物心ついてからというものの、BGMが流れている店が嫌いである。
服屋にせよ何屋にせよBGMが流れていると腹が立ってくるのだが、殊に飲食店でBGMが流れてくると味どころではない。戦争が始まる。
とりあえず何かしらの音楽を流していれば体裁が整うと思っているのであろうが、俺は騙されないぞ。
かつてドイツに行った時は店にBGMなんて流れていなかった。ドーナツ店。刺青を入れた2mくらいの屈強な碧眼の店員が無言でドーナツを売っている。異様な緊張感が支配する店内。ドーナツが皿に投げ付けられる。釣り銭は正確。
日本の店にはこういった緊張感が足りないんだよ。頼めばコーヒーのおかわりをくれたぞ。いい奴じゃねえか。
まあともかくドーナツはうまかった。ラムシュタインみたいな連中とドーナツと濃いコーヒーだけが記憶に残り、強烈な思い出として俺の頭に登記済みだ。機会があればまた行くだろう。
マニュアル化が進んだ日本の接客稼業はこういったバラエティを提供できなくなりつつあり、いずれは滅ぶ運命なのだ。
俺は店内BGMが滅ぶまで待てないからいくつか疑問を投げ掛けたい。店内BGMを流すと得するのか?俺の脳に嗅覚と味覚の処理をさせろ。耳に瞼はない。
知っているぞ。大音量で聴覚にアプローチすることで正常な思考能力を奪い、消費欲求に抗えなくするのだ。郊外のドラッグストアがよくやる手法だ。BGMに限らず、お買い得情報を爆音で流してうんざりさせ、値段を確認させずにレジへと向かわせるそのメカニズムは、まさに知性に効くドラッグだ。その手には乗らないぞ。
ちなみに俺は仕事をしている時は常に音楽を流している。音楽を流している間は余計な事を考えられなくなり、仕事に集中できることを知っているからだ。
視覚というものがある程度意識と密接な繋がりを持っているのに対して、聴覚は無意識的に作用するのではないか。最近『虐殺器官』を読んで、この考えはより確固たるものとなっている。
前述したように耳に瞼はないのだが、音楽を聞いて感動するのも、怒号を聞いて恐懼するのも、意識がその意味を理解して感動しあるいは恐懼しているのではない。聴覚は意識的な選択を行うよりも前に脳に作用し、感情の惹起や行動の促進を引き起すのだ。インドカレーの店で流れているインドっぽい音楽は、あれがインドっぽいと脳が理解したからインドっぽいのではない。あの音楽を聞いた瞬間に、脳が自動的にインドを惹起するのだ。一度でもあの音楽を聞いたことのあるお前はインドからは逃れられないのだ。
ともかく飲食店でBGMが流れていると余計なイメージが惹起されて迷惑しているので、静かに集中して食事に集中するためにも、店内でのBGMの使用を控えていただきたいと主張していく。
BGMないと他人の会話が耳障り
図書館で飯でも食ってろ