特に現代では、科学がめざましく発展して、死に伴う肉体的・精神的苦痛を軽減する方法が存在している
その人類の知の蓄積は、我々のために使われるべきなんだよ
それなのに、いつくるかわからぬ死に怯え、死の瞬間は全くの運任せ、どんなに高度な治療を受けても、発作に苦しみながら、肺を水浸しにして溺れ続けながら、ガンの痛みをドラッグで誤魔化しながら死んでいくしかないなんて馬鹿げている。
例えばこうだ。あなたの命はもって一週間。もう長くはないことはわかりきっている。家族がそばにいて別れの言葉を口にできるうちに死ぬことは可能だ。しかし、許されない。そして1人真夜中の病状でナースコールを押すことも出来ずにあなたは死ぬ。死を一週間先延ばしするためだけに、ベッドで横になり苦しむ時間を伸ばすためだけに、あなたは誰にも看取られずに死ぬのだ。その延命になんの意味がある?
健康な人だってより良い死を選べるようになるべきだ。人生の良い在り方は生きた長さに左右されるものではない。自分の人生に満足した、見切りがついたと思う人は死んでもいいじゃないか。
より良い安楽死の方法があるにもかかわらず、それにアクセスできないばかりに様々な苦痛が生まれている。無駄に悶え苦しんで死ぬ者、成功率の低い自死法を選び後遺症が残る者、火・ガスによる自殺で他者を巻き込む者、他者を殺すことで死刑になろうとする者、その被害者達……。我々は、自らこの世を去ろうとする者に対し、最期ぐらい安らかに逝かせてあげるべきではないのか。
死の問題は我々全員にとっての問題である。決して他人事ではい。今、この地球上に生きている70億人にも必ずいつかは死の瞬間が訪れる。死は避けられないライフイベントだ。結婚など比ではない。我々はもっと死と向き合うべきだ。
最後の一秒まで苦しみながらの死を望むのか、愛する人に囲まれての安らかな死を望むのか。どのような死を望むあなたも尊重されるべきだ。