はてなキーワード: 小説家とは
作家、ミュージシャン、アーティスト、呼び名はなんでもいいけど、
自分がハマりこんだ人が時を経るにつれて初期衝動を失ったり、作風が変化したりして興味の中心から去っていくのはよくあること。
だから、創造性のピークに到達した人を見て、できればあんまり変わってほしくないなーと思うこともよくある。
変わっていくこと自体は責めることではないけど、実は初期作品がピークだという人も山ほどいる。
個人的には、そういう人のために「殿堂入り」というシステムがあるんだと思う。
パブリシティーや露出が作品そのものよりも目立つようになったら、大抵そういう状態だと思っていい。
TV番組の司会をする小説家とか、対談ばっかりしてるミュージシャンとかね。
このプロセスは多分不可逆的なもので、それまで食うに食えなかった人も多いだろうから別に責められるべきことではないし、
初期作品が自分に与えた感動が薄れるわけではないので、そういう人たちに対しては、
「いままでありがとう。これからもお元気で。さようなら」と思うようにしている。
元増田の人は作家「さん」て書いたりしてるから多分出版業界の人なんだと思うけど、
もしそうだとしたら、自分がそういうプロセスの一部だということにもう少し自覚的であってほしい。
そうしたら、もう少し多くの表現者たちがその創造性を延命させることができるかもしれないし、
より多くの消費者を喜ばせることにつながるかもしれない、と思うから。
いや、過去にもいただろうか。
何より文章を読むのはダルい。身体を硬直させて文字をただひたすら眺める。
まるで体中を縛られ自由を奪われているかのようだ。
微かに動く眼球は細く虚ろで、慈愛に満ちているはずの人間の生命はまるで機能していない。
驚くことだが、読書時には実際に脳の機能は停止している。信じられないのなら一度試してみるといい。
読書をしている時に、そいつの名前を呼んでみるんだ。
するとそいつはすぐに反応せずに、数秒、下手したら数十秒たってから顔を上げるだろう。
この反応のない状態を医学用語で「キリの良い所まで読む」と言う。恐ろしい症状だ。
継続的に同じ軌道を描いて動かされる両の手は、工場労働者を思い起こさせるがそれよりも悲惨だ。何故なら読書は無給なのだから。
読書家は二度と手に取られることの無い紙の束を棚に入れる作業をやめようとしない。
漫画家も小説家もお金を貰っているが、同じ単語の最後に家が付く読書家は誰からもお金も貰っていない。
何故そこまでして読書をするのか? 彼らに聞いてみると多くが「知識が得られるから」と答える。
なるほど、つまり読書家はてんで知識を持っていない人間であり、要するに馬鹿なのだ。馬鹿だから読書という行動に時間を費やす。
ってのが多分一般的な流れ。これだとたとえば榮倉の場合、「榮倉奈々」と「えいくらなな」だけ押さえておけばいいわけで、「木村卓也」「木村卓哉」「木村拓哉」「木村拓也」あたりまで登録しなきゃいけないのに比べて効率がいいとも言える。そんなこと言ったら「木村カエラ」あたりが一番いいのかもしんないねマジで。
最近ホッテントリにふわーっと現れるMORI LOG ONLINEだっけ、あのブログの、小説家で「すべてがFになる」の人。いまさっき、あのひとどんなひとなのかなーと思って調べようとしたら、まず「モリログ」でググって、検索結果のアマゾンの著者のとこに「森博嗣」ってあったから検索窓までドラッグアンドドロップして、その検索結果のWikiPediaを見てようやく「もりひろし」だって読めた。「もりひろじ」とかかなーってなんとなく思ってたけど、「もりひろじ」で検索してもぜんぜんハシニモボウニモって感じよ全然。
チェック男子にとっては「ググれないモノは存在しない」そうなので、漢字の使い方にも気をつけるのがweb時代なのかなーっとかおもったね割と。
Nifのフォーラムとかパティオと同じ臭いがして、マジでクサい。
何だ、近藤つーのは、Nifとかの時代の人か? いや、それより若いだろ? つーことは、やっぱ日本文化? うへぇ。
さて。
優越感ゲームって言葉を聞いた時「ちょっと違うんじゃねー」と言葉の定義を考えたが、最近はそもそもその現象に“中身がない”ってことに気付いて「ああ、こりゃ確かにゲームだわ」と実感した。
中身が多少でもあれば「優越感・ゲーム」というニュアンスではなく「自己上位承認の取り合い」(必要なのは、相手に認めて貰うことであって、相手を打ちのめすコトじゃ無い)と思うんだけど。
今は、相手を打ちのめして、相手より上に立つ「ゲーム」なのだから。
ウォーシミュレーションだってルールはあるんだが、このゲームにあるルールは「相手を打ちのめせればなんだっていい」ってだけのこと。
ソースが不確かだから伏せるが、著名な小説家(故人)が、著名な詩人を「アイツの詩は嫌いだ。だって、奴はハゲなんだぜ!」と罵ったことがある……と聞いた。
凄い。これは反論できない。この小説家からすれば「ハゲ如きが詩をろうじるなど言語道断」といった趣だ。
つまり「うっせぇ! 黙れピザ!」というのもなかなか趣深い反論である。
何しろ「俺はエライ お前はエラくない」を宣言するのだから、必然的にそうなるだろう。素晴らしい戦術だ。
その一方で、気の利いたテーゼなんかしたり、人のテーゼに同意したりしながら状況を乗り切る(kanoseの人みたいに)と、対話する相手には事欠かない。
「うっせぇ、ピザ!」もその内に芸になる。気に入らない奴に、ピザラベルを貼るという、素敵なブロガー(pgrの誕生だ。
よかったな、この方法でもステークホルダー(pgrにはなれるはずから、やってみてはどうか。
俺はやらない。無意味だから。金を稼ぐ手段は別にあるしな。そういう承認要求も優越感もイラネ。あー、金が貰えるなら……いや、めどいから止めておこう。
みなさんこんにちわ 僕のガラスの呟きを開いてくれてありがとう。
このコーナーではガラスのことやらなんかのことやら、なんだか訳の
わからないことまで書くことになると思うんだけど、そんな場面に出
会っても深く考えこまないで下さいね。なんといってもこれはすでに
ボケ一歩手前まできている、僕の呟きなんですからね。
僕がこのコーナーを企画したのは最近も最近、ほんの先日のことな
ですが、実は掲載するにあたって参考にした叩き台の文集があるんです。
それは自分の口から云う事こそ恥ずかしいことなんですが、僕の半生記
という凄いヤツがあって、そのタイトルは生意気にも「人生はセピア色
に映えて」という、恐れ多い私小説なんです。もちろん作家はどこかの
小説家の大先生、といいたいのですが、とんでもネバハップン、自分自
身なんですよ。ホラ、以前によく流行ったじゃないですか、「自分史を
書こう!」なんていうコマーシャル。あれあれ、あの頃に近くに出来た
新しい電気屋さんから買い求めたワープロで製作した文集なんです。
ワープロっていうと、もう過去のものに聞こえますが、これは慣れるの
が大変でしたよ。読めば読むほどにわけのわからなくなる説明書を首に
っさげて毎日毎夜勉強しました。これくらい勉強してたら僕は、たぶん
訳のわからないガラス屋なんてやっていないと思うんです。
でも哀しいかな実際の僕は英語の方もからきしダメ人間で、どうにか日
本語でキーボードを打てるようになったのは、最初のワープロが傷だら
けになって、それからそれからズーッとズーッと後のことなんです。
もちろんワープロも幾度となく買い換えましてね。その後は小難しいパ
コンに代えて… という風に、 いまでは工房を訪れた皆さんとメール
の交換が少しだけ出来るようになりました。
それではとりあえず今後ともこのコーナーを宜しくお願いして、後日また
おはなしいたしょう。