はてなキーワード: 御土居とは
根拠によらずに何かを言われたとき、その内容の強度や正当性や、得られる納得度が、何によってもたらされ、裏付けされ、保証されていると感じられるか。
最後の最後のところでは、その人の重ねてきた経歴の起源にある、原始的な帰属分野にあるんじゃないかと思える。
例えば、ビートたけしなら、なんとなく理工系の知見が通底しているように思える。
司馬遼太郎なら、旧陸軍の一兵卒として終戦を眺めた、モンゴルだかどこかの語学の学校を卒業した学生。
原始的な帰属分野のスコープが広いものであれば、著名になった以降の発言についても、そのスコープの及ぶ限りにおいて、なんとなく通用しているように錯覚することができる。
松本人志なんかは、どうなんだろうなぁ、と思うことが多い。
結局どこまで言ってもお笑い(それもごく限られた分野での笑いの作法。たまたま現在の日本において主流的な地位にある)だし。
最近だと父親げなことを言っているけれど、それもまた結局のところ、いわゆるそこいらの父親だ。
尾ひれがつくとしたらお笑いのスコープが及んでいる部分でしかないだろう。
コメンテータとかやってるのを不思議に思う(とはいえ、その発言が、世の中で重く受け止められているような気配はあまり感じられない)。
週刊誌の連載に基づいた著作があったりしているけれど、結局、お笑いの立場からのものであって、そのスコープの限りのものでしかなかった。
万人の納得を誘うものではなく、また、それを狙ったものでもなく、松本人志が何か言ってる、程度のものであったし、今もまたそうであるように思う。
で、タモリだ。最近、なんとなくその発言やら趣向やらについての記事を見かける気がする。
タモリは、坂道本の序文にあるように、その根底にあるのは、筒井康隆的な意味での西洋哲学であると、私は勝手に思っている。
(あるいは、西洋哲学に付託して物事を著述することによって、効果的に、煙に巻くことができると信じられた世代に所属している、というふうに思える)
なので、その域を外した分野における発言については、結局のところ、粋人であるところのタモリ一代のものであるので、スコープもその限りだ。
(カレーやら生姜焼きの作り方が取りざたされても、はぁそうですか、としか思えない)
京都を歩いたときに、御土居について語っていても、それは趣味として御土居を知っている人の発言であって、歴史的な文献・知見に裏付けされたものだと安堵できるに足る発言はなかった。
(もちろん、本人にしたら、そんなこと考えてなくて、単に膨大な興味のいち分野に過ぎないんだろうとも思う)
何が言いたいかというと、いちいちタモリって言われてもなぁ、というのが一つ。
それから、仕事をしているときに、根拠や裏打ちなく物事が進んでいくときの正当性が何によってもたらされているのか、それは自分の身体を預けるに足りるものなのか、というのが一つ。