はてなキーワード: しーぽんとは
「キャラクターは商品ではなく実体を持った一個の存在だ」という前提の前には、本来なら消費者だけでなく作者も疎外されているはずだ。実際、普通はキャラクターの一挙一動に作者の意図を感じながら読んだりしないよね。(人にもよるだろうけど。男性が製造するポルノの使用について「おっさんにちんこを握られているみたいで嫌」って表明してる人もいるみたいだし。)
作品と消費者が円満な限りは作者の存在は意識されることもない。気に入らない展開になって初めて、作者→作品→消費者という作為の構図が表面化する。キャラクター自体と、その前提となる嘘に二重に裏切られるわけだ。
消費者の怒りがキャラクターに向けられる場合、「実体を持った一個の存在」という前提は崩れていない。「ナギ様は自由な一個の存在なので読者を裏切る事すらも出来る」という意味ではむしろ強化されているとも言える。アニメのようなのように多人数が関わり制作過程が目に見えにくい場合に起りやすいように思う(『宇宙のステルヴィア』のしーぽんの件など。)
小説や漫画のように作者の関与が大きいと思われる作品の場合、消費者の怒りが作者に向けられることもあるだろう。しかし、「俺たちの意に沿わない行動をさせやがって」という怒りに隠れている真意は、「キャラクターが実体を持った一個の存在ではないと気付かせやがって」という怒りではないか。
もし仮に、読者が抗議をおこない、作者が読者の意に沿った改訂をおこなったとしても、「キャラクターが実体を持った一個の存在」という嘘がバレた事は覆せない。むしろ、(作者どころか)読者の作為も及ぶ存在であることが明らかになる事で、元の円満な状態からは一層離れてしまう。作者にとっても読者にとっても得られる者が少ない悪手だと思う。「作者ばかりがナギ様を思い通りにしやがって」と溜飲を下げる事はできるかもしれないけど、どのみち共倒れという意味では自爆テロみたいなもんだよね。
以上のように、本当にキャラクターの実体性を信じて居たのだとしたら、読者の行動としては「怒りをキャラクターにぶつける(嘘は温存)」か「構図が見えて冷める(作品から離れていく)」の二つ以外は合理的とは言い難い。ただ実際には商品でもあることも知っていて、そういう意味では自爆テロも意味があるんだろうね。
よく小説家や漫画家が「登場人物が勝手に動き出す」的なことを言っていて、そういうのは制作者の実感として間違いなくあるんだろうけど、今回の騒動を見て思うに、作為の構図やビジネス的側面を意識させない為のゼスチャーとしても意味があるのかもしれない、と思った。