2007-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20070303175645

9割は精神構造の幼さ・対人スキルの無さであることを主張しておくことはいいことだと思うのだがどうか?

それこそが先天的要因と環境要因によるものだと思うのだがどうだろうか?

仮に、他の諸要素が同じで、容姿の優劣のみが異なる二人の子が同時に幼稚園に入園し、観察すれば、比較的に容姿の優れる子は優位な人間関係を築くのではなかろうか? すると、その子の対人スキルは上昇し、更に優位となり、こうしてどんどんよくなる。逆に比較的に劣位な人間関係しか築けなかった子は、その分対人スキルで劣り、どんどん差が付けられる。精神的な面での評価が大きく関与するはずの人間においても、容姿的な面での性淘汰が働いてしまう理由はこの辺りが理由かもしれないけれども、それはとにかくとして、同じ程度に努力していたのでは、累積的に差が開いていく一方である可能性が高い。こうして開いてしまった差は、たぶんどこかある一線を超えてしまったとき、致命的に取り返しの付かない(取り返すことが利益とならない)点にまで及んでしまうだろうし、そのときは頑張らなくていいんじゃないかな? でも、利益は比較的に他の人より小さくなるかもしれないけれども、利益のあるうちは頑張るのがいいんだろうね。

んで、ここまでが当たっているとすると、更に、親の扱いにも差がある可能性がある。少し前まで(ざっと数千年以上前とかの文明以前)、ある程度の数の子を持つことはそれほど珍しくなかっただろうけれども、その子ら各人の容姿に優劣があり他の能力が一定だとすると、親は、特に大きな差異のある場合は、容姿の良い子を優遇し悪い子を冷遇した方が、遺伝上有利になれると考えられる。場合によってはすぐに見捨てて別の子を産んだ方が有利かもしれないけれども、哺乳類の場合、特に母親は負担が大きいから、そうそうは見捨てないかもしれない。まーでも、とにかく、こうした戦略が生き残っている可能性は、表面的には現れないにしろ、人間の子が盲目的にも母乳を求め泣くのと同じくらいにありえるんじゃなかろうか?

あと、非モテや喪やその他それに類するカーストキモいと思うのはたぶん普通のことだね。容姿的にも性格的にも。そう判断すれば滅多に近寄らないし、結果としてそのように動く人々の利益になるから。ぶっちゃけ非モテキモいと思わずに愛の手を差し伸べることは、相手の利益にこそなれ、その人とその遺伝子には不利益にしかならない。ついでに、この観点から見て非モテに寛容なのは同性だろうとも考えられる。ただ、人間の価値基準は、例えば平安時代と現代との差みたいに、恐ろしい速度で変遷してるように思えるから、そうなると、どの世代共通でもキモい、いわゆる「人間の顔じゃねーよ」ってのを除けば、遺伝的にキモいかどうか判断してるとは思えないので、キモいかどうかの明確な基準は無いだろうと思えるから、いわゆる無自覚なブサ専もいるだろうし、この点は非モテにとって救いになるかもしれない。

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