友達はひとりもいなかった
小学生のころ、友達はいなかった。中学校に上がっても友達はできなかった。気は弱かった。いじめも受けた。いじめられた悔しさは今も残っている。仕返ししてやりたいとも思うがそれは無意味であり有害と知ってしまったから何とか折り合いを付けていくしかないのだろう。
今にして思えば身体を鍛えて殴り返してやればよかったと思うが、そういう発想すらできないほどに当時は心身ともに弱っちい少年だった。
勉強はできた。成績はたいていクラスで1番。中学は1学年300人近かったが、まあ上位にあった。中学最後の試験はトップをとった。まあ田舎の学校だが。
スポーツもそこそこできた。足は速い方だったし球技は大好きだった。
友達ができないのは自分のせいだ、自分に何か大切なものが欠けているからだと自分を責めた。
40も過ぎた頃、ショーペンハウアーを読んだ。すると、知性の高い人間は孤独になるものだというではないか。もしかして自分はそういう類の人間だったのだろうか?たしかに子供時代は周囲の子達と話が合わなかった。クラスの子達が笑って話している中に入ろうとしても、いったい何が面白いのか理解できなかった。自分が入ることで彼らはしらけてしまうようだった。
高校は進学校に進んだ。そこで初めて学校にいることが楽しいという感覚を知った。友達と呼べる存在が初めてできた。
大学はいわゆる旧帝大に進んだ。大学はさらに楽しかった。ここでも友達はできた。
なにが言いたいのかというと、住んでいる地域が一緒だからという理由でひとくくりにして小学校・中学校に入れるのは、一部の子にとっては非常な苦痛になる場合があるということだ。
思うに、知性の水準が周囲に比べちがい過ぎると孤独になる。本当に賢い人間であればそれも理解して上手に周囲と話しをあわせ良好な人間関係が築けるのかもしれないが、そこに至らぬ中途半端な水準にあると、いっそう孤独を深める事になる。敵対的な環境のなか苛まれることにもなりかねない(知性が高い奴なら低い奴にも合わせられるかもしれないと書いたが、低い思考レベルの人々の話に自分を合わせるのはけっこうたいへんである。なかなか辛いものであり苦痛でもある。かなり疲れる)。
学校にいること、集団の中にいることが正しいわけではない。そんなことは断じてない、ということをいいたい。
集団生活に馴染めないからといって障害か何かと考えるのは間違いである場合がある。集団生活に違和感を覚えたら、自身の知性の水準が周囲と異なるのかもしれないという可能性を考えてみるべきだ。
ところで、子供時代の辛い経験を思い返すと、その頃から格闘技を学んでおけばよかった、もっと身体を鍛えておくべきだったとは思うが、あえてそういう状況のなかだったからこそ何事かを学べたのかもしれない。こういう経験が(辛い経験ではあったが)必要だったのだろうと思うし、そう思う以外にない。
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うんこ