とりあえず放送は見ているという中学生の甥に聞かれたので、説明してみた。
ファーストシーズンでは、
「ソレスタルビーイングのような存在は、果たして正義なのか」
という問いかけで始まり、
要素を織り交ぜ、「来るべき対話」という壮大なプランをチラつかせながら、進行した。
しかし、ソレスタルビーイングの軍事介入行動が、
最終的には、登場人物たちの「個人的な戦い」に矮小化されてしまい、
ソレスタルビーイングが、内部的にも外部的にも孤立化し、崩壊するという結末を迎えた。
セカンドシーズンでは、
アロウズという、明らかな悪役を配置することで、
新生ソレスタルビーイングの存在意義を引き立たせている。
確かな悪役の登場によって、ソレスタルビーイングは内部的にも外部的にも
孤立するということがなくなった。
そういうわけで、
1st で「個人的な戦い」の末に瓦解したソレスタルビーイングが、
2nd では、登場人物たちがそれぞれの「個人的な事情」を超越し、物語のフィナーレを迎える話・・・
なのかと思ったら、やはり、「個人的な事情」が優先されてしまうらしい。
これは一話ごとに山場をつくらないといけない制作の都合なんだろうか。
2nd では回を重ねるごとに聖人化していく様子が面白い。
と捉えることもできる。
もう刹那は確認するように「俺が“ガンダム”だ」と言う必要はない。
そんなこんなで、
2nd で聖人化してしまった刹那が 1st のときにいた「悩める勇者」の位置に収まったのが沙慈、
「悩める勇者」の位置に収まった沙慈が 1st のときにいた「傍観者」の位置に収まったのがマリナ・イスマイール、
となっている。
1st で色濃かったイオリア計画は、2nd ではイノベイターたちの影に隠れていてしまっているが、
今後、物語の中で回収されるはずである。
というか、 2nd では、ガンダムダブルオーのセントラルクエスチョンである「イオリア計画の行方」を意図的に隠しているように見える。
というわけで、今後は、「聖人化する刹那」と「隠されたイオリア計画の行方」という俯瞰視点で、
放送を見ていくと面白いと思う。
(後述)
ブコメを見ながら、
ミスター・ブシドーの人気に不本意ながら嫉妬してたわけだが、(べ、別にマスラオでトランザムして耐えられず吐血するブシドー様イカスっ!なんて思ってないんだからね!)
「姫様一期もテレビ見てただけなのに」
については補記したい。
マリナ・イスマイールは 1st では、一国の王女として立ち回ろうと努力し、
打ち砕かれるのであって、「傍観者」ではなかったのですよ。
2nd では、打ち砕かれた状態から始まっているだけあって、
消極的に非暴力の道を選び、
まきこまれるだけの「傍観者」の位置に収まっているのであります。
一瞬、「超時空亡国王女」になりかけたけど。
あれ、なんだったんだろうね?
何と今になって機動戦士ガンダム00についてこんな丁寧に語っている増田に気が付いてしまった…しかも劇場版が公開される前かあ 自分が00についてモヤモヤしていた所や「あれはどうい...