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はてなキーワード: メンタリティとは

2009-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20090116090907

>「100億年すれば、宇宙は消滅してしまう」

>この命題に打ち勝てるような哲学存在しないと思う。

 で、これを主張するメンタリティはなに?

 優越感や気取りが臭いすぎてクサイ。

 ニヒリストなんてものは、いかにも人間らしい(現代人らしい)スタンスの一つにしか過ぎない。すなわち、ニヒリストスタンス無意味どころかあまりに人間的で有意味

 また、本当に「宇宙消滅するからすべては無意味」という虚無感に陥っているなら、もっと鬱っぽいスタンスになる。

 「哲学」とかいう格好いい言葉を持ち出したいのなら、色即是空とか唱えている仏教スタンスでものをいうとか、いろいろあるだろうに。

 幼すぎるメンタリティにギップリャ!!!

2009-01-15

http://anond.hatelabo.jp/20090112230518

>ちなみに、彼女には育児放棄家事放棄と言われたわけだけど、

>当然自分としては協力してると思っているんだよなあ。

>・土日の食事は100%作成してる

>・平日の嫁と娘の食事の「ストック」を土日で仕込む

>・嫁の土日外出時は、娘の面倒見る

>・土日は娘を風呂入れる。

>・平日の家事が回らないって言うから、家政婦雇う。

これじゃあ、全然家事やってないと思うんだけど、

これを「当然自分としては協力してる」という根拠にあげてしまう

そのメンタリティに奥さんは疲れてるのではないでしょうか。

元増田家事分担が軽いことは明らかなので、

そうやって「俺は協力してる」と主張せずに、

「お前に負担かけて悪いな。うちが上手くいってるのはお前のお陰だよ。

感謝してる」と普段から声をかけていたら、

こんなことにはなっていなかったはず。

2009-01-12

とある夫婦離婚序章

さっき。仕事から帰って来たらいきなり座らされて、

「あなたとは、人生を一緒に歩めません。」

と言われた。原因は、俺の育児放棄だそうで、

どっかの芸能人夫妻のネタかと思ったけど、

そうじゃないらしい。

とりあえず、激昂していたので、

落ち着かせて話を聞いてみたんだが、言っている意味が良くわからない。

「私達は共働きだから、育児家事仕事も半分負担。

あなたはその義務を果たしていない。」

正直、全然違う仕事して、全部平等とか同じ量とかって

不可能だと思うんだけど、それは解ってもらえないらしい。

結局、堂々巡りになって、

貴方は、家庭と仕事とどっちを取るの?」

と言われる始末。

ちなみに、彼女には育児放棄家事放棄と言われたわけだけど、

当然自分としては協力してると思っているんだよなあ。

・土日の食事は100%作成してる

・平日の嫁と娘の食事の「ストック」を土日で仕込む

・嫁の土日外出時は、娘の面倒見る

・土日は娘を風呂入れる。

・平日の家事が回らないって言うから、家政婦雇う。

(平日は週3日は、会社泊まり。

第2新卒、社歴2年、転職はあと2〜3年は厳しい)

そもそも、育児を協力するってこと自体が

不平等ってフェミニン女性は言うけどさ。

男が必死こいて働いてて、血反吐吐いて客に頭下げて、

何日もマッチョ徹夜して、でも、

少しずつ成長していっているって実感がある。。。

そんなとき、嫁さんって

笑顔で応援してくれるもんじゃないのかなあ。

追伸)

ちょっと、トラックバック読んでたら、

画面が滲んで来た。ありがとう

こんな状態なんだけど、

それでも嫁は好きだし離婚したいとも思っていないんだ。

娘はすっごい可愛いしね。

共感して、ありがとう言葉を言ってるつもりなんだけど、

週に2日しか会えないと、届かないんだろうかなぁ。

俺が学生の頃は、5年付き合ってて

一度も喧嘩したこと無かったんだけどね。

ちなみに、セックスは、2ヶ月くらい前から

「性欲無くなった」って言われてからは一切無し。

2週間に1回くらいはこちらから

誘ってみるんだけど、ダメらしい。。。

追伸2)

なんだか、すごい一杯トラックバック

付いててびっくりしました。

全部読ませてもらい、どれもこれも

なるほどなあと思って、すごく感謝しています。

ありがとう

マッチョメンタリティのことや、仕事のこと、

嫁の気持ちがわかってないということ、

家事の負担が全然足りねえんだよということ、

いろんな突っ込みをもらったわけだけど。

すぐに変えられないことの方が

実際多いわけで。部分部分でちょこっとずつ

補正をかけるしかないかなというのが実感。

ちょうど、昨日がプロジェクト終わりだったので

久しぶりに定時帰宅して、

家族3人で風呂入って、飯食って、

10時には娘と嫁と手をつないで寝ました。

嫁は始終にこにこしてました。

娘はきゃっきゃと喜んでいました。

http://anond.hatelabo.jp/20090111184707

元記事投稿者です。関連箇所に下記の加筆を行いました。

ああいう支援団体の活動をゆがめないようにするためにも、さらっと「日比谷公園では500人分の炊き出しが行われました」「~公園では…が行われました」のように事実のみを述べてほしい。(※さらっという代わりに、そういった活動をすべて紹介してあげてほしい。そうすれば支援するのが当たり前という雰囲気になりそうな気がするから。09.01.11 23:45加筆)

やっぱり、日本人メンタリティーは「他の人がやっていないから…」というのがあると思うので、こういう風に放送することで「みんなやってるんだな(=自分もやらないといけないかな…)」という風に思わせることができたらいいなー、と空想だけして書き忘れていました。

※AnonymousDiaryは使い慣れないので一つ空返信記事をつくってしまいました。失礼しました。

2009-01-11

本当の弱者は誰なのよ

最近はてなサヨクの論壇が

派遣村関係の話題で盛り上がってる。

派遣村で聞こえてきた声と、「まじめで善良でまともな我等」が席巻する此処。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20090107/p1

こんなエントリに代表されるように、

はてサの人たちは、

職探しの努力をしなくたっていいじゃないか。

タバコや酒を断たなくても、たとえ備えの貯金をしてなくても

それでも救われるべきなんだと言う。

それはそれで、ひとつの考え方としてありなんだろうと俺は思う。

ただ、多くのブックマークを集めたエントリの中にはこんなのもあるわけ。

タイトル通りなわけだが。先日、とあるコンサルの個人面接で珍しい質問をされた。

「じゃあ、最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」

思いつかず焦った僕は、最近まとめた去年の読書冊数を伝えた。質問に答えた瞬間社員さんの反応が「微妙」であることを悟り、しかるのち軽薄な自分を恥じた。

全然すごくねーよアホ。

コンサル面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された - ミームの死骸を待ちながら

http://d.hatena.ne.jp/Hash/20090109/1231501051

ねぇ、なんでこういう主張を、はてサの人は無視するわけ?

いつもどおり言えばいいじゃん。

「別に努力しなくていいよ、努力しなくても救われるべきなんだ」って。

ブクマコメントを見ると、みんな訳知り顔で

辛辣コメント載せてるの。もうね、アホかと、バカかと。

十分すごいよ、一年間で74冊だぜ?

宿賃もないくせに酒やたばこに興じる

派遣村連中よりよっぽどすげーよ。

努力をしても、「努力ベクトルが違う」だとか「結果が大事だ」

だとか言われる俺ら社会人が一番の弱者だろ。どう見ても。

本気で派遣村に嫉妬するメンタリティを変えたいなら、

こういう言説には猛然と批判しないと駄目だろ。

仕事を効率よく進める」みたいなライフハック系の記事や

仕事の出来ない人、みたいな2ちゃんまとめブログが、

派遣村批判への再批判エントリと並んでちゃ駄目だろ。

はてサ仕事のできない人間(たとえそれが団塊でもバブルでもゆとりでも)

に対して、派遣村民やホームレスやその他マイノリティ

同じような手厚い擁護論を唱えないのは

俺にとってはてサの主張は欺瞞にしか見えない。

2009-01-08

http://anond.hatelabo.jp/20090108140611

メンタリティーとはあんまり関係なくただたんにどういう言葉を使うのに慣れてるかって問題だと思うけど。

あなたがどういう場合に関して言ってるのかわからんからそれ以上何とも言えないけどな。

薄気味悪さって観点のみで語るならそんなこと増田に書く方がよっぽど薄気味悪いだろ。

すみません、ごめんなさい、ありがとうを使い分けない薄気味悪い人達

最近増えてますね。

とりわけ「すみません」ですべて済ませようとする人が増えてます。ほんとに薄気味悪さを感じます。

薄気味悪さの背景にあるのは、そのメンタリティーにあるのでしょうね。

こういう人は、自分の感情を正確に相手に伝える必要なんてない、という意識があるのでしょう。

そして、あらゆることを「すみません」で済ませて、強制的に関わりを絶とうとする、無機質さを感じます。

インターネットのうすっぺらい人間関係にどっぷり使った人間の成れの果てなのかもしれません。

上から目線」とかいう珍日本語とおなじ気持ち悪さを感じるのは私だけではないはずです。

2009-01-05

http://anond.hatelabo.jp/20090103033242

元増田です。

話自体は私の創作です。

多分援助交際をしたり風俗で働いたりする子のメンタリティに、こんなところがあるんじゃないかなーって。

あるいは、特定の彼氏を持たず、数々の男性を渡り歩く女性の。

誰かの「唯一の存在」になれれば一番いいんだけど、それはなかなか難しい。

だけど最低限「女としての存在意義」があることは確認したい。

それがかえって「唯一の存在」になることを遠ざけているんだけどね。

「唯一の存在」になれるだけの器があっても、

「博愛的なので」不特定多数男性にとって役に立つ存在であろうとする子もいる。

若いうちは性的価値を発揮するだけで、不特定多数男性にとって有用な存在でいられるかもしれない。

だけど年を取ったとき、「唯一の存在」がなかったら?何もなくなってしまう。

性的価値だけで世を渡り歩くということは、人格を評価されないということだ。

それは人間として扱われていない、「モノ」として扱われているということだが、楽チンでもある。

2009-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20090103201527

ちょっとでも煙たがられたら「何でニートは批判されなきゃいけないの?」とか開き直る奴って結構多い

結構多いって、おまえの周りにはそんなにニートがいるのか?

こういうメンタリティ人間は間違っても鬱病じゃないと思う

なんで鬱病が出てくるんですか?

何て言うかさ、貴族階級俺様に下々の職を宛がおうとは何たる無礼か!クリエイティブ年収500万残業なしノルマなしの仕事差し出すまで働いてやらぬ的な勘違い君ばかり見る。

おまえの周りには(ry

昔の「道楽息子」や「ごく潰し」だってもうちょっと自分が褒められた存在じゃない事に自覚的だった気がするんだけど、

おまえの周りには(ry

っていうか、いつの時代の人?

平等教育個性教育の弊害?

ニートになる原因ってそれしか思いつかないのか。

っていうか、どっちやねん。

こういう感じなので「偏見だらけだな」って書いた。

いや、元増田ニート専門のカウンセラーかなんだったら謝るけど。

ニートの何が痛いって言うとさぁ

働かざるもの食うべからず的な宗教観以前にさ、自分立ち位置に無自覚過ぎるのがキモイ通り越して怖い。

ちょっとでも煙たがられたら「何でニートは批判されなきゃいけないの?」とか開き直る奴って結構多いし(こういうメンタリティ人間は間違っても鬱病じゃないと思う)

何て言うかさ、貴族階級俺様に下々の職を宛がおうとは何たる無礼か!クリエイティブ年収500万残業なしノルマなしの仕事差し出すまで働いてやらぬ的な勘違い君ばかり見る。

昔の「道楽息子」や「ごく潰し」だってもうちょっと自分が褒められた存在じゃない事に自覚的だった気がするんだけど、何でニートはこんなに偉そうなんだろう。平等教育個性教育の弊害?

2008-12-28

安藤がまた「言い訳するな!!」とか一部の善良なる日本の一般市民様に言われていそうで嫌になるぜ。

てかもうたくさん見たけどな。

日本の善良なる一般市民様たちのアスリートに対する「言い訳をするな」「金のことなんてうだうだ言うな、スポーツ選手のくせに醜い」「自分努力のおかげだと!ファンの応援はどうした!なんて傲慢な選手だ」「なんか偉そうな態度だな。誰の応援のおかげでその立場にいられると思っているんだ」というアスリートに対する、自分を「だって、アスリートとかでもない、か弱き単なる一般市民だからー」という安定した弱者立場による理想押し付けはもううんざりだ。

なんだってあんたらはそう傲慢でいられるんだ。

医者に対してもそう。ていうかか弱き一般市民さまより上の立場で、なんか金とかもらってそうで、なんかオレタチよりよっぽどいい暮らししてそー、てな奴に対するこの「だってオレワタシたち弱者だもん、あんたたち強者じゃん、強者だったらそういうことする義務があるんだよ、オレワタシタチ?だってだってオレワタシタチは弱者ダモン!そんな余裕ナイモン!強くないモン!!」という下から目線の叩きっぷりがいい加減きめえよ。ルサンチマンを恥ずかしげもなく放出させすぎ。

あーイライラする。「自分たちは弱者だから何をやってもいい」という甘えがイライラする。そういう甘えを持ちながら、強者の些細なことを「甘えている!!」と糾弾するそのクソみたいな態度がイライラする。うんざりだ、うんざりだ!

アスリートだって人間だ!ふざけるな!

お前らのためにスポーツやってんじゃねーよ!お前らのために生きてるんじゃねーよ!応援してるからってその見返りに我々国民の言う批判は全て受け止めろだなんて図々しすぎるんだよ!「お客様神様なんだからそういう扱いをしろ」的なメンタリティ!粉砕すべしメンタリティだ。

何が言い訳だよ。ケガしてる事を言うのが言い訳か。ケガしてても日本人選手は黙って、頑張って、耐えて、辛いことがあっても?ハイハイ、泣き言一つ言わずね、ハイハイ、本当は痛いけどこらえて何も言わず頑張りぬいて優勝してその後に「実は…」なんつってちょっともらしちゃったりしてそこでハイ初めてお前らが温かい視線で「エライ選手だ!何もいい訳もいわず!ジーン!これぞ日本人の鏡!日本人のタマシイだ!」なんつったりするのが理想なんだろ、クソ食らえ。気持ち悪い。

それが理想でも、その理想からはずれたら真っ先に叩くこの超理想主義押し付けぶり。きめえええええええきもちわるい、ゴキブリ以下!おい、ゴキブリ人間に叩かれ殺されても泣き言一ついわずがんばってメシくってんぞwwwゴキブリ褒めてやれよwwwwお前ら大好きだろそういうメンタリティよwwwww言ってるお前らはそんなことできないくせにねw自分を棚にあげまくって、弱者だからをお前らこそいい訳にして、ねちねちと妬み叩いては、たたきすぎたと分かった時には集団の影に隠れて「ジジジ自分達はわるくないっ!ちょ、ちょっと言いすぎじゃないかって、自分はむしろ思ってた!ででででもそういう空気だったからっ!!ジジジ自分は悪くないっ!!しらないっ!」と責任から逃げようとする。クソ食らえよ。うちの犬のうんこ食えよ。ソテーしてやるから。

久々に胸糞悪くなった。んとうぜえ。

2008-12-25

ガツガツしていいものと悪いもの

世の中には、必死になってガツガツすると成果が上げられるものと、そうでないものがあると思う。

必死になってガツガツすると成果が上げられるもの:

一言でいえば、試験技能系。

大学入試資格試験とか、スポーツとか、ガツガツ練習すれば、「これのためには親や子供がどうなったっていい」とかいう、非道徳的なメンタリティーを持っていたとしても、ある程度の成果が上げられるようになる。

必死になってガツガツしても成果が上げられないもの:相手との相性が重要な場合

恋愛就職結婚・営業など。

相手との相性がある場合は、「ガツガツしている姿」が相手に見られると、逆に嫌われたり見透かされたりすることが多い。

自分は、大学時代恋愛でガツガツして失敗した。「いっつも女の子の周りにいる」とか、サークルの冊子に書かれた時には愕然とした。

中高男子校だったから、せめて大学の間ぐらい一生に一回になるかもしれないけど恋愛経験が欲しい、というささやかな願いだったのに、それすら否定された気がした。でも、それは、元々「ガツガツしてはいけないもの」にガツガツしたのが最大の失敗だったように、今では思える。

大学卒業して彼女ができて数年たった今振り返ってみると、そんな感じだなぁ。

2008-12-23

http://anond.hatelabo.jp/20081223003425

こういう言い方して通じるかどうかわからんが

「It's your decision」って、ソフィアの問題にできるあなたのメンタリティはわたしの常識からすると、けっこう外側にいるよ…

なので、単なる批難にしかきこえなかったらすまんね。

まあ、こういう考えもあるという程度で。

1.

でだ、あんたが死んでたら、「It's your decision」としか言いようがないのはわかるんだけど、

中だししちゃった当人であるあなたが、責任も決定権もぜんぶあっちに投げ出すのは、信じられん。

赤ちゃん女性の身体に宿るという、生物学的な男女の非対称性にのっとって、男だけが都合良くなってしまうシステム

まんま利用してるよね。

いまのご時世、身体の非対称性をいいことに、女性にぜんぶの責任を押しつけてしまう発想はとても支持できるものではない。

ソフィア発狂するかどうかを、さておいても、あなたは非難されてしかるべき。

ソフィアがどんなDQNかしらないけど、あんた一体、人をなんだとおもってるんだ、と素朴におもうよ。

いや、あなたがソフィアを愛せない、というのは別にいいと思うけど。

愛せようが、愛せなかろうが、「It's your decision」はさすがに人をなめてる。

中だししちゃったあなたの責任でもあるのだから、そこは、愛の有無関係なしに、

あなたはやってしまったことに対して、せめて誠実であるフリぐらいはすべきかと。

2.

とは言っても、わたしのこういう倫理観がたぶんあなたには通じないんだろうから、

上記の感想は単なる参考として流してください。

発狂はさせたくない」というのが、あなたのギリギリ良心のラインなのだろうとは思うけど、

あなたが相談したいのは、おそらくこういうことか

a.妊娠していた場合に、「発狂させたくない」という、ギリギリ良心のラインを満足させられる手段

b.妊娠しているにせよ、していないにせよ、アメリカ彼女を傷つけたくない。

c.ソフィアに対して、自分に対する感情をすっぱりあきらめさせたい。

であれば、それぞれに対する答えは別々で

a:がんばってソフィアを説得して、堕ろさせろ。発狂しないように、病院通わせたりする責任はあんたが持て。

b.隠し通せるなら隠し通して、彼女を傷つけたくないのはわかるけど。ソフィア電話番号を知られてしまった限り、やれることと言えば、「妄想系のストーカーにつかまっちゃって…」とかいう自分にとって都合のいいいいわけを、彼女にする、とかいうのはあるかもなぁ。でも、さすがにそんなことしたら、いくらなんでもソフィアかわいそすぎるというか、悪人過ぎる気はするが。

c.ソフィアに嫌われるような典型的なこととかってなんかないの?生理的ソフィアがきらいなタイプのこととか、がまんできないようなこととか。

2008-12-22

http://anond.hatelabo.jp/20081222195924

→こちらに修正して転載すた。http://d.hatena.ne.jp/maskin-monotonicity/20081222/

1.池田さんがいいこと言っているかどうか、というのは分野による。

2.経済学系の記述はおそらくかなりまだ信頼性の高い記述もおおい。というか、この分野はわたしがよく知らない。

3.技術系の記述は、まあ、主張を信じるのは話半分でよい。

4.哲学倫理系の記述は、だめだめでもないけどそれほどよくもない。まあ、こんなもんか。

5.上司とするには、やめてほしい。この点については、池田氏とこれまで仕事で関わってきた諸氏からの情報総合的に判断。私怨で人を困らせすぎる。暴れん坊。思い込みが激しい。

6.仕事人として付き合いたいかどうかはともかく、優秀な人ではあるだろう。

7.学者は間違ったことを言う、のは当然。間違ったことを言わない学者などいない。学問はそもそも常に仮説でしかない。学問とは、より妥当な議論を可能にする知識の継承、発展のフレームワークなのであって、間違ったことをいわないことが学問なのではない。

8.a.自分のよく知らないことについては発言せず妥当性が高いと思われることについてしか発言しない口数が少ないが誠実な学者と、b.自分のよく知らないことであっても果敢に思考し、学問間のネットワーキングを図り、啓蒙することに価値を見いだす学者 という二種類の学者がいるのだとすれば、池田さんは後者(b)の部類に属する。(a)の部類の学者が嫌いな人もいれば、(b)の部類の学者が嫌いな人もいる。(b)の途を選び取った学者は、しばしば間違いを言う。しかし、そのことの是非は、「学者」の発言が社会的にどのように扱われるのかという文脈形成も込みで考えられなければならない。「学者A」の発言が即座に、社会的影響力を与え、間違いが甚大な被害を与える可能性をある場合には、(a)のような発言が推奨されるかもしれない。全国放送のTVカメラの前で、軽々しいことを言う学者は非難されてしかるべきである。しかし、「学者B」の発言が、リテラシーのある程度高い相手に向けて、「学者が常に正しいことをいうわけではない」ことを前提にしているようなコミュニケーションが成り立つ場合には、(b)のような態度が推奨されるかもしれない。池田氏ブログの影響力はかつて、リテラシーがある程度まで高い層に限定して書かれていた。しかし、有名になるにつれて、その影響力は変化しつつある。よって、(b)のような態度を諸手を挙げて推奨するわけにもいかない。しかし、(b)の立ち位置を担う学者ポジションをまったく評価しない、というのはありえない。

追記1 2008/12/23

上記「8」は次のように言い換えることも可能である。

上記の記述は多少よく書きすぎている、との意見はもちろん一定以上、妥当である。

間違いをしばしば発言するインテリは、そのような態度をとる自分をしばしば「今コレが間違いであるという以上に、発言していくこと自体の意味が裏に何かある」という別の合理性を担保している場合が多い。たとえば、コンスタティヴな価値に対する、パフォーマティヴな態度を称揚するといった合理性は代表的なもの。池田さんの基準がいかなるものであるかについては、わたしはあまり池田ウォチャーでもないので正確にはわからないし、評価できない。が、しかし、個別の発言の妥当性以外のなんらかの合理性を彼自身の中では担保しながらしゃべっていることはほぼ確かだと思う。

 ただし、そういった別の合理性が持ち出されるすぎると、個別の発言における「今言っていることのことが正しいかどうか」ということに対するチェックが甘くなる、という現象はしばしば起きる。学者の発言について、個別の発言の妥当性の高さだけが、学者を評価する基準だという思い込みは、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。だが、学者の発言が、非学者層の発言と同程度に妥当性の低い発言を連発してもよいという基準もまた、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。

 両者のバランスをどこでとるか、ということは難しい。

 池田さんが何をしたいのかは知らない。なので、池田さんの考える、個々の発言とは別の水準の合理性が何なのかがわからない限り、池田さんを評価しようとおもったとき、「とりあえず」個別の発言の妥当性という基準を適用することには一定の合理性がある。だが、その合理性が合理性の一部でしかないことを考えるべきである。それは「とりあえず」の一部の評価の合理性でしかない。

*この「追記」の記述は、東浩紀と、東批判者たちについても同様に適用可能。ただ、東さんは明確に自らの価値アジェンダ・セッティングという行為の中に見つけているとは思われるので、池田さんと比べると、「担保すべきだと考えている別の合理性」の水準が理解しやすい人だという印象はある。

追記2

fromはてぶ

「なんで支持者も不支持者も、人格人間性で主張の妥当性を判断しようとするのか。「人」を信頼してはいけない。面倒でも個々の主張についていちいち信用すべきか否かを検討すべき」

 もちろん、それも一つの合理的な態度だとは思う。しかし、「人」や「組織」をある程度まで、使い勝手のいい単位だとしておかないと成り立たないところもやっぱりある

 たとえば、わたしがよく知ってるor考えていることであれば、そのことについて「××さんが言った」「○○さんが言った」ではなく、主張の内容レベルでの判断はもちろん可能だし、できる。そういうときには「人」という単位はほとんど機能しない。単に主張Aを言っている人がいて、主張Bを言った人がいた、という程度の意味合いしかない。

 しかし、わたしが全く知らないことをはじめて知ろうと思ったら、まずは「人」「組織」「定評のある本」に対してある程度まで高い信頼を置いて、そこから情報を得るというのはとても効率的で、合理的な行動になってしまう。それは、わたしにとっては検討しようのないことなので、「人」や「組織」や「定評のある本」を採用するしかない。不案内な分野の入門書を読むときに、「ハーバード大学教授で、全般に頭良さそうな人が書いている最新の本」と、「三流大学教授の、いまひとつ何を言っているかわからない10年前の本」で対立している主張があり、わたし自身に、その対立を検討するための十分な情報がないのであれば、「へぇ、対立する議論もあるんだなぁ」というぐらいに思いはする。でも、とりあえずはハーバード大学教授の言っていることのほうが「たぶん、こっちのほうが妥当なんだろうな。よくわかんないけど」という形で、ある程度、組織とか評判を信じてしまうよね。

 我々は、出会った知識の全てを検討するだけの無限時間などは与えられていないので、誰がよりよいことをいってそうか、どの本が最も定評のある本か、ということは、「より、まっとうそうな知」を得ていくための効率性にかかわることになる。はじめて仕入れるたぐいの知識が、いままでの自分経験上/知識の上で整合性があるかどうか、ぐらいのことは考えられるけれども、分野が遠くなれば遠くなるほど、「とりあえず、たぶん、この人の言うことはかなりの度合いでレベルが高いはず」という情報はとても役に立つ。教える-学ぶ関係においては、そういう「権威」がもっている効率性の問題は避けて通れない。

 理想的には、おおざっぱなクオリティ選別の効率性を機能させるために存在している権威や評判のようなシステムよりも、一つ一つの主張の妥当性を検討できるような態度に至れることのほうが望ましいのは言うまでもない。だけれども、わたしたちは、能力にも知識にも限界があって、そういうことができない。だから、権威や評判のシステムをわたしは利用するし、今後も利用し続ける。

追記3

http://anond.hatelabo.jp/20081223163942

クルーグマン経済学受賞に関する記事なんだけど、ここからトラバ先をたどると経済学blogでの池田氏への批判の主なものは見られるんじゃないかなあ。

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20081014

だそうです。

まあ、山岸俊男風?にいえば「信頼」性はともかく、誰かが池田の発言に対しては必ずレビューをしているという意味での「安心」の対象としては機能しやすいとか言ういいいかたはできるかもなぁ。それがインターネットというもののよさというか。手間かかるけどね。

追記4

池田ファン扱いされた…なんという微妙な気分。これが池田効果か。

わたしはそれほど熱心な池田読者ではない、…と自分ではおもっています。

実際、エントリ100個も読んでないんじゃないかな。

むしろ、池田被害者

追記5 

上記の記事に対してid:lets_skeptic氏から、よいコメントをいただいた。

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224

そもそも問題は「間違ったことを言う」ことなのだろうか?「畑違いの分野に言及する」ことなのだろうか?違うと思うのだ。

自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか?という知的誠実さ。求められているのは、そんな当たり前の誠実さじゃないんだろうか。

主張の信頼性は基本的に別問題です。といっても、誠実な人ならば「ろくに調べずにものを言っている」「無根拠の思いつきを言っている」「嘘をついている」という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなるので、関係がゼロだとは思いません。

議論の建て方として「誠実さ」という別の軸を立てられる、というのはいい指摘だと思う。インター・ディシプリナリだからと言って許されるわけでない。ただ、わがままを言えば「追記1」に書いた部分についても一応目を通していただければ幸い。追記1、はこういう批判に対する防御線として書いたわけだけれども、かえって問題の建て方を曖昧にしてしまったようで反省。「インターディシプリナリ志向であれば、誠実でなくとも許される」として、確かに読めてしまう。

で、発言の「誠実さ」と、個別の発言の「信頼性」が別問題であり、問題を分けて考えるべきだ、というのも、その通りだとおもう。(その点については、上にちょこっと書いた、山岸俊男氏の「安心」と「信頼」の区分にも通じる問題系である)

そして、その基準でもって池田さんを論じることは、意味があるだろうと思う。

ただ、もちろん、だからといって、先に挙げたわたしの、区分そのものが<一般的な区分として>まったく無意味なものだ、ということを認めるわけではない。また、<池田さんに対して>わたしが挙げた基準で判断をすることが適当か、という点については、いくつかの基準のうちの一つとしては、やはり適当だと思う。論じる基準が、一つである必要はない。論じるべきは、どの基準が最も正しいか、ではなく、、基準A「誠実さ」の問題と、基準B「学者としてのアプローチの違い」の問題と、どちらが池田さんを論じる上でより重要な問題とすべきか、ということになる。その点は、どっちなんだろうなぁ。前者かもしれない。

それと、lets_skeptic氏は知っている話だとは思うが、さらにやっかいな話をもう一点してフォローしておくと、パフォーマティヴな発言の「誠実さ」というのはとても評価がめんどくさい。

議論のための議論のように聞こえてしまったら恐縮だが、

たとえば、

1.「XXがよりよいことなので、みんなで××にコミットすべきだ」と発言があり、

2.XXがぜんぜんダメでぽしゃった

3.しかし、原因はXXがそもそもへぼかったからではなく、みんながXXにコミットしなかったことが原因である可能性がある。(つまり、みんなが××をしていれば、××はほんとうによりよいことだった)

というようなことがあったとする。

このとき、「XXがよりよい」と発言していた人は、「間違ったことを言った」とどこまで言えるだろうか。

もちろん、「現時点の観測からすると、結果的には間違っていた」といえる。その限りで詫びてもよい。

しかし、「現時点の観測からすると、間違っているように見えるかもしれないが、やっぱり私の言っていたことは正しい。みんながコミットしなかったことにこそ原因がある。だから、わたしは、一時的に、結果的に間違っているかもしれないが、××はただしい、と言い続けるし、そのことについては謝らない」という人がいたとして、その人の「誠実さ」とはどのように評価可能だろうか。

わたしの知っている人のうち、この手のパフォーマティヴな価値に言及しようというようなタイプの人、(ネガティヴな言い方をすれば、自己成就予言的な性質のある話をしている人)というのは、議論するとやっかい、つーか、めんどくさい、つーか、並大抵のことでは謝らない。この手の人々に対して、「誠実さ」とか言い出すと、話がズレることが多い。

データみせても、「いや、現時点でのそういう結果を出されても、それはぼくの言っていることの根本的な反論にはまったくなってなくて…」といわれて議論にならないことが多い。かなり理論的なところで闘う以外に手がない場合が多い。人によっては、理論的なところですら闘えないような話をする人も多い……。これが、「ムー大陸が~」とかって言うタイプの人だったら、「DQN乙」で終わってよい場合も多いけれど、、ガチインテリの人でもこういう話はけっこうやる。こうなると、どこまでが謝ったりする範囲で、どこまでが謝らなくていい範囲なのかが、遠目にみると混迷を極めているように見え、エンドレス不毛な会話がなされる場合がけっこうある。

というわけで、結局何が言いたいのか、というと、

・「誠実さ」概念をめぐる指摘には同意するし、すばらしい指摘だとは思います。

・だけれども、「誠実さ」という変数だけで全部解決しようとしても、そこでもまた、ディスコミュニケーションは起こりうるのでは?

 まあ、自己成就予言的な話をするとき、それは社会科学者ではなく、批評家とか政治家とか呼ばれるたぐいのものになってしまう、という解釈もありうるんだろうけれど。政治的/批評的行為によって、理論の実証を目指してるんだ、という言い方もできるので、そういうことを言い始めると、社会科学における「科学的」と認められる発言の境界線はどこに引けるのか、ということになってくるので、わたしの手には扱いあぐねる。たぶん、科学哲学的にアツいところなのだろうけれど。そこらへんの話については、わたしはぜんぜん科学哲学についてフォローしているとは言えない人間なのでlets_skepticさんのような人から教えを請いたいぐらいの話です。

***

しかし、やっぱり、増田なんかで書くとどうしても脇の甘い書き方をガンガンとしてしまうなぁ。まあ、脇が甘くても、「たかが所詮は増田記述」だと思われ、その程度によまれればいい、ということを期待してしまっている自分がいるから、そういう書き方になるのだろうけれども。

それと、トラックバック先のskeptic氏へのはてブコメント

「豹変できないからこそ君子と呼ばれないのだ。誤字や言い間違いレベルの些細なことですら、ちょっと謝って訂正して感謝する程度のことが出来ない人が多い/ただ、誠実な人に限って「当たり前」以上の誠実さで潰れる」

もまた、的を得た指摘だと思われる。

結局、誠実…というか、ノイズを気にせずになんでもかんでも答えずにはおけないような人は、たとて、どんなに頭がよく、<知にたいして>誠実な人であったとしても、ウェブ上で活動するのはかなり負担がかかる。すくなくとも、学際的なひろがりのある人とかだと、ウェブ上で何かやろうとすると、潰れやすい。それをまた、「議論に負けだ」のなんだのとはやしたてる連中も発生すると、ごっそりとやる気をなくす。その結果、ウェブ上で「ちょうどいいぐらいの」コミュニケーションのできるインテリというのは、一定度以上にノイズを気にしないでいられるタイプか、ノイズがそもそも生まれないような振る舞いでいられるタイプインテリかということになる。実際には、ノイズが生まれないような振る舞いというのはそんなに簡単なことではない。はてブコメントのうちの5%ぐらいには文脈ぶっとばして、一読して偉そうなことを言う人、というのがいる。はてブ以外に、ブログであってもいるけれども。

 もちろん、「ノイズ」に類するようなどうでもいい話に対応する「誠実さ」と、重要な指摘に対して対応するような「誠実さ」は別種のものだ、というように理屈上の区分は付けるはできる。しかし、実質的に、外からの指摘に応答する当人にとって、指摘がノイズなのか重要な指摘なのかを判断する根拠は、曖昧であり、当人が、常に、「誠実に」悩み続けることによってしか、それらは区分できない。結果、在る一定以上まで有名になると、「誠実」な人であればあるほど、外部への応答コストの負担によって潰れることになる。

 ちなみにわたしは、わたしが実名で発言しているところに100ブックマーク以上ぐらい付けられると、うれしい反面、だいぶむかむかしてくる。「はてブ/2chの連中は全く…!」とは思わないけれども、はてブ2chのようなアーキテクチャが出てくると「ウェブ上でどの程度、冒険した発言がOKか」「ウェブ上では、どの程度外からの指摘を気にしないメンタリティがいいのか」といったことに対する「望ましいありよう」の最適さが変わる。これはつまり、政治家が演説でくだらない発言しかしなくなる、ということに似ている。政治家がバカなのではなく、現行の世論システム/投票システムとの相性を考えたときに「望ましい程度の発言」というもののバランスがどこに落ち着くのか、ということだ。ウェブ上が、学者コミュニティとして機能するクローズド空間(※学者の作法を全員が受け入れることによって成り立っている空間、という意味で。作法を受け入れる限りにおいてはもちろんオープンである)ではなく、現状のようなオープンな一つのプラットフォームになっている限りは、学者的な作法が、ウェブ上において必ずしも「ほどよい」ものとして機能するとは限らない。市場システムが、市場に課せられたルールアーキテクチャいかんによって均衡点のありようを変えるように、議論のシステムもまた、議論に課せられたルールアーキテクチャいかんによって、その均衡点のありようを変える。学問というのは、その均衡点のありようを「知の継承、発展」にとっても最も効率的になるように目指し、調整がなされている議論のルールシステム体系のことだと思っている。ウェブが一つのプラットフォームとしてではなく、複数のプラットフォームを切り分けるような(たとえばSNSシステムとしての発展可能性をみせれば、学問の作法がより効率的になるプラットフォームとしても機能しうるだろうと思う。ただ、今のウェブという空間が生み出す、議論の均衡点は、おそらく、かなり傍若無人な人のほうがやりやすいぐらいになってしまっている。理想的には、もっと「誠実」であってほしいとは思う。しかし、「誠実」であることによって、評判を生み出し、注目を浴びやすいようなアーキテクチャにはなっていない。そのことが、池田さんをめぐる最も、面倒な問題なのかもしれない、と思う。

2008-12-17

卒論ブルー

http://anond.hatelabo.jp/20081217152150

文学部4年

最初はやる気満々で決めた卒論テーマだったけど、

社会的意義やら学問的意義やらを考えているとあまり意味がない気がしてだんだん鬱になってきた。

周りの人は「いいテーマだよ」と言ってくれるけど、自分で納得できなきゃ意味がない。

一応内定はもらっているけれどあまり行きたくないところで、

12月過ぎたあたりから内定ブルーにもかかって死にそうになってる。

それでも這いつくばりながら25ページくらい書いたけれど、全然自信がない。

院進学する人が多いこともあってか、周りはすごく気合い入れて論文書いてる。それを見てさらに鬱になる。

私はデータの分析(社会学系です)もかなりテキトーだし、調査に協力してくれた人(インタビューをした)にも申し訳ない気持ちでいっぱい。

自分はなんて怠け者なんだ。みんながんばってるのに。自分も鬱にならずにいられたらああやってがんばれたかもしれないのに・・・」

論文にはところどころ体裁を取り繕うような細かい嘘もちりばめられてる。

そんな嘘をつけばつくほど、自尊心が傷ついてさらに苦しくなる。

教授は「内定あるから卒業はさせてあげる」と言ってくれるけど、それを免罪符としているのか相談に乗ってくれない・・・

年明け提出だけど、このメンタリティで年越しするのはとてもつらい。ただ今週末忘年会で一瞬苦しみを忘れられそうなのが救い。

知識を吸収するような勉強はめちゃくちゃ好きで、受験もなんなく乗り切れたけど、研究は全然違う・・・自分との戦いだ。

ここまで研究って精神力がいるものか、と今更ながら痛感した大学4年生です。

大学院行く人ってすごい。私はもう研究についてつっこまれることすら嫌なので、無理です。

ああ、口頭試問が嫌だ。

2008-12-07

釣りだろうけど」と前置きする人々

http://anond.hatelabo.jp/20081206224500

その「釣られる」って何?

何かの宣言なのか?

「俺はあなたの書き込みを本心からのものではなく、ある種の挑発だとみなしているけど、あえてその挑発に乗った上でレスしますよ」みたいな言い草のこと?

もしそれが挑発の類だということが後になってから判明した場合、まじめにレスしていた自分ピエロになってしまうから、それをあらかじめ避けるために「釣りだろ?わかった上でレスしてやんよ」という前置きをしているのか?保険なのか?

でもさ、それ簡単に使って良いセリフじゃないと思うぞ。しょっぱなから相手の投稿の動機を邪なものだと否定してから入ってんだもん。どんだけコミュニティで「いっぱい食わさ続けた」らそういうメンタリティになるのか興味深い。辛い経験をたくさんしてきたのだろうか。書き込みを見たら釣りだと思え的思考だもんなこれ。

あとさ、

一応つられておくが、首相が書いてるから信頼性あるってのは信者だけだろ。

お前、元の書き込みから読んでるか?

匿名だったらどういう素性の人間が書いているのかわからない」という話をしてんのに、どう読んだら「首相が言っていることは正しいかどうか」の話になんのよ。

どうして童貞でないことにショックを受ける女が居ないのか

結論から言うと、女の優先順位において「ちんこの未使用度」って低いんだよな。

もちろん、女だって男の最初をほしがる征服欲はあるんだが、大抵は「キス」だったり少し古いネタだが「制服ボタン」とかそういうとこにいく。これらは女性シンデレラちっくなメンタリティに大いに絡ませる物語性を秘めてるからで。

ところが「ちんこ」となると、女性視点としては生々しいんだよな。

子供的には男の子おしっこのでるところ、ってのが幼女つーか、小学生の発想。性教育を通過しても、「ときめき童貞喪失物語」(仮)ってストーリー普通女の子には思いつきませんぜ。「えーあんなのがあたしの中にはいるのガクブル」てのが正直な女の子の考えなのは理解できるよな?

むしろ、処女的には「膜が破れるような痛い儀式をはやく通過したい」という発想が特に近年はある。「結婚して子供ほしいけど、セックス怖い」を払拭するために、女の扱いになれてそうな男に集まってくる。むしろ、そういう観点から言うと、童貞っては、新入ホストみたいな存在不安なんだよ。いくら頭でシュミレーションしても、実際やってみないとわからないことってけっこうあるんだよな。セックスって。

話が脱線した。

結局「童貞喪失」という現象に対してあんまり女の子が興味ないってことなんだよな。突き詰めると。「○○くんのさいしょは、あたしがとるの〜」ってすごくフィクション的に奇跡的で作れそうなんだけど、実際やってみると、不手際とかあってリアルではきつい。

女性は、結構シビアなんで、その失敗体験でイメージダウンしたりして、うまくいかない場合が多い。

1回のセックスですべてうまくいくというのは、エロゲ脳だよね。

2008-11-27

献血ルーム出会いたい

2週に一回、献血ルーム成分献血してる。

まぁ本屋行くついで。

終わればお菓子も食べれるし、ジュースも飲めるし、マンガも読める。

2週待てば血液検査の結果がはがきで届いて、簡単な健康の指針になる。

で、毎回行くたびに思うんだけど、あんな献血ルームに進んでいっちゃうような女の子っていいよな。

とりあえず健康だってことだし、今日献血にいくようなメンタリティ持ってるとか、結構魅力的なんだけど。

アイス目当てでもねw

あー、赤十字はそういう出会い系やってくれないかな??

2008-11-18

http://anond.hatelabo.jp/20081118230907

人間誰でもいい部分も悪い部分もあるんだから、もう少しだけでも許しあっていきましょうよー!

と思う今日この頃でした。

そういうメンタリティに付け込んで好き勝手やってる連中が居るわけだよ。そういう連中が同じ台詞を吐く姿を想像してみ?

人間誰でもいい部分も悪い部分もあるんだから、もう少しだけでも許しあっていきましょうよwwww」

そいつらにはいつかきっちりと責任を取らせる仕組みはどうしても必要だろう。でないと、いつまで経っても「正直者がバカを見る」世の中から抜け出せないままだ。真面目に責務を果たす人間が報われるための努力を怠ると、中国のように腐敗が横行する社会になってしまう。

追記

当然ながら、今回のようなやり方は「ケジメ」でも何でもない。ただのテロルだ(今のところ関連性は不明だけど)。

2008-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20081114214223

ひとつは、骨が黒いとか痛んだとか言われたことで、まるで自分達の看病が悪かったと責められた気分になったんじゃない?

そういう問題じゃないと思う。

「ほらほら、骨が黒くなってる。あっちも、あっちも。黒いところが病気のところなんだよね。」「こりゃあ、痛んだろう。」「辛かったろうね。」「○○ちゃん、あの黒いとこが病んでるとこ。」

これとか、もうなんていうか死者を弔いに来てるんじゃなくて、野次馬根性としか思えん台詞。この人たち、死者をダシにして、盛り上がってんだよな。悲しむとかじゃなく。

本当に悲しんでる側からすりゃ、そら、死者をネタにして盛り上がってんじゃねーよ、勝手にダシにしてんな、胸糞悪いなと思うだろ。

死者をネタにして悲劇性のドラマ仕立て上げてそれをキャッキャと楽しんでるだけ。本人らが気付いてるかどうかは知らんが。何か犯罪が起きた時、街頭インタビューすると、オバハンやオッサンが適当なこと言ってるだろ?あれと同じ。ワイドショー見て盛り上がってるのと同じ。火事が起きたら「あらやーね、あらやーね、ひどいわね、まああれみて、すごい火よ」って言いながら消防署員の邪魔しつつめっちゃ見てるようなメンタリティ

人として下品極まりない。

低俗とはまさにこのこと。

2008-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20081109145401

http://anond.hatelabo.jp/20081109145401コメントに対して

元増田です。(こう名乗ればいいのでしょうか・・・?)

未練タラタラだと自分が気づいた場合、会いに行く人とそのまま自分の中で処理しようとする人がいる

確かにいますね。

おそらく恋愛観の違いだと思うのですが・・・。

(ここは経験不足で言語化することができません)

ただ、厳密に言うと私は「今回は」後者です。

年齢とかその時の状況とかそれまでの経験とかで変わってくるのではないでしょうか?

で、投げかけられた

自分の中で処理しようというメンタリティとその差は一体どこに生まれるのかな

という言葉

一般化して語るには経験不足、かつどの程度まで掘り下げて語ればいいのかわからないので、

私個人の所感を。

おそらく、プライドと変な達観はあると思います。

「素直じゃない」といわれれば、それまでですが、経験上「恋愛とはこういうものだ」という恋愛観があると思います。

=====

恋愛が始まるときは二人の合意が必要。別れるときは片方の意志があれば成立する。」

恋の終わりを決めるのは双方ではない*

私がどんなにすがり付こうと、泣き叫ぼうと、言い残した言葉を伝えようと、

(今回の場合は)恋愛はもう終わっているのです。

「やってみなければわからないじゃない!」という考えとは、根本的に違って、

恋愛って言うのは別れを切り出した瞬間にはもう終わっていて、片方が納得しようとしまいとその恋自体は終わっているのだ。」という考え方です。

ただの倦怠期で、お互いの努力次第で何とかなるのならまだしも、

片方の努力不足の場合(もしくは努力する意志がない場合)、もしくは片方がその恋を「終わったもの」として扱っている場合ですね。

判別は難しいですが。

私の未練というのも「次はもっとこうするのに」とか「言い残した言葉がある」というよりは

「あぁ、やっぱり彼のことが好きなんだなぁ。でも付き合えないんだなぁ」というモノだと思います。

おそらく、私の場合はお互い特に努力の余地がないのが一番の理由だと思います。

大きなケンカもせず、お互いの嫌なところをあげつらうこともせず、彼の心だけが離れていった。

「ここが嫌いだから別れる」なら、直す余地もありそうなものですが、

もう無条件に恋愛感情がわかない、恋愛感情が枯れてしまった。

彼がもうこの恋は終わりだと思っている。

それだけのことだったのです。

私が何をしようとしても、何もしなかったとしてもおそらく変わらないんだと思います。

「納得がいくまで」というのは、どういった状態のことを指すのでしょうか?

もう一度付き合えたら?

じゃあ付き合えなかったら?

気持ちがすっきりしたら?

それは言い残した言葉を受け止めてもらえたらということ?

別の増田さん(こういう言い方しますかね?)が仰っている「オナニー」は、

「独りよがり」もしくは「エゴ」という言葉で置き換えていいでしょうか?

おそらくそれだと思います。

結局のところ、未練を解消するためだけに片方の意志を無視して行動してしまうと、

ストーカーとなんら変わりのない独善的な行動になってしまうのかなって思います。

ちょっと不公平な気もしますが、

ふられた側ってそういうものなのでしょうね。

だから、「別れる」という相手の意思を尊重して、自身で処理するのだと思います。

おそらく結局「彼が好きなんだなぁ」という気持ちが消えるのは、

まったく別の要因な気がします。(時間とかストレスのはけ口とか)

「愛しているものがあるなら、自由にしてあげなさい。」

返ってくればあなたのもの。返ってこなければ始めからあなたのものではなかったのです。

一度終わったもの、終わらせられたもの。

自分は見限られたものに対して、何の変化もないまますがりつくことには意味がないのだと思います。

元増田記事に書いたように、弱さと向き合って、何かを変えないと、また同じ帰結になってしまうのではないかと思うのです。

もし、倦怠期ケンカの延長で別れてしまったのならお互い忍耐強さを学ばなければならないし、

恋愛感情の変化で別れてしまったのなら、本当に大切な存在だったのか客観的に見る機会が必要なんでしょうね。

自分で立ち直ってから、彼とまた恋愛を始めようと努力するか、別の恋愛をはじめるかは、結局その人次第ですが。

未練は一度終わった恋を見直してからじゃないと、ものすごい凶器になるのではないかと思っています。

anond:20081109022741

いつも疑問なんだけど、

未練タラタラだと自分が気づいた場合、会いに行く人とそのまま自分の中で処理しようとする人がいて、

個人的には、精神衛生上よろしくないから納得できるまですがるだけすがってみれば?とか思うのだけど、

自分の中で処理しようというメンタリティとその差は一体どこに生まれるのかな、とか。

水村美苗日本語が亡びるとき』の紹介の追記

昨日、d:id:umedamochioさんの紹介にインスパイアされて、

http://anond.hatelabo.jp/20081108170922

にて本の紹介記事を書いた。そこで、この本を読んで、熱く反応する人、つまり、水村さんの問題意識共鳴する人というのは次のような人だということを書いた。

わたしがこの本を読んで思ったのは、

日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。

そして、今日dankogaiさんが書評を書いているのを見つけた。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html

小飼弾さんがこの本を強く進めているのも、上で書いたような理由で、心に響くところがあったのではないかと推察する。

「在地(ローカル)の普遍人」というメンタリティーは、非常にアンビバレントなもので、ローカルにいて「異国人」であるだけではない。

普遍人であるにもかかわらず、普遍語が話されているその中心にいても(水村さんの枠組みによれば「普遍語」となった英語の話されているその中心にいても)、異国人たる意識がなくなることはない、

というものではないだろうか。

そういうことを思った。

2008-11-08

梅田望夫「紹介・水村美苗日本語が亡びるとき』」の補足説明を試みる。

【要旨】

 梅田望夫さんが水村美苗日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。

ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。

(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm

【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)

水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

 コメント欄ブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。

 これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。

 水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。

 そうではなくて、水村の議論はこうである。

 水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。

 中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語ドイツ語になる言語)しか存在していなかった。

 近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。

 しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。

そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 

 以上が水村さんの議論の紹介。

 このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、

日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。

 というわけでブクマコメント欄にあった、

英語日本語日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは

という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。

これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728

【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。

 近代においては、国語国民国民文学という等式が存在し得た。国語普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、

ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが

近代国民国家における国語による国民文学

であった。

しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。

これが水村さんの問題意識である。

このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】

【★さらに追記:

「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。

「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。 

文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。

テレビ番組低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人テレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。

このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。 

テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。

日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。

水村さんのインタビュー記事を読むと、

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

中途半端国民バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版伝統を維持する。作文を書かせるより、古典たっぷり読ませる教育を積む。それが日本語生命を保つ現実的な方策

ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会ローカルレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】

 

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