2021-07-22

小さい東京五輪だらけの国

東京オリンピック2020は、もはや盛大な失敗プロジェクトとその原因である無責任機能不全の組織象徴としてはインパール作戦に勝るとも劣らないものになっているが、小さいレベルでは、ここ80年(あるいはもっとからかもしれない)のあい我が国につねに遍在していたのではないかと思う。

みなさんの身近なところにも、どうしようもなく硬直した組織責任者の不在(そもそも責任概念の不在)、方向転換できないプロジェクト現場のしわ寄せ、その結果としての悲惨プロダクト、不合理でブルシットな手続きや書式、そういうのがたくさんあるんじゃないでしょうか。

こういうのは「構造」の問題なので単純に特定個人責任押し付けて「はい解決」というわけにいかないのはそうなのだが、とはいえ、そろそろ具体的に個々の人間にきちんと帰責していったほうがいいと思う。「誰のせいにもしない(みんなのせいにする)」のも「誰かのせいだということにする」のも、問題解決にとって無益という点では同じだ。

きちんと誰かに帰責するというのは、スケープゴートを作るということではない。最終的な意思決定者の問題ならその人に。意思決定構造問題なら、その構造を変えられる人に。マネジメント問題なら、マネジメントのあり方を変えられる人に。当の問題にいろんなレベル対処しえた人々をちゃん特定し、その人々のふるまいのそれぞれがこの問題の(少なくとも部分的な)原因だということを明確化するということだ。

構造的な問題が帰責されるべき人たちはたいてい善良で無自覚だろうが(例外的に悪い人もいるかもしれない)、だからと言って無罪になるわけではない。複数人責任が分担されているのであれば、その分担の度合いに応じて帰責されるべきだろう。「会議」で決まったことだから、「上司」に言われたことだから、と言えば責任がなくなるわけではない。会議提案する権限上司に進言する権限が多少でもあるのであれば、そのぶんだけ責任がある。

加えて、問題に気づいたときにそれを誰かに帰責する(つまりちゃんと誰かのせいにする)というのもまた、自分が関わっている組織プロジェクトに対して個々人が持つべ責任だ。「社会を変えるためには投票に行こう」というのはその通りだが、「社会投票を通じてしか変えられない」という考えは明らかに間違っている。身近な組織をよりよくするために「ちゃんと誰かのせいにする」ということは、投票以上に社会を変える実効的な行動のはずだ。

そういうわけで、以下の意識社会に関わる全員が持つべきと思う。

  • 何か問題があるなら、まず問題があることを認める。
  • その問題がどういう構造のもとで生じているか特定する。
  • その構造の維持に対して責任のある(それをもたらしている)個々人を特定する。
  • その個々人の責任を問うことを表明する。

これは上流下流を問わず、おそらくあらゆる組織のあらゆるセクションに言える。

今回の東京五輪惨状に対して個人ができることはもはや何もないかもしれないが、身近にある小さい「東京五輪」を自分でできる範囲でよりよくするという意識が共有されれば、日本社会は多少ましになるんじゃないでしょうか。

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