はてなキーワード: スキームとは
正直未来だけを見て過去を振り返らない方が精神衛生上好ましいな、この会社の場合は。
ところで、給与債権の場合一般の先取特権があるということになっているが、内定取り消し保証金は支払いを受けられるのかな。
民法第三百六条では雇用関係について生じた債権を持つものは先取特権を有することになっているが、内定取り消し保証金の法的性質をどう捉えるかによって、弁済順位が大きく変わってくる。
単なる見舞金なのか?それとも解約権留保・就労始期付労働契約の一方的な契約破棄に対する一方的な損害賠償に支払いなのか?
特に今回の破綻スキームが会社更生法というのが大きい。別除権も大きく制限を受ける。
そもそも支払い原資などあるのかよ、という問題もある。
本件は雇用内定問題の中では新しい切り口なのでよくわからんね。
俺の主観だけど、たいていの日本人は派遣村に同情的だと思うよ。
まがりなりにも憲法第25条がある。治安の悪化も不安だ。先進国としてどうなの?っていう対外的な面もある。
そもそも犯罪者ですら刑務所で悠々自適じゃん。まして罪もない人間が、だよ。
しかし。
サヨクの連中は、派遣村が中途半端に救済されることを願っていない。
衣食住や職業訓練の機会が提供されるようになったら、どうよ?
サヨクの存在意義ナッシングでありお払い箱でありいやむしろ天皇制廃止ってなんだそれ(苦笑)
だったら、生きるか死ぬかのところまで徹底的に追い詰めてみないか?
何人か死んでくれたら最高。殉教者として神格化するスキームは用意してあるから。
で、最終的には自分たちの兵隊として組み込みたいわけ。これが本音。
だから派遣村のイメージが悪くなることもお構いなしに、ずかずか踏み込んで営業してるんだよ。
……はぁ。だんだん腹立ってきた。でも、ダークサイドだけじゃないよ。
末端には、本心から彼らを救いたいという一心で活動している人がいる。
そういう人を個人的に知っているからこそ、この文章を書いたよ。
正直申し上げて、昨今のネットへのアウトプットに対する焦燥感は、ネット業界からの煽りに世間が乗せられているだけのような気がする。
人間の行動パターンとして、自分への利益にならないことは最終的にはやらない/やらなくなるというのがあるが、ネットへのアウトプットというのは、「書くことによるカタルシス」「書いたものが一定以上の人数に読まれることによる自己顕示欲」「書いたものに対する一定の反応に対する自己満足」以上のものではない。人類に対する微々たる貢献、という希望的観測もあるだろうが、ネット外のリアルで有名になれるくらいの人間が書いたものでなければ、それはほとんど無意味なノイズに近いと思われる。現時点の広大なネット空間のつまらなさというのは、そこから来ていると思う。
何をアウトプットするのか、何をアウトプットできるのか、というのは、人間が生きていく上での重要なモチベーションであることは否定しない。しかし、それをネットにアウトプットするということは、もしそのアウトプットが本当に重要なものなら、ほとんどボランティアであると思うし、ノイズに近いものなら、ただの趣味か自己発散ということになろう。
僕が違和感を感じるのは、本当に重要な情報を持っている人であっても、それを無償に近い形でネットに提供すべきである、そうすることが善である、という風潮だ。本当に重要な情報ならば、それは有償で提供されてもいいはずだ。
ネット屋というのはコンテンツを持たなければならないわけで、今やコンテンツは無償で提供されるのが当たり前のご時世だ。ネット屋が自前で無償のコンテンツを提供していたら潰れるわけで、そこはユーザーさんを煽って面白いコンテンツをコンスタントに無償で提供して貰う必要があるわけだ。その無償のコンテンツというのは99%が自己満足のノイズ的な内容だが、残り1%の充実したコンテンツを獲得できれば、ネット屋さんは満足できる収益を上げられる(かも知れない)。そのために、ネット屋さんは全ネットユーザを煽るわけだ。「あなたが生きている証をネットに示してください!」
しかし、それは少し前の自費出版ブームのような胡散臭さを感じる。「ほら、あなたは自己表現の出来る、普通の人よりも優れた人間なんですよ」と言って人間の自己顕示欲を刺激し、自費出版させて儲けるスキームに近い。同じように、自己顕示欲を刺激して無償でものを書かせ、そのコンテンツに乗っかって収益を上げようとしているわけだから。
誰もが自分のアウトプットに社会的な意義があるという幻想を持たされているが、もう一度良く考えるべきだと思う。日記コンテンツはほとんどがただのノイズである。「なぜ自分が貴重な時間をかけて無償でコンテンツを作成しているのか」を問い直し、過剰な「アウトプット=善」的な考え方を見直すべき。
本来そういうスキームから独立するべきの投資銀行や保険会社が自らヘッジファンドと同じことして渦中にいてしまったことが問題を大きくしてしまった気が。
ってのは
実際に儲かっている段階になると馬鹿になっちゃう人も多いんだよ。ずっと冷静で理性を保っていられる人ばっかりだったら問題がこんなに大きくなるわけない。
って事だよね。所詮人間だもの。
ネタ元はhttp://anond.hatelabo.jp/20081010170537、インスパイア元はhttp://anond.hatelabo.jp/20081010170827
GIGAZINEという、海外で話題になったウェブ上の記事を翻訳・紹介したり、ジャンクフードを食べたりしてるサイトがあるのですが、そこが予告.inについてオピニオンっぽいことを書いてるので反応してみます。感想としては印象操作とかの問題って難しいなあというところです。
犯行予告を共有するサイト「予告.in」はもう限界に達している
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080731_yokoku_in_limit/
(トラバってどうすればいいんだろう…。 http://gigazine.net/index.php?/news/trackbacks/8118/ )
■「「予告.in」への批判が増えている」という章
他人の発言を紹介する形式だけど、GIGAZINEの意見を代弁してると見ていいでしょう。だって、自分の意見に合わないのなら、突っ込み入れておくべきでしょうから。たとえば、
理論的に考えれば、違法性が高いのはこの予告者ではなく、通報した予告.inの管理人です。(中略)他人の行為を奇貨として自らが犯罪行為を行っている事例です。
通報が犯罪である、というご意見。警察は通報を募っていますが、警察が犯罪を推奨しているのですね。大胆なご意見ですが、これをGIGAZINEは支持しているのでしょうか。
■「駅で「すかしっ屁」するという書き込みも即座に通報」という章
ここは、管理人のコメントを伝えないと意図が伝わらないのに、それをすっとばしてる。
管理人のコメント。http://yokoku.in/detail?num=3398&all=1
[屁が犯罪なの?]が争点ではありません。
投稿者自身が[犯行予告をする]と宣言してて、
万事を想定して、対象となった駅や管轄する警察には伝えておく必要性があると判断しました。
つまり、すかしっ屁とかいう言葉の問題ではなく、いたずらを越えた敵対心を読み取れる文言があったから通報したという説明です。この通報についてGIGAZINEはこのように書いています。
ここまで脊髄反射で通報するのはもはや異常と言っても差し支えないレベルです。
判断の内容に異をとなえるのなら分かりますが、「脊髄反射」は事実ではありませんね。悪質な印象操作です。
しかし現実には無意味な通報が多く、地道に通報していた頃の方がまだマシだったのではないか?という状態です。
かなり主観ですね。通報制度の功罪については論旨の柱になるので、根拠がほしいところです。
通報するかどうかは利用者の判断にゆだねられるべきであって、たった一人の個人が判断すべきものではない、というわけ。
「予告.inの管理人を含め」、通報したい人は通報すればいいんじゃないでしょうか。利用者が個々の判断で通報することを禁じているんでしたっけ???予告.inへのタレコミは公開されてますよね。
判断できる限界を突破してしまっているがゆえに、拡大解釈を行って、犯行予告っぽいものは警察にとにかく通報しまくる、という現状になっているのです。
先に取り上げた「すかしっ屁」の例で述べたように、管理人は彼なりの判断をしていますよ。ちゃんと理由を説明してますし。誤った通報だと感じている理由は、通報に対するGIGAZINEの価値観と予告.in管理人の価値観が違っているだけではありませんか?
また、素人がちゃんと判断できるという期待をすること自体が間違いなのです。個々の通報人はそれなりに考えて判断して通報するでしょうけど、しょせん素人が通報するスキームなのです。GIGAZINEだって「正しい通報」「間違った通報」を記事中で決めていますが、それが正しいという根拠があるわけでは、多分、無いんですよね。
つまり、最終的な判断は専門家である警察に委ねられるべきなのです。そうでないと素人たる通報者が背負う責任が重くなってしまい、社会の善意が上手く回らなくなるでしょう。
最後に、GIGAZINEの記事を読んで感じたのは、どうしたいのかよくわからないということです。予告.in管理人の通報に反感を感じていて、攻撃しているのは伝わるのですが、それは何を守るための攻撃なのか、伝わってこないのです。(事実を淡々と伝えただけ、という言い逃れは、さすがに無いでしょうから。)
たとえば、ネットの自由を守りたいとか、微罪で逮捕されないという社会の公平性を守りたいとか、警察のコストがかかってるのが良くないとか、そういうのが見えないなあと思いました。
http://anond.hatelabo.jp/20080627075219
デブが差別されるのは必要なコストを負担してないからじゃね? の続きだけど。
もう少し考えてみると、そもそも世の中には「デブは淘汰されるべし」という社会的合意というか、暗黙の了解があるように思う。すぐ思いつくのはスクールカーストとか、就職や出世の難しさだろう。
デブは基本的にモテない。まず洒落た服がない。ジャニーズにデブはいない。スポーツ選手にもいない。モテなければ結婚もできず、子孫を残せないわけだ。
決して法律はデブを禁じていない。カネさえ払えば、好きなものを好きなだけ食っていい。縁があれば結婚したって問題ない。だからといってそれを放置して、デブが増えると困る。根拠を聞かれても困るが、デブばっかりの国は嫌だと、多くの人が考えているらしい。合法的に、ゆるやかに、だけどしっかりとデブを排除していく仕組みが、この世に構築されているように感じるんだよね。
コメントで教えてもらったけど、貧困と肥満の関連性の話は興味深い。貧乏人が食べる低価格の食品は、高カロリーで太りやすい。仕方なくそれを食い続けてデブになったら、デブ排除スキームにハメこまれて所得が下がり、さらなるデブへと追い込まれる。これって貧乏人を排除してるってことか。デブ差別の元凶は資本主義ってことか?
結果、どうなるか。生き残るデブはカネを稼げるデブだけだ。こうしたマッチョデブは何不自由なく生き、子孫を残せるだろう。そうでない非マッチョデブは淘汰されていなくなる。
スイーツ側の人は業務内容が密接にプロジェクトや会社の中の話と結びつくことが多いので、はてな界隈ではなかなかスイーツ側の人はスイーツ側の濃ゆい話を書くことが出来ないことが多いようだ。圧倒的にスイーツ側の人間がはてなを始めとしたブロゴスフィア全体で少ないなぁとつくづく思う。QAも少ないけど。この辺をアツく語るブロガー出てこないかなー。
私は200X年に今の会社に入社して、数年間WEBアプリケーションの開発をやった。多くはJavaの案件だった。最後の案件は去年の夏ごろだ。前任のPMが逃げるように辞めていってしまい、非常に複雑なロジックを自分が担当することになった。1500行越えktkr。それを参考にして(これが大間違いだったんだよセニョールorz)2週間かけて作ってみたはいいものの、テストを繰り返しているうちにどんどんボロがでて、結局その当時のPMとパートナーさんに相談して設計からやり直した。パートナーさんの英知を借りて結果としてコード数が半分以下になり相当イケてるコードになった。今となっては英断だったと思うがその代償でほとんど土日を使い潰してしまった。コードの怖さを思い知った夏でした。
昔話はこれぐらいにしておいて、と。
でもって今は仕事ではコードを書かずにひたすらPowerpointに魂を込めるプレゼンの日々を過ごしているのですが、これはこれで意味のある仕事なんだなと思っている。この業界においてスイーツの人はやっぱり必要なはずなんだと思う。全員が全員エンジニアだったらビジネスにならないと思うのです。技術それだけでは1円も生み出さないのだから。私はずっと内製回帰すべきであると言い続けているけれど、誰かがスイーツを着なくてはならないと思っている。マネージャは必要なはずだと思ってる。誰かが顧客と向き合わねばならない。誰かがチームをまとめあげなくてはならない。できれば、その人は技術も業務も語れるハイブリットな人材が望ましい。このあたりの議論はSIerの中では絶対出てくるはず。
ただ回りを見渡してみれば、はてな界隈でフルボッコされている「スイーツなおやぢ」がマジョリティなのも事実。技術のこと、実装のことを肌で感じることができないし、感じようともしない。大規模になれば細かい所なんて見れるわけが無いので僕の仕事は工数を管理するだけなのでーす、という立ち位置の人間が多いのも認めざるを得ないし*1、そういうスキームになっている部分も否定できない。ごくまれにコードが好きだけど年齢的に管理職になってボヤいているなんて人もいるんだけどね。それにひたすらプログラマー現役続行状態でリスペクトされている方もいるのも事実。今あなたが立っている場所によって全然見え方が違う。
以前エジケンがニッポンIT業界絶望論の中で受託開発にはイノベーションなんてねぇよと切り捨てたけど、本当に革新的なものを生み出すことが全てでは無いだろうとも同時に思う。イノベーションは結果であって目的では無いだろうという見方もあるんじゃねーの、と。これは賛否両論だろうね。コードでなければ世界を変えられないとはてなおやは言うけれど、コードよりも何よりも人間を動かせばすぐに世界は変わるだろうとも同時に思うのです。
スイーツ寄りの人間が最もやらねばならないのは、人を動かすことだと思うのです。顧客を動かす、チームを動かす。プロジェクトが成功する方向に。人を動かすために必要なスキルと、システムを動かすために必要なスキルは全く別物です。Powerpoint1つとっても、結構ディープだよ。言いたい事を正確に伝えるのはスイーツでもエンジニアでも必要だと思うけど、そこで真剣勝負をする人は少ないのが残念。また、スイーツとエンジニアの間にはお互いリスペクトがあればそれだけでいいはずなのですが、上流から下流にお金が流れていってしまうため立場的に下流側にしわ寄せが来る。職業に貴賎は無い。技術神経が死んでいるおやぢほど技術者を十把一絡に捉える傾向が強い。これはガチだと思う。
スイーツにも新陳代謝が必要なんです。むしろ、スイーツにこそ新陳代謝が必要なはずなんです。政治家・似非管理者としてのスイーツが全てではないだろう、と。「ウェブ・リテラシー」を持っているスイーツが色々と面白い企画を立ち上げていく。会社を、回りをよりよい方向に持っていく。そういうスイーツがこの業界にはもっともっと必要なんじゃないでしょうか、と。そういうスイーツにはこれから色んな「けものみち」があるんじゃないだろうか、と。私はずっとエンタープライズにいる人間ですが、技術リテラシーが死んでいる人間が立ち上げたプロジェクトが砂上の楼閣のように崩れ落ちていくプロジェクトをそれなりに見てきたし経験してきました。だからこそ、そういうスイーツが要るんじゃないか、と。エンジニアがスイーツになってもいいと思う。エンジニア寄りのスイーツってめっちゃ希少価値高い気がするけどなぁ。いざとなれば自分でコード書ける自分でありたい。そこは失いたくない。
全然考えがまとまってないんだけど、スイーツはスイーツで結構奥深く多面的に色々なことを求められるのが本筋であり、スイーツにはスイーツのロールモデルがあって然るべきだってことが言いたいのです。スイーツ着たら負けだと思いたくないのです。そういうことを語り合いたい!!
将来有望な電子配信。と私は思っていたが世間様はそうではなかった。
革命から100年経った気にすらなる音楽配信も実態は物理メディア4000億円(約90%)に対してPC向けが50億円(約1%)。飛ぶ鳥を落とす勢いの携帯電話向け配信でも500億円(約10%)である。
電子コミックも似た様なもので5000億円市場に対してPC向けが25億円(約0.5%)、携帯電話向けが165億円(約3%)。
これほどの不人気は構造的な問題が大きく横たわってるといえるだろう。シンプルなデジタル化とネットワーク共有という「技術革新」のみによって誰もがハッピーになれるとはいかない現実がここにある。もはや「技術」は問題でないのは明らかだ。
簡単に述べれば所詮テッキーであるサービサー側が想像する以上に用意した概念と運用スキームは浮世離れして複雑なのだ。
(余談めくがこれは“Web標準”や構造化Webという幻想と同じ問題である。予算が絞られれば世間の様相は一変するだろう。臨界条件が異様に高いか最初から無いからだ。)
じゃあ将来は絶望かというのは早計なのだがこのデータはそれなりの意図の下で当分「期待する形に解釈される」ことだろう。
※データは2006年分から参照、音楽ソフトの金額は生産金額とか言ってるので卸値での計算かもしれない
参考:
http://d.hatena.ne.jp/noraneko/20071012/p1
これは、「来るべきものが来たな」という感じですね。
流れとしては、むしろ必然的なのかな、と。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071012/uf
雇用だけでなく経済や産業構造だって流動的な時代だから、上の世代と同じように技術に習熟すれば同じような人生が待っている訳ではない。生産拠点ごと海外移転するかも知れないし、技術革新によって熟練した技術がコモディティ化してしまうこともある。
オイルショック以来、成熟時代へ向けて価値観を転換することの必要性は幾度となく語られてきたにも関わらず一時的な好況の度に議論は振り出しに戻ってきたのだ。企業の新卒志向、学生の大企業志向も同様。もはや持続しないことが明らかなスキームなのに、逃げ切りかかった大人たちと、あまり深く考えない若者たちの共犯関係の中で共同幻想が温存される。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071008/bug
だから日本政治が迷走から脱却するには、恐らく理屈抜きに共有できる目標をつくるのが手っ取り早い。結局のところ戦後民主主義も戦前の価値観も同じように、目的合理的な価値体系に過ぎない以上、目的が異なる現代から参照しようとしても、国民にとっての普遍的価値観とはならない。
明治政府が一神教を前提とする近代国家に強引にキャッチアップし、戦後政府がラジカルな民主主義を建前として受け入れたように、これからキャッチアップすべき価値観を受け入れようという姿勢の中で、日本的な執拗低音によって、外部の価値観を換骨奪胎していくプロセスが必要なのだろう。日本で何かプリンシプルを打ち立てようと足掻いたり、過去の日本にプリンシプルたり得るものを探すことは難しいのではないか。
まず、ウンコは非親水性なのではないかと思うのだ。油性という訳ではなく水溶性のものばかりではないというか、未消化の油やタンパク質もあるし水溶性のはずのでんぷん質であっても茶碗のご飯は漬け置かないと駄目なわけで、砂のようにさっと水で流せばOKというわけじゃない。
なのにウォシュレットは水でそれを取ろうとしている。これは水溶性のウンコを水で溶かして流すという一般で理解されているモデルとは違って水圧で物理的に肛門周囲の皮膚から剥離しているだけなのではないだろうか。それは繊維質で表面積の大きく柔軟性に富んで形状追従性の高いトイレットペーパーで「こそげ取る」のと大差ないように思われる。
ではウォシュレット後にトイレットペーパーで拭けば相互の特性が補完し合って完璧のように思われるが、一度水を吹きかけるとウンコの非親水性成分のせいで対象に水の膜ができてしまう。このせいでウォシュレット後のトイレットペーパー使用はトイレットペーパーの単独使用よりこそげ能力が劣るのではないだろうか?
やはり現状のウォッシュレットではペーパー拭き取り後の補助的な利用が望ましいのではないか。
などと考えて思い至った望ましいと思われる洗浄スキームは
A. ペーパー拭き取り→ウォッシュレット→ペーパー拭き取り
B.洗浄水に界面活性剤を混入して温水でウォシュレット
である。ちなみにBは私が風呂で行っている作業とほぼ同じである。
当然この解にはある類似を思い出さずには居られない。
調理器具や食器の洗いもの、Aがいわば手洗いでBが食洗機である。
続き、例えば茶碗に毛が生えている場合とかは各自がトイレで、あるいは皿のすすぎをしながら、頭が手持ち無沙汰になった折に考察していただきたい。