2009-04-04

大人になるとか

なんかこの界隈で色々とあれみたいなんで思うところを書いてみる。

多分取りとめがなくなると思うが、いやなら読まないで次いこ、次、ってことでよろしく。

この前の誕生日で、46歳になった。

イタイ大人なのかもしれないし、大人になれないオトナコドモなのかも知れない。

こんなところに出入りしてROMったりDISったりしているのはオトナのすることじゃないのかもしれない。

これを読む若い人たちには夢も希望もない話に聞こえるかもしれない。

もとい、自分にとって大人になることとは自由になることだった。

親や教師や社会ルールや、自分を縛る何もかもから逃げ出すこと。尾崎豊みたいだなあ。

少なくとも経済的に自立しないと自分の好きなものは手に入らない。好きなところには行くことが出来ない。

好きな人と好きなようにあって好きなだけいちゃいちゃすることも出来ない。

だから、まずある程度経済的に独立した状態、それが自由の基本だ。

そのための手段としての仕事をどうしたか。

安っぽい言い方でほんと申し訳ないんだが、好きなことを仕事にした。

好きなものを作る業界で、自分の得意な分野での仕事に付くことができた。

2回転職してのことだけどね。結果収入も増えた、と思いたいが、日本給与制度には永年勤続に対する退職金というすばらしい制度があるので、

生涯収入としてはどうだったのかはよく分からない。

新卒大企業就職していたら、そのまま一生留まるのがお得なのが日本社会なのだ、とも思う。

これは時代背景やら経済状況やらとのからみで、上手いこと波に乗れたので運がよかったのだと思っている。

こればっかりは人の話はさっぱり参考にならないと思う。巡り合わせ。色々と一期一会

んで、だ。

自由になって何がしたかったのか。

楽がしたかったんだ。好きな時間が欲しかったんだ。おいしいものが好きなだけ我慢せずに食べたかったんだ。

この夢は未だに叶っていないけどね。

その夢と引き換えにして(経済的には)家族を得た。パートナー子どもが二人。

家を手に入れた。借金のかたに取られるかもしれないけど(普通住宅ローンには普通抵当権設定されるのが日本の標準)

はたから見たらごく平凡な、いや平均以上の家庭に見えるだろう、と思う。

そんな自分は大人なのだろうか?

子どもの頃、可能性は無限にあった。何にだってなれた。

けれど可能性はだんだんと減っていき、残ったものを得意なものと決めざるを得なくなる。

協調性もなく、空気も読めず、頭も悪い。

それに気付いて、残った僅かな可能性を握り締めて何とか仕事に繋いできた。

結果、必死で仕事をし、良いことも悪いことも色々あって、

成長なのか、鈍化なのか、

技術を習得したのか、変化に順応したのか、

ともかく仕事は続いている。

子どもを一応大学までは行かせてやりたいと思うから、仕事を放り出して逃げたい時でも頑張って仕事をしている。

仕事そのものは嫌いじゃないが、正直、矛盾だらけでしがらみだらけの会社ライフに嫌気が差して、

一人でどこかへ行ってしまいたいと思いながら、会社帰りに部下とカラオケしたり、コンビニ立ち読みしたりする程度で発散しいる。

こいつは小物だ、雑魚だなあ、と思うけれどもそれが自分だからしょうがないな。これを矮小化というだろうか。

これは大人のやることだろうか?

さっきまで教育テレビアルゼンチン生まれのユダヤ人バレンボイムの指揮するウエストイースタン・ディバン・オーケストラを聴いていた。

ロシア作曲家チャイコフスキーの悲壮を、アラブイスラエルの若い音楽家で構成されたオーケストラ演奏している。

輝く音楽指揮者は早々に(高校生の判断を早々と呼ぶのならだが)諦めた可能性の一つだけれど、音楽は美しい。民族人種を超えて美しい。

なにか、分かり合えなくても共有できるのではないか、永遠に続く錯覚ならそれでも良いではないか、と思わずにいられない。

世界平和を願い続けることをばかげているという人たちもいるけれど、自分はそれを信じたい。

大人になったからそう思うのではないと思う。

そういえば高校生の頃、別マを愛読していた。くらもちふさこは今でも好きだ。最近のだめカンタービレが好きだ。

子どもにつられて読み始めたワンピース大人買いして、今も毎週立ち読みするのも自分だ。コミックス自分が買う。

そういえば小さい時から徒競走がとにかく苦手で、いっつもお前は本気で走っているのか?と訊かれていた。ああ、本気だったとも。

だから走るのが速くなれば女の子にもてると本気で思ってたぞ。今も心のどこかで思っているな。マッチョ信仰だな。

いや、ないものねだりか。大人には足の速さって価値がないな。プロスポーツ世界でもない限り。

昔から、軸がぶれていて、定まらなくて、今もぶれている。コンプレックスの塊だったから、早く大人の男になりたかった。

強く、揺るがない信念を持った大人の男。

今の自分はそんなものとはかけ離れている。

流れてゆく時間の中で、今を生きていくことだけを追いかけてたら、こうなった。とにかく、ここまで生きて来た。

これを流されたというのだろうか。

今まで生きて来て分かったことは、自分の自由は自分で決めて自分でやるしかないということ。

自分のしてきたことを認めること。後悔することもある。でも認める。それは自分であると。

過去何がしかの決心で分岐を選んだ自分を認めること。だからといって他の道を永遠に諦める必要はない。それは夢だから。

可能性が0でない限り、持っていてもかまわない夢だから。

こんな浮ついたことを言いながら多分50になり、還暦を迎え、だらだらと意地汚く行き続け、願わくばあっさりとひっそりと死んで行けると良い。

こんな自分は大人なんだろうか。

だらだら書いてすまなかった。もう終わりにするよ。

まあ、こんなオヤジもそれなりにいるのではないだろうかと思うのだ。

大人になりたい人は自分にとっての大人を決めるといいよ。

死ぬまで追いかけるぐらい遠いことに気が付くのは多分死ぬ時なんだと思うけれどね。

ああ、本当に大人気ないなあ。

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