はてなキーワード: 平安時代とは
日本人×日本人夫婦では、ほとんど予定調和な容姿の子供にしかならない。
でも日本人×外国人ではトンビが鷹系の奇跡な子供が生まれたりするよ。
平安時代っぽくて、外人顔がうけてる今の日本ではまあモテそうもない顔の叔母が、
ヒョローっと背の高くてちょっとだけ貧相な、これまたガチムチセクシーがモテる向こうではモテそうにない白人男性と結婚して、
その娘と息子がとんでもなく可愛い。姪が中学生で甥が小3くらいだったか、もうまさに天使という感じ。
確率はそんなに高くないかもしれないけど、ハーフが奇跡を産むのは事実だよ。
お互い母国ではあんまモテないけど、
最近よく、文化、歴史、政治的側面から日本を賞賛するような記事を目にする。
こうした記事に目を通すと、事実と些か異なっていたり誇張されていたりするが、それは別段大きな問題ではない。
というのは、日本がよい国であった、あるいは日本がよい国であるという主張に共感する人が大勢いるという点がこの問題の本質であるのだ。
アメリカや中国といった超大国は多くの国民が国家の象徴である国旗や国歌に敬意を表している。
イギリスにいたっては、移民に対して女王陛下に忠誠を誓うことを義務づけている。
果たして、日本人の我々は国家に対して、象徴たる君主に対して敬意や感謝の念を抱いたことがあっただろうか?
否、我々は教育の中で徹底的に自虐的歴史観、自虐的正義感を植えつけられてしまっている。
そのために、「日本という国は悪である」という固定概念と都合のいい根拠だけを基に、国家の存在意義や価値を判断するようになった。
さらに言えば、国家や君主に敬意を表することは服従を容認することでなければ、その歴史を美化することでもないことに気付いていない人が多すぎる。
我々が脈々と受け継いできた文化や歴史を受け入れるということは、それらの中にあった過ち、例えば諸外国への侵略を正当化することでは決して無い。
にもかかわらず、そうした見当違いの思い込みや政治的な思惑で多くの日本人は日本に対する誇りや国民たる尊厳を失ってしまった。
この元凶は、戦後の荒廃した日本を目の当たりにした今の教育者層が我々を教育してきたことに由来する。
そうした人達にとって、彼らの戦争絶対悪、国家絶対悪というのは理解できないことも無い。
しかし、歴史を少しでも学べばそうした自虐的な価値観を持つ必要性などどこにも無いのだ。
ただし、我々が少なからず犯した戦争などによる過ちを美化することはしてはならない。
それが客観的な歴史観であり、子供たちに国家への真の敬意を示すことになる。
そういった前提で、「日本はすごい国だ」「こういった事をしてきたんだ」という記事を読むことで、内なる自尊心に気付かされるのは至極自然である。
私たちには誇るべき文化や歴史があり、現在では政治的経済的に世界に貢献している。
こういう主張をするとすぐに思考停止に陥り、虚無な反論を試みる人がいるが、「我々にとって」日本が素晴らしい国であることには変わりないのだ。
それが嘘だというのであれば、日本SUGEE!コピペを読めばいいだろう。中には誇張もあるが、概ね正しい。
それを読んでも日本が凄い国であると本当に感心できないのであれば、それも個性であろう。
パスポートを持っている人であれば、こうした文言を見たことがあるだろう。
「日本国民である本旅券の所持者を通行支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を関係の諸官に要請する。日本国外務大臣」
我々の中には国を憎み、嫌い、怨むような人がいるが、彼らは大きな勘違いをしている。
あなたたちが憎んでいるのは「政府」であり、「国家」ではない。
政府があなたを小中学校に進学させ、政府が年金を管理し、政府があなたの生活や安全を保護している。
逆に、政府があなたの生活を圧迫させるような政策を行い、政府があなたの意にそぐわないような政策をとっている。
国家と政府の関係は政治学などで論ぜられるところであるが、重要なのは政府と国家を混同している人がいる点なのだ。
もっと言えば、平安時代には政府はなかったがそれと同等の機関が存在したし、鎌倉時代には幕府がその役割を担った。
そうであるなら、自分と国家を混同しその栄華に浸るのは愚かしく、我々の成長によって社会をよりよくしようとするのが真の愛国であり、国家への敬意の表し方である。
我々が政府に搾取され、騙される存在であり続けるのは、何も言わず何もしないからであって、社会の構造を変えるのは意志と行動のみである。
そこから脱却することで、我々は初めて、国家に対して誇りを取り戻すことができるのである。
もし進化論が正しければ、生き難いブス・ブサイクは淘汰されるはずだ。
特に古代・中世とは違いメディアの発達した近代では、庶民でも労せずにレベルの高い美人・イケメンを目にすることはできるため、真の美人・イケメンを知らないため見切り発車(発射)してしまうということも少ないはず。
それでもブス・ブサイクが減らないのは、進化論が正しくないかもしくは、
のどれかなんだろうか?
いやおかしくないと思うよ。まったく。ゼロの概念前からゼロはあったと断言していいし。
意味があるか/ないかじゃなくそういう風に見ることができるか/できないかだから。
その平安時代のオタク像の内容に本当に納得させられるだけのものがあれば納得すると思うよ。
納得しないのは内容自体がかけ離れてるからだよ。コミケットの歴史を辿っていって、それが平安時代から継続的に行なわれていたとして、1988年頃に「1000年来ずっと続いてきたこの集まりをコミケットと呼ぼう」って誰かが決めたとき、それは平安時代からあったと言える。現実に言えないのは単に続いてないからなだけで。
カンガルーがボクサーでも何の問題もない。誰かが「ボクシングの定義を人間動物限らず手での殴り合いとする」って決めればね。現実に言えないのはボクシングがスポーツの種目として定義されたからなだけで。
確かに概念が誕生してから後追いで作られていくものってのもあると思うんだけど、それは理想像としての概念だと思う。
スポーツで言えば、ルールを遵守することで発生する一定の状況を理想像として提唱した状態っていうか。
つまり「理想像」としての概念と、「分類」としての概念は違う。
本題と全然関係ない横レスだけど「日本人という概念は明治以降」ってのは正しいんだけど、
「今の目から見て日本人と分類できるようなものがそれ以前からあったか?」って言うとあったと思うよ。
増田は「恐竜」を例にあげて反論してるけど、そういう学問的に/実体から帰納的に定義されたものと、「概念そのものから出発して演繹的に作り上げられた存在」を一緒くたに論じるのは間違い。ある概念定義を前提としている「今の目」を過去に遡及する時点で、既に偏見が入ってるわけです。
たとえば「オタクという概念は80年代初頭」ってのは正しいけど、「今の日本人から見てオタクと分類できるものがそれ以前から…たとえば平安時代にだってオタクはいたんだ」云々という主張が全面的に正しいかというと、余り同意を得られないだろう。なぜなら、それではオタクという概念が無限に拡散するだけで意味がないから。そもそもオタクという「概念」が先行して始めて人は「オタク」になるので、そういう自覚なき人々をオタクと呼んでも全く意味がない。
「ゼロ」という「概念」は数学においてある時点で「発見され/つくられた」概念だけど、「ゼロの発見以前からゼロと分類できるものがあった」からなんだというんだ。そんなこと主張することに意味があるだろうか。また、「ボクシング」というスポーツは近代に入って発明された概念だけど、「現代の眼から見てボクシングと言えるものは…」ってそんなこと言い出したら有史以来のあらゆる手による殴り合いをした人、果てはカンガルーまで『ボクサー』になっちゃうよ。それはなんかおかしいでしょう?
私も「ちょうふく」派だけど、時代の流れだから仕方ないかなと思う。
平安時代だって、間違った読み方が定着しちゃったこともあったみたいだし。
最近の国語の乱れようは目に余るものがある。敬語の乱れや「食べれる」などといった「ら抜き言葉」の氾濫など、由々しき状況です。われわれは言語で思考するわけですから、言葉が乱れているということは、思考が乱れている、精神が乱れているということにほかなりません。精神を正すためには、国語も正しい伝統に回帰すべきです。たとえば50音の「ゐ」や「ゑ」は廃止されていますが、本来それに当てはまる音があった。それが忘れられ、発音できなくなってしまったんです。
http://news.goo.ne.jp/article/php/politics/php-20080609-04.html
ちょwwwwww音韻体系を平安時代に戻せっていうんですかwwwwww
そんなこと言わはるならまず、あずまえびすの言語なんぞを標準語やなんて呼ぶのをやめはったらいかがですやろ。日本の国の文化は京都が中心どすえー。いや、まじめな話、平安時代の音韻体系ってのはあくまで「京都とその周辺」の音韻体系なわけですからねえ。
そして、その頃ヨーロッパの方を見れば、フランスやスペインで話されている言葉は「フランス語」や「スペイン語」じゃなくて「俗ラテン語」だったわけです。ってことはですよ、西欧人は当時の標準語とたるラテン語をしゃべるべき、そうでなければ言語が乱れておるってことになるわけですが、それでいいんですかね、平沼先生。
そういえば、フランス語の綴りが音とかけ離れているのはラテン語を引きずっているからで、あれは言ってみれば旧仮名遣いなわけですね。最低限、フランス語も綴り通りしゃべるようにしたらいいんじゃないでしょうか。もっとも、ガトーショコラ (gâteau au chocolat) を求めてお菓子屋で「ガテアウ・アウ・ショコラット」を注文して、目的のものが出てくることは保証しませんけどね。
ほぼ記事タイトル通りの出来事があったので思わず匿名ダイアリー。
(厳密には、八木氏はかつてはつくる会の会長だったが、今はつくる会とは無関係)
書くの初めてなので、読み難ければ申し訳ない。
先に書いておきますと、私は公立校勤務です。
で、私が勤務する地域では、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択しています。
この教育講演会(教職員一斉研修会)は、教委が主催したもので、基本的に地区内の全職員(学校事務職員も含む)が参加しました。
恥ずかしながら、誰だか知らなかったんですが。
開会前、もらったレジュメを読んでいると、最初に出てきたトピックが
“「不当な支配」の主体の転換”
という内容。
旧教育基本法の、
「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである(旧第十条)」
という規定が、
「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない(改正第十六条)」
と改められたことによって、服してはならない「不当な支配」の主体が、
before:政府の圧力
↓
after:日教組などの職員団体
と変化しており、政府首脳部からもそのような見解に立った発言が相次いでいる……という鋭い指摘。
私としては、
「なるほどそうか……。これは大変だな」
と思ったわけなのですが、その先を読んだら
「……なんか違う?」
なにしろ、いざ講演が始まったら、この
「政府=正当な支配」
「職員組合=不当な支配」
という立場を全面的に賞賛する論調でして。
日教組に参加してる職員が1%切ってる本地区でそんなこと言われてもな……。
(うちの地元には、「教職員協議会」という、日教組とは別の組織があり、これが97%の組織率を誇っています。
方針としては、行政との対話路線。
私もそっちに入っています。
新採の時、勧誘パンフが送られてきて。
「教え子を戦場に送るな!」
って書いてある。
言いたいことはわかるがちょっと引いた。)
内容は、なんというか、ツッコミどころ満載だったんですが、まず特に違和感を感じた点。
講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。
第二次大戦末期、樺太にソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。
事件名とか知らなくても、
「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」
とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。
とか褒め称えるわけです。
このエピソードを教育にどう生かせと?
「彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。
お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」
置かれたら?
自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。
私としては、子どもたちには
「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」
……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。
ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。
で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。
そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。
彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?
少なくとも、八木氏の言う
「ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」
……というのは、この場合は事実に即してないと思います。
……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。
「沖縄というのは、長らく琉球王国という日本とは違う国で、その後は島津の統治下になり、近代化されたのが他の地域よりも遅れた土地なんです。
だからこそ、日本人的であろう、という責任感が逆に強くなって、それでああいう事件が起きたのではないかと思います」
という、目の覚めるような主張を展開します。
なんで目が覚めるかというと、すごいアクロバットだから。論理の。
危険なのでよい子はまねしないでください。
もし沖縄県民があの場にいたらかなり血圧が上がったんじゃないか、と思うんですが、あれはたぶん、戦わずして論敵を脳溢血で葬ろうという高度な戦術なんだと思います。
危険なのでよい子はまねしないでください。
ていうか、「集団自決」と「責任感」がどうつながるのかそもそも良くわからんのですが。
なんか、とにかく死ねば責任感がある、みたいな話で、日本文化の奥深さを感じました。
「命どぅ宝」のお婆さんは、やっぱり駄目な日本人なんじゃろうかね。
近代化が遅れた地域だからな。
あとまあ全般に言いたいことは山ほどあるんですが、重箱の隅つつきは後回しにします。
とにかく、こういう歴史観のリビジョンを促すような講演会に、公務として参加させられるのが、本地区の実態なわけですね。
開会が14:00でしたから、どの学校も特別日課で対応したと思います。
本校でも、当日は授業を午前中で切り上げて参加したわけですよ。
もちろん、講演聞いてる間にも給料が出てます。勤務時間内ですから。
内容に疑問を感じたのは何も私だけではなくて、翌日の職員室では批判大会。
「終わった後、あの先生と偉い人達とで飲み会があったらしいから、八木先生は急いでいたわけじゃないらしい。なのに質疑応答の時間を設けなかったのは、意図的なものに違いない」
……ええーっとですね。
つまり、「つくる会」の教科書を採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会」史観に染まるわけではない、ということですよ。
このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。
我々はロボットではない。
その一存で採択が決まったようなもので。
しかし、「つくる会」教科書を採択した、というだけで、かなり外部からの批判にもさらされてるし、学校現場にも不満があるのが実態です。
なので、教育委員会の方針に疑問を持っている教員を「啓蒙」しよう、というのが、この講演会の趣旨だったんだと思います。
くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。
授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?
そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場の人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。
……ああ、そうか、授業で質問の時間を設けなきゃいいわけですね。
率先垂範を地で行っておられる。
で、その他、「作る会」教科書を使ってると高校受験に対応できないとかいう現場の苦悩をよそに、首長とか教育長とか、講演会場の最前列に座っていてですね。
で、講演会が終わった時なんか、立ち上がって喝采してるわけです。
スタンディングオベーションかよ偉い人。
とりあえず絶望した。
現場がなんとかしないとならん。
以下、こまごまとしたこと。
八木氏は、聴衆に「日本の建国はいつか?」と問うて、「それは西暦600から700年前後である」とします。
なぜなら、「日本」という国号が成立し、「公」の意識が誕生したのがその時代だからだ、というのです。
ちなみに、ここで言う「公の意識」とは、天皇を中心とした中央集権体制の確立のことを指します。
天皇は独裁者ではなく、「国家の公的統治を究極において体現すべき地位」だというのですね。
八木氏は、「皇室はニッチ産業」だ、という、寛仁親王の言葉を引用します。
「政府や行政の足りないところを補う。それが、皇室の果たす役割なんです」
「このような皇室の在り方は、古代からずっとそうだったわけです」
いや……そうなの?
「平安時代、貴族は贅沢な生活をしていた一方、庶民は貧しく、奴婢は売買の対象だった」
……とかいう記述を「闘争的だ」と評します。
これらが、マルクスの階級闘争史観に子どもたちを導くものだ、というのです。
君の教科書もまっ赤っか! これはレッドベアーの陰謀だ! 愛國戦隊を呼べ!
……別に教科書の記述は、富裕層の打倒とかを呼びかけるものじゃないし、そもそも平安朝だって、階級闘争によって打倒されたわけじゃないんですが。
なんでマルクス?
明治維新を含めて、日本には「階級闘争」とか「市民革命」とかいうものはないんじゃないですかね。古い見解でしょうか?
「明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった」(「新しい歴史教科書」。レジュメの孫引き)
そんなに昔から日本人の自覚とか公共の意識とかがあったなら、もう少し早く戦国時代が終わりそうなものですが。
武田信玄「こうして同じ日本人同士が争っていても仕方がないじゃないか!」
上杉謙信「そうだとも! 天皇陛下の元にはせ参じ、一つの国を作ろう!」
……みたいに。
八木氏によると、現在の学校教育では、歴史教育で闘争的姿勢を学び、公民教育で具体的な闘争目標を与えられている、というのです。
「公民教科書には、夫婦別姓など、まだ法的に定められてもいないトピックが取り上げられている」
とかいうのが「闘争目標の提示」だと。
……ずいぶんせこいマルクス主義ですね。
仮に、八木氏の言うとおり、飛鳥時代や平安時代がそんなに素晴らしい時代だったとしたら、逆に言って、日本社会は1400年の長きにわたって大して進歩していないことになるんですが、それでいいんでしょうか。
奴婢の話とかって、私は
「私たちの社会は、昔より良くなっているのです」
って趣旨の話だと理解していたんですが。
「人類の歴史は進歩と改良の歴史なのです。私たちも、もっともっと素晴らしい世の中を作っていきましょう。明日が今日より良い日であるように」
的な。
八木氏に言わせるとこれも「闘争的」なのかも知れませんが。
私としては、貴族と平民に大きな差があったとか、事実なんだから仕方ないんじゃないか、と思うんですがどうでしょう。
都合の悪い歴史的事実は教えない、という態度の方が、むしろ我が国を危機に追いやる気がします。
それこそ、遺伝学におけるソビエトのルイセンコ学説みたいに、学問をイデオロギーに従わせようとした挙げ句、研究開発で西側に後れを取るような。
まあ、「歴史は科学ではない」が、「つくる会」の立場なんだそうですが。
でも、望ましい思想を注入するために、歴史的事実の方を改変する、っていうのは、それこそ共産国の十八番なんじゃ。
基本的に「公共の意識」だけで日本の歴史・文化を語ろう、というのは、無理だと思うんです。
「恥の意識」とか「武士道」とかと同様、一言で語りきれるほど、日本人の精神というのは浅薄なものじゃないんじゃないでしょうか。
そもそも、「公共の意識」が飛鳥時代から日本にあった、という主張自体いかがなものか。
確かに「公」という漢字自体は大昔からありますが、古文に出てくる、「公家」とかいうときの「公」と、「public」の訳語としての「公」を同一視するのは誤りだと思うんですが。
八木氏は、「公共」の意識が近代になって成立した、というのは誤りで、日本人の日本人としての自覚はずっと以前から存在した、と言うんですが、それは逆に言って、国民国家建設のために尽力した明治の人々を愚弄するものではないでしょうか。
ちなみに八木氏は、中教審が、縄文時代の記述を重視するよう議論しているのに不満を表明しています。
から、というわけですが、これは循環論法ではないですかね。
逆に、明治憲法や現行憲法の発布、あるいは江戸幕府なり鎌倉幕府なりを「日本」の成立、と見なす立場だってあり得るわけで。
縄文人だって一生懸命に生きていたのだし、彼らが苦労して稲作技術を会得していったからこそ、現代の日本があるわけで。
「縄文人は日本人じゃない」という言いぐさは、縄文人に失礼だと思いますが。
八木氏は、チェスタトンの「伝統とは選挙権の時間的拡大」「死者には墓石で投票してもらわねばならない」なんかを引用して、伝統の大切さ、先祖の意思を尊ぶべきことを訴えるわけですが、縄文人は先祖じゃないらしいです。
……天孫降臨?
ちなみに、八木氏が引用した中には、相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」とかまで含まれるんですが、相田さんってそういう主義の人だったのか。
ところで、八木氏は「死者の民主主義」(チェスタトン)がお気に入りのようですが、私はむしろ、「地球は子孫からの預かり物」(ケニアのことわざ)の方が好きです。
死んだ世代の意思よりも、次の世代の幸せの方が重要だ、と、私は信じます(これでも学校関係者のはしくれですから)。
……ケニアのことわざの割に「地球」とか、かなり超訳の気配ですが。
八木氏、「屋久島の灯台守り」という、これまた美談を紹介してくれたんですが。
「顔は土気色」を「どきいろ」ってあんた。
自分で持ち込んだ資料が正しく読めないって、早稲田大学法学部卒が泣くぞ。
日本の文化がどうとか言う前に、八木氏はまず日本語くらいちゃんと読めるようにすべきだと思います。
なんかあれこれコメントをもらってるようなのでここへ部分的に返信。
>教育委員会主催の講演会とかに行って何かを得たことがあるの?
ありますよ。
まあ、教育関係者の講演、というのは、聞いてすぐに教室で使える内容が多い一方、似たような話も多い……というか、教育界の通念を上手にまとめただけの、刺激に乏しい講演も多い、とは思います。
……ちょっと今回は刺激的すぎましたが。
>その場でぶつけてくれたら面白かったのに。
まあ、チキンなので。
偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。
そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。
それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)
それに、ここに書いた内容は、これでも推敲した内容です。
これをとっさに思いつける程度には賢くありたいのですが。
っていうか、偉そうなことを書いておいて恥ずかしいのですが、「女性交換手が12人いた」ということもその時は知らず、家に帰って調べてわかった次第。
でも、何か質問はしてやろう、とは思っていて、講演の間中必死で考えていたのも事実。
「古代以来、皇室はニッチ産業としての役割を果たしてきた、とのお話でしたが、私、不勉強でそういったことを存じませんでした。
そこで、例えば平安時代の朝廷が、そういった役割を果たしていた、という実例を2・3ご教示願えるとありがたいのですが……」
くらいのことを聞いてみよう、と思っていたのですが、本文で書いたとおり、質疑応答の時間がなかったので不発に終わりました。
>自分のはてなダイアリーで書いたら?
少しでも匿名性の高いところで、と思ったのです。
何か使い方として問題がありましたら申し訳ない。
(ていうか、そもそもこの内容自体トラックバックで返すべきなのかも知れませんが、匿名ダイアリーに慣れてないので、返信があちこちにばらけるのが落ち着かないのです。なんでコメント欄がないんだろう)
こんなにブックマークをもらうとは思ってなかったのでちょっと動揺しています。
偉い人にばれたらどうしよう。
>「教職員協議会」つーのは要するに「全日教http://www.ntfj.net/tanidantai/」系団体だよね。共産党系の。
右寄りではないかも知れませんが共産党系とも思ってなかったのですが。「美しい日本人」がどうとかこうとか。どうなんでしょうか。
会員でありながら組織の背後関係とかは知らないのです、申し訳ないです。(でもたぶんみんなそう)
>教師という連中が本当に馬鹿ばっかりでイデオロギーの固まりだということが良くわかった。
ククク、その通り。だが、気付くのが遅すぎたようダな……(ロシア訛り)
今や日本の教育は、我がレッドベアーの(不当な)支配下にあル!
あと10年もすれば、この国はコミンテルンの軍門に降るだろウ……!(遅すぎる)
>大学になるまで歴史教えるのやめちゃえば?自分で判断して学ぶまで教師の馬鹿どもから余計なノイズを入れないで欲しい
難しいところですね。
おっしゃるとおり、批判精神の薄い子どもに、イデオロギー教育をするのは禁忌だと思います。
その一方で、基本的な歴史知識は、全国民が持っているべき教養だとも思うのです。
そして、大学は専門教育の場であるべきで、そういうことに時間を費やすべきではないと考えます。
だから、結局は義務教育に基礎的な歴史教育を盛り込まざるを得ないのではないかと。
その内容としては、重要な歴史的事実を教えるにとどめ、それをどう解釈するか、という思想的側面は、個々人に任されるべきだと思います。
……もっとも、「歴史的事実」というのは現実にはほとんど無限に存在するわけで、その中から何を「重要」として採り上げるかに、思想的問題が絡んで来ざるを得ないのも事実ですが。
エルトゥールル号を採り上げて奴婢は省くのか、その逆をやるのか。
でも、できる限り中立であろうとする姿勢は必要だと思います。
そういうやつらの共通点として「逃げ場がある」ということ。
・・・
仕事場を滅茶苦茶にした後、そいつは去っていく。
ただ、俺はそんなヤツが次の職で上手くいくとはとうてい思えない。
的確だなぁ。
そんで、それ、まるっきり俺だなぁ・・・。
あああ どうすりゃいいんだろ。すごく恥ずかしくなってきた。
今考えるとそいつら全員俺と同じように逃げ場があった。
だから波長が合ったんだろうな。
平安時代の眉毛が麻呂になってる人が数人で球遊びしてる絵が鮮烈に頭に浮かんだ今。
俺はその麻呂の内の一人だ。
野菜一つ育てられねぇ、何も作れねえ
使ったり捨てたり壊したりと、何かを消費する以外。
ペットだ俺って。
ペットって何のために生きてるんだろ・・・。
気持ちよく生きたいな
明治や大正、もっと昔の江戸や平安時代から日本語なんてものは常に変化してきたわけで、元の意味と違うとか
違和感があるから(その人の基準で)正しい言葉を使え、なんておかしな話だよね。
日本語が乱れてる、という言葉自体がもうすでに矛盾していると思わない?
そんな人にオススメ。言葉おじさんのナットク日本語塾
短い時間で気軽に楽しめるよ。
田上よしえやラバーガールが出るのもポイント高いけど、アナウンサーが方言でただ喋るコーナーが好き。
あと言葉おじさんが大人の魅力。
http://anond.hatelabo.jp/20070711021837
久しぶりに頭の良い増田だな。
つまり自称無宗教者の主張が一貫していないことを責めてるわけだな?
自らの信仰に気付いてない日本人は確かにかなり多い。というか現代人の大部分がこれにあたるだろうね。
お正月には初詣に行き、教会での結婚式も仏前での葬式も違和感無く受け入れているのに、宗教というレッテルには大層な反発を覚える。
カルトに対する恐れが行き過ぎた警戒心を引き起こして、結果として「神を考える」こと自体を拒否する。
ケガレたものに触れない。ケガレが関わったものもまたケガレるという思考。
話は少しズレるけど、最もこのケガレ信仰が如実に現われたのは核兵器に対するタブー意識だ。
普通、核兵器の恐怖を知った国は自らも同じ力を持たないと平常心ではいられないんだけど
日本人は核そのものに触れないことで平常心を保とうとする。これは国際的にも非常に稀な例。
結果的に「問題の核心から目をそらす」という癖が国民についてる。しかもその自覚が無い。
だから公の場で誰かが良かれ悪しかれ核について言及すると、それだけで緊張が走る。
それは核について肯定したり否定したりしたからではなくて、彼が「ケガレ」たからなんだよね。
つまり多くの日本人にとって、核とは道具や兵器ではなくて人間の意志を超えた「祟り神」なんだ。
祟り神を鎮める方法は、祭り上げること。そして二度と怒らせないこと。
原爆ドームは神殿で、被爆に関する資料や写真は祟り神への信仰を忘れないようにさせるための碑文にあたる。
かけまくもかしこきかしこき原爆の大神を「非核三原則」という祝詞で封じ込めてる。
こういう風に説明しても、おそらく大勢の日本人は説明の内容ではなくて「核」とか「ケガレ」というワードに反応すると思うんだ。
そして単に渋面を作って「お前、ヤバイ人?」「そんなこと言ったらダメだって」って言うだけで後は思考停止。
宗教に対する反応とまったく同じだ。
元増田にトラバしてる増田も大半がバカな反応しかしてないしね。
それってまさに自称無宗教者の鈍感さを露呈してるってことなんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070711060320
http://anond.hatelabo.jp/20070711054935
そういうレベルの話をしてるんじゃねえよバカ
バカは黙ってろバカ
わかんないなら何も言うなバカ
お前らとそのバカ仲間が何かを信じるとか信じてないとかそういう一個人の感想はどうでもいいんだ
脳みその代わりにオガクズ詰めてんのか
こないだアンティークのカップを割ったときにも思ったものだけれど「もうこれから先けして増えることはありえないもの」ってとても多い。
例えば「平安時代に出来た××」なんかは、これからどう頑張ったって増えることはないわけだ。
極端な事を言えば、そのうち必ず「平安時代に出来たもの」は絶滅するだろう。凄く遠い未来になるだろうけれど。
それに、精一杯、できる限り守ろうとしても、その守れる数には限りがあるし、
価値のあるものをしっかり選び出して守っているつもりでも、それは「今の基準による価値のあるもの」でしかないわけだ。
後になって「惜しい事をしたな」と気付いてももう取り返しが付かないことって一杯ある。
『再発見はなされた、しかし遅すぎた』というようなことが。
解決作、こればっかりは見付からない。
全てのものを後生大事にしまいこむことなんて出来ないのだし、新しいものを生み出し続ける事だって大切なのだし。
でもやっぱり、なくなって欲しくないものって、あるよなあ…。
http://anond.hatelabo.jp/20070303175645
それこそが先天的要因と環境要因によるものだと思うのだがどうだろうか?
仮に、他の諸要素が同じで、容姿の優劣のみが異なる二人の子が同時に幼稚園に入園し、観察すれば、比較的に容姿の優れる子は優位な人間関係を築くのではなかろうか? すると、その子の対人スキルは上昇し、更に優位となり、こうしてどんどんよくなる。逆に比較的に劣位な人間関係しか築けなかった子は、その分対人スキルで劣り、どんどん差が付けられる。精神的な面での評価が大きく関与するはずの人間においても、容姿的な面での性淘汰が働いてしまう理由はこの辺りが理由かもしれないけれども、それはとにかくとして、同じ程度に努力していたのでは、累積的に差が開いていく一方である可能性が高い。こうして開いてしまった差は、たぶんどこかある一線を超えてしまったとき、致命的に取り返しの付かない(取り返すことが利益とならない)点にまで及んでしまうだろうし、そのときは頑張らなくていいんじゃないかな? でも、利益は比較的に他の人より小さくなるかもしれないけれども、利益のあるうちは頑張るのがいいんだろうね。
んで、ここまでが当たっているとすると、更に、親の扱いにも差がある可能性がある。少し前まで(ざっと数千年以上前とかの文明以前)、ある程度の数の子を持つことはそれほど珍しくなかっただろうけれども、その子ら各人の容姿に優劣があり他の能力が一定だとすると、親は、特に大きな差異のある場合は、容姿の良い子を優遇し悪い子を冷遇した方が、遺伝上有利になれると考えられる。場合によってはすぐに見捨てて別の子を産んだ方が有利かもしれないけれども、哺乳類の場合、特に母親は負担が大きいから、そうそうは見捨てないかもしれない。まーでも、とにかく、こうした戦略が生き残っている可能性は、表面的には現れないにしろ、人間の子が盲目的にも母乳を求め泣くのと同じくらいにありえるんじゃなかろうか?
あと、非モテや喪やその他それに類するカーストをキモいと思うのはたぶん普通のことだね。容姿的にも性格的にも。そう判断すれば滅多に近寄らないし、結果としてそのように動く人々の利益になるから。ぶっちゃけ、非モテをキモいと思わずに愛の手を差し伸べることは、相手の利益にこそなれ、その人とその遺伝子には不利益にしかならない。ついでに、この観点から見て非モテに寛容なのは同性だろうとも考えられる。ただ、人間の価値基準は、例えば平安時代と現代との差みたいに、恐ろしい速度で変遷してるように思えるから、そうなると、どの世代共通でもキモい、いわゆる「人間の顔じゃねーよ」ってのを除けば、遺伝的にキモいかどうか判断してるとは思えないので、キモいかどうかの明確な基準は無いだろうと思えるから、いわゆる無自覚なブサ専もいるだろうし、この点は非モテにとって救いになるかもしれない。