はてなキーワード: 魯山人とは
まあタイトルは釣りで、これ良くある話題とは逆に、主語が小さい案件だと思うんだ。
つまり、「コントロールできない欲望は身を滅ぼす」という話な。
例えば、「承認欲求」という単語を、「食欲」に置換して読むとわかる。
「食欲の肥大化が問題視されるが、食欲は生活に不可欠だ」そりゃそうだろ。
むしろ、まんがサイエンスで頻出の冒頭のボケツッコミにあたるのではないか。
「虫歯にならないためには?」「歯がなければ良い!」みたいな。極端なヤツ。
「肥満にならないためには?」「食欲を無くせば良い!」で、結果ガリガリになって入院とか。
悪魔に不思議な力で変なコトさせられなくても、ネットだと簡単にできるんだよね。
知り合いがニュースに妙な感想言ってても、コンコンと諭したりしないし。
「最近の若者は」に対して「若者の全てがそうである根拠は?」とか聞き返さないし。
イオンで買い物しててヒトコト物申したくなっても、お客様相談窓口に電話することってあんま無い。
フレンチの名門トゥールダルジャン行って持参のわさび醤油取り出すのは、魯山人か海原雄山ぐらいだろ。
事件は会議室で起きてないけど、発言しなくても会議室に居た事実は残る。
でも、ネットでは沈黙してると見えないから、居ないのと同じなんだよね。
だから、「俺はここに居る」と、とりあえず発言しとく必要がある。
(下手すると、コメントを出さないことを勘ぐられる世知辛いネット社会だし)
「読んだ」よりは「こう思う」とかになるし、その結果が目立つなら、目立ちたくなる。
そういう目立つとか目立たないとかがハッキリ分かる仕組みって、日常生活では少ない。
ブコメもスター座布団が無ければ、大喜利会場にはならんわけだし。
日常生活でも頑固な人っているし、2,3日なら考えを変えないとか、我が身を振り返っても無くはない。
「ネット上は」とは言うものの、その向こうには「実社会からネットに繋いでる人」が居るわけで。
反対されれば反対されるほど意固地になるとか、仲良かったのにコジれて絶縁とか、良く聞く。
その手の話が超高速かつ大規模に行われると「炎上」とか呼ばれるのかなと思ってる。
だからまあ、炎上時にゴメンして反省とか、中々難しいんじゃないかな。
だからこそ、欲望のコントロールができる全能感があるとき以外は、ネットから距離を置くのが良いわけで。
日常生活ではミットモナイことする俺でも、ネットならスマートになれるとか幻想だろうし。
承認欲求は脅威ではなくネット社会に不可欠な要素である - はてな村定点観測所
http://b.hatena.ne.jp/entry/cyberglass.hatenablog.com/entry/2015/11/11/065035
「マネキン」と言われる試食販促の人が私の担当売り場の近くにいた。
これは決していいにおいではなかった。
『孤独のグルメ』で五郎が“シウマイ弁当”を食べる回を思い出した。
シュウマイってこんなに臭かったっけな?
食べる分には気づかないが周りからすれば臭い食べ物と言えば納豆がある。
私自身、納豆が臭いという認識は無いのだが、納豆嫌いの人々の話を聞く限りとても臭いらしい。
納豆と言えば、一時期ハマっていたときがあり、一体どれほど混ぜればよいのかを考えていた。
ある説によれば魯山人なる者が500回混ぜよというのだが、なんだかうさんくさい気がしてその出典を調べてみた。
納豆の混ぜ方ではないが納豆茶漬けについての記述があり、そこに納豆の拵え方が載っていた。
ここでいう納豆の拵(こしら)え方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくねりまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味くなるのであるから、不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。
かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、ねることを繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ねぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。茶漬けであってもなくても、納豆はこうして食べるべきものである。
最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人は、醤油の代りに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましいものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なものが出来上がるであろう。
混ぜ方にはわかったが回数については言及していない。
とはいえ、魯山人がくさい納豆をこのようにして食べているとは…と思いながら納豆を混ぜていると、どことなく親近感を(勝手に)覚えた。
しかし後の一節で
納豆には美味いものと不味いものとある。不味いのは、ねっても糸をひかないで、ざくざくとしている。それは納豆として充分に発酵していない未熟な品である。糸をひかずに豆がざくざくぽくぽくしている。充分にかもされている納豆は、豆の質がこまかく、豆がねちねちしていないものは、手をいかに下すとも救い難いものである。だから、糸をひかない納豆は食べられない。一番美味いのは、仙台、水戸などの小粒の納豆である。神田で有名な大粒の納豆も美味い。しかし、昔のように美味くなくなったのは遺憾である。豆が多くて、素人目にはよい納豆にはなっているが。
私が食べているのは3パックで100円を切る品、しかもどことなくざくざくした食感である。
魯山人に親近感をだなんて大それたことを思ったのを恥じた。
書くことも無くなってきたのでにおいの話に戻るが、中学生のときに納豆嫌いの女友達(後にヤリマンになった)が言ったことだが、納豆はどうも“足の臭い”がするらしい。
そんなことを考えているうちは納豆は食べれないだろう、と当時は返した。
当分食べれないだろうな、シュウマイ。
確か白州正子だったと記憶するが、かの魯山人を評して「かわいそうだけれど、あの人は育ちが悪いのよ。」と対談か何かで発言していたことがずっと気になっていた。
白州正子は、育ち云々に対しての説明としてあるエピソードを語った。
「たとえば、私たちと話をしている最中に、ほかにもっと有力な人物(このあたりおぼろげ)が現れたら私たちをほったらかしにして、そちらのほうへ寄っていくところがね。」
自分をないがしろにされて不快にならない人間など、そうはいないだろうし、ましてや白州正子のような気位の高そうな人なら尚更だなと、その時思ったことを覚えている。
学生の頃、「ありがとう」と「ごめんね」をやたらケチるひとがいた。こちらとしても見返りをもとめて何かをすることはないが、
一言お礼を述べる手間を省くという彼女の行動規範は、これまでの人間関係にはなかったもので、少し符に落ちないでいた。だからといって、それを直接彼女に告げる勇気はなく、もやもやしていた。
そのようなことをたまさか祖母に話したところ、
「かわいそうだけれど、育ちが悪いのよ。そんなこと(お礼を言わないよねなど相手を非難するようなこと)は言ってはいけないよ。」と顔をしかめて、すっぱいものを口に含んだときのような表情で言われた。
いい大人の年齢になって、ああ、なるほどと合点がいくことがある。
「育ちが悪い」などという物言いは、それこそ何様ですかという傲慢な人物と受け取られかねないから、育ちが良いとされる階層の人々は、黙って見守るあるいはなかったこととしてやり過ごすのだと、最近思うようになった。
誤解してほしくないが、この文脈での育ちが良い階層とは、富裕層と必ずしも一致しない。
自分と同等の者、あるいは目下の者にも礼を尽くす。そもそも「礼を尽くす」という思考が行動規範に組まれていないひとも多い。自分も気をつけたいと思うある日のことであった。