるんだ。
バランス。たとえばあの映画は、10代は才能で勝負し、20代〜30代はプロフェッショナリズムというか職能で勝負、40代以上はため込んだ資産で勝負、という構図があって。一見いちばん表舞台で活躍した3人も、一人で万能のHEROじゃなくて、それぞれの世代からの贈与があってはじめて成立してる。こちとらNO MORE HEROESよクソッタレ。
っていうかさ。そういう疎外された人にしか感情移入できないなら、もっと侘介に感情移入しろよ。カズマは単にハザマの世代で同年代の親戚が少なくて一人遊びしてるだけで、べつに疎外されてない。「東大出てるリア充だし……」とか言いたいの?
あとなんか細田監督史抜きでこの映画を初めて見る非オタク向け映画評としては、自分が書くよりウィークエンドシャッフル宇多丸細田対談が決定版な気がしてきたので起こし中。ただ自分の起こし性能の悪さを忘れていて泣きそう。できたら増田にUpします。
私が今までインターネット上で犯してきた過ちは数え切れない。ある個人サイトの掲示板に粘着して管理者の方に迷惑をかけてしまったこと。予告なしに突然ブログを閉鎖してしまったこと。匿名掲示板で荒らし認定されて事実上追放されてしまったこと。はてなのアカウントを削除して、それまで付き合っていた方々との関係を一方的に断ち切ったこと。他にも、覚えていないような細かい失敗まで突き詰めれば、ここには書ききれない量になることは間違いないだろう。
今まで犯してきた失敗の原因は、突き詰めれば自分の所属コミュニティに依存しすぎて、それが周りに気持ち悪がられたり、自分がそのコミュニティに感情移入しすぎて暴走してしまったりしたからだと思う。
今まで心理テストではしょっちゅう引っかかっており、私自身依存性や固執性が強い性格であることは、承知しているつもりである。しかし、ネット上で二つ以上のコミュニティ(それも、利用者が比較的かぶっていないもの)に所属し、またネット上ではなく実生活でも人々とのつながりを重要視するようになってからは、比較的ネット上で失態を犯してしまう事態が少なくなっているのは確かで、いろいろなコミュニティに触れることが自分にとっていい成果を生み出したという実感は大いにある。
様々な人々やコミュニティに触れてみるメリットとしては、視野が広がること、いろいろな情報を浅く広く集められること、様々な人ととの出会いを経験できることなどたくさんあるが、個人的に一番大きい点は、一つのものに依存、固執しすぎなくなることで、リスクを集中させなくてすむようになったことである。投資の理論でもリスクはなるべく分散させるように教わるが(とはいっても、現実にリスクを分散させるのは難しいし、リスクをとらなさ過ぎるとリターンも小さくなるというジレンマがある)、投資以外でも、ひとつの物事に集中しすぎるよりは、いろいろなものを頼る(俗な言い方をすれば味方をなるべく増やす)ほうが、ひとつの物事が崩壊したりしたときのリスクが小さくてすむ。
もちろん、いろいろなコミュニティに所属するデメリットもある。深い知識や情報を得られにくいし、ある分野のプロフェッショナルを目指すことも難しくなる。事実、私ははてなと、それとはまったく異なるサービスを併用するようになってからは、はてなダイアリーの更新頻度が大きく落ちたし、一つ一つのエントリーの質も低下してはてなブックマークやトラックバック、コメントをもらうことも大幅に少なくなった。
しかし、私自身はそのことに後悔してはいない。なぜなら、ブログや文章、アイデアで成功する人はほんの一握りであり、それまでには相当厳しい試練が待ち受けているであろうことは目に見えており、それに耐えうる精神性も、その途上で才能を開花させる可能性も私にはなさそうだったからである。一応ブログで有名になってみたいという野望はあったが、それよりも心身の健康のほうが重要であった。
途中でだんだん自分でも意味がわからなくなってきたが(文才なさすぎ、そりゃあ批判や誹謗中傷も受けるわ)、ひとつの物事に固執し続けて神経をすり減らすことに疲れたならば、時には外の空気を吸い込んで別の視点やそれまで知らなかった人や情報の助けを借りてみようよ、という結論で。
何を引け目に感じているか自分でわかっていないけど、
とにかく謝りたい。
苦手だと思っている人と雑談していて、
突っ込まれたり否定されたりするのが怖くて、
自分の好きなもの・好きな人物を話すときに、逃げ道を作るためにそれをおとしめるような発言をしたことを謝りたい。
あたかも自分はそれにそんなに感情移入していないかのようなポーズをとったことが気持ち悪い。
本気じゃないから否定されても平気、みたいな嘘の態度が罪に感じる。
その人物にごめんなさい。
私自身が私の本音を裏切ってしまった。私の本音にごめんなさい。
きっと誰にも迷惑は掛けていない。でもごめんなさい。
(本音を偽ることで道を誤ったり人を傷つけたりしてきたから、二度とそういうことの無いように強くあろうと決めていたのに、そういう決意だけではふとしたときに弱い自分が出て流される。根本的なところから自信を持ちたい)
杉浦由美子著『腐女子化する世界』によると、BLは女性性が排除されたラブストーリーという、自分が感情移入する余地がない点が腐女子にウケるんだそうな。
普通の少女漫画は自分自身と重ね合わせられるような等身大の女の子が主人公だったりするわけで、そこが人気の元であることも多いんだけど、そういう要素のないあくまで第三者的目線で傍観者として物語を楽しみたいっていう需要もまた大きいみたいなんだよね。
ちなみに腐女子の中には過去に男性関係でなんらかのトラウマを持った影響で、いわゆるNL(ノーマルラブ=男女による交際)が駄目になった人もいるとのこと。元増田さんの彼女さんはそこまでじゃなさそうだけど。
gdgdでまとまんなかったけど、とりあえず、「自分が鑑賞したいもの」と「自分がしてもらいたいこと」は必ずしも合致するわけじゃないんだよってことだけ知っておいていただけたらと思います。
映画版は、テレビ版を見た人が、映像がきれいになったのを楽しむためのものだから、ストーリーのつながりなんて気にしない。
普通は一話一話の積み重ねでキャラに感情移入できるものだが、映画版じゃそういうの省略してるからそれも無理だしね。
テレビアニメの映画化って、なんでこういうテレビ版の再編集、総集編みたいのが多いのかな。ガンダムを筆頭に。
子供の頃、映画化って聞いて、新作ストーリーで完結した物語になってると思って、映画館で見たら実はテレビ版を再編集して物語を2時間にまとめた総集編でしたってことであまりにガッカリした覚えがある。子供心に金返せ、裏切られたと。
彼氏が泣きながら薦めて来るのでクラナドをプレイした。mixiに書こうと思ったが自重してこっちへ。
なんつうか無理。頑張って2人EDを見たけどテキストがとてもじゃないが読むに耐えない。
文章が下手だからという意味じゃなく攻略可能ヒロインが皆致命的にあたまわるすぎて会話にイライラさせられっぱなしで感動どころじゃなかったからだ。
ヒロインだけじゃなくて親友の春原も酷い。あれはアホはアホでも直接人に不快感を振りまく有害なアホ。どう見ても立派なDQN。
ギャルゲ主人公の親友は熱血漢の3枚目でお人よしで主人公に行動のきっかけを与える役回りと相場が決まっているが、正直アレはいらない。中の人は好きだがそれでもうざくてずっと台詞をスキップし続けた程だった。
でも一番イラつくのはアホや知恵遅れレベルの取り巻きを自ら集めておいて「俺の周りの奴は何でアホばかりなのか(笑)」とか見下して悦に浸ってる主人公。
スクイズの誠は異次元の住人なので特に怒りも感じないが、こいつは心底うぜえ。
お前、自分が優しいとか頭良いとか勘違いしてるの見え見えだけど、それ周りがあまりにも酷すぎて相対的にマシに見えるだけで実際大した事ないから。
オタクのプレイヤーがいかにも感情移入しやすいような属性をゴテゴテ付加した主人公だけど私的には「すごぉい、お客さんって頭良いんだー☆マユミ(仮)馬鹿だからわかんなくてぇ↑↑」みたいな
ベタ過ぎるキャバクラの接待を延々受け続ける苦痛がある訳ですよ。馬鹿にしてんのかお前と。当の男性オタクプレイヤーもそう感じている人は多いんじゃないかと思うんだけどどうですか?
もしくは「はじめてのおつかい」感覚。ヒロインが(シナリオライター的には)感動する純愛アプローチを仕掛けたように見せても、図式的に「一人で寂しかったけど泣かなかったね偉いね」ってレベルの
健気な幼児の行動にしか見えない。そしてそれを上から目線で見守る主人公にまたイラッとする訳だ。それで恋愛感情なんかよく抱けるな、お前真性ロリだろ主人公。
これでもサクラ大戦や葉っぱやアリスのギャルゲは好きだしアイマスも好きだし(りっちゃん派)、鍵のゲームは知らなかったけどニコニコの「だんご大家族」は聴いてて感動したしリトバスにも興味津々だったけど、
正直クラナドで激しくがっかりさせられた。恐らくこのブランドの最高傑作であろうクラナドがこの有様なら、他のタイトルなど一体どんな低脳集団が襲い掛かってくるというのだろうか。
そして「泣ける」というのはやはり知性ある人間同士の交流ではなく「はじめてのおつかい」でようし"ょの姿に涙涙、と言った感覚のものしかないのだろうか。
純粋と書いてバカと読む系は常識人とワンセットで一人置いとく位で丁度いいのに登場人物全員それにしてどうすんの?マニアック過ぎるだろJKと激しく突っ込みたい。
個人的に良かった点は渚のテーマと声優陣の豪華さだけでしたとさ。
とまぁここまで延々コキ下ろして来たけど完全に信者入ってる彼が、厄介な事に毎晩毎晩クラナドのプレイ進捗を電話で聞いてくるんだよ…
公開初日にヱバ破を見に行きましたが、非常に残念な内容でした。
以下ネタばれしつつ、不満点を箇条書き
1 戦闘ばっかしてるわりに、1つの戦闘シーンに危機感がゼロ
冒頭から最後までひたすら戦闘シーンが繰り返されるわりに、1つ1つの戦闘が使途登場→ヱバ登場→コアこわして血がドバーーーって展開だけ。
まけちゃうーーーっていう危機感とか、その状況からみんなで力をあわせてやっつけるんだ!的な高揚感は皆無。また使途があっさりまけてしまうので、強い敵に勝った的な充足感もない。
2 心理描写の欠如
戦闘→なんか会話→戦闘なので登場人物の心理描写がほとんどない。アスカがどういう孤独で生きてきたかもわからないし、それがわからないから何故突然布団に入ってきて話をしだすのかが伝わってこない。アニメでは加持への依存という形で上手に描かれていた部分だっただけに残念。さらにレイに嫉妬して料理をはじめるのだが、それも理由が伝わってこない。さらにいきなりレイの変わりに起動実験に志願するのだが、その理由も強く伝わってこないし(レイがシンジを好きだからとりもってあげようぐらいの気持ちというはわかったが、彼女のナンバー1への依存という部分が欠けている)、そもそも人選は葛木が決めたはず、しかも酔っ払いながら。それほど適当に決めたあたり人選の深刻さが伝わらないから、アスカが代役を立候補したあたりの深さが伝わってこない。そもそも招待状わたしておいてレイを選ぶなよとか。
そのあたりがうやむやのまま起動実験で大爆発がおこるから「あー、アスカがトウジの変わりに死ぬのか」ぐらいにしか思えない。
しかもそのぐらいの軽い心理描写だからアニメ版では「親友殺し」という精神的ショックを受けるシンジに感情移入できるのだが、映画では突然やってきたわけわからん目立ちたがり屋の女の子が事故に巻き込まれたぐらいでしかない。全く持って泣けない。あー、アスカ死んじゃったよ運が悪かったねぐらい。
3 アニメ版と被っている部分と新作の部分がシンクロしていない
エレベーターでの会話や3号機の暴走など、アニメ版と被っているエピソードもあるが、その他がまったくの新作であるため、本来は「ここってアニメではこういう状態だったけど映画ではこう描かれているってことはこういう解釈?」みたいな微妙な違いを判断できない。シンジの立てこもりエピソードも、アスカに対しての感情移入ができない状態で事故がおこるから、「シンジはいったい何に対してそんなに怒っているんだろう」ぐらいにしか伝わってこない。普通に子供の駄々だった。
カヲルは次回から大活躍っぽい登場だったがマリが完全にいらない。密入国しなきゃいけない意味もわからないし密入国なのになんでパラシュート?とか、シンジに見つかってる時点で大失敗じゃね?というか普通パラシュートで学校の屋上に着地したら校庭でみてた生徒とかが大騒ぎするだろうし、すぐ先生が駆けつけて大騒ぎにならねーか?みたいなツッコミどころが満載。(パンフみたら冒頭5分で死ぬ役回りだったのがあそこまでひっぱられたらしいが。)
アニメ版ではレイの特攻をみてシンジがめざめたはずが、特攻してるときに肝心のシンジはシェルターで引きこもっていて見ていないから無意味に。しかもレイが何故特攻しなきゃいけないかの部分もなし。で、レイ、使途に食われるの巻で変な挿入歌が入ってどっちらけになる。シンジはレイを助けたいだけで、ツバサが欲しいわけじゃない。
6 まとめ
とはいいつつも映像は綺麗だったし、「わけわからないところや説明不足はあとでネットなどつかって補完して楽しむ」という部分はヱバらしいといえばヱバらしい。
しかし、このままでは「一部コアなファンのためのロボットアニメ」だ。しばらくはAKIRAを越えられそうない。
遅ればせながら『闘神都市3』をやってみた。3Dが入っていたりと技術的には進歩しているが、根本的なところでは前世紀から続くアリスソフトらしさがそのまま保たれていたので懐かしさをおぼえた。
この「らしさ」とは何か。人によって答えは違うと思うが、俺にとっては作り手の距離感だ。闘神でもランスでも、作者は作品に陶酔せず消費者にも陶酔させない。目の前の画面はどこかのおっちゃんおばさんたちが作った作り物のポルノなんですよ、と作品自体が主張している。物語への感情移入を断固として拒み、一線を引くよう要求する。だって「ぶるま大使」だよ。どんなに浸っていたところで一瞬で現実に引き戻される。
強姦・陵辱シーンもたくさん出すブランドなのだが、ユーザへの「悪影響」という点では、ある意味で泣きゲなんかよりよっぽど無害という気がする。
古来人間、特に男性にとって戦いとは、興奮の源であり生きることに直結する活動である。獲物を狩る、敵対部族と争う、強い戦士であることを女性に見せ付ける。闘争するための力の行使こそ、男性の活力を最も奮い立たせる活動の一つである。
現代日本においては、肉体を用いた直接戦闘を行う機会は非常に少なくなっている。しかしそれによって闘争に対する本能的喜びが消えた訳ではない。相撲、K-1のように、代理人に自己を投影して直接戦闘を楽しんだり、球技のようなスポーツという形にマイルドに加工された戦闘を行ったり観戦したりして楽しむことには大変人気がある。
戦いとは極めて強い刺激であり、興奮であり、快感である。死力を尽くしたぶつかり合いである。なぜ人はトータルでは負けると分かっているパチンコや競馬に金をつぎ込むのか。それが(少なくとも主観的には)勝負だからである。戦いの興奮を得られるからである。なぜアカギは、命を賭けた勝負こそが人生で、他の事はただの休憩だと言ったのか。なぜ佐々木小次郎は、切り合うことでしか友を作れず、殺しあうことでしか語り合えないのか。それは戦いこそが凝縮された生の煌き、生命の表現、他者との濃密なコミュニケーションだからである。
私は自分の肉体を用いる直接戦闘こそ、最も濃密な戦いの時間を楽しめると思っている。しかし、実際に肉体を用いる格闘技を自分が行う場合、非常に大きなデメリットがある。それは大怪我の可能性である。
怪我をすることによる痛みなどは特に問題ではないのだが、肉体を使う戦いでは打ち所が悪ければ失明、脳への後遺症、最悪死ぬこともありえる。また骨折程度でも、実生活への悪影響はかなり大きなものとなる。これは娯楽のために行うには大きすぎるリスクだ。
自分で戦いをしたい。しかし怪我はしたくない。このような贅沢な要求に応えるもの、それこそが擬似的な自己の分身であるキャラクターを用いて戦う、対戦格闘ゲームである。
また、肉体を用いた戦いにおいては、言うまでもなく肉体の性能が非常に大きな要素を占める。つまり、個人の努力や技術うんぬんではなく、どれだけ肉体的に優れた遺伝子を持って生まれてきたかを競うという側面が強くなる。それに比べて、ゲームでは同じキャラクターの性能はまったく同等である。幼稚園児でも、現役の横綱でも、同じボタンを押せば同じ性能の動きが可能である。よってゲームでは、肉体を用いた直接戦闘に比べて、非常に公平な条件での戦いを楽しむ事ができるようになる。
戦いにおける興奮に近い要素を持つゲームは色々ある。例えばレースゲームやシューティングゲームであっても、ぎりぎりの時間の中に多くの判断と正確な操作が要求され、そのスリルの中に自分の思い通りの結果を得られた場合の喜びもある。しかし私にとっては、そこに対戦相手である人間がいなければだめなのである。右なのか左なのか、前身なのか後退なのか、これまでに得た全ての情報と経験を統合し、一瞬のなかに最大限の思考を巡らし、全霊をもって放たれる相手の一撃をそのさらに裏をかいて紙一重で避けて反撃する。このように互いの精神を喰らい合うようなものでなければ、私の求める戦いにはならないのである。
また、単に対人ゲームであれば、例えば囲碁や将棋であっても、互いの精神の戦いであると言える。しかしこれらのゲームでは、戦いの時間密度が低いのである。これらのゲームにおいては、数分なり数十分単位の時間の中でどれだけ多くの思考を展開できるかを競うことはあっても、1秒の間にどれだけの思考を展開できるかが求められることはない。言わば、精神の持久戦なのである。持久戦には持久戦の良さがあるのだが、それは私が求めるものではない。極限まで高められた精神が一瞬のうちに交錯する緊張感、鳥肌が立つような、胃が痛くなるような、体が震えつつも熱くなり冷たくなるような、コンマ1秒でも油断したらその瞬間に全てが終わるような緊迫感の連続、そういったものが私が求める戦いの時間である。このような、「最大限に時間密度を高めた人間同士の精神の戦い」が最も良く実現されているゲーム、それが対戦格闘ゲームである。
対戦格闘ゲームは大別すると2Dと3Dに分けられる。2Dには、対戦格闘ゲームの草分けであるストリートファイターシリーズを初め、多くの人気ゲームがある。人気があるということはそれだけ対戦相手も多いということであり、それは大きなメリットである。しかし私は2Dゲームには興味は無い。なぜなら2Dは3Dに比べ、相手との駆け引き、思考の読み合い、精神のぶつかり合いといった私の求める要素が弱く、複雑な操作を素早く正確に行う能力のほうが強く要求されるからである。私が求めるのは手先の器用さの競い合いではなく、対戦相手との関わり合いである。もちろん、技術的な要素がまったくなくては困るのだが、そのバランスにおいて、3Dに比べて2Dははるかに関わり合う程度が低く、個人作業の時間が長くなり私にとっては冗長なのである。下の比較の例を見て欲しい。
レースゲームでのタイムアタック勝負<2D対戦格闘ゲーム<3D対戦格闘ゲーム<ポーカー
この4つは全て相手との競い合いになるが、勝敗を決する要素として、左のものほど個人の技術の割合が高く、右のものほど相手との駆け引きの割合が高くなっている。そしてこれらの中で、肉体を用いた直接戦闘に最も近いバランスのものが、3D対戦格闘ゲームなのである。また、視覚的にも3D対戦格闘ゲームは肉体を用いた戦闘そのものであるために、感情移入もしやすい。
3D対戦格闘ゲームを代表するものには、鉄拳とバーチャファイターという2つのシリーズがある。これらはかなり近い性質を持つのだが、私がバーチャファイターを選ぶのは次の点の比較による。
鉄拳は見た目は派手だがバランスが大雑把。バーチャファイターは見た目は地味だがバランスが緻密。
そもそもゲームというものの本質的面白さは何で決まるかと言えば、ゲームバランスがどれだけ高いレベルで取られているかによってである。もちろんグラフィックや音楽もゲームの要素ではあるのだが、それらは本質ではない。見た目は地味で音楽も無い将棋や囲碁が、なぜこれほど多くの人に遊ばれ、プロの競技になっているのか。それはそのゲームが非常に良いゲームバランスを持っているからである。ビデオゲームにおいても、名作と呼ばれるものは全てゲームバランスが非常に良く調整されている。グラフィックがどれほど美しくとも、ゲームバランスが崩壊していればそれは糞ゲーと呼ばれてしまうのである。
もちろん鉄拳もゲームバランスが悪いというわけではないので、あまりのめりこまずに遊んでいる分にはとくに気にならないかもしれない。しかし、私が求める「最大限に時間密度を高めた人間同士の精神の戦い」のためには、ゲームバランスが出来る限り高いレベルで調整されていることが求められるのである。そして実際にバーチャファイターは、鉄拳のみならず他の多くの対戦格闘ゲームと比較しても、非常に高いレベルでバランスが調整されている。キャラクター間のバランス、技同士のバランス、知識と技術と運のバランスにおいて。
こうした理由によって、バーチャファイターは私の戦いたいという欲求を安全に満たすことの出来る素晴らしいゲームなのである。
ここまで読んで自分もバーチャファイターを始めてみようと思った人のために、その方法を以下で簡単に紹介しておく。
バーチャファイターで対人戦を楽しむには、主に2つの方法がある。
A ゲームセンターへ行く
B XBOX360でのオンライン対戦
それぞれの特徴を挙げれば、
A ゲームセンター
最高レベルの相手と戦うことができる。
知り合いが増えたり、大会に参加して楽しむ事ができる。
欠点 小都市のゲームセンターではやっている人が少なく相手が居ない。
大きなゲームセンターに行く為には時間と交通費がかかるし、負けるたびに100円かかるので、初心者ほど出費がかさむ。
B XBOX360によるオンライン対戦
一度本体とソフトを購入すれば、年間4000円ほどの固定費用で遊べる。
人の多い時間帯であれば、相手に困ることは無い。
欠点 海外の相手との対戦では、通信遅延の影響がある。(国内同士ならほぼ気にならないレベル)
時間帯によっては対戦相手がいない。(平日昼間など)
これらのことを考えると、これから新たにバーチャファイターを始める人は、とりあえずXBOX360で遊んでみて、そこで十分に力をつけた後に、ゲームセンターへ行ってみるというのがいいのではないだろうか。もちろん、既にバーチャファイターで遊んでいる友人がいるのなら、その人と一緒に遊ぶのが一番いいだろう。
尚、XBOXでのオンライン対戦で遊ぶために必要なものは下の5つである。
・有線ブロードバンドの環境(無線だと通信遅延が多くなる。通信速度は問題にならず、応答速度のみが問題になるため、有線なら1.5MのADSLでも充分。)
・XBOX360本体(約3万円。HDD内臓だと、インストールしてHDDから起動できるようになる。音が静かになるのでお勧め。)http://www.amazon.co.jp/dp/B001F7AAFW/
・バーチャファイター5のソフト(約2千円。)http://www.amazon.co.jp/dp/B001JEODHM/
・Xbox Live ゴールドメンバーシップ(年間約4千円。XBOXの全てのゲーム共通でオンラインサービスを利用する権利。本体を新品で購入すると、1か月分ほど無料でついてきたかも。)http://www.amazon.co.jp/dp/B000BPJTKG/
・スティック型コントローラ(約7千円~。バーチャファイターは通常のコントローラーでも遊べるが、スティックを使わないとかなり苦しい。どうせならスティック型でやることを強く勧める。)http://www.amazon.co.jp/dp/B001E42H34/
後は以下のサイト等を参考にして、慣れていってほしい。
http://zaizen.aki.gs/syosinnsya.html VF初心者のために VF総回診
http://www7.atwiki.jp/x360info/pages/30.html XBOX360テンプレ@WIKI バーチャファイター5 LiveArena
http://fhp.jp/vf5/ 初心者向けVF5LAのススメ 初心会館
最後に、上達のために大変役立つ手段としてPS2のソフト、バーチャファイター4 エボリューションを紹介する。http://www.amazon.co.jp/dp/B00007L4XF/
バーチャファイターは4も5も基本部分は殆ど同じである。このソフトのトレーニングモードは非常に充実しているので、それをこなしていくだけで大きくレベルアップできるだろう。現在は中古で非常に安く出回っている(千円以下)ので、PS2を持っている人は試してみてはどうだろうか。
いつの日か、最高の戦いが見られることを。