祖母は優しかった。いつでも私のことを可愛がってくれたし、私も祖母の前では良い子でいられた。怒られたくないというよりは、悲しませたくない気持ちが強かった。自分のことを、いつまでも可愛い孫だと思って欲しかった。
自分が嬉しかったことを伝えたら祖母も嬉しくなると思っていた幼い頃の私は何かある毎にすぐFAXを送ったし、すぐ電話した。手紙もいっぱい書いた。遠方に住んでいたから、とにかく自分の存在を忘れられないように一生懸命だった。(今考えたら疎遠でもない孫を忘れるはずがないとは思う)
祖母は手料理をほとんど作らなかった。作れなかったのか作らなかったのかは分からない。いつも祖父母に会いに行くときは2.3日しかいれなかったので、外食をすることが多かった。きっと子供だから外食を喜ぶだろうと思ってたのだと思うけど、私は祖母の作るご飯が食べたかった。結局祖母の手料理は1回だけしか食べられなかった。おにぎり。誰が作っても美味しいのかもしれないけれど、私は今でもあのおにぎりの味を覚えている。
祖母は刺繍が上手だった。亡くなってから知ったことだけど、祖父母の家にあるのれんやリュック、ポシェットや額縁に入った布の作品すべてが祖母の刺繍作品だった。少し大きい象の人形のようなものも祖母が刺繍を施していた。本当は色々やりたかった刺繍があったらしいけど、段々と細かいものが見えなくなって諦めたらしい。やりたいのに出来ないってどんなに悲しいことだろう。
私が高校生になってなかなか祖父母に会いに行けなくなっていた。一般家庭におけるFAX文化も廃れ、電話は祖父母のお誕生日、敬老の日、お正月くらいに減っていた。それでもたまにする電話で祖母は私がする話を嬉しそうに聞いてくれた。習い事を続けて頑張っていたことも褒めてくれた。
祖母は段々足が痛いというようになり、歩けなくなった。父と祖父母の3人で旅行した時、祖母はすぐ疲れたといい椅子に座っていることが多かったらしい。せっかくの旅行なのにごめんねと謝る祖母を見て、父は涙が出そうになったと言っていた。私は聞いているだけで胸が詰まり、お風呂で泣いた。
祖母は寝たきりになっていった。動くのがしんどいと言い、会いに行ってもずっとベッドで横になっていた。足の筋肉は衰えて、私の二の腕くらいになっていた。また私はこっそり泣いた。
祖母は記憶をなくしていった。電話をした時、私のことを伯父と間違えた。話が噛み合ってないような気がしたけど、訂正することが良いことなのか悪いことなのか分からず誤魔化した。電話を切ってから父に気付かれないように泣いた。
祖母はものを食べることができなくなった。この頃になると祖母は祖父以外の人を誰なのか判別できなくなっていた。新幹線に乗り久々に会いに行った祖母は、祖母だけど祖母じゃない別の人のように感じた。いくら話しかけてもこっちを見てくれなかった。そりゃそうだ。毎日何も口にしていないから首を動かす力もないのだ。そこで急に祖母がいなくなることが怖くなって家族の前で泣いた。まだ目の前に祖母は生きているのに。
そして祖母は息を引き取った。祖父も父も伯父も家族みんな揃って最期を看取れたらしい。父は仕事柄頻繁に全国出張に行くので本当にタイミングが合った奇跡だったと思う。
お通夜は次の日だったので、その日は普通に仕事に行った。上司に報告して、訃報連絡の書類などは自分で作った。みんなに全然悲しくなさそうだねと言われトイレで泣いた。悲しくないわけがない。
棺で寝ている祖母は安らかな顔だった。ガリガリになっていたから綿を詰めていたのがすぐ分かった。祖父が、棺に入れようと言って私がいっぱい書いたFAXや手紙を持ってきた。中には祖父宛に書いたものもあったが、祖父は構わず全部入れてしまえと言った。ちょっとそれはないわと思って笑ってしまった。
祖母に送る最後の手紙はいつまでも私のことを可愛い孫だと思ってもらえるような内容にした。天国で再会した時に可愛がってもらわなくちゃいけないから。
おばあちゃん、ご飯はいっぱい食べれてますか?私がそっちに行った時は豪華な手料理食べさせてね。
あと、おばあちゃんの刺繍の本と糸もらったよ。1年かけてまだほとんど何も作れてないけど、一生の趣味にしたいんだ。おばあちゃんの血が入ってるから才能はあるはず。数十年後、私の棺に作品を入れてもらう予定だからその時にまた見せるね。