はてなキーワード: 矮小化とは
歴史って歴史学者たちがイデオロギー脱臭して正確たらんと論争積み重ねている訳じゃないですか。
で、はてなではその議論を使ってイデオロギーに満ちたウヨサヨ論争するじゃないですか。
そうなった時点で、はてなの議論しか見られない人たちは「歴史論争ってイデオロギー論争なのか」と思い込む訳ですよ(CiNiiですらネトウヨがいることに驚いた)。万人が大学に在籍している訳じゃないからね。
イデオロギー論争している人が「俺の歴史は正しい歴史」っつっても、それがイデオロギーなのか本当に正しい歴史なのか分からない訳ですよ。
本当に正しい歴史を啓蒙したいのなら、イデオロギー論争はしちゃ駄目だ。逆にイデオロギー論争のために歴史論争を利用している人は歴史を語る資格がない。彼らは歴史を自ら矮小化して、その上で歴史の正しさ(なのかイデオロギーの正しさなのかははた目からは分からない)を押し付ける。歴史を冒涜するんじゃない。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091023/1256302802
これに賛同してる人(はてさ?)は「愛国心」と「愛政府心」の違いは区別がついてるんだろうか?
故郷の土着性・固有性を愛することと規制とかの自国政府の権限を強化する事を望むのは別問題のはず。前者は愛国心だろうけど、後者はネトウヨと大差のない愛政府心だろう。
別に規制緩和したら文化がなくなるというわけでもない。自由競争でも多くの人から好まれていればその文化は存続する。逆に政府が規制しないと維持できない文化というのは本当は好まれていないということ。
政府による規制で文化を守ろうとするはてさは国旗国家を強制して愛国心を持たせたがるネトウヨとどこが違うのやらさっぱりわからん。
ついでにいうと最近話題になったヘイトスピーチやら構造的暴力についても外国人差別に反対する左翼は当然ネオリベのように保護貿易や移民規制には反対するべきなんだよ。ネトウヨのように「外国人労働者入れるな」「自給率上げろ」とかいってたらだめ。ちなみにはてな界隈じゃ極右政党といわれる自民党はこの前の総裁選で河野西村と二人も移民推進議連の人が総裁候補になってたが、ヨーロッパの人に「日本では移民推進派が党首候補になる政党が極右ってみなされてるんですよ」って言うと驚かれるだろうな。
国籍が違うというだけでペナルティを課されて収入を減らされるのは広義の暴力だし、政府というシステムを使ってそれを維持してるなら構造的暴力といってもいい。日本語を読めない外国人がほとんどなわけで読みもしないブログや掲示板とかに「ちょん」だの「にがー」だのしょうもない罵詈雑言並べられるのと収入減らされるのとどっちが害が大きいかといえば多くの人は後者だと思うだろう。おそらく多くの日本人も海外でJAPとか言われるより日本製品締め出しとかの方がはるかに嫌だろう。仮に前者のほうが嫌だとしても後者が差別でないということにもならないはずだけど。
こういう点をスルーして在特会のデモとかに問題を矮小化するのは「口先では男女平等といいつつ女は出世できず同じ仕事でも賃金が低い会社」のようなものなんだよ。お前ら口先できれいごと言って善良な俺様アピールしたいだけで本当に差別解消する気ないだろと突っ込みたくなる。
そんなくだらないものが語源じゃない
わざとそういう風に矮小化しようとしてるのか
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121177&servcode=A00&sectcode=A00
なんかもよく知られているけど、署名運動だけやっても規制反対の声はなかなか届かないと僕は思うんだ。
なぜって? そりゃあ、一般の人々が問題点を知らないからだ。
問題点を知らないなら、一般人が規制に賛成してしまうのも無理もない話だってんだ。
僕はオタの内輪話に矮小化されるのを避けるべきだと思う。
そこで、僕は提案したいのだが、みんなでお金を出し合って、
今まで、意見広告は護憲派や平和団体などによってしばしば作られてきたし、
最近ではすぎやまこういち氏らが、慰安婦決議に対抗して"THE FACTS"を作ったのも
記憶に新しいところです。
"THE FACTS"に対する賛否は分かれるところですが、僕が意見広告を載せるべきだという
着想を得たのは"THE FACTS"がきっかけ。
多くの人々に知ってもらえるような広告を作るべきだと考えている。
賛同人には、MIAUの関係者や保坂展人氏なんかが適任だと思う。
あと、一般人にも割と受けそうな社会的地位がある人がいいと思う。
最大のネックはお金がかかることだが、みんなで努力すれば集まると思います。
護憲派の団体が半月あまりで500万円以上集めたという話も聞きました。
拉致問題の意見広告運動は1800万円以上の募金を集めたそうです。
他の人にアイデアを出さなければ、意見広告掲載が実現する可能性はゼロのままだ。
はるかに悪だと「自分が根拠なく決め付けた」事例を持ち出し、自分の悪を矮小化する手法www
どこかおかしいと少しだけ譲歩して見せるが、おかしい理由は示さない。巨悪に比べればたいしたことがないということである。
さらに、「スルーされる」という「架空の第三者」の意見を、あたかももっともらしく語ることで自説を擁護する手法www
しかし、どこか弱気であるwwwwwwwwwwwwwww
無力とは何に対して無力かというと、煽られる人、つまりidを晒されている人にとっては無力で「あってほしい」という根拠のない願望である。
以上から論理的に導き出されることは、id:Beyond、id:j-kondo、id:napsucks、id:ririas、id:gokinozaurusu、id:testa021、id:zundel、id:gonzales66の誰かである、ということ。
普段は「なに自信持って」か知らないけど自説を開陳しているgokiburiである可能性が非常に高い。
攻撃対象の人物・集団・組織などに対し、憎悪や恐怖の感情に訴える
麻生叩きにおける、「漢字の読み間違い・書き間違い」「アホ」のイメージを植えつける。
3「転換」
さまざまな権威や威光を用いて、自分たちの意見や目的や方法を正当化する、
正しく見せかける。
4「証言利用」
尊敬される・権威ある人物を使って、自分たちの意見や目的や方法が正しいことを
証言・後援させる。
○○問題に詳しい~~評論家・教授に言ってほしいことを言わせる。
5「平凡化」
司会「我々庶民は~」。
都合のいい事柄を強調し、都合が悪い事柄を矮小化したり隠蔽したりする。
7「バンドワゴン」
大きな楽隊が目を惹くように、その事柄が、世の中の趨勢であるかのように宣伝する。
情報受信者は、それに従わないことにより取り残される情緒的不安を覚え、
結局はその「楽隊」に同調していくことになる。
7つの法則。
そりゃ文字通り「科学的コンテキストだけで語れ」といってる人がいると言ってるわけではないが、「科学的コンテキストで語れ」といって一部の科学的事実誤認ばかりをクローズアップして、意図的かどうか知らないが本筋の政治的議論自体矮小化するような結果をもたらしてる人たちがいるんじゃないかって事。
あとオバマもクリントンもはっきりと北朝鮮を非難してるし国連決議違反だといってるわけで脅威にならないと認識してるわけでも白けてるようにも見えないし、日本政府が落下に備えた防災訓練をするのが冷静さを失ってるとも思わない(むしろいざというときのために冷静に対処できるように事前にやるのが訓練の意義)し、野党の党首が誤認を批判するのも当然の対応と思う。北朝鮮を攻撃しろというような世論が盛り上がってる気配もないし、多くの人は発射の日もミサイルが落ちてくるとか気にすることもなくいつもどおりの生活おくってたわけで、オバマが「ルール破りを罰する」というのが白けてると言えるなら、日本の反応も十分白けた反応なんじゃないかと。
なんかこの界隈で色々とあれみたいなんで思うところを書いてみる。
多分取りとめがなくなると思うが、いやなら読まないで次いこ、次、ってことでよろしく。
この前の誕生日で、46歳になった。
イタイ大人なのかもしれないし、大人になれないオトナコドモなのかも知れない。
こんなところに出入りしてROMったりDISったりしているのはオトナのすることじゃないのかもしれない。
これを読む若い人たちには夢も希望もない話に聞こえるかもしれない。
もとい、自分にとって大人になることとは自由になることだった。
親や教師や社会のルールや、自分を縛る何もかもから逃げ出すこと。尾崎豊みたいだなあ。
少なくとも経済的に自立しないと自分の好きなものは手に入らない。好きなところには行くことが出来ない。
好きな人と好きなようにあって好きなだけいちゃいちゃすることも出来ない。
だから、まずある程度経済的に独立した状態、それが自由の基本だ。
そのための手段としての仕事をどうしたか。
安っぽい言い方でほんと申し訳ないんだが、好きなことを仕事にした。
好きなものを作る業界で、自分の得意な分野での仕事に付くことができた。
2回転職してのことだけどね。結果収入も増えた、と思いたいが、日本の給与制度には永年勤続に対する退職金というすばらしい制度があるので、
生涯収入としてはどうだったのかはよく分からない。
新卒で大企業に就職していたら、そのまま一生留まるのがお得なのが日本の社会なのだ、とも思う。
これは時代背景やら経済状況やらとのからみで、上手いこと波に乗れたので運がよかったのだと思っている。
こればっかりは人の話はさっぱり参考にならないと思う。巡り合わせ。色々と一期一会。
んで、だ。
自由になって何がしたかったのか。
楽がしたかったんだ。好きな時間が欲しかったんだ。おいしいものが好きなだけ我慢せずに食べたかったんだ。
この夢は未だに叶っていないけどね。
その夢と引き換えにして(経済的には)家族を得た。パートナーと子どもが二人。
家を手に入れた。借金のかたに取られるかもしれないけど(普通の住宅ローンには普通に抵当権設定されるのが日本の標準)
はたから見たらごく平凡な、いや平均以上の家庭に見えるだろう、と思う。
そんな自分は大人なのだろうか?
けれど可能性はだんだんと減っていき、残ったものを得意なものと決めざるを得なくなる。
それに気付いて、残った僅かな可能性を握り締めて何とか仕事に繋いできた。
結果、必死で仕事をし、良いことも悪いことも色々あって、
成長なのか、鈍化なのか、
技術を習得したのか、変化に順応したのか、
ともかく仕事は続いている。
子どもを一応大学までは行かせてやりたいと思うから、仕事を放り出して逃げたい時でも頑張って仕事をしている。
仕事そのものは嫌いじゃないが、正直、矛盾だらけでしがらみだらけの会社ライフに嫌気が差して、
一人でどこかへ行ってしまいたいと思いながら、会社帰りに部下とカラオケしたり、コンビニで立ち読みしたりする程度で発散しいる。
こいつは小物だ、雑魚だなあ、と思うけれどもそれが自分だからしょうがないな。これを矮小化というだろうか。
これは大人のやることだろうか?
さっきまで教育テレビでアルゼンチン生まれのユダヤ人、バレンボイムの指揮するウエスト・イースタン・ディバン・オーケストラを聴いていた。
ロシアの作曲家、チャイコフスキーの悲壮を、アラブとイスラエルの若い音楽家で構成されたオーケストラが演奏している。
輝く音楽。指揮者は早々に(高校生の判断を早々と呼ぶのならだが)諦めた可能性の一つだけれど、音楽は美しい。民族、人種を超えて美しい。
なにか、分かり合えなくても共有できるのではないか、永遠に続く錯覚ならそれでも良いではないか、と思わずにいられない。
世界の平和を願い続けることをばかげているという人たちもいるけれど、自分はそれを信じたい。
大人になったからそう思うのではないと思う。
そういえば高校生の頃、別マを愛読していた。くらもちふさこは今でも好きだ。最近はのだめカンタービレが好きだ。
子どもにつられて読み始めたワンピースを大人買いして、今も毎週立ち読みするのも自分だ。コミックスは自分が買う。
そういえば小さい時から徒競走がとにかく苦手で、いっつもお前は本気で走っているのか?と訊かれていた。ああ、本気だったとも。
だから走るのが速くなれば女の子にもてると本気で思ってたぞ。今も心のどこかで思っているな。マッチョ信仰だな。
いや、ないものねだりか。大人には足の速さって価値がないな。プロスポーツの世界でもない限り。
昔から、軸がぶれていて、定まらなくて、今もぶれている。コンプレックスの塊だったから、早く大人の男になりたかった。
強く、揺るがない信念を持った大人の男。
今の自分はそんなものとはかけ離れている。
流れてゆく時間の中で、今を生きていくことだけを追いかけてたら、こうなった。とにかく、ここまで生きて来た。
これを流されたというのだろうか。
今まで生きて来て分かったことは、自分の自由は自分で決めて自分でやるしかないということ。
自分のしてきたことを認めること。後悔することもある。でも認める。それは自分であると。
過去何がしかの決心で分岐を選んだ自分を認めること。だからといって他の道を永遠に諦める必要はない。それは夢だから。
可能性が0でない限り、持っていてもかまわない夢だから。
こんな浮ついたことを言いながら多分50になり、還暦を迎え、だらだらと意地汚く行き続け、願わくばあっさりとひっそりと死んで行けると良い。
こんな自分は大人なんだろうか。
だらだら書いてすまなかった。もう終わりにするよ。
まあ、こんなオヤジもそれなりにいるのではないだろうかと思うのだ。
大人になりたい人は自分にとっての大人を決めるといいよ。
死ぬまで追いかけるぐらい遠いことに気が付くのは多分死ぬ時なんだと思うけれどね。
ああ、本当に大人気ないなあ。
論理を弄ぶ輩は好かん
ヤツは基本的に頭の巡りは良い
要領も良い
それも確信的なものではなく、環境によってしからしめられている場合
たいていの場合勇み足の揚げ足をとる
それを捉えて野次り倒す、たいていは角度をかえて
野次られた相手が反撃しようとしても相手が議論のレイヤを変えているのでトンチンカンな応答になってしまう
そいつをさらに晒しあげて一丁あがりだ
あるいはわざと隙のある発言をして誘いをかける
食いついた不用意なひとが何か言うたびに話を逸らしたり拡大したり矮小化したり
それをあたかも相手に原因があるかのように見せるレトリックは見事の一語につきる
だが、それらが建設的であったことは一度も無い
そりゃそうだ、別に相手に対して働きかける議論ではなく、一方的に嬲るのが目的なのだから
ヤツは確かにあたまがいい
だが、それだけだ
とりあえず放送は見ているという中学生の甥に聞かれたので、説明してみた。
ファーストシーズンでは、
「ソレスタルビーイングのような存在は、果たして正義なのか」
という問いかけで始まり、
要素を織り交ぜ、「来るべき対話」という壮大なプランをチラつかせながら、進行した。
しかし、ソレスタルビーイングの軍事介入行動が、
最終的には、登場人物たちの「個人的な戦い」に矮小化されてしまい、
ソレスタルビーイングが、内部的にも外部的にも孤立化し、崩壊するという結末を迎えた。
セカンドシーズンでは、
アロウズという、明らかな悪役を配置することで、
新生ソレスタルビーイングの存在意義を引き立たせている。
確かな悪役の登場によって、ソレスタルビーイングは内部的にも外部的にも
孤立するということがなくなった。
そういうわけで、
1st で「個人的な戦い」の末に瓦解したソレスタルビーイングが、
2nd では、登場人物たちがそれぞれの「個人的な事情」を超越し、物語のフィナーレを迎える話・・・
なのかと思ったら、やはり、「個人的な事情」が優先されてしまうらしい。
これは一話ごとに山場をつくらないといけない制作の都合なんだろうか。
2nd では回を重ねるごとに聖人化していく様子が面白い。
と捉えることもできる。
もう刹那は確認するように「俺が“ガンダム”だ」と言う必要はない。
そんなこんなで、
2nd で聖人化してしまった刹那が 1st のときにいた「悩める勇者」の位置に収まったのが沙慈、
「悩める勇者」の位置に収まった沙慈が 1st のときにいた「傍観者」の位置に収まったのがマリナ・イスマイール、
となっている。
1st で色濃かったイオリア計画は、2nd ではイノベイターたちの影に隠れていてしまっているが、
今後、物語の中で回収されるはずである。
というか、 2nd では、ガンダムダブルオーのセントラルクエスチョンである「イオリア計画の行方」を意図的に隠しているように見える。
というわけで、今後は、「聖人化する刹那」と「隠されたイオリア計画の行方」という俯瞰視点で、
放送を見ていくと面白いと思う。
(後述)
ブコメを見ながら、
ミスター・ブシドーの人気に不本意ながら嫉妬してたわけだが、(べ、別にマスラオでトランザムして耐えられず吐血するブシドー様イカスっ!なんて思ってないんだからね!)
「姫様一期もテレビ見てただけなのに」
については補記したい。
マリナ・イスマイールは 1st では、一国の王女として立ち回ろうと努力し、
打ち砕かれるのであって、「傍観者」ではなかったのですよ。
2nd では、打ち砕かれた状態から始まっているだけあって、
消極的に非暴力の道を選び、
まきこまれるだけの「傍観者」の位置に収まっているのであります。
一瞬、「超時空亡国王女」になりかけたけど。
あれ、なんだったんだろうね?
つまり攻撃的な処女厨は欲望が特殊ってより、欲望の処理が下手糞ってことかな。
だからお前らが勝手にそういうのを「主流派」ってことにしたんだろ。なんでそんなことをするんだと聞いている。
事実を述べただけだろ。少なくとも増田やはてな村で見かけるのでは主流。
あなたの中ではリア銃批判や女たたきはあまりにも常識的なことなので自分たちの暴力性に気づいてないだけなんじゃないか?というきがする。
常識的に考えればすぐわかることだが、「年齢=彼女いない歴」の人間を「非モテ」と呼ぶのは普通だと思うが、そういう人間の中で「女は全て肉○○」なんてことを言う奴が主流だとか本気で思ってるのか?
「年齢=彼女いない歴」の人間以外でも「非モテ」だったりするのは増田とかしばらくみてればわかることでは?それに肉便器という表現を使うかどうかはともかく、中古やびっちやスイーツなどいくらでも蔑称あるでしょ。にもかかわらず肉便器という言葉を使うかどうかに矮小化して悪いヒモテはごく一部であるかのように印象付けるするのがせこいね。
仮にそう思ってるとしたら、お前は度し難い偏見の持ち主ってことになるし、そうでないとしたらお前は明らかに非モテをことさらに貶めているということになるんだぞ。
こういう人の中ではリア充スイーツたたきは偏見とかに分類されてるのか気になる。分類されてないから貶められてるのは日も手だけという被害者意識を持ってるんだろうけど。