東京オリンピック2020は、もはや盛大な失敗プロジェクトとその原因である無責任な機能不全の組織の象徴としてはインパール作戦に勝るとも劣らないものになっているが、小さいレベルでは、ここ80年(あるいはもっと前からかもしれない)のあいだ我が国につねに遍在していたのではないかと思う。
みなさんの身近なところにも、どうしようもなく硬直した組織、責任者の不在(そもそも責任概念の不在)、方向転換できないプロジェクト、現場へのしわ寄せ、その結果としての悲惨なプロダクト、不合理でブルシットな手続きや書式、そういうのがたくさんあるんじゃないでしょうか。
こういうのは「構造」の問題なので単純に特定の個人に責任を押し付けて「はい解決」というわけにいかないのはそうなのだが、とはいえ、そろそろ具体的に個々の人間にきちんと帰責していったほうがいいと思う。「誰のせいにもしない(みんなのせいにする)」のも「誰かのせいだということにする」のも、問題解決にとって無益という点では同じだ。
きちんと誰かに帰責するというのは、スケープゴートを作るということではない。最終的な意思決定者の問題ならその人に。意思決定の構造の問題なら、その構造を変えられる人に。マネジメントの問題なら、マネジメントのあり方を変えられる人に。当の問題にいろんなレベルで対処しえた人々をちゃんと特定し、その人々のふるまいのそれぞれがこの問題の(少なくとも部分的な)原因だということを明確化するということだ。
構造的な問題が帰責されるべき人たちはたいてい善良で無自覚だろうが(例外的に悪い人もいるかもしれない)、だからと言って無罪になるわけではない。複数人で責任が分担されているのであれば、その分担の度合いに応じて帰責されるべきだろう。「会議」で決まったことだから、「上司」に言われたことだから、と言えば責任がなくなるわけではない。会議で提案する権限や上司に進言する権限が多少でもあるのであれば、そのぶんだけ責任がある。
加えて、問題に気づいたときにそれを誰かに帰責する(つまりちゃんと誰かのせいにする)というのもまた、自分が関わっている組織やプロジェクトに対して個々人が持つべき責任だ。「社会を変えるためには投票に行こう」というのはその通りだが、「社会は投票を通じてしか変えられない」という考えは明らかに間違っている。身近な組織をよりよくするために「ちゃんと誰かのせいにする」ということは、投票以上に社会を変える実効的な行動のはずだ。
そういうわけで、以下の意識は社会に関わる全員が持つべきと思う。
これは上流下流を問わず、おそらくあらゆる組織のあらゆるセクションに言える。
今回の東京五輪の惨状に対して個人ができることはもはや何もないかもしれないが、身近にある小さい「東京五輪」を自分でできる範囲でよりよくするという意識が共有されれば、日本の社会は多少ましになるんじゃないでしょうか。