正直申し上げて、昨今のネットへのアウトプットに対する焦燥感は、ネット業界からの煽りに世間が乗せられているだけのような気がする。
人間の行動パターンとして、自分への利益にならないことは最終的にはやらない/やらなくなるというのがあるが、ネットへのアウトプットというのは、「書くことによるカタルシス」「書いたものが一定以上の人数に読まれることによる自己顕示欲」「書いたものに対する一定の反応に対する自己満足」以上のものではない。人類に対する微々たる貢献、という希望的観測もあるだろうが、ネット外のリアルで有名になれるくらいの人間が書いたものでなければ、それはほとんど無意味なノイズに近いと思われる。現時点の広大なネット空間のつまらなさというのは、そこから来ていると思う。
何をアウトプットするのか、何をアウトプットできるのか、というのは、人間が生きていく上での重要なモチベーションであることは否定しない。しかし、それをネットにアウトプットするということは、もしそのアウトプットが本当に重要なものなら、ほとんどボランティアであると思うし、ノイズに近いものなら、ただの趣味か自己発散ということになろう。
僕が違和感を感じるのは、本当に重要な情報を持っている人であっても、それを無償に近い形でネットに提供すべきである、そうすることが善である、という風潮だ。本当に重要な情報ならば、それは有償で提供されてもいいはずだ。
ネット屋というのはコンテンツを持たなければならないわけで、今やコンテンツは無償で提供されるのが当たり前のご時世だ。ネット屋が自前で無償のコンテンツを提供していたら潰れるわけで、そこはユーザーさんを煽って面白いコンテンツをコンスタントに無償で提供して貰う必要があるわけだ。その無償のコンテンツというのは99%が自己満足のノイズ的な内容だが、残り1%の充実したコンテンツを獲得できれば、ネット屋さんは満足できる収益を上げられる(かも知れない)。そのために、ネット屋さんは全ネットユーザを煽るわけだ。「あなたが生きている証をネットに示してください!」
しかし、それは少し前の自費出版ブームのような胡散臭さを感じる。「ほら、あなたは自己表現の出来る、普通の人よりも優れた人間なんですよ」と言って人間の自己顕示欲を刺激し、自費出版させて儲けるスキームに近い。同じように、自己顕示欲を刺激して無償でものを書かせ、そのコンテンツに乗っかって収益を上げようとしているわけだから。
誰もが自分のアウトプットに社会的な意義があるという幻想を持たされているが、もう一度良く考えるべきだと思う。日記コンテンツはほとんどがただのノイズである。「なぜ自分が貴重な時間をかけて無償でコンテンツを作成しているのか」を問い直し、過剰な「アウトプット=善」的な考え方を見直すべき。
こういう記事の場合「本当」と「ノイズ」の境界が論点になる。
アウトプットへの焦燥感なんてもうネットにはないよ。 昔の方が「毎日更新しなければならない」みたいな決まりごとがあったせいでノイズに溢れていたよ。 今はそんな圧力ないからみ...