年末に週刊誌が松本人志に関するスキャンダルを報じた影響で松本人志という人物に対して厳しい目が向けられている。
それは女性問題に限らず、過去に松本人志が作り出したコンテンツに関してもだ。
評価の中には、彼の笑いはイジメを助長するあるいはイジメそのものを笑いにしていたというような主張が存在する。
しかし、そのことの真偽を検証するのがこの文章の目的ではない。
そのことをまず了承してもらいたい。
彼の笑いの是非を問うものでない。
その上で、あえて彼の作った笑いが極めて有害なものであったと仮定してみる。
そういう話をしたい。
彼が過去に作った笑いのコンテンツが有害であったとして、果たして我々は松本人志を責めることが出来るのか?
いや、それは出来るわけがない。
当たり前のことだ。
表現者が表現の自由を行使して、その許されている範囲内で表現を行ったことを責めることは出来ない。
例えるなら中世ヨーロッパにおいてキリスト教以外の神を否定するような絵画を描いた芸術家を断罪することが出来るのか?という問いと同じだ。
わかるだろうか?
芸術家というものは自らが作り出したものを検閲することなど出来ないのだ。
自らのうちから生み出された、ある表現が適切かどうかを判断する完全なる客観性を表現者は有していないからだ。
だがら、その客観性を有しているものがその表現が適切かどうかの判断をくださなければならない。
誰が判断するべきだったのか?
おそらく松本の過去のコンテンツに関して責任がある存在とは、すなわちテレビ局であるはずだ。
松本がいかに偉大な表現者だったとしても関西の一劇場で細々と舞台演劇を行っていただけならば、いかにカルトな人気があろうと全国的な影響力など持ちようがないのは言うまでもない。
広く流布するべきものか、
あるいは極めて優秀な作品だが
これはもっと人の目の触れにくいところに留めるべきか、
このことに松本人志の笑いを否定するものたちはまずは留意すべきだ。
テレビ局は当時、松本人志のコンテンツを広く全国民に向けて放送することに問題がないと判断し、流布した。
理解できるだろうか?
イーロン・マスクのようにメディアそのものをコントロールするような権力を松本は持っていなかった。
その松本に対して、イジメを助長するような作品を流布したと批判することは出来ない。
さらにいうならば、その松本の笑いがなぜ広く流布されるようになったのかという原因そのものをもっと考えてみるべきだ。
そのテレビが、ある番組を放映するかどうかの判断の要としていたのが視聴率だ。
テレビの視聴率とは、どれだけの人が、その番組を見ていたかどうかを表した数字だ。
それは批判的に見ていたわけではない。
あのとき、あの場所で、多くの大衆が松本が面白いと思ったから視聴率を稼いだのだ。
ムーブメントには必ず、それを支持する多数の大衆が必要となるのだ。
松本のような広いマスに対して自らの表現を売り物とするものは、
常に時代を見つめながらコンテンツを生み出さなければすぐに大衆から見捨てられる。
ウケないものとはなにか?
大衆とはなにか?
それはすなわち社会だ。
このような言葉使われるようになって久しい。
これはどういうことか?
なぜか?
だから常に価値観をアップデートしないと常識はずれの言動してしまうぞ、ということだ。
ならば、その逆も真実だ。
過去を振り返るときには、価値観のダウングレードをしなければならないのだ。
理解できるだろうか?
そのアップグレードされた価値観で持って過去の出来事を振り返れば違和感しか感じないのが当たり前だ。
なのにそのアップグレードされた価値観で過去の出来事を断罪するなど
愚か者のすることだ。
そうは思わないだろうか?
笑いというのは毒である。
人は毒を面白がるのだ。
しかし毒は
その時々で
使っていい量
使っていい種類
が異なる。
常にその許容は変動していき、
それを間違えれば死をもたらす。
松本を支持した過去の自分たちも含めて断罪すればいいだろ お前も俺も松本もみんな最低のカスだったんだよ
表現の自由があるから彼の表現を責めることはできない……? 表現の自由というものをなにか根本から勘違いしてないか