はてなキーワード: ファンタジーとは
そもそもこれが思い込みだよ!
Wizardryだって日本人は中世的世界だと勘違いしていたけれど
モンスターをフードプロセッサーでミンチにしてヤンヨーな世界だった!
ええと、この人が言いたいのは「中世で統一されているのか否か」の話ではなくて、
世界観の設定が閉じているか、開いているかの話だとおもう。
衣服の流通は糸を紡ぐところから始まるし、医者の技術は瀉血みたいに「悪い血を抜く⇒体が良くなる」という風に因果がはっきりとさせてある。
現代的な「ファンタジー」は開放端がある。
衣服は既製品が流通していて、その生産にはあまり興味はなく、その製品がどこから来たのかは物語上のスパイスになったりしない。
医者は瀉血や薬草ではなく、どこからから送られてきた抗生物質で人を元気にする。
同じような話だと、怪獣についても言えるきがする。
一昔前の怪獣は
「古く封印された神が現代の空気汚染で怪獣と化して山からもっさり出てきて大暴れ」みたいなのばっかりだったが、
中世風ファンタジーと言えばまあ「指輪物語」が源流だと言われることが多いし、トールキンは作品世界を異常なくらい作り込んだ人だった。
(まあエルフ語を作り込んでた、という方が正確だけど)
しかし、その「中つ国」でも、ホビット庄に限定すればまあまあ元増田の言うような感じだが、謎の「ミスリル」精錬技術はさておいても、モリアの坑道とかミナス・ティリスとか、現代工学でも建設不能だろ、みたいな巨大建築もごろごろ出てくる。
「ドワーフだから」という言い訳もあるけど、別にドワーフが建設クレーン持ってるわけじゃないしな。
終盤に至っては、ホビット庄にも謎の機械化工場が建設されるわけで……どう考えても中世じゃないわな。
ゲド戦記にしたってエルリックサーガにしたって事情は似たようなもので……っていうか。
「現実の中世を学ぶべき」という声は、中世風ファンタジー華やかなりしころにもたくさんあった。
ただ、そこには「嘘は自覚的につくべきだ」という認識が前提としてあって、地味で退屈で陰鬱な「リアルな」中世を舞台にすべきだ、と考えてた人はいないんじゃないだろうか。
料理に香辛料が盛んに使われたのは肉の腐臭を消すためで、香水が使われたのは体臭を消すため、なんて話、リアルに使いたい人はいないだろ。
(かといって、香辛料も香水もない中世風「ファンタジー」世界、ってのも味気ないわな)
「自覚的な嘘」の中には、理由付けを考えて書かれた設定もある(アースシーでは魔法使いが風を操ってくれるので外洋航路が発達している、みたいな)けど、たぶん全然考えられてないもの(あんな孤島ばかりで文明の発達を支えられるのかよ?飲料水とか金属資源とか木材とか……)も相当ある。
確かに最近の「中世風ファンタジー」は、昔以上に世界観の整合性を気にしなくなってるかも知れない。
(「中世風ファンタジー世界」が、一つの「お約束」として成立してしまったのが原因だろうと思う)
でも、どっちみちそれは「ファンタジー」なのであって、つきつめて考えたら整合性の取れてる作品世界なんかない。
結局は楽しいお話を描く良い舞台であればいいんだから、「昔は良かった」みたいなこと言っても始まらないんじゃないかな?
ただ,統合された世界観というものに対する欲望は失われたんだなあと。架空の世界の経済を考え政治を考え地図を描き年表を作り言語をでっち上げたりするような,ある意味で病的な熱意は,きわめて20世紀的なものだったのだなあと。
統一化された云々というより、単純にそういう世界観がもう限界(新しさが無い)ってことじゃないかな。
その手の世界観の元祖D&D(いや、俺はあまり詳しくないから、もっと前にあるのかもしれないけど)が出てから、いろんな小説・ゲーム(TRPG、コンピュータRPG)が同じような世界観で出てきた。で、苦労して世界観をカッチリ作りこんでしまったら、それを覆して新しいシステムを取り入れるのが難しくなる。
古臭くなっちゃうんだよな。古典的なファンタジーを(飯の種として)ゲームや小説とするには限界があると。
かといって、
現代的な「ファンタジー」はこうした前提を置かない。現代と過去の要素を無差別に混ぜ合わせて成立する。剣と魔術は出てくるが,炸薬入りの弾丸を撃ちまくる銃も同時に出てきたりする。人々は当然のように規格化された工業製品を用い,印刷された書物に接する。やたらと派手な服を着ているが,その生産や流通を支えているはずの社会のありかたといったものは片鱗すら見えない。
こういうのも、もういいかげん賞味期限が来ているんじゃないか、とか思ったりしなくも無い。
出始めは目新しかったけど、もうみんなやってるし。
ちなみに元増田が指すような、昔のファンタジー小説(多分「指輪物語」とか)は読んだ事はない。
だけど自分で細々と書いてるファンタジー設定では、現代的な「ファンタジー」として工業製品なんかが入ってきても破綻しないような設定をでっち上げたりしています。むしろ「どうやってねじ込むか」って思考実験が割と楽しかったりするもんで。
まぁ、これは本業じゃないから可能なんだろうけど。
どこかで見たことがあるけれど、ありえない中世とか古代とか異世界を創造して作るからファンタジーなんだよねえ。
そうじゃないと考証された歴史ってことになって、ファンタジーではなくなるよな。
舞台が未来や宇宙や異星ならサイエンスフィクションだけど、スペースファンタジーなんてのもあるね。
元増田のいってることは、世界観の統一が出来てないことを愁うって事なんだろうけど
それは完成度=面白さのことを言ってるのであって
最近の作品は自分の趣味に会わないということを吐露しているに過ぎないと思うよ。
たぶん気が付いているだろうと思うけど。
人々は小さな集落で原始的な農業に携わり,そこには封建領主が君臨して全権を振るい,村から一歩でも出ればそこは未開の地。移動手段は徒歩か馬車。工業はまだまだ未発達で,鋼をようやく生産できるようになったくらい。武装は剣や槍に鎖かたびら。ひょっとしたらごく初歩的な先込め式の銃はあるかもしれない。字を読める人間はごく限られていて,魔術や魔物といった存在がごく現実的なものとして認識されていて,医者は瀉血以外に治療法を知らない。
本編の趣旨から大きく外れるが時代内容がめちゃくちゃだなw
ニンジャなみにぶっ飛んでる
日本において忍者の物語が非現実であったようにファンタジーの中世なんてそれっぽければいいんだなー
(ヨミって変なキャラだったよね)
現実とは違う、ファンタジーだったりスチームパンクだったりする架空の世界を舞台にしたフィクション作品における言葉に気を取られることがある。
当然だけれども、どんな言葉にも由来があり歴史がある。しかしその「歴史」自体を共有していない世界においてもその言葉が存在し、当たり前のように登場人物達が発している事の違和感は、一度覚えてしまうとと簡単には拭えない。
たとえば「ベルセルク」のような(中世ヨーロッパに酷似しているとはいえ)架空の世界で「馬の耳に念仏」とか「釈迦に説法」などという言い回しを(ギャグ調のシーン以外で)使えるだろうか。「念仏」も「釈迦」も「説法」も仏教由来の言葉であり、それはつまり「ベルセルク」の世界に仏教(もしくはそれに類するもの)がある事を暗示するわけで、さらに言い換えれば主人公達が生きている世界とは別の文化圏がある事を示す。現在あの作品は世界が終末を迎えようかといわんばかりの状況のはずだが、それとは無関係に存続している文化圏があるという事を想起させてしまうと、途端に今の状況は陳腐化してしまう。
さらに想像力をふくらませていけば、ごくありふれた単語すらも「この作品の世界観とは矛盾していないだろうか」と疑念にとらわれて埒があかなくなってしまう。英語圏ではない国とわかりきっているのに全登場人物が全編英語で喋る、ハリウッド映画のように割り切るしかないのだろう。もしくは「指輪物語」のトールキンのように、もしくは「スタートレック」のクリンゴン語のように、別の言語を自力で作り上げてしまうか。
もう中世ファンタジーが定着して長く、ほぼ様式化しているので、新たに仮想世界を作り出すという欲求は生まれにくいんじゃないか。
そうなるとむしろそれに「崩し」を入れた世界観の方が喜ばれそうだ。
私だって25年以上ファンタジーにハマって抜け出せていないのだから
今さら否定など出来るものでも無い。
だけど、ファンタジーと言うドメインは "確かに" 存在しているが、
と言い切れるほど明確なドメインでも無かったと思う。
一昔よりちょっと前、"ファンタジー" や "SF" に 「明確な境界」 は無かった。
いや、今だって多分無かろうに…。
だから、
星間を移動する竜を駆る者が居ても、マスケット銃を持ちエンジンの付いた凧を操るヒロインがいても何の不思議もなく
圧倒的な世界観や1行で1000年の時間が過ぎていく物語にファンタジーを感じた。
中世世界、もしくはトールキン博士やその系譜に続いているであろう
D&D や Steve Jackson, ウィザードリーやウルティマ の世界観が多かったことはあったけど
積極的に現代的要素や現近代化の世界観や社会や経済的な物も取り入れようとしていた人はいた。
# まぁ、宮崎駿に感化されれば思いつく程度のアイディアだったかもしれないけど。
だから片鱗も無いと言われるとそうかなぁと問いたくなるけど…、どうだろう?
最後に、病的な熱意は今でもあると思う。少なくはなったけど。
あれは、20世紀的なものだと分類するのはどうだろう?
書泉2階のRQの設定同人誌を見ると、今でも何となく口元がほころぶ俺が言うんだ
そう言うことにしといてくれ。
あんまりファンタジーに詳しいわけじゃないけど、中世っぽい世界観と高度なテクノロジーの融合っていうのはファイナルファンタジーの影響が大きいと思う。
そんな前提があった一昔前などない
20年前の時点で既に、大半の「ファンタジー」は武器が中世風のくせに都市部の風景はルネサンス以降で酒場の料理は19世紀じゃねーかと歴史オタからさんざん馬鹿にされていたわけだが
一昔前は「ファンタジー」世界における文明レベルは中世と決まっていた。人々は小さな集落で原始的な農業に携わり,そこには封建領主が君臨して全権を振るい,村から一歩でも出ればそこは未開の地。移動手段は徒歩か馬車。工業はまだまだ未発達で,鋼をようやく生産できるようになったくらい。武装は剣や槍に鎖かたびら。ひょっとしたらごく初歩的な先込め式の銃はあるかもしれない。字を読める人間はごく限られていて,魔術や魔物といった存在がごく現実的なものとして認識されていて,医者は瀉血以外に治療法を知らない。
現代的な「ファンタジー」はこうした前提を置かない。現代と過去の要素を無差別に混ぜ合わせて成立する。剣と魔術は出てくるが,炸薬入りの弾丸を撃ちまくる銃も同時に出てきたりする。人々は当然のように規格化された工業製品を用い,印刷された書物に接する。やたらと派手な服を着ているが,その生産や流通を支えているはずの社会のありかたといったものは片鱗すら見えない。
別にそれが劣っているとか言いたいわけじゃない。ただ,統合された世界観というものに対する欲望は失われたんだなあと。架空の世界の経済を考え政治を考え地図を描き年表を作り言語をでっち上げたりするような,ある意味で病的な熱意は,きわめて20世紀的なものだったのだなあと。
http://anond.hatelabo.jp/20090104015812
で3か月前に「「3か月前に「脚本がしっかりしてそうな新番組教えて」と書いた増田です」の増田です」の増田です。
正社員の時は一人の人間としての能力を見られているんだと思う。
仕事ができるかできないかは、事務処理能力や営業力や内外とのコミュニケーション力ではかられるんだろうと思う。
努力はする。改善すべき点を考える。克服のための努力をする。時折仕事の内容を振り返り、周りの評価をチェックする。
成長したいし、成長するべきなんだと思う。
しんどいけれど頑張りがいはあるんだと思う。頭ではわかってる。
ホステスの時は女、女、女の部分が求められる。
飲んでいただいている間は楽しい夢をみていただくのは確かに大事だと思う。
「楽しい夢をみていただく」点においては誠実な接客をしたいと思う。
店以外のプライベートの時間に仕事が影響してくるのが時々つらくなる。
接客中は「私はこのお客様が好きなんだ」と思いながら接客をしている。
そうこうしているうちに、自分が本当にそのお客様を好きなのか、本当は嫌いなのか、わからなくなる。
楽しい、というのは少し違うのかもしれない。気楽だ。
派遣型の店舗で働いているので、お客様と待ち合わせるかホテルの部屋へ派遣。
決まった時間内で最大限に気持ちの良い体験を。性的なファンタジーを。
やりがいはある。プレイ中に自分が楽しい時もある。気持ちよさそうに射精するお客様を、その瞬間は愛しいとさえ思ったりする。
私は射精のための道具で、ある程度相手の望む「女性」の姿に合わせていればいい。
一番気楽で、楽しい。
「商品」として私のことを大事にしてくれるのが心地よいのだと思う。
体調を崩せば心配してくれる。
お客様から問い合わせがあれば伝えてくれる。
暇なときも忙しいときも気遣いをくれる。
決して「女」として私を見ない「男性」から大切にされるのは心地よい。
「商品価値のある商品」である間しか示されることのない気遣いだということはわかっている。
それでもいい、そういうふうに私は大事にされたい。
女として脅かされることなく、商品として大事にされたい。
私はモノのように扱われたい。
こういうことを考えてる人間って本当は多いんじゃないかと思う。
私は、モノのように扱われたい。
マイベストはロマサガ2で次点がサガフロ2だった。歴史ファンタジーなゲーム好きだし。
割と万人向けに作られてたのはサガフロかな、あれは人にサガ勧めるとっかかりに良かった。
アンサガはハマれたら面白そうだったけどシステムに慣れるまでが辛くて投げてしまった。
人がプレイしてるの見てると楽しい。再チャレンジしたくなる。で、また投げる。
GB1は文句なしに面白かった。2も、色々賛否両論あるが3も。
ロマサガ1は頑張ったけど当時子供だった自分には無理だった。ミソはミソで面白いなぁ。
3も面白かったけど、やっぱり2かな。
サガフロ2は本来の開発日程で作られてたら化けてたんじゃないかと思う。
何かの体験版付けるために予定繰り上げざるを得なくなったらしいから。もったいない。
ワイルドカードはあれみてるとアンサガの原型がそこに有ったんだろうなぁと思う。あと吉田絵最高すぎ。
サガはなんだかんだいって人を選ぶ。
どのゲームでも人を選ぶと言ったらそれまでだけど。
人の一生をフィルムに写し取ること、を目指したのかな。フォレストガンプが好きな人はいいかも、って聞いて見たんだけど、まあまあ面白かった。主役級二人の年代ごとのメイクが見所。長いわりにさらっとした感触。冒頭の戦争の描写がけっこうブラックで印象に残った。
ミュージカル映画。いやあ爽やか。つーか主人公の友達二人がいい味出し過ぎててわろてしまう。アンコールも満足感高い。うん、いい映画だよ。ところどころ「ああミュージカルだなぁやっぱり」と引っかかりも覚えるけど、ミュージカルから入るマニアックなお客さんのためなんだろうと思って流す。ことにしてそれを差し引いてもいい映画。
DVD。パンこえーよ。パパこえぇーよ。果てしない物語的なものを期待して見たら、なにこのごっつい悲惨な物語は。いや面白いよ、すげー面白い。CGや特殊メイクの完成度、ストーリー展開の巧みさ、伏線の回収、全てが素晴らしい。けどスゲー凹む。ファンタジーは現実を写し取るための道具であって現実逃避のための道具じゃねーよって言われた気分、なのかな。いや、現実逃避のための道具にしている嫌な自分を写し取られた気分なのか。よくわかんねーけど面白くてスゲー凹みました。
DVD。もっと毒が欲しいな。毒が足りない。いい人になっちゃった理由がわかんねー。
直訳すると取り替え子。スピリチュアル的なものを想像しながら見たらガチ社会派映画だったでござる。いや面白いよ。なんつーかな、見たばかりだからうまく言葉にできない、のであとで追記するかも知れん。
松山ケンイチと椎名桔平の顔芸が楽しめるいいドラマ、だったのですが最終回がなんつーか。evaの最終回と比較する向きがあるようですが、何つーかね、幸せ家族ドラマ幻想挟むスタイルは「幸せ家族ドラマも見たかったよ」と思わせなければ失敗だよね。eva最終回は「学園evaも見たかったなぁ」と思わせる魅力を表現できたからよかったんだと思うんだよね。これはなんつーか。うーん。松山ケンイチの顔芸もイマイチ立ってない気がした最終回。やっぱり打ち切りなんですかね。
「こんなステキなヤツ」は馬であるところのマキバオーなんだけど。「人」って表現している箇所があるから勘違いさせちゃったかな。
もしかしたら人生でもう一度ダービー馬に出会えるかもしれないけれど「マキバオーのような存在」には二度と出会えないだろう。同じく、ロレンスも行商を続けていれば、いつかまた自分の店を持つチャンスに巡り合えるかもしれないが、ホロは逃してしまえば二度と巡り合えないだろう。
後で例に挙げた2つがファンタジー要素の強い作品になっちゃってて、紛らわしくなってるのは申し訳ない。
単に、スクラン最終巻での播磨拳児の塚本天満への想いのくだりを読んで「自分は誰かとの出会いを大切にしているのか?」という自問を書きたかっただけだ。ああいう熱い感情があったのは、本当に高校生くらいまでだね。あとは惰性だ。
ゲームシステムがかなり似通ってるような気がするんだよね。
まだクリアしていないので(苦笑)、他に気づいたら追加するかも。
スターオーシャン4発売 「綺麗なだけのRPGとは訳が違う!」
スターオーシャン4 Xbox360用「スターオーシャン4」【AA】が19日に発売になった。製品情報では『SF+ファンタジーの世界観。壮大な世界の起源となる物語』・『爽快感あふれるリアルタイムアクションバトル』などを謳っていて、ソフマップ本館では『スターオーシャンが好きすぎるスタッフが声を大にしてオススメする 綺麗なだけのRPGとは訳が違う!』とかだった。
秋葉原のゲームショップの店員が感じる「前世代機ソフトとの差異」というのが一般人にどの程度認識できるのかという問題もあるけど、それを差し引いてもSO4は「綺麗なだけのRPG」から脱しているとは言い難かった。
昨年同ハードで発売された「テイルズオブヴェスペリア」「インフィニットアンディスカバリー」「ラストレムナント」にも言える事だけれども、開発サイドの「RPGとはこういうものだ」という思想が旧態然としているように思えてならない。身も蓋もない言い方をすれば、グラフィックに妥協さえすればPS2でも作れそうなゲームばかりだった。
まあ、PS2時代に長く支持されてきただけに、そういった方向性自体を否定するつもりはないけれども、不振が続く日本国内での挽回を目指すタイトルとして適切だったかどうかは少々疑問符が残るラインナップだったように思う。こういう時こそ、他の競合ハード(Wii、PS3、そしてPS2)には絶対に真似できない!というような方向性のゲームを打ち出すべきだったんじゃないだろうか。
おそらく、固定ファンの多い人気シリーズの続編でコアな層を取り込む事をXBOX360の「仕切り直し」の第一歩となる予定だったんだろう。しかしそのコアな層そのものが、既にPS2的なアプローチで作られたゲームに飽きてしまっていたように思う。それと新規ハードを購入させるというハードルの高さが重なって、PS2時代の前作の半分以下にまで売り上げを落とす事になったのではないかと思う。
本体発売から3年4ヶ月ほどが経過しているXBOX360だが、その間に10万本以上売れたソフトはたったの10本しかない。ソフトラインナップや本体価格で不利なはずのPS3ですらその倍以上はある。Wiiはさらにその倍近い40本弱。
特にこれら4本のRPG群は海外展開を強く意識したタイトルだったはずだが、しかし海外でもそれほど売れたというわけでも無い。1000万台以上普及している北米ですら日本の売り上げの2倍にも届いていない状態。
ここ1、2年でXBOX360に傾倒したメーカー側が「仕切り直し」を迫られるのは不可避だろう。これから参入を考えているメーカーにも重い意味を持つ数字になってくるような気がする。
タイムスリップが発生するならなんでも起こりうる。
いつファンタジー世界に迷い込むとも知れないので剣術を学ぶべきだし、
未来に行く可能性があるので、科学技術を学んでおくべきかもしれない。
未来が北斗の拳のような世界だったら、まずは生き残る方法を学ぶ必要がある。
ナウシカみたいなところにいったときのために世界に溢れているであろう毒素に慣らしておくべきかも。
それよりも数千倍から数万倍(無限倍?)発生する確率の高い事象に備えたほうがよい。
交通事故への備えは万全か。
もっと発生確率の高いものとして離婚や離職への対策は取られているのか。
発生する確率の高いものについて、まずはできることを行ったほうがよい。
どうでもいい追記をする。
ブクマコメントに「彼氏がいるって話の時点でそれを思いつかなかったのか」ってのがあったんだけども
実は彼氏ができたことは前に聞いてた。でも、なんていうか、それ自体にはあんまりびっくりしなかったていうか、別に友人は多分処女(というのは今までつきあったことないって言ってたから)ではあるけど、別に外見は普通のイマドキの子だから、そりゃ作ろうと思えばできるわなと思ってた。だからそれ自体には「へぇーかのうじできたん」という感じで私もどっしり構えてた。
ただ何となく、抱擁や接吻などを軽く経験した後なんとなく数ヶ月で別れるんじゃないかと思ってた。何となくというわりに具体的なんだけども。多分コミケが迫ってきて原稿が忙しくなったら別れるんじゃないかなと漠然と思ってた。セックスはするとしても半年はたたないとしないだろうみたいな風に思ってた。オタカップルだったし。最初数ヶ月は昼間のデートくらいで終わるんじゃね?と
だからまあ「キスしてさぁ」とかそのくらいなら「へへへへへぇーーーー」って感じで平気でいられたんだけどまさかセックスしてるとはさ……しかも言い方からして、「もう何度目かのセックスだけど、生でやっちゃってー」……って感じなんだよ。
だから驚いた。まだ2ヶ月しかたってないのに何?セックスに対するこの熟練ぶり。どんだけやったんだよ!!っていう。あああ考えちゃいけないのに考えるううううう
恋愛経験が結局、数本の乙女ゲー(終着点が「告白成功」)しかないから、付き合ってからどのくらいでナニをするかってもう全く想像がつかない……それでいて無駄にエロ漫画は読んでるから妙に想像してしまう……
言うなれば「セックス」というのは私にとっておそらくファンタジーであったのに、目の前でそのファンタジーを共有していたと思しき人物がそれをリアル化してしまったからきっと脳が混乱しているのだ…「え?なに?マジなの?漫画じゃないの?どっち?」みたいに。
一時期引きこもったりしてしまった。(http://anond.hatelabo.jp/20090222004116)
お前は俺か?中学から高校に入る頃の、俺が書き込んでるのか?と言うぐらいお前は俺とかぶる。従って、その頃の俺と似たような状況だと勝手に仮定して思いこんで書くぞ。だから違ったら無視しろ。読まなかったことにしろ。そうしてくれないとかなり恥ずかしい。俺は「小学校五年から中学ほぼすべてを不登校」で過ごした増田だ。学校に行ったこともあったが、ほとんど保健室或いは特殊学級、相談室などにいただけだった増田だ。
とりあえずここで俺がこの増田を読んだのも何かの縁だろう。ということでレスをしておく。
今となってはなんで不登校になったのかすら完全にわからなくなてもうだめ
不登校というのは、理由がある方が珍しいのでそんなことは気にしてはいけない。というかよく某不登校支援の名の下に活動している団体を中心に宣伝されている「今の教育システムが会わなかったので不登校になっている人間は不登校になったのではない、不登校を選んだのである」とか「不登校になった子は今の教育システムの型に入りきらない才能を持っている」と言った宣伝は、有り体に言って親が自己肯定するために作られた作り話か、特殊な例だけ抜き出したファンタジーだ。全く気にする必要はない。
親が、自分の子育ては間違っていなかった、と思うための慰めの言葉と理由付けだ。それ以上でもそれ以下でもない。
従って、本人がそれらの言葉に踊らされて「世の中の不登校の人間はみな立派に理由があるのに(或いはいじめなどのわかりやすい理由があるのに)、俺は理由がない」などと悩む必要などない。
自分は、不登校になったのはいじめが原因だったのだが、不登校仲間、と言ってはあれだが、親が不登校の子供を持つ親の会、的なありがちな団体に入っており、その関係で再び交流を持つようになった親友がいる。
「増田君はいいよね、ちゃんとした理由があって。僕にはそう言うちゃんとした理由はないから」
一瞬意味がわからなく、一体何が良いだよ、と思い、激しくフラッシュバックして、パニックを起こしかけたことがある。しかしそんな彼の表情を見ると、すごくつらそうであり、自分は何も言えなかった。
そして、彼も俺も、母親からも「お前は不登校になったんじゃない、選んだんだ」と言われていた。
これは一種の劇薬、いや麻薬といってもいいか、そのときの自己を肯定することには非常に役立つ魔法の言葉だ。しかしその魔法が切れると、もはや重荷でしかなくなる。そして一人深く考えるうちに、だんだんそれは孤独を生んでいく。つまりこう考えてしまうのだ「同じだと思っていた不登校の人たちは、実は同じではなく選んだ人たちで、自分は選んだわけじゃないから、あの人達のようにはなれない、だから僕はだめなんだ」と。
そんなわけあるか。細部は違えど、みんな一緒である。選んだ奴などほとんどいない。選ばされた奴らばかりだ。
誰も不登校になろうとしてなるものはいない。そう言う人間はこうしたことで悩んだりはしない。だからそのときの限界だったなにかがはじけた結果、最悪の事態から自らを守るための行動が不登校だ。したがって不登校は結果でしかなく、そこに理由などはない。なぜか?物事は理由が分かれば8割方解決したも同然であり、理由が分からないので問題の根本解決ができないからだ。そして、解決ができなかったから、その問題から自分を守るための行動が不登校である。有り体にいって学校から自分を守るための行為だ。従ってほとんどの場合不登校の理由などわかるはずがない。理由が分からないことが、解決できない大きな要因だったのだから、理由が分からないのは当然だ。それを「理由がない」と勘違いしてはいけない。火のないところに煙は立たないとか言うが、世の中のすべてのことに原因がないことなど、存在しない。ただ発覚するか、しないか、分かるか分からないかの違いだけだ。
同じように「不登校になった子供は、そうでない子供では経験できない特別なものを得ているのです」「不登校になっても、一つの分野、たとえばゲームだって、漫画だっていい、誰にも負けずに打ち込めるものがあればいい。そしてそれは必ずある」なんて話も問題がある。このあたりはある程度事実であり、確かに普通の子供では理解できなかった部分もたくさんあったと思う。その点で、経験と失った者がうまく釣り合っているのではとすら思う。が、しかしこれは結果論でしかない。つまり「あぁ、あの時の経験が役に立ったな」と後から思うことだ。おそらく今悩んでいる元増田氏が俺ぐらいの年齢になって初めて感じることだろうと思う。従って、「不登校時代の経験や打ち込んだことがが役に立った」なんてことを今の当事者である元増田氏が感じられないからと言って、悩む必要などない。逆に、それらをその当時に分かったような気になっている奴がいたとしたら、そんなものはよほど特殊な例か、分かった気になっているだけだ。
つまり何が言いたいかというと、理由がわからないことなど当たり前なんだよ。よって、それで負い目を感じる必要などない。その点で元増田氏は九割九分特別などではない。。効果が後から出る。だから自分が馬鹿か天才かなどと言うことは、今は本人はわかりはしないのだ。今のありのままで感じるほかなく、それで必要以上に、自らの存在意義すら問うほど悩んだり評価したりしないことだ。
ちなみに、勉強についてだが…「勉強などいくらでも取り戻せる」と言ってる奴がいるが、それは無理だ。不登校である間に仲間が得ていたはずの経験が全くないので無理だ。と思っている。が、それは結局のところ「あいつは工業高校に行ったが、俺は商業高校に行った。従って俺はあいつが持っている工業高校の知識がない」といった程度ではないかと最近思うようになった。つまり道を違えただけだ。
だから同じ知識を得ようとしてもそれは難しい。自分なりに新たに勉強していくしかない。ついて行けない部分があるなら、そのたびに勉強して補っていくしかない。それは地道な作業だが、仕方がない。こういう言い方をすると反感を買うが「違えた道の知識を後から勉強していくことは、大人になればよくある話」である。これを今言って聞かされても分からないだろうとは思うが、特別なことではないと理解して欲しい。
先ほど話に出した親友の不登校の奴は、その後高校に進学後、国立大学で工学を学び、就職した。勉強ができなきゃ、そんなところには行けないはずなのだが、しかし今でも「あの時にやっていれば違ったかもしれない」と言っている。かく言う俺もそうだ。あの時にやっていれば、と思うことが多々ある。そして、そう思ってない不登校の人は今まで会ったことがない。
だが、この喪失感は不登校であろうとなかろうと、大なり小なりいずれ誰でも持っているものだ。つまり「あの時工業高校に進んでおけば、工業のことも分かったのに」といった程度のものと同一だ。ただの後悔である。
ならば、どうするか、それは一つしかない。つまり「やるしかない」のである。「そういうもんだ」と思って「やるしかない」のだ。積極的になれば大抵何とかなる。そして、そんな風に理論武装をしないといけないほど、学生時代の、ある特定の部分がすっぽりと抜けている、と言うことは喪失感があり、負い目であり、自信をそぐ原因であることは事実である。しかしそれにつきあっていくほかない。「そういうもんだ」と思ってつきあって、その上で「やるしかない」のである。後悔は先には立たない。そして、大抵の後悔など屁の足しにもなりはしないし、猫の手ほども役になど立たちはしないのだ。また、この場合、今元増田氏の段階で反省してもあまり役には立たない。
自分の親友は、この不景気になって、真っ先に首が切られると思いこんでいた。不景気になったとたん、ああおそらく俺はすぐに首だ、とまっさきに落ち込み、次はどういう職を探そうかと、肩たたきが始まってない段階から話していた。そこまで自信が持てないでいたが、結果は会社の中で肩たたきが始まった頃、期待の若手社員として唯一、会社の長期的な産業構造の変化に対応するための新規事業開拓の開発チームの重要な部分を任されたそうである。これは彼の性格によるところもあるだろうが、我々(と言ってしまって良いのかわからないが、少なくとも俺は)不登校ということを経験している人間は、そして特に、その深淵をのぞき込んだことがある者は、おそらく一生これとつきあっていかなければならない…と思っている。「思っている」というのは、俺もまだこれらに決着がついてないからなのだが。
それ以外は、もはや普通の勉強について行けない人間の勉強法と同じだと思う。おそらく意欲が低下するのは、できる自分がうまくイメージできないからではないだろうか?とか、塾や家庭教師などの専門家の知恵を借りて見るだとか(不登校に限らず、病気などで遅れる子を復帰させるノウハウを持った人はいるはず)、とにかくわかりやすそうな本を探してまず理解して、そこからとっかかりを探すだとか、そう言う普通の勉強法だ。
そう言ったことの専門家でもない俺が、一番安くすぐにでもできそうなことをあげるとするなら、元増田氏が高校生以上であれば「大人なのためのやり直し化学」とか「やり直し数学」とかそういう類の新書が結構でているので、それをBOOKOFFみたいな新古書店で買ってきて(大体100円)、とりあえず読んでみるのがおすすめである。(が、俺は勉強ができる方ではないので、このあたりについては何とも言えないのだが…)ハンデとしては勉強法を学ぶ時に不登校だった人間だと勉強法の確立から始めなければ行けないことだが(つまり俺だが)、そこは本当に自分なりのやり方を見つけるしかないのでやるしかないとしか言えない。何度も言うようだが、自分は勉強ができる方ではなかったので。
まぁつまり、長々と書いたが、言いたいことは「気にしすぎ。俺もそうだった。とりあえず肩の力抜けよ」と言うことである。
っていうかかなり恥ずかしいなこれ…全く的外れだったらどうしよう…そんときはさっくり無視してほしい…