はてなキーワード: ミクロとは
とっかえひっかえのセックスを問題にしてる時点であんたが意識しようがしまいがそういう目でしか見られない。
オーラルセックスでも性病に罹患するからゴムフェラにしましょう、ならまだギリギリで話はわかるけどな。
それでも性病の危険があるから沢山の人とのセックスを楽しむのはやめましょう、って世の中つまらなさすぎるだろ。風俗もほぼ全否定じゃないの。
当然危険性を理解することは必要だとは思うけどね。君はじゃあそのリスクがどの程度なのか、って話から始めようとすらしてない。
さて、最近の俺の生活といえば
正午ごろに起きてニコニコ動画づくしそして寝るのが深夜4時という生活を繰り返しております
もちろん勉強なんてしてませんよ
勉強やろうとしていてもやれないものなんですよ
予告しておきながらやらないということがスタンス化しつつあるのを少しは変えなきゃねw
さて、世の中には同志社に行きながら俺は負け犬だとほざくKYな人がいるのですが
考えてみれば今は大学全入時代だといわれるくらいなのになぜ全員大学に行かないのでしょうか?
そのなぞについて少しばかり調べてみました
この本には学歴格差について親の学歴と子供の学歴の相関関係について書いてある章があるんですね
その中のデータとして書いてあるのが
というデータなんです
これは1995年のデータですから今は違うだろという意見もありますが、実際社会人にしめる大卒の割合が1975年は47.2%、1995年に51.3%2002年に50.3%であって
高度成長期以降、大卒の割合はあまり変化がないということが立証されてるそうです
さらに深く調べていくと上記の2の割合も40%で推移しており3の割合も67%あたりで推移しているそうなんです
大学が増え、少子化で入りやすくなった今でさえそうなのはおかしいと思いませんか?
特に2のパターンの割合が増えてもいいはずです
その謎を解くためにある説が提唱されることになるのです
それが学歴下降回避説だそうです
人はいろいろな事情でまず、自分が大学に進学をするか否か、そしてどこの大学に進学するか否かを決めますよね?
よく2chで言われることは大学の偏差値、自分の学力、そして家庭の経済状況などの個人個人のミクロ的な視点ですが
この本ではそれは学歴の問題を考える上であまり重要ではないと書いています
つまり、人が自分の学歴について選択する時、潜在的に何が強く影響するかというと親の学歴や職業階層なのだそうです(※親だけではなく兄や姉ということもあります)
上のデータから考えると親(兄や姉)が大卒の場合その子供(弟や妹)はそれと同等かそれ以上を求めて大学進学の意欲を高めるそうです
逆に親が高卒の場合子供は高校卒業によって相対的下降が回避され、差し迫った欲求が発動しないそうなんですよね
このようにより高い大学に行きたいという意欲を持つかどうかは親がかなりの影響を与えるそうなのです
また、近年はこの傾向がより顕著であると述べていますね
親の階層が低い生徒ほど脱学校的な要素から自尊心を獲得、つまり学校での競争を降りて自尊心を獲得する
そしてゆとり教育は意欲のない人を無理に勉強させたりしなくなったことからさらにこの影響を拡大したそうなんです
考えてみれば確かにそうかもしれません
俺の親は高卒で母親にいたっては因数分解もできないほどなんですが
そういう環境に育ち、中学までは自分が行きたい大学名すら知りませんでした
塾の講師をしていて驚くのは、今は小学生ですら自分は??大学に行きたいなんて言うんですよ…
そして「何でその大学なの?」と聞くと
大学受験のころ志望校とかを名大とか馬鹿なこと書いていましたが、受験勉強がつらくなってくるとなんでこんなことまでして必死に偏差値の高い大学目指そうとしてんだろう?
って思うようになるんですね
そしてその時に支えになる大きな根拠がないんですよ…
もちろん高い偏差値の大学の方が就職で有利なのはわかっていますが、実態が見えないし、親が高卒で体験談も聞けない状況では「絶対いけるように勉強しなきゃ」という根拠として成り立たないんですよ
そう思うとやはり親が大卒とかだと影響ありますよね
「俺は??大学だからダメだったんだ」という話も聞けるだろうし
俺の場合親は「大学行っても私たちは大学について全然しらないから自分でしっかりやりなさいよ」しか言いませんでしたからね
学歴について話なんてしたことなんて一回としてありません
そのような中で勉学意欲を維持するのは難しいものですよ
よっぽど勉強好きでない限りね
この世の中は格差社会とは言いますが教育面は「意欲格差」ということではないでしょうか?
いくら自由になったとはいえ、眼には見えない「意欲」という壁が格差を生み出してるのではないのでしょうか?
あと言いわけかもしれませんが…
2のパターンはFラン含めて40%だから準マーチレベル(学歴ピラミッドの上から7%)の南山だとかなり珍しいのかな?
名市受かるレベルってこの40%の中でもどれくらいだろう?3%くらいなのかな
名大なんて行ってたら奇跡レベルだったかもね、2のパターンでたぶん0.5%くらいだからw
出自から見れば俺は名古屋商科大学くらいが相当レベルだろうから
長文スマソ<(_ _)>
社会において実質的に機能している「学歴主義」って、会社の書類選考上のスクリーニングだけでしょう。
面接過程にはいったら、学歴よりももっと生の情報がたくさんあるんだから、人事担当者が合理的であるかぎりは、非学歴的な情報のほうが重要視されるものとおもわれます。でなければ、そんな会社はすぐにつぶれてしまう。
いわんや入社後のキャリアをや。「能力がないのに学歴だけはあるひとばかりが昇進していく」というのはルサンチマンゆえそれが目につくだけで、それが大勢であるとはとてもおもわれません。でなければ、やはり、そんな会社はつぶれてしまうでしょう。
商売人というものをあまりなめないほうがいい。
学歴のことでいじめられた、とか、そういう話もあるかもしれませんが、そういう社会意識上の対立はミクロな政治的対決によって乗り越えていくしかないわけで、ここでは、給料やポストといった客観的地位を決める上で学歴というものが効いているかどうか、ということだけを考慮にいれます。
ついでにいうと、それが学歴によって決まっているとしても、それだけでは問題になりません。問題となるのは、そうした選抜が、社会的に見て非効率であったり、不公平であったりする場合のみです。
ここでは「社会において実質的に機能している『学歴主義』って、会社の書類選考上のスクリーニングだけ」だということにして、この点についてのみ考えてみましょう。これ以外の場合については今回は考慮しません(たんなる予想ですが、これ以外の問題はすべてルサンチマンによる色眼鏡でしょうね)。
この場合、学歴主義批判の第一答弁はつぎのようなものになるはずです:書類選考上のたんなるシグナルにすぎない学歴で候補者を切り捨てるなんてけしからん!
この主張に対する反対答弁はこうなるでしょう:入社時にシグナルとして使われていることなんてはじめからわかってるんだから、そのシグナルを身につけられるようにがんばっておけばよかったじゃない。
話をイメージしやすくするため、ここでは「書類選考上有利なシグナルを身につける」=「良い大学にはいる」ということにしておきましょう。
この反対答弁を生き延びられる学歴主義批判はほとんど存在しないと思います。「学歴が重要だなんてことははじめからわかりきっていたことなのに、なんでそれを手に入れておかなかったの」。そうではないですか?
この反対答弁を生き延びることのできる学歴主義批判はふたつだけだと思います:(1)入試で必要なスキルと社会人に必要なスキルはちがうのに、入試で人々を選抜するなんて、社会的に見て非効率だ、(2)お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめる。これは不公平だ。
問題は、かくして、「良い大学にはいる上で社会的な非効率性や不公平は生じているか?」という問いへと移ることになります。
現行の大学入試は社会人になって役立つスキルをもった人間を選抜するうえで役に立たない?そこには社会的な非効率性が存在している?
それは正直わかりません。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれません。そんなの、誰にもわからないでしょう。
とりうる方策は、大学教育の目的(ここでは「よい会社にはいれること」になってしまうわけですが)の達成スコアがその大学への入学の難易度に反映するような仕組みをつくることだけでしょう。実際の具体的な選抜の方法は各大学が試行錯誤のうえ見いだしていくしかありません。
結局は各大学の目的達成スコアの歴史がその大学のブランドを決定し、その大学への入学難易度を決めるのです。そう考えれば、すでに何十年ものモニタリングをへて形成されてきた大学のブランドには、おおむね一定の有効性がある考えるのが妥当でしょう。学校教育の成績と社会でのスキルがまったく相関していないとすれば、この制度が何十年にもわたって存続しえたはずがありません。
もちろん、「もっとよい制度」はありうるとおもいます。それは否定しません。事実、世界の選抜システムが日本とおなじわけではありません。しかし、そうした批判は、(1)「もっとよい制度」を具体的にデザインして、(2)その制度が優れたものとなりうる根拠を論理的にしめしたうえで、(3)何年、年十年かそのシステムを走らせることによって実績をつみかさねる、ことによってしか現行の制度にかわることはできないでしょう。そんな途方もない!と思われる方は、現行の選抜制度はこのプロセスを生き延びてきた制度なのだということを忘れるべきではないでしょう。
現行の選抜制度の非効率性についての結論はこの通りです:非効率かもしれないけど、非効率じゃないかもしれない。すくなくとも何十年も存続しているんだから、そんなに悪くはないんだろう。文句があるなら、もっといい制度をデザインしてからにしてくださいよ。
最後に、もっとも重要な点ですが:お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめる、というようは不公平は存在しているのでしょうか?もしこれが本当だとすれば、学歴主義は間違いなくけしからん制度です。機会の平等という、近代社会の基本原則に抵触します。
この文脈でよく引き合いにだされるのが「東大進学者の両親の平均年収は1000万円をこえている」というはなしです。Presidentなんかでもよくみるはなしです。
この話を聞いたときにいつも思うのが次のようなことです:それって疑似相関なんじゃないの?ほんとの要因は遺伝で決まる能力なんじゃない?「親の能力高い→親の年収高い」、「親の能力高い→子供の能力高い→子供の学歴高い」、という因果関係が存在しているだけで、「親の年収高い→子供の学歴高い」というのは疑似相関であって、因果関係ではないんじゃないの?(疑似相関の意味がわからない人はググって下さい)
だから、被説明変数を「大学志願率」として、その決定要因を探りたいのであれば、最低限、「親の年収」にくわえ、「親の学歴」をいれるべきでしょう。このモデルで「親の学歴」が有意で影響大となる一方、「親の年収」の影響力が下がるのであれば、その結果は、「子供の学歴を決めるのは親の年収だ」という主張があやまりであることを支持するものになります。
また、「親の年収が高いほど子供の教育にお金がかけられるのでいい大学に行けるようになる」と主張したいのであれば、そのままずばり「○○時点教育投資額」のような変数も決定要因にいれてみればよいのです。
「お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめるのは不公平だ」と主張したいのであれば、最低限これぐらいの論拠はしめしてほしいものです。
そんな論文ないものかな?と思い、google scholarで「教育 学歴 年収」といれてみたところ、そのままずばり、次のようなレポートがでてきました。
(1) 自分が大学に進学するとどれぐらいのリターンがあると考えているか(主観的ベネフィット)
(3) 保護者が子供の進学にかかる資金を負担できると保護者が考えているかどうか(主観的資金調達能力:保護者)
(4) 保護者が子供の進学にかかる資金を負担できると子供側が考えているかどうか(主観的資金調達能力:高校生)
(5) 中三時点までにどれだけの教育投資を行ったか(中三時点既出教育投資額)
(7) 性別
結果は次のようなものだったようです:「すべての経済変数が、大学進学希望に関して予想される形で影響を及ぼしていることを意味している。また同時に、親学歴を含めると大学進学行動の予測を7割強の確率で行えることを表している。また、標準化したロジスティック偏回帰係数に注目すると、進学行動を強く規定しているのは、保護者最終学歴(父親)、主観的資金調達能力(保護者)、性別、主観的資金調達能力(高校生)、主観的ベネフィット、中三時点既出教育投資額、客観的資金調達能力の順となっている」
要するに、父親の学歴と、親が資金を負担できると考えているかどうかという主観的評価の影響がもっとも大きく、中三までにどれだけの教育への投資が行われたか、親が客観的にみてどれだけの資金負担能力をもっているかは、もっとも影響が小さかった、という結果になったわけです。
この結果をうのみにするわけではありませんが、これを見る限り、「お金のある家庭のひとほどいい教育を受けられて、いい大学にすすめるのは不公平だ」、という主張はかなり論拠があやういということになります。
今回はまず、対象の範囲を「社会において実質的に機能している『学歴主義』って、会社の書類選考上のスクリーニングだけだ」という風に限定しました。つぎに、「書類選考上のたんなるシグナルにすぎない学歴で候補者を切り捨てるなんてけしからん!」という「学歴主義批判派の主張」を、「入社時にシグナルとして使われていることなんてはじめからわかってるんだから、そのシグナルを身につけられるようにがんばっておけばよかったじゃない」というリーズナブルな批判にさらすことで「良い大学にはいる上で社会的な非効率性や不公平は生じているか?」という問いに変換しました。そのうえで、「現行の大学入試制度は非効率か?」「現行の大学入試制度は不公平か?」という点についての若干の考察を加えた結果、「おそらく、非効率でもなければ不公平でもないだろう」という暫定的な結論がみちびかれました。
多くの点で不十分ではありますが、すくなくとも理にかなった論旨の展開にはできたのではないでしょうか?
心根の話
http://anond.hatelabo.jp/20071030173444まちがえた。こっちhttp://anond.hatelabo.jp/20071030173741
そうだね。
は別の話。
これと
は似ている。
たしかにそれぞれは、個人レベルでは独立。でもマクロの視点で見れば因果関係はある。んで、
っつーはなしで。
つまり「化粧なんて毒だ!するな!」という話は「詰め込み教育は子どもの自主性を阻む!ゆとり!」って言うのに似て。「ゆとり」って言うか「受験廃止!卒業校を人前で話題にするの禁止!」くらいですね。まぁ言ってることは原理主義的には間違ってないかも。でも、社会的に見ると、おかしいよね。
そーゆー感じでどーよ。
ええと、言いたいことがまとまらないのでばらばら書きます。
ハードディスクやメモリ上の情報構造物が dense であるとか sparse であるとかいいますよね。当然何かその情報構造物について「密度」を考えているわけですが、その単位はよくわからないものです。気体の「体積」「1分子あたりの熱エネルギー」「モル数」はそれぞれ違う次元の数ですが、ディスク上の情報構造物の「占有領域」「最低/平均ブロックサイズ」「圧縮した場合のバイト数を表現するのに必要なレジスタ幅」はまったく意味が違うのに、いずれもバイト数で表されます。これは情報科学の根底にあるトラブルの原因ですが、いまは統計力学と情報理論の間に安易な橋渡しができないことだけを意識してください。
ただ、気体でも極端に自由度の低い系(絶対零度近くとか、強い磁場の下にあるとか)では体積は圧力にも温度にも比例しないでしょう。それと似たような話として、自由度の低い情報構造物は情報理論の適用外です。個々のビットの間の関係は恣意的であって、あまり統計的扱いに向かないからです。
古典力学の前提で、粒子間の引力も斥力も無視するとボルツマン統計、量子力学ならボーズ統計やフェルミ統計に従うという話ができますが、すべてのアプリケーションが書き出すビット列にそういう統計を考えることはできるでしょうか?
アプリケーションの各論を展開できるほど柔軟で包括的な数学を使えば、情報構造物のミクロの理論は好き勝手に展開できるでしょう。ただ、それはアルゴリズムの単なる記述ではありませんか?
格差問題と似ている。
当座のミクロな問題をどうするか(今日明日どうサバイブするか、弁護士は訴訟に勝つために雇われている)ということと、社会システムというマクロの問題(格差や医療過誤の取り扱い)が混同されている。
弁護は業としてしているのだから、医者も弁護士もなんとしても勝たないといけない。そこでイナゴに「てめーは医療システム全体のことを考えていないだろ」とマクロの問題をぶつけられても、弁護士はそんなことなんて知るかよ、と一蹴したくなるのは当たり前。けどよっぽど頭の悪い人でなければ、双方ともコストが上がれば結果的にどのようなことが起こりえるかは想像がつくし、現に起こっているのだろう。
とまあ色々思うのだが、双方が欲しがっている物は現状で満たされているのか、それを得るためのコストは現状で適正か、などを考えるとゆがみがあるように見える。そこに燃料を投下したがる運動家がいるようで、それはそれでうざいのだが。
視点をミクロにとれば「個人の問題」だとしても、
勤労人口の何分の一かが不安定雇用・・・ということになってくれば
それを直視しないでいたい人は、あえて個人の問題「のみ」を言いつのるのではないか。
まず「イラク侵略支持国家としての日本」という大きな構造があるわけで、
その中で個人として何ができるかを考えて、現地に入る行動を選択する人も出てくる。
おりあしく米軍のファルージャ虐殺でイラクの住民が激怒し、各国の外国人を誘拐する奴も出る。
日本人の三人はそのうちの一部にすぎない。
彼らの「自己責任」とやらを言い立てて問題を矮小化しようとした奴らは、
じゃあイラク侵略支援を止められなかった手前の「戦争責任」を、どのように償ったのだろうw
小泉のイラク戦争加担を止めようとしたのかと。「大量破壊兵器」出てこいと。
少なくとも高遠さんはイラクのために行動し続けている。井戸を掘るカネを集めてイラク人に感謝されてる。
小林よしのりでさえ感嘆したように、たかが国家なんぞに彼女を止めることなどできない。
格差も戦争もまぎれもない現実の構造だ。ただし「個人にできること」がゼロなのではない。
その両側面を見るべきだろう。
正論というのは、いついかなる時でも言えばいいというものでもないと個人的には思う
正論を言う人というのは、いついかなる時でも「正論なのだから」を盾にどんどん進んでくるが、敢えて極端な事を言えば、「正しいかどうか」なんて人間社会ではどうだっていいのだ。必要か不必要か?そっちの観点の方が大事なのではないかと思う。
彼の愚痴で言えば、彼女が上司の立場からの見解なんかを提示してみたところで、彼はいい方に流れてくれるのか?ってことだ。彼がいい方向に流れるために、「上司の立場からの見解も示してみる」という行為は果たして本当に必要か?不必要か?
万人が、「正論」でいい方向に流れるわけではない。正論をぶつければ、中立的立場の正しさをぶつければ、全てがうまくいくわけではない。極端に言えば、間違っていようが、偏っていようが、「物事がうまく行けば」それでいいのだ。勿論正論が何においても優先されなければいけない事はあるが、ミクロな人間社会ではその方が少ないのでは、と感じる。
無論「上司側の見解を指し示した」ことで、「そうか、俺は完全に自分側からの考えに固執していたけど、確かに上司からすりゃそうだよなぁ」と反省し、改善する人になら、そうするのもいいだろう。
ただ、実際に、今彼女が指し示した事で、彼はただ凹んだだけだった。へこませるのが目的ならいいのだが、勿論そうではないだろう。
正しさというのは時に何の価値も持たない。
http://anond.hatelabo.jp/20070619200203
日本国憲法のことを知っていようが知っていまいが、自衛隊のことを知ってようが知っていまいが、
そんなレベル以前の話として、自分のよく知らない遠くの国が根拠はないけど明日戦争するかもしれないと
考えているような人がいるならば、その人はよほど思想的に偏りがある人だと思うけどね。
それと、「フランスが戦争するかも知れない!」と言われて驚くのと、
言われる前から「フランスが戦争するかも知れない!」と思い込んでいるのとでは天と地ほどに違う。
そのたとえ話は不適切。
あと、「日本を客観視」ってどうやってやってるの?
君の言う「外国」というのは漠然かつ抽象的なイメージの産物としか読み取れない。
中国都市部の30代インテリビジネスマンと、韓国都市郊外部の20代下流階層の青年と、
この仮定がミクロ過ぎて無意味だと考えるならば、逆に最大公約数の大多数の人々のことを
想定してみようか?答えは簡単。
悪夢の様なガキを量産して、社会をちょっとずつ痛めつけていくことの方が
余程人類への反抗になるのではないかな?
反抗が「実効的な結果」を目指すための手段であるとしたら、
どっちがより実効的かということはミクロレベルじゃ多分決定できないんだよね。
産まないことで子孫の可能的生産をひとり以上減らすことは、後世に行くにつれてネズミ算的に「もしその時に産んでいれば存在したであろう仮想的人口」を殖やすことになる。
でも、もし産んだとして、その子が大きくなった時に、他人に対して子供を持ったり家族を持ったりすることを諦めさせるような政策決定をする(あるいは大量殺人でそれを物理的に不可能にする)人間になったとしたら、そちらのほうが人類に対するマイナス影響はより大きくなる。
さらに。
上記では「産めよ殖やせよ」が人類への貢献で、その逆の「産むな殖やすな」が人類への反抗だと単純に考えたけど、もしかしたら子供を社会にひとり余計に送り出すことが、それ自体としてかえってマイナスになる場合だってあるかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20070314100032
もしレディースデーが公共機関(役所とか)における各種手続き・申請受理やにおける男女の差別を意味しているのであれば、恐らく差別に当たる。公民としての取扱の格差に当たるから。
しかし、マーケティング戦略における男女の扱いの相違については、原則として「差別」とはされない。何故なら、それは公民としての原則平等の上に立った「自由で理性的な合理的経済人」の行為に関するものであるから。不当な差別云々とは原則として政治制度の問題であって、市場経済におけるミクロ行為主体の意志決定という問題系の中で語られる話ではないのだよ。
一般教養でマクロ経済の講義を受けただけのぼくが、一昨年買ったけど全く読んでなかったミクロ経済の教科書片手に、論争の経済学的な面を経済学的に完全(誇張)に解説し、論争そのものがなんだったのかまとめてみせよう。(数式は基本的に使わず、微分じゃなくて差分で説明してます。)
まず経済学の一番の基本である需要と供給(wikipedia)は押さえておこう。需要、供給、均衡のとこと図に目を通せばいい。価格ごとに需要量や供給量が決まる。そしてそれぞれの曲線の交点が実現される量と価格になる、ってのを押さえればおk。あとわざわざ書いてないけど、これが労働市場にもあてはまって、その場合は価格が賃金で量が労働者の数となる、ってのも一応。
1. 雇う労働者の数が決まれば生産物の量が決まる(生産関数)
ほんとうはもっと一般的に労働者以外の生産に必要なもの(生産要素)の数量にも生産量は影響されるんだけど、以下ではその辺は一定として考えるので気にしない。生産物というのは、例えば喫茶店だと客へのサービス全てのこと。
2. 1の関数から、雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき生産量がいくら増えるか決まる(限界生産性)
限界生産性というのはすでに雇ってる人数で変わってくるってのがポイント。(導関数なんだから当たり前だけど。)
ただ、今回の論争では限界生産性と言った時点で、すでに生産物の価格も入ってるようなので、売り上げ = 生産物の価格 * 生産量 ということにして
(※労働者以外の生産要素は一定として考えて、労働者だけ1人増やした場合と比べるのだけど、レストランなんかだといくら人数が増えても食材が一定じゃ生産物は増えようがないじゃない! とお思いの方は「生産物の価格」のとこを「生産物の価格 - 原材料の価格」としてくだされば以下の議論に支障はございません(売り上げと呼ぶのがちょっとアレになるけど)。)
2'. 1の関数から雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき売り上げがいくら増えるか決まる(限界生産性)
こっちを使う。生産したものは売れるということで、売れ残りとかは考えない。「限界生産性でなにかが決まる」といっても生産物の価格が入ってるので、価格に影響をあたえるものは、そのなにかが決まるにあたって影響することに注意。山形が循環論法とか言ってた半分はそのこと。
そして賃金が限界生産性に等しくなるということを言うのにあと2つ必要:
3. 限界生産性は(労働者以外の要素が一定で)労働者が十分に多いとき、労働者がさらに増えるにしたがって下がっていく(限界生産性逓減の法則)
限界生産性ってのは従業員が増えたときの売り上げの増え方なわけだが、その増え方は徐々に減ってくということ。
これが重要。この仮定のもとで、労働者の価格(賃金)が与えられたとすると、もしも限界生産性がその労働者の価格よりも高いとすると、限界生産性ってのは労働者以外を一定にして労働者を1人増やしたときの売り上げの増加なわけだから(上の※も参照)、
売り上げの増加 = 限界生産性 > 労働者の価格 = コストの増加
となり、つまり1人増やしたほうが利益は増える。そうして 限界生産性 > 労働者の価格 である間は労働者の数を増やしていくわけだが、3 により次第に限界生産性は下がってくるので、最終的に 限界生産性 = 労働者の価格 となるところまで増える。(論理的にはイコールでなく≦となるんだけど、これは労働力を連続的な量じゃなくて離散的な量にして、微分じゃなくて差分で限界生産性を定義したからで、あんまり本質的でもないし、大雑把に見ればイコールになるんだということで気にしないでくれ。) 限界生産性がその労働者の価格よりも低いときは、従業員を減らすとコスト減が売り上げ減より大きく、利益が増えることになるので、減らしていって結局イコールらへんで落ち着く。
というわけで、限界生産性原理が出てくるわけだがこれってどういうことだろう? 限界生産性で賃金が決まったんだろうか? 賃金は最初に与えられたとしたのに? 普通に考えて、決まったのは、ある賃金のもとで雇おうとする労働者の数だ。つまり決まったのはこの生産者の企業の労働需要(曲線)なのだ。wikipediaの労働経済学のとこにも
労働の需要主体は企業である。ミクロ経済学によれば、企業の労働需要(雇用量)は実質賃金と限界生産力が一致するように決定される。
と書いてある。(その下に賃金決定の理論というのも書いてあるがとりあえずそれはスルー。) もちろん教科書にも普通に同じ意味のことが書いてある。
ここまでくれば賃金の決まり方はわかったようなもんだ。需要と供給で決まる、ってそれは最初からわかってるか。わかったのは、限界生産性が賃金と等しくなるということと、賃金は需要と供給で決まるということの関係だ。
限界生産性は各企業の労働需要曲線を決める。そしてこれを足し合わせればマクロな需要曲線がでてくる。足すってのは価格ごとの需要量を足す。でも、なんでも足し合わせればいいんじゃなくて、同じような労働力の需要について足す。プログラマーだとか、経理がわかる人だとか、コンビニ店員ができる人(ほとんど誰でもいい)とか。あと地域もある程度限定して足すもんだろう。そんな風にすれば首都圏で働けるプログラマーのマクロな需要曲線なんかがでてくる。そしてそれと供給曲線の交点によって賃金が決まるってなわけだ。
ここで供給曲線というものにも注意。さっき、限界生産性でなにか(ってのは賃金じゃなくて労働需要曲線)が決まるとしても、生産物の価格が影響すると書いたが、賃金が決まるにはさらに供給曲線の影響もある。半分って書いたのはそういうこと。
というわけでそろそろ論争のまとめ。上に見てきたように、賃金は限界生産性に関することと供給曲線と生産物の価格(これは2'の定義だと限界生産性のとこに含まれ、2だと含まれない。けどどっちにせよ影響はする)によって決まる。山形の最初の議論は、供給曲線と生産物の価格(これらには関係がある)に関することで、それが賃金に効いてくるということだった。それに対し池田は賃金は限界生産性で決まるんだ、とイチャモンをつけた。つまり山形のそれに対する反論のとおりで批判になってない、ってことだろう。あとはなんかごちゃごちゃ言い合ってただけ。
…。まとめとかいってもすでにありふれた見解で全然面白くねーよって? そうですね。そうでした。ついでに池田の間違ってるっぽい発言を(山形はあやしいのは多いのだけど、間違ってるってほどでもない)挙げて、どう間違ってるか書こうかと思ってたんですが、もうかなり疲れてぐったりしてるので、探して挙げるのはやめます。
1つの企業だけ見れば、賃金は限界生産性によって決まるんじゃなく、世間の水準としてすでに決まってて(1つの企業の需要を足したところで影響は無いし)、限界生産性が等しくなるのは、雇う人数を調整するから。
というのが正しいのだけど、これと矛盾してるあたりです。各自で読んでください。ぼくが思うには池田は限界生産性原理のなんたるかがわかってません。山形は限界生産性自体がなんかあやしい(「各人の限界生産性を足しあわせて平均することになりますな」とか。意味が通るように「各人の限界生産性」ってのを好意的に解釈することもできるけど…)。
なんか「ミクロな物語」とか「小さな物語」ってのがキーワードなのかな。
上の方は具体的に書かれてない?からいまいちレッテル貼りだとか「まともな」社会人化、原理レベルでは??政策レベルでは??っていう言葉の意味しているところがわかんないなー。アホですー。
解同って初めて聞いた、部落開放同盟?の略みたいですね。それの利権化っていうのはなんかこの前ニュースに出てきてた奈良の職員が??って話だとかのことを言っているのだろうかな、と思った。
なるほど、多分ズレて話すと思うけど、とりあえず内包的?否定表現は嫌いだから少し嫌悪感を感じるのはまあどこにいっても人間ってそういうものだから、として。→
そういった低賃金の若年者等の将来的な下層層は昔の部落のようなものと同じで新たなレッテル貼りってことで。
そして現状、また将来の社会構造化での類似層の扱いをどうするかって話、ですね(なのかな)。
その問題は、そんなお金どうするんやとかの話などでもあって。
結局のところは今ある社会構造をいろいろ変えていって様様な現行の諸問題に適応させる政策をどうにかしなきゃいけないしそれを自覚的自発的にそれぞれ(国とか、個人・家族とか)が取り組もうとしなければ早晩一気に暴落が来る、と。
まあ見当外れのテキトーな日記なので、(自分は間違っていても馬鹿でもあんまかまわないで発言叱咤教授受けたいって人で)、こんな日記読むという寛大な人は大目にみて読んでください苦笑
あい。