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はてなキーワード: 修羅とは

2009-07-08

http://anond.hatelabo.jp/20090708043727

とりあえず元増田がどこまで漫画家の現状を把握してるかは知りませんが。

「受賞歴のある漫画家の卵(実質プロアシ)」とか

「連載してるけど食ってけない漫画家(漫画描くよりバイト時間の方が長い)」とかいっぱいいるので。

それを認識した上であえて修羅の道を行くのならよかろうと思います。

でも親としては、子供を自立されるのが仕事なので、明らかに稼げない道を行かんとすれば待ったが入るのは当たり前です。

稼げば文句言わなくなるのかな。

漫画の稼ぎだけで自立して生活費賄えて貯金出来れば、普通は(漫画によほど偏見がない限り)文句言われなくなると思います。

でも、それ物凄くハードル高いですよ。

ところで、上京しなくても漫画は描けますよ。

イベントとか、持ち込みの時だけ東京来ればいいのでは?

アシスタントするにしても、今はデジアシなら家で出来ますし。

元増田はどうして現段階で上京したいんでしょうか?

地元で定時で上がれる仕事探して、デビューを待つのが賢明なのではと思います。

2009-07-06

あたしが悪いんかなぁの続き

お返事くださったみなさま、ありがとうございます。

レスを書いている間にもTBしてくださる方がいらしたので、こちらにまとめさせて

いただきます

http://anond.hatelabo.jp/20090706013306

ネトゲ廃人とわかっていて

何故結婚したのかそれが知りたい

私も増田愚痴るくらいにはインターネットはまっている身なので、お互い

いい感じに自分時間を持っていても過干渉しあわずに済み、快適な一面もあるのです。

そして今までは、ネトゲはまっているとは言っても、ここまでではなかったのです。

もう少しバランス感覚の良い人でした。

そして、私が好きだったのも、その絶妙なバランス感覚でした。

アホみたいに思われるでしょうが、現実の生活でも仕事をばりばりこなしていて、

ネトゲ世界でもギルドマスターとか呼ばれる立場らしき彼のことを、面白い人だ

と思っていたんです。

変わってしまったのは、結婚生活が長くなって(現在3年目)惰性になっているのか、

結婚生活が退屈なのか、今のゲームがよっぽど面白いのか。

ひとつはっきりしていることは、彼がここまでゲーム時間を費やすようになったのは、

ボイチャで会話を始めてからということです。

なので、誰かとコミュニケーションをしていたいのかもしれません。

その相手が私ではないというのは、もしかしたら遠まわしな拒絶なのかもしれないなぁ、

というのが、そもそもの書き込みのタイトルに繋がるのでした。


http://anond.hatelabo.jp/20090706015145

実は、話し合いは何度もしています。

・始めに決めた約束ごとを守っていないことを話して、なぜ守らなかったのか聞く

約束を守らなかった相手に対して、自分がどう思ったか

・最低限してほしいことを「お願い」して、改善案を具体的に挙げてみる

話し合って、最低限やると決めたのが、最初に書いた二つです

  • 食事を作ってもらったほうがお皿を洗う(たいてい私が作って彼が洗うことになる)
  • ゴミ捨ては彼

例えば、昨夜作った食事の食器が、今夜洗っていないままだとしますよね。

で、彼はと言えばネトゲをしてる。「ネトゲをしている時間があるなら、お皿を

洗ってちょうだい」と、言えば、やってくれます。何も言わないと、やらない。

約束したはずのことを、わざわざ「やって」と要求することはストレスなので

たまにイラっとして無言で私が洗うこともあるのですが、そうして

「なぜやらないの?」と問うと、ヘラヘラと笑って「ごめんねーありがとー」

と言ってくるか、「やらないとは言ってない」と逆ギレしてくるかです。

たしかにやらないとは言っていません。

でも、やって、と要求するまでやってはくれないのです。

でもそれは、あくまでも経験からくる「予想」であって、本当にやらないか

どうかはわからないはずだろう?というのが彼の主張です。

と言っている今も、さきほど食べた夕食の食器を放置してネトゲをしています。

一度は、仕事をして疲れて帰ってきて、食器も洗わずにネトゲをしている

あなたの姿を見るたびに、どれだけ私がガッカリするかわかりませんか?と

話したこともあるのですが、私に言われる前に食器が洗われたのは、結局その晩

だけでした。

お願い……。してるんですけどもね……何度も……。もう疲れてきてしまった。


http://anond.hatelabo.jp/20090706023222

私自身はまったくゲームをしないので、おっしゃっていることがよく理解できない

のですが、どんなにクリエイティブであっても、もう少し現実の共同生活を

快適にする努力をしてもらいたいです……。

http://anond.hatelabo.jp/20090706030248

そこそこ嫌われない程度にご機嫌とってそうやって過ごしそうな気がする。

離婚されたとしても、ちょっと不便になるだけで別に自分の生活は変わらないだろうしなぁ…。

まさに私がお聞きしたかった、ナウ廃人の方のご意見

ありがとうございます。

そうですね。便利ですよね、今の彼の生活。

共同生活において「なんで私だけが」という発想は絶対に危険だと思っているので

不満を感じるたびに話し合うようにはしているのですが、彼はあまり不満を言わない

人なので(そりゃ不満はなかろうよ、とも思うんですけど!)私ばかりが

文句を言っているようで、不満を言うことすらストレスに感じている昨今です。

明け方まで毎晩ネトゲしているので残念ながら性欲処理は担当しておりませんが!


http://anond.hatelabo.jp/20090706030319

残念ながら(?)ばりっばりに稼いでおります。

私の収入の1.5倍くらいは稼いでいるんじゃないかと……。

(お財布は生活に必要なお金を割り勘して負担しあう方式ですので、お互い正確な

 収入は把握していません)

そして、年間を通しての成果を問われる職種で、ほぼ完全フレックスなので

朝までネトゲをして、午後から起きだして職場に顔をだす、というスタイル

生活できています。

そんなやりかたで成果が出せるような甘い職場ではないように思えるので、

今の契約更新するか否かという時期がきたら危ないんじゃないかと危惧

しているのですが、本人いわく「やるべきことはしている」そうです。

私が彼のことを好きなのは、そういう生活を手に入れるための努力を今までの

人生できちんとしてきた結果の「今」だ、という点にもあるので、

だったら受け入れるしかないのか……とも思うのですが。

でも、つかれました……。

http://anond.hatelabo.jp/20090706021836

夫が修羅になる覚悟でデータを消しましょう。

ネトゲ依存症の人はタバコと似ているので「できない」状態にしてやらないと抜けられません。

えええええっ。本気のご提案ですか?

もしも私が本ばかり読んでいるからと、蔵書の全てを捨てられたらと想像したら

とてもその手段は取れない……と思ってしまうのは、私が甘いのでしょうか?

もしやるとしても、アカウントを消すためのパスワード等が私にはわかりません。

私にわかってしまうようなパスワードを設定するような人では……ない……。

http://anond.hatelabo.jp/20090706010959#tb

夫が修羅になる覚悟でデータを消しましょう。

ネトゲ依存症の人はタバコと似ているので「できない」状態にしてやらないと抜けられません。

消してそれでも1からはじめるようだったらバイバイしなさい。

2009-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20090425212020

多少の情報提供すると、彼氏学者になろうって場合、

1.大学による(旧帝レベルは最悪ほしいところ)

2.指標としての学振DC1とか取れるんだったらよほどじゃない限り学者になれる。DC2でもほぼ確実)

3.学科による(中下位大学理系の組み合わせは地獄

文系はそもそも、就職に失敗して→文系学者になろうって時点で100%アウトなんでわかりやすい)


とりあえず学振受かりそうってきいて、?って顔されたら学者としてはアウトなので、あとはあなたの心次第。

先生とはうまくいってるの?実力はどれくらい?ってきいて、うまくいっていて明らかに上位、専攻分野では世界一になれる

確率はけっこう高いっていってくれなきゃ、学者としては修羅だと思ってください。


学者になろうってわけじゃない場合は、かなりの程度専攻分野によります。

今、就職活動をしたほうが得なのか、ドクターとってから就職活動したほうがいいのかは彼氏に聞いてみましょう。

3年我慢してくれ、どっかで学者以外の就職口みつけるからって言われたら、別れないほうがいいかもよ。

なんらしかの算段が彼にあるかもしれないので。理系、近経の場合、なんとかなる確率のほうが高い(旧帝クラスの場合)

2009-04-09

本当に才能が無かったのか、判断がつかないから引きずっている

元増田が言いたい事もとてもよく解る。

だけど、そこで諦めさせた子が

「諦めた事を一生引きずるかもしれない」

って事も忘れないで欲しいと思った。

自分は「絶対にアーティストになりたい!」という情熱を持ってたわけじゃないし、

誰かに何か言われて諦めたというわけでもないから、ちょっと話がズレるかもしれないけど、

現実的な目線で物事を見た結果、アーティストとしての道を選ばなかった」

という意味で近いかな、と思ったので書く。

小学校の頃から絵を描くのが大好きで、高校美術系のクラスだった。

(最小で週9時間、最大で14時間ほどが美術)

まぁそんな高校だから、クラスの殆どが美大や芸大を目指してた。

レベル的には、高校としてはちょっとしたもんだったと思う。

(実際に芸大現役合格者だってちゃんと排出している。)

だけど自分はちょっと冷めたガキで、

(この中からガチアーティストになれるのなんて、ごく一部だ。)

(ひょっとしたら、ゼロかもしれない。)

と感じていたし、才能がある=大成する、という世界じゃないのも薄々気付いていたから、

イマイチ本気で美大や芸大を目指す気になれなかったんだ。

結果として俺は高卒就職して、今は割と何処にでもいる「デザイナー」をしている。

もちろん、高校で培った下地があるからこそ今の職に就けたと思うけど、

あくまでも「デザイナー」であって、「アーティスト」ではない。

その事は、今になっても自分の中でしこりが残っていて、

もしあの時、本気で「アーティストになろう」って美大や芸大に進学していたら、

何か違ったのかな?という気持ちが、常にもやもやと渦巻いている。

今の仕事楽しいし、自分技術とかセンスを生かせる仕事をしている、

という満足感を得ているにも関わらず、だ。

これは、自分自身が納得出来るほど玉砕していないから引きずっているんだと思う。

自分の場合は、誰かに言われて道を諦めたわけじゃないけど、

もしこれが「誰かに言われて諦めた」のだったら、もっと強く引きずると思う。

ドロドロを吹き込むのもアリだけど、

どちらの道についても、選んだ時のリスクも可能性も、

成功した時の素晴らしさも、失敗した時の苦しさも、全てを教えてあげて、

その上で「修羅の道を歩むなら、覚悟もしろよ」って突き放した方がいいと思う。

教師は、背中を押す事も、腕を引っ張る事もしちゃダメなんじゃないかな。

冷たい言い方すると、その子が将来後悔したとしても、責任を持てるわけじゃないだろうし。

「助言はする。それを踏まえた上で、判断するのはお前自身だ」

というスタンスで居て欲しいな、と思う。

http://anond.hatelabo.jp/20090408121545

2009-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20090212194751

通常なら妄想乙、釣り乙と言うところだが、何となく本当っぽい

かわいい彼女だな

ちょっと修羅るかもしれんが、元カノのことは言っておいた方がいいぞ

2009-01-17

http://anond.hatelabo.jp/20090116022247

そらひどい目にあったなー。毅然と対応できたあんたはえらい。

トラブル起きると、ホント疲れるよな。俺も今日いやな目にあった。鬱悪化気味だわ。そんなわけで今日増田にいる。

 たまに、いや、結構最近頻繁に、思う。仕事で、自分のことをゆっくり見つめる暇もなく追い立てられ、経済に取り残されないように必死で経済記事を読み、日経を読み、保険にも入って、もちろん仕事についてきために仕事の知識も調べ、そうやってサバイバルのために知識を磨いて、誰にも負けないように、なめられないように、人並みの人生を送るために、っていつも必死にしているんだけど、私って、一体なんのために頑張っているんだろうって。

数年前の俺にちょっとカブる。てか、今のこの時期、数年前の俺より大変な環境だよな。俺はそれで、うつになって、「もういいか」って実家に帰って転職して、今じゃ無職になってるけど、貯めたお金(と親)があるおかげで今はゆっくり休んでる。十何年かぶりに昔の夢を追いかけてみて、ダメだったら何かの資格取って、最底辺あたりでも生きていくつもりだ。大学全入時代だし、子供への教育は塾に通わせなくても家で教えればいいし。核家族ではなくて三世代同居なら子育ても楽になるし光熱費も安上がりになるし。LOHASって生きかたもあるわけで。

ところでさ、日経ってひどい媒体でさ、まあ俺は日経新聞じゃなくて日経ビジネスをよく読んでたんだけど、連中、新しい経営とかを紹介した数年後にはそれを否定する記事を書くのな。最低なマッチポンプ週刊誌だよ。連中に振り回されてる企業経営者とか日本経済って、気の毒というほかない。MBAって覚えてる?300万台クラブとか、今じゃ話題のわにもならないっしょ。

もちろん、それ読む事で一社員でありながら、経営者が何考えてもの言ってんのかが分かるってご利益はある。でもそれだけといってもいい。ちなみに健康保険共済が良いと俺は思うぞ。

もうそんな修羅で生きてく元気がこの先続くのか、来世は人間なんかに生まれ変わらずに岩とか星雲とか、生々しくない無機物に生まれ変わりたいよ。

まったくだ。生まれ変わり? No Thank youだよな。てか星雲になるっていいな。

ところで、眠れないとか早朝覚醒とか夜中に何度も目が覚めるとか、うつ状態が2週間以上続いてるとかだと、一応、燃え尽き症候群とかうつ病とか疑ってみてもいいんじゃないかと思うぞ。まあ、そんな事承知してるだろうし、なんでもかんでもメンタル系の病気扱いするはてな界隈の雰囲気も俺はどうかと思いつつ、こんな事書いて申し訳ないんだけど、一応、心配しちゃったので念のため。

 これは、多分単なる「疲れ」から来る疑問でないと思う。自分人生に根ざした、根本的な、なにか。これがいったいどこから来るのか見極めたいのだけれども、そいつの影も形も、全然見えたためしがないんで、どこからはじめたものか。ミクロ的に見れば悪いのは自分マクロ的に見れば社会?その自分社会をつくった国家世界

 本当に、どこから、こんな思いがやってくるんだろう?

ビョーキの話は置いといて、取っ掛かりがほしいんなら、とりあえず整理してみようぜ。自分性格と、価値観社会価値観を並べて書いて、衝突してないかチェックするんだ。

社会価値観自分を合わせようとして、疲れているんじゃないかとか。んじゃ自分にとって一番大事なのって、なんだろうとか。国家とか世界はちょっと大きすぎるから、それはとりあえず保留して。

で、いきなり社会といってもあまりにも多様すぎて大変なんで、自分会社の方針(建前)と、実際に行っている事(本音)がどうなってるのか整理してみたり。

自分理想の姿が、世の中の雰囲気の中で作られたものなのか、自分の根源的な欲求に基づくものなのか見極めてみる。自分はどうしたいのかとか。

俺の場合、高校のとき周りの目を気にしすぎて、「そういや、自分ってどんなやつだっけ」って見失っちまった時期があって、1年くらい悩んで、最終的に自分の感情を頼りに再構築した事がある。何が面白いのか、何が嫌なのか。他人がどう反応し様と、俺は面白いと思った事は面白いんだと。他の人がつまらんだじゃれだと白けて見せても、俺は自分が面白ければ笑っちまえと。

そんなわけで、何もかもが分からなくなったら、自分感覚を頼りにするって手もあるよ。

あとは、ビジネス書はちょっと置いといて、歴史モノとか読んだりして、昔の人の考え方と、今の人の考え方の違いとかを眺めてみると面白いかもよ。

 私みたいなヘタレ多分今の競争社会じゃ生きるな、つーことなんだろうか。しんどいのがデフォルトで、少しでも弱気な者から死んでいくのがこの陰惨な社会なんだろうか。

どーだろうね。未来社会じゃ、逆転するかもよ。最近強気のヤツでもどんどん死んじまう世の中だし。いずれゆり戻しが来るって。

で、そのしんどいの経験してるってことはさ、あとから来るヘタレが同じように悩んだとき、一般論に頼らず、自分言葉で相手が必要とする言葉を選べる能力を獲得してるってことなんだぜ?泣いても笑っても、食って寝りゃ生きるんだから、泣きながら生きてこうや。ずるずると生きていこうや

それに、選挙権持ってるオトナである以上、今の陰惨な社会をなんとか変えなきゃいけないと思ってるし、それは俺の目標でもある。諦めるのは、先送りにしようぜ。無理しない程度に。

てか、休もうぜ。疲れたら休むのが生き物ってもんだろ。逃げる体力は、残しとくもんだ。

2009-01-16

人生に対する根本的な「疲れ」

 火曜日、自宅の上階のおっさんにものすごい勢いでののしられた。家に怒鳴り込まれたのだ。私が上から騒音の被害を受けているのに、おっさんからすると、私の方がある意味加害者らしい。本当に、酷い出来事だった。

 そのときは泣きもわめきもせず毅然と対応したけど、酷い出来事が過ぎた後から、寝る前に一気にそのショックが訪れてきた。

 今まで詰め込んできた疲れとかたくさんのあきらめとかそれまであった嫌なこととか悲しみとかそんないろいろと肩のこりや腰痛のように積み重なった澱みの感情に押しつぶされそうで、それに対して、何もできない自分も、そして、そんな思い出を受け入れることも消すこともできず後生大事に持つしかない自分も全てが本当にいやでいやで、たまらなかった。

 自分が無視してきたそれらすべてがあの罵倒してきたおじさんに集約されながら、自らの中で再生された感じで、一時的に自分の心と体と頭は連携がとれず全部ばらばらになってしまい、服装や身の回りの全てに対して関心をなくし、食欲もなくし、仕事に取り組むエネルギーもなくし、一時的な待避策として、怒鳴られた翌々日は休みを取った。疲れた。本当に本当に、疲れた。

 たまに、いや、結構最近頻繁に、思う。仕事で、自分のことをゆっくり見つめる暇もなく追い立てられ、経済に取り残されないように必死で経済記事を読み、日経を読み、保険にも入って、もちろん仕事についてきために仕事の知識も調べ、そうやってサバイバルのために知識を磨いて、誰にも負けないように、なめられないように、人並みの人生を送るために、っていつも必死にしているんだけど、私って、一体なんのために頑張っているんだろうって。

 この先に何があるんだろうって、何を手に入れたくて、何が欲しいんだろうかって。それを手に入れて私はうれしいのかって。そもそも、目標なんて、金があればほとんど全部叶うじゃん。じゃあ、お金を持っている人が勝ち(価値)ってことになって、持ってない私は貧乏で負けなのか?

 父曰く「人間はつらいこと嫌なことがいっぱいあるが、それに耐えて一花咲かせるんだ」とまるで演歌のような根性論を私に語った。その言葉に、余計に救いを感じられず、自分は崩れてしまった。この格差社会で、一花咲かす、なんてそれこそ至難の技だよ。つーか花ってなんだよ。金か?地位か?能力か?そんなの自分にあるとは思えない。このままじゃ、私は花なんて咲かせる前に、死んじまいそうだよ。

 さしあたって必要なものはもちろんお金だけどそれを手にいれるためにはさっきまで私が書き連ねてきたこと以上の、必死の努力が必要で、気を抜けなくて。そんなことを考えていたら「もうなんか人生どーでもいいや」という気持ちになった。けど死ねないし。バカみたいだ。

 私みたいなヘタレ多分今の競争社会じゃ生きるな、つーことなんだろうか。しんどいのがデフォルトで、少しでも弱気な者から死んでいくのがこの陰惨な社会なんだろうか。強くなれないものは死ねってことか。ふと気を抜くと、派遣の人みたいになるんじゃないかと本当はこわくて仕方ない。がんばらないと、生きていけない。がんばらなくなったら、もう生きられない。そんな気がする。もうそんな修羅で生きてく元気がこの先続くのか、来世は人間なんかに生まれ変わらずに岩とか星雲とか、生々しくない無機物に生まれ変わりたいよ。

 そんな思いをどこかに取り残しているから、酷い出来事があった時に、ひどくうろたえ、全部ばらばらになってしまうのかもしれない。本当にうんざりするし、どーしよーもないけど、明日(というかもう今日)は、会社に逝ってくる。本当、人生って、大変つーか、しんどい。もう嫌だって、しょっちゅう思うけど、まだ「死ぬなって軽々しく言うな」っていう人がいるから、「今日だけ」と思いながら、ずるずる生きている。

 これは、多分単なる「疲れ」から来る疑問でないと思う。自分人生に根ざした、根本的な、なにか。これがいったいどこから来るのか見極めたいのだけれども、そいつの影も形も、全然見えたためしがないんで、どこからはじめたものか。ミクロ的に見れば悪いのは自分マクロ的に見れば社会?その自分社会をつくった国家世界

 本当に、どこから、こんな思いがやってくるんだろう?

2009-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20090104220650

(同意の意味を込めて)みんな蜘蛛の糸という話を読むと良いとおもう。

他人を救わない、他人をけ落とす物は、結局、上位の物に救われない、け落とされる。そういう修羅の道に進むだけ。

辛いときこそ助け合い

そういう気持ちを忘れたら、結局終わりなんだと思う気持ちが間違いであって欲しくない。

2008-12-30

どうやってはてなスーパーキャンセルを封印するか

http://anond.hatelabo.jp/20081229094843

増田が少し受け入れられたので、調子に乗って更に考察してみる

カプの格ゲー住み分けインターフェースの使い易さと理解しやすさで提示したが、

それよりも大きな部分がある。攻撃力の度合いだ。

難易度の住み分けストリートファイターZEROヴァンパイアハンターで行われたが、

大きな違いは攻撃力の差にある。ZEROでは防御が強く、相手の動きを落ち着いて見た方が

強い。何も出来ない初心者でも、守っていればそこそこ戦える。ハンターでは攻撃側が、

複雑な攻撃が可能で有利であり、守勢に回ると不利となる。初心者は瞬殺される。

また、ゲームシステムにも違いがある。一発逆転を放てるパワーゲージが

ZEROではダメージを受けると増え、ハンターでは防御が成功すると増える。

ZERO初心者救済の為、ハンターは上級者がガチンコでやりあう為にシステムが組まれてる。

で、はてなの話だが、一部にしか受け入れられないのは、情理より論理を取る攻撃力の高さだと思ってる。

相手の事情お構いなしにリンクを貼り付け、大量に押しかけては個人的感想を呟いて行く。

そしてそのシステムはてな住民皆でインターネット全域へ行うので、

インターネットはてなフィルタによって埋め尽くしてしまう。

特に際立っていると思うのはこの匿名ダイアリーである。

ロジックさえ正しければ、犯罪者だろうが、ねらーであろうが、どこの誰が言おうが正論である。

論理を重んじる人なら、この理論を受け入れる。自分もそう。だから増田を使っているし、

Niftyfjの頃みたく、その個人の過去の発言の端っこを取り上げて延々とDisられたり、

議論が煮詰まったところに初心者が来ると「新参過去ログ嫁」で追い返されるのは少々うんざりする。

今あるロジックのやり取りに、今すぐ参加できる。それこそがはてなの強さだと思う。

しかし、任天堂から流れてくる一般人がこの論理を突き詰めた世界を受け入れられるかはかなり怪しい。

特に論理を楯にズカズカとあらゆる所へ踏み込んでいく無遠慮さは、論理より情理を重んじる一般人

引いてしまうと思う。そこをどうフィルタリングするか。

そして、答えのひとつはうごメモにあると思う。引用する時には、相手の許可を得る。

作品が作られていく時には参加者全員が褒められる。そういう情理を重んじる工夫。

引用される場所をはてなに限定するのも良い。あるいはrobot避けみたいなのを認識しても良い。

それこそが、はてなロジックを一般に落とし込める道じゃないかと思ったりする。

まー、でも今のはてなも好きなんですけどね。修羅の国は修羅の国として残しておいて、

そこに生き残った猛者が情理に包まれて、一般の楽しめるコンテンツになる。その辺りが落とし所かと。

2008-11-04

http://anond.hatelabo.jp/20081104004933

三年前の俺、元気ですか。

元気なわけないよな。だから増田に書いたんだもんな。

そんな時期もありました。本当自分が死にぞこないとかね。思ってた。

ガキん時みたいに気分があがって、そのままふわふわと布団に潜り込める事なんて

一生ないっ、ていうかそんな感覚すら忘れてた。そうだよな。

だからそんな未来の俺から俺にお願い。

1年後じゃない、今休んどけ、今。

胃も十二指腸もやられて、フィジカルに動けなくなる前に。

意味もなく手が震えてたり、ちょっとした事で感情が噴出したりしてメンタルの自覚はあったのに

ある日立て続けにやってきます。胃痛腹痛。半端じゃないです。

体動かなくて、だけど凹んで、誰にも助けられてる感覚なくて

地獄とまではいかなくても結構な修羅っぷりです。人前で無理やり笑い顔作っても自分は気づくんだよ。

その笑顔すらおかしいって。俺、お前にそんな目あわせたくないんだ。

だから休んでくれ。頼む。

その休暇は敗北の休暇じゃない。次戦う場所で勝利を収めるための戦略的退却だ。

ちなみにしばらく病院のお世話にはなったけど、無理しどおしてても今の俺はそこそこ楽です。

来月から職変わるけどね。2度目。今度は自分でも納得した転職

でもあそこまでおかしくなった時間はやっぱり惜しいと思う。

だから本当にだめになる前に俺を大事にしてやってください。三年前の俺。

2008-10-19

よくいるんだよ、こういう男。

http://anond.hatelabo.jp/20081018212017

この人、妻に対してそうだったように、しばらくしたら新しい恋人との間も冷めるだろうな。どちらが先に冷めるかわかんないけど。そしてまた、同じことを繰り返す。

だって、一生続く情熱なんてあるワケない。人は変わる。環境も変わる。しばらくすれば、お互いのバランスは必ず変わる。どこかで次の段階に移らなきゃ、長いこと関係を維持することはできない。

よくいるんだよ、子供生んだあとの妻に対して「どうもその気がおきない」っていう男。その、「気」という淡い心理の壁を乗り越える努力をしようとしない男。その結果としての自分の浮気を、渡辺淳一小説のような「恋愛至上主義」を盾に、正当化する男。

努力して、その壁さえ乗り越えれば、夫婦の間で別の絆ができるというのに。

子供を生んだあとの妻には、夫のように浮気する場も時間も与えられない。彼女にとって、夫以外の男でその満たされない性欲を処理することは、夫の浮気よりもはるかに難しい。彼女は24時間育児セックスレス結婚という牢獄に閉じ込められたまま、この先長い一生、このまんまになるのか・・・と真っ暗闇の中に放り出される。(たとえ浮気がバレなくても。)世の中的に、「男の性欲」が仕方ないものと見られる割に、「女の性欲」に対する理解はきわめて低いが、それがどんなに暗く醜いものか、考えてみてほしい。

妻のほうも、うじうじスネスネして「わかってほしい」とか思うだけじゃなく、「私にもセックスが必要だ」とはっきり言って、夫婦で話し合う勇気がいるだろうね。でなきゃ離婚して、努力のできる男とやり直したほうがいい。

一夫一婦の結婚制度がベストの解ではないかもしれないが、他の種々のやり方と比べてベターなんだよ。だから、やっぱりそれが主流なんだ。子供にとっても、お互いにとっても。結婚というコミットメントをお互いにしたんだから、約束を守るためにお互い努力しないといけないと思うよ。そのほうが、他のやり方よりベターなことが多いんだよ、いろんな意味で。

この増田氏が「修羅の道も芸のこやし」といった立場の人ならなんにも言わない。それでも、やはり私は増田氏の妻のほうに同情する。

2008-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20080717005804

増田、続きね

他の見も借りて書き足すと、「レッテル貼って叩きたがる」心境自体が、過酷な世界に生きてる人なんだな、とか、(自分が)苦手なことにも、チャレンジしにくいんじゃないかって、思ってしまう自分もいたり

(口げんかの言い遊びだったのは、承知の上でのお話

心地よいとこで収まってしまう自分の周りがぬるすぎる世界なのか、ネット修羅が”普通の”世界なのか、…

まぁいいんだけどね

2008-07-15

わが子を自分探し病から守る 前編

あなたも私も自分探し

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。

「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。

このテストは、速水健朗自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。

自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。

でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。

娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。

「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。

しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。

では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。

そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。

現在子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。

あいのり」に漂う時代の空気

自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探し社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。

我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。

私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

高身長高学歴高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

就職恋愛自分探しの「あいのり」世代

私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せ社会人になれると刷り込まれ続けてきました。

というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。

自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。

常に本当の自分とやらを見つめ続け、

「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。

ファンタジーのつもりだった「個性重視教育

問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探しキーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。

罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。

その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。

(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育

をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、

「個性重視教育

になってしまったのです。

ファンタジー現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。

だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉キャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。

相当に丁寧な言葉キャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。

議論を台無しにする認識のずれ

このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。

50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、

へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。

問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。

だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。

自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。

たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。

しかし、まさに「ブーム」でした。

ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。

自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。

しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。

自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。

そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。

404 Blog Not Found

「探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html

Baldanders.info

「『自分探しが止まらない』を眺める」

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml

どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。

適応しすぎた私と背中を向け続けた妻

自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。

妻のおかげです。

私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。

私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。

あくまで事実を書いただけですw

より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。

キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。

要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。

就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。

一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。

なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。

要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教憂鬱で仕方なかったとのこと。

相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。

まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。

私と妻の価値観のぶつかり合い

実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。

私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

「俺には輝かしい学歴があるからね。」

「あなたの大学卒業生はみんな幸せになれるの?」

「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。

だけど、俺は違うよ。就きたい職業イメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」

「あなたの希望通りの仕事に就けたら、私を幸せに出来るの?」

仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」

「本当に?」

「たぶん…。」

「私を幸せに出来るの?」

「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」

真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。

私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。

輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。

三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップステップジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。

走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。

更に言えば、ホップステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史教科書ではむしろ多数派です。

何はともあれ跳ばなきゃ話にならない

そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界内定をもらいました。

しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。

跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。

その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。

三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。

内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。

そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。

「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。

だって、就職留年して別の会社内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」

彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。

そして、私は無事に大学卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。

助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。

たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。

足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。

だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。

でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。

「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。

ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。

でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

「誰にも負けない何か」を求めたくなる理由

「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。

閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。

でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。

私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。

学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。

大規模リストラニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。

そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。

かといって官僚も、天下りありきの賃金構造モチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。

そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。

確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。

でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。

だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」

「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」

「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」

「ある!…はず。」

「食べていけるの?」

「…いけると思う。」

子どもの学費もあるんだよ。」

「いける…ん…じゃないかな…」

「厳しいんじゃない?」

「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」

それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。

そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。

というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通人生以上の修羅の道です。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

どうして妻は私にとってかけがえがないのか

私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。

私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。

そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。

「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw

もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。

答えはどこにあるのか?

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

かといって、「キミとボクの関係世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。

そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。

追記 わが子を自分探し病から守る 後編へ

後編へのリンクを忘れていました。

増田なもので、すみません。

わが子を自分探し病から守る 後編

http://anond.hatelabo.jp/20080715002502

2007-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20071110095907

研究室クラッシャーというのも、男女双方の例を知ってる。どういうわけか女性クラッシャーは非常に確信犯的で、男性クラッシャー無意識過剰のような気がした。一見はね。

研究仲間の場合は、ライバル関係でもありサポート関係でもあり、お互いの研究活動を考えると迂闊に切れたりくっついたりできないので、それだけにこじれて、その中でクラッシュが起きると誰かはもう研究者の道を断念することになって研究室を去るし、かといって残りのメンバー研究効率もぐちゃぐちゃになる。そういうもんだ。

しかしその修羅の中で、クラッシャーと最後にくっついた異性のペアだけは妙に業績(といっても周りが壊滅しているので相対的に出来がいいということだが)を上げる。で、取り敢えずポストに近づく。

もしかしたらクラッシャーか誰かが最初から予期した作戦じゃなかったんだろうか、と思う。

ブクマコメントでささっと書こうと思ったけれど、個人を特定されそうな気がするので増田で書く。そうしたら結構まとまってしまった。

2007-06-06

書いては笑われる。そしてそいつも笑われるという三毒ループ

誰かが自分の溜め息まじりな童貞の悩みを書いたとして、それに誰かが「小学生みたい」って突っ込みいれるトラバックしたとして、それにたいして他の人がまた「罵倒してるなんて低能な証拠、バカ。」って書いたとするよ。それみたまたまた他の人が「そういう自分も罵倒してるじゃん」って突っ込みいれたりするわけです。

こういうやりとりってどうぶつ界の食物連鎖に似てないか?

釈迦様の教えに、「三悪道」または「三毒」というのがあります。

地獄界」「餓鬼界」「畜生界」

の三つがあってさ、これが三悪道。

それで、地獄は悩みにしばられて周りや自分を攻めてばかりいるので「憤り(いかり)」にあてはまる。餓鬼は欲望のおもむくままに欲しい物を求めるので「貪り(むさぼり」。畜生は強い物に媚びて弱い物は侮る動物的な生き方なので「愚か(おろか)」。でその「憤り貪り愚か」が仏教でいう三毒です。

この三毒に当てはめると、セックスして早く童貞捨てたいとモヤモヤするのは「貪り(むさぼり)」で、それが悩みになり解決できずに自分や他人にイライラするのは「憤り(いかり)」で、それを見て優越感持って見下しちゃう人は「愚か」にあてはまる。

そうして、三毒強盛な凡夫のイッチョ上がり。

ちなみに、ちょっとばかしエネルギー有り余っている人が喧嘩腰になり怒り爆発させて、理論武装された長文の批判記事書いて来りするのは、三悪道とは別の「修羅界」に当てはまるよ。

他者よりも勝りたいという争いの心の事で臍曲りです。

地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」の四つで四悪趣と呼ばれている。

2007-01-24

浮気の業

http://anond.hatelabo.jp/20070124003602

 

 浮気して、妻も自分も浮気相手も不幸にして、駄目になっちまいな。

 己の身勝手な願望がどれほどの絶望と不幸を生み出すのか、体験しないと分からないもんね。

 はいはい何でも体験何でも経験。(歳をとっていたらもう無理ですが)

 居心地の良い家を針のむしろにして、かつて愛した人を般若亡者にして、

 いたいけな子ども未来を踏みつぶして、自分を中心に疑心暗鬼の黒い蜘蛛がたちこめ、

 責任転嫁と自己正当化因果応報の海に沈むところまで沈んでしまえばいいよ。

 

 それでもまだ浮気したいと思う鬼なら、もうどうしようもない。そういう道を突っ走ってください。

 それでまた美しい女性をたらしこんで修羅の国にご招待→繰り返してください。

 個人的には唾棄しますが、これは私個人の感傷です。

 あなたには、異性を地獄に墜とし周囲を巻き込んで迷惑をかける自由がある(法的な縛りとは別に)。

 

 

 

 

 くそっ自分の為だけに浮気をする奴をみると俺はなぜか(なぜか?)いらいらする!奴らに罰あれ!因縁!因縁!

 

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