法はべつに人を束縛するためのものじゃない。正しさを押し付けるためのものでもない。
むしろ逆で、たくさんの人が自由に生き、幸せに過ごすためにある。
人を殺すのも自由だし、そもそも意志をもって行動する人間を誰も止めることはできない。
なので、「人を殺してはなりません」というような書き方の法は現代にはまず存在しない。
ただ「その行動が法に触れるものだったら、(発覚したら)規定の罰を受けますよ」というのが法だ。
その罰の存在によって、間接的に行動を制限しているにすぎない。そこに良いとか悪いとかの概念はない。
だから、その意味においては、増田の感じている違和感は正しい。
法を意訳して「○○しちゃダメだ」と読み替えて、法執行者ではない一般人が正義を振りかざすのは、少しズレた行動だと言える
(あとは、規定の刑を終えて出てきた元受刑者をいつまでも悪人だと誹謗し人格攻撃する第三者も、少しズレた人たちだ)。
だからと言って、普通の社会感覚をもっていれば、罰をものともしない行動をとる人を看過できるほど他人に無関心な人は少ないだろう。
自分がおせっかいな忠告しなくとも、あるいは誰も忠告しなくとも、法を犯した人が適切に取り締まられれば問題ないし、それが理想だ。
だが現実の法執行機関(警察など)はそこまで万能ではないから、「忠告をして芽を摘んであげたほうが良いだろうし自分が被害を受ける率も減るだろう」と考える人が多い。
それで「○○しちゃダメだ」という言い方になってしまうだけなのだ。
増田は法の「正しさ」に反感をもっているようだけれど、なぜその罰則が設けられたのか、という意思決定の集合体である法は、先人の知恵の塊のようなもの。
こうした方が社会がスムーズに回るのだと言う決まりは、議会で私たちの代表者によって民主的に決められたものだから、守るべきものだ。
もちろん時代に合わせて適切にアップデートしていくことは必要だけれども、基本的には現行法の意図を推し量って尊重しなければならない。社会の一員として生きる限りは。
法を知り、自分が法を破ったなら罰則を受け入れる、そして破らないように振る舞う、というのは、自分の属する自治体や国やあるいは人類の成り立ちを尊重し、その構成員を尊重するということにほかならない。