2022-06-24

シブサワコウさんも偉大だけど、奥さんソフトの値下げをさせなかった点と、乙女ゲーというジャンルを創出したというエピソードがすごい。

あとコーエー創業する前も主婦としてなんか地域コミュニティ成功した話もあったはず。

株で有名になったけど、それ以前から経営センスの塊だった人。

美大に通う知人から聞いたキャンパスライフへのあこがれがきっかけで多摩美術大学入学するが、大学2年生の時に学生運動が起こり、授業が成り立たなくなる[13]。そこで、恵子は百貨店向けのPOP子供向けテレビ番組向けのイラスト制作、そしてディスプレー図面引きといったアルバイト生計を立てる[13]。のちにこの経験コーエーでの業務に役立つ。 そして恵子は1971年多摩美術大学卒業する[13]。

光栄設立ゲーム業界への参戦

1978年、2児の母となっていた恵子は夫の襟川陽一とともに、彼の家業である染料問屋を立て直す目的光栄設立する[13]。 1980年、夫の30歳の誕生日プレゼントとしてパソコンを贈る[13]。 これがきっかけで、光栄ゲーム会社コーエー」へと転身していく[13]。

この当時、コンピューターソフトの卸価格が「定価の20~30%」が業界の慣習だったのに対し、襟川は「定価の55%」を強く主張し、問屋との軋轢を生んだ。しかし襟川は「55%でも構わないというところが1社でも出れば、その会社からお店は仕入れしかない。他の流通は得意先を取られるのでうちと取引せざるを得ない」と強気交渉を行い、結局55%を受け入れる会社が現れたことで一律55%で卸すことに成功した。夫の作ったゲーム品質に自信を持っているが故の強気である

女性向けゲームの開発

また、恵子は1980年から、自社も含めてコンピュータゲームゲーム業界において戦争ものシューティングゲームが席巻していることや、ゲームプレイヤー男性を占めていることを疑問視し、女性向けのゲームを作るべきだと考えていた[16][13]。そこで彼女10年をかけて、女性プログラマ採用や、女性が働きやす環境づくりを整えていき、1994年に『アンジェリーク』を発売する[16][13]。発売後、「女性向けゲーム」という新しいジャンルに少しずつ注目が集まり、最終的には女性ファンの獲得につながり、出演声優によるイベントも人気を博した[16][13]。

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