2020-02-12

苦しいものには価値がない、という時代がきたのかなと感じる。

「俺が若いとき毎日残業接待で---」「今の若モンは苦労を知らない」というのはあまりステレオタイプ昭和の勤め人像だが、確かに洒脱でないなと感じる言い分だ。

こういう、旧来の感性と180°反転して、現代20代は「自分楽しいと思える形で努力し、それを認められる環境で生きていくのがクール」「辛い努力ルールに従って泥臭くやるのは恰好悪い」とされる。少なくとも20代半ばの私はそう感じている。

個人的意見だが、私は上記つの対局にある感性両方に疑問をもつ

もちろん、空気を読めだとか、いくら無能でも年上を敬えだとか、女はこういうもんだとか、男が大黒柱であるべきだとか、そういった時代遅れの考えに同調するわけではないし、個人能力に応じて自由選択を選び取れることが幸せなのだろうと思う。

一方で、今日大学生たちがあまり個人主義に傾倒し、大学をでて就活をして大手企業に入ろうとするといういわゆる「人生のレール」を毛嫌いしていることに違和感を覚える。

現実に、私の同期や後輩のうち10名以上が大学を辞めるか、一般的就職活動を行わずにいわば変則的ルートで進路を決定している。

私は彼らを心から応援しているが、少なからず、その決定に伴うリスク合理性を問いたい。

彼らは決まって、一見大胆に見える進路を選択した後にSNS上に『なぜ大学を辞めたのか』という旨の投稿を行い、それに他の学生は熱烈なエールを送るのだが、私はそのやり取りを一抹の恐怖に似た感情をもって見つめている。

例えば、大学研究意味を見出せず、浪人と休学を含めて6年間を投じた大学生活を途中退出してコネクションを使ってエンタメ業界へ。

賞賛応援の嵐、夢を摘み取ったことへの羨望がコメント欄滾々と沸き立っている。

なんだかなぁ、と私は思う。

大学を出てからでもよかったんじゃないのか? 全く触れもしなかった卒業研究からも、得られるものがあったんじゃないのか? などと考えてしまうのは私がもはやロートル化しているからなのか。

繰り返しになるが、私はこの判断否定する気などさらさらないし、そんなことをできるほど大した人間ではない。

私は単に、大学生たちに、人生のレールがダサいものなどではないことを知ってほしいと思っている。

研究をまじめに行って、大きな企業で世の中にインパクトのあるものを、優秀な同僚とともに生み出していくことが、恥ずかしい事であるはずがないのだ。

学業就活は総じて苦痛を伴うだろう。私も大変に苦しんだし、大学院をやめようと思ったのも1度や2度ではない。

それでも徹底して競争に身を投じ、苦しんで苦しんで戦い抜いた結果、私は今作りたいものを自らの手で生み出せる仕事をしている。

研究以外で何もクリエイティブことなどできないが、こういう人生もアリだろうな、と自分では感じている。

何も研究勉強がいつも楽しかったわけではない。苦しい事が9割5分だった。

それでも逃げ出さずに戦いぬいたことを私は誇りに思うし、この経験が私にとって有益ものをもたらした。

こういうと古臭いのだが、苦しいことも、まったく無駄ではない。

苦しくとも自分が信じる目標を成すこと。それが一番格好いい事なんじゃないのかなと思う。

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