はてなキーワード: 小説家とは
「外に出て闘っている」という実感が有れば何も問題は無い。
敏感さんでもそのうち馴れる。反面馴れって怖い物で、
「グラウンド・ゼロ」が起こった時はそりゃぁもう具合悪くなったけど、
今じゃテポドンが明日命中しても「別に...。」と成るかもしれない。
「ひょっとしたらワタシも関与してるかも。運が良ければ止められたか?」という思惑が頭をよぎり、
メチャクチャ具合が悪くなった。顔面蒼白って奴で、会社休むか?とすら思った程だ。
何でも、病院に行った方も居たそうだ。その人はギリギリまであの通り魔を落ち着かせようとしたらしい。
これはここだけの話な。でも1000人ぐらいは既に知ってそうな話だが、
...。まぁ、でもそれも日常になってしまったし、事件は凶悪化の一方だ。
これは「大人の事情」って奴で表向きには絶対に出せないようになっている。
だから、裏に仕込む。小説家はここぞとばかりにネタにするだろうし、アニメの脚本にしても良さそうだ。
タフを気取ってもこの有様よ。全くふがいない。
〜T.H.
いろんなところで文章書き捨ててるけど、いまだ自分のスタイルが実現できていないのか、表現が懲りすぎてしつこい味の文章になってしまうなんてことがよくある。
そういう時は、自分自身でも納得いかないまま、「だけどせっかく書いたんだし」と思って投稿しちゃうのだけど、やっぱりウケはよくない。
クリティカルなものが書けたと思う時は、少ない文字で的確に伝えたいことが表現できてると思う時。
そういう時は、自分の文章なのに、何度も何度も読み返しちゃう。
できれば、そういう文章を書き続けたいのだが、未だ、そこに至れるまでのプロセスが自分でよくわかってないんだ。
自分が好きになるような文章を、自分が生産し続けるにはどうしたらいいのか?
小説家なんかは、その人の癖なんてのが文章によく出てて、パロディにされるくらいその人の文章というものが確立されていたりするよね。
こればっかりは、書き続けるしかないのかな?
ラノベに限定しての話だけども、応募作品の質の劣化はいつ底を打つのだろう。
ネットで安易な賞賛を受け、根拠のない自信をつける人間がいる限り止まらないのだろうか。
応募作品の母数は増えても、その質は低下の一途。
多段階選考となっていることが多いが、ニ次以降が本格的な選考となるケースが多い。
人が一生懸命描いたものにこういった言い方をするのはなんだが、選評を返す段階ですらない問題外の作品(と正直なところ呼びたくない)が多すぎる。
一次落選の大多数と二次落選の一部に共通するのが「お前絶対三人称で書いたことないだろう」と断言できるレベルのもの。
とにかく人称や視点のブレなど、基本ができていない。
一人称は描きやすいよ?
読者的にもとっつきやすいよ?
でもあんた、作者視点での描きやすさととっつきやすさで選んでるだろ。
それ以前に人称統一できてる?
「人称や視点を切り替えるという表現方法が~」なんて言うのがたまにいるけど、それは基礎が出来てる人間だからできること。
効果的に人称切り替えができてる自信があるのかもしれないけど、アマチュアレベルで出来る人間なんて殆どいないから。
出来る奴はそんな手使わずに人称統一した作品応募してきて選考通過していく。
小中学生の黒歴史ノートみたいなレベルのものを送ってくるのが大学生とかそれ以上なんてのが珍しくない。
本屋に並ぶ他の作品に引けをとらない自信があるのか。
ネットに投下するのとはわけが違うのは分かっているのか。
また、応募予定者のBlogなどで時々目にする一文。
「今日は○枚(ページ、kbyte)書きました」
この時点で質がなんとなく予想出来てしまう。
確かに例外はある。
逆に言えば例外レベルでしか真っ当なものがない。
漫画が好きだから漫画家を目指そうと思い、実行に移す奴はそう多くない。
絵を描くという一朝一夕には身に付かない技能が必要である事にすぐ気付くから。
一方で、小説が好きだから小説家を目指そうと思う奴の多さたるや。
もう色んな人間が既に何度も言っていることではあるけども、何故気付かないのか。
俺も子供の頃
「ゲームが好きで好きで仕方がない。だから自分はゲーム会社に勤めてゲームを作るのが向いているはず」
と思っていた事があったが、あれと同じ。
"Hello World" を出力できるからってプログラミングできるわけじゃないんだよ。
アルゴリズムを知り、身につけ、組み立てて形にする知識と技能(才能と言ってもいい)がない奴には無理なんだよ。
作品を見てすぐに分かる。
冒頭十ページで分かる。
日本語を読み書きできて小説が好きだからって小説が書けるわけじゃない。
また、うまくなるためにどうすればいいかという質問を時折見かける。
「たくさん本を読んでください」
と答えている奴。
はい、アウトー。
日本語を読み書きできて小説が(ry と思っている人間はすぐにこう答える。
それは描けるようになった人の話。
うまくなりたいならたくさん書く。
色んな人に見てもらって叩かれる。
でも踏み外すと斜に構えて「応募すれば賞程度すぐとれる」という意識の勘違い君に成り果てるんだよねー。
インパクト狙いの一発ネタでの賞賛を受けるのに慣れて他が書けなくなるか、同類の間で馴れ合うだけに。
そうなったらなったで自分のプライド守るために応募してこなくなるから楽にはなるけど。
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同意する奴も反論する奴もいるだろうが、とりあえずブクマしてる中に明らかに場違いなのがいるのでひとつだけ。
id:konkon1986
書く・描くが指す対象とその文字を使う意味を理解できないのなら最低ラインにすら到達してないからこの手の話題にはお呼びでないよ。
大変だね。
まあ、わかるような気もする。
私も似たような境遇だったし、類は友を呼ぶのか
私の周りでもそういうような境遇の人間が多かったから。
でもさ、
いじめによる不登校→定時制高校 というルートを歩んだ私の友人は、今や立派なプログラマになってるし
テストがクラスでビリだった私は大学出てないけど一応グラフィッカで食ってけてるし
高校卒業後に声優養成学校入って搾取された友人はフリーターだけどひとりぐらしして毎日充実してるっぽい
ちなみに小説家目指して投稿頑張ってるらしい。先日、担当がついたそうだ
大学卒業したけど入った会社がクソで欝になって辞めさせられた友人は二年後に別職でぼちぼち復帰、
そこで出会った旦那と入籍、子供うまれて愚痴多くなったけど欝時に比べてよく笑うようになってる
今は就職が厳しい時代だから、大学に入っておいたほうが当面の数年間は楽に暮らせるけど
あなたが就活することになる3年後、世界がどうなってるかなんてわかりゃしない
バッドエンドが見えているようでも、18歳で体が健康ならいくらでも回避できる
アドバイスとしては、20歳でひとりぐらしできるようになること。
高校時代に躓いた人間は、ひとりぐらしするのがいい。
親にたよる癖がつくと、ずるずるとニートになってしまうケースがままあるからね。
社会人になってひとりぐらしするようになってから、はじめてつまづいた人間は本当にもろいけど、
中、高校時代につまづいた人間で、親から巣立てた者は、精神的にタフなケースが多いように思う。
好きを仕事にすると、好きだったものが楽しめなくなるからな!
http://anond.hatelabo.jp/20090921042016
増田だから言うけど、死にたい奴は死ねばいいと思ってる。生きてくのって、大変で面倒くさくて、やりたくもないことを一生懸命やらなきゃならない「つらいこと」だ。だから、降りることが出来るのなら、それでいいんじゃないかな。
死にたいとか考えてるなら、あなたの人生私にくれ。まだ30歳なんだよね。平均寿命まであと53年ある。食いっぱぐれないだけの仕事もある。恋人には恵まれてないようだけど、レイプされたことがあるとか、父親に性的虐待されたとか、ひどい経験はなさそうだ。
勤務時間は決まっていて、時間外は好きなように時間を使えるんでしょ? いいなあ。食後30分しか自由時間がない私とは雲泥の差だ。私はもっと本を読みたいし、原稿(小説家志望なんだよ)書きたいし、勉強したい。でも、誰にもわずらわされない時間って、あまりないんだ。家族がいてね。家族がいるのは良いことだけど、時間が細切れになって、まとまったことが出来なくていらつく。
http://anond.hatelabo.jp/20090906005610
「2歳のときから、お話作ってた」と言う天才作家もいるし。「最近、他人が書いた小説に興味もてなくて」とほかの人の小説は読んでないと広言している大御所作家もいるし。評論家を目指すのなら読書は必須だけど、自分の世界を展開したいだけなら義務教育の「国語」を徹底して覚えておけば、充分に用は足りるよ。「国語」の教科書には文豪の文章もいっぱいあったはずだし、国語の先生が優秀なら「伝わる文章の書き方」も教えてくれたはずだよ。
元増田がインプット元を忘れてしまっただけで、今までの勉強だけで充分に実力が付いてるんだよ。
もし、これから先、小説を読んで書き方を勉強しようというのなら、中条省平(ちゅうじょうしょうへい)先生の「小説家になる!」をお薦めする。一冊で、いろいろな書き方の見本が見られるし、専門家の解説つきだ。
上を見よう。そして、目指そう。
ナイルの水の一滴。志賀直哉という小説家の短文なんだね。知らなかった。私には知らないことがたくさんあります。
うーん。ちょっと違うかな。
ただ、そこに映るものを自分の主観によって決定するわけじゃなくて、そこに映るものの“意義”を自分の主観によって決定するものだと私は思っているのです。
度々文面に登場する「小さな世界」。私は箱庭のようなものだと考えているのね。私という自我が立っていて、壁に外界と面した窓がある。
その総称を「小さな世界」と読んでいるのございますよ。
自我たる私は、窓の外を見て他なる存在を認識する。そこで決められているのは、その存在の意味だとか、私にとって何であるのかということだったりするのね。
だから、存在自体をどうこうできるわけではない。私は他者としての世界を見た瞬間に、最早存在を認識せざるを得なくなってしまっているわけなんだ。
例えば、あなたは大きな世界を「意識的に見ない/見えていないことにする」ことは可能だと述べたけれども、これにしたってすでに存在を認識しているから可能なことでしょう?
私が私を意図的に誤魔化すことができるのは、対象となる存在を認識しているが故だもの。対象がなければ、私は何をすることもできない。
で、存在を認識したからには、私は対象を分類しなくてはならない。にんげんだもの。認めるのもいい、誤魔化すのでもいい。とにかくカテゴライズするわけだ。
するとどうだろう、私は私という小さな世界の中において、認識した外部の存在の立ち位置を決めることになる。
「総体」について。
その上で私は、人と土地などの違いに主体性の強さがあると思うのね。
人も土地なども等しく外界の存在を内包するけれど、人は分類して敷居を作ってしまう。土地とかはそういったことがないように思うんだ。
だから、自我としての小さな世界と、外界から取り込んだ他者としての小さな世界が混合し始める。
その総称として「総体」という言葉を用いたんだ。謂わば、小さな世界でありながら、大きな世界を内に秘めているような感じ。
まあ、結局私は人でしかないのだから正確なところは分からないのだけれども。
私は、時を経て変質することはあるにせよ、
存在すること自体に一番意味があると思うなあ。
そうだね。存在ありきでなければ何事も始まらないものね。だから、純粋に『存在すること』にこそ根源としての意味合いが一番含まれているのだと思う。
ただね、私はときどき大きな世界に飛んで行ってしまいたいことがあるんだ。
言葉はいつも世界を切り取って明確にしてしまう。私は世界そのものを感じたいのに。
漫画(鋼の錬金術師)からの引用になってしまうけれど、「一は全、全は一」という言葉がある。
私はありのままの存在をありのままで感じてみたい。小さな世界でありながら大きな世界となって、境界なく全てを俯瞰してみたい。べつに理解はしなくてもいいんだ。
溶けてみたいのかもしれないなどとも思ったりする。
渇望しているわけでもないのだけれどもさ。
……頭捻って文を書いたつもりなんだけれど、どうにも的確に答えられていないような気がする。ごめんね。
キーボードを叩いていたら、何がなんだか分からなくなってきたんだ!
蒸し暑いのは大嫌いです。
http://anond.hatelabo.jp/20090728041745
じゃあ、回りを観察して「これぞ、友情だ」と思えるシチュエーションをストーリーにはめて書いていけばいい。何本書いてもわからなければ、元増田は永遠のテーマを持っていることになる。書いても書いても書き切れないことがあるのは、モチベを保つには強いぞ。
小説家はライターと違って、編集さんの言う通りに書くもんじゃない。もちろん、社会人として「発注側」と「受注側」の立場はわきまえてなければならないが、発注側の注文に対して「それなら、こういう解決法でいかがですか?」と提案する必要がある。
まだまだ勉強しなくちゃならないことは多いよ。へたばってる場合じゃない。どんどん人生経験を積んで、小説に生かしていこう。
小説は結局「人間を描く」ものだ。人間と関わりながら書いていかないと実情とずれる。書くのは独りだから勘違いされやすいけど、小説を書くのがうまい人はたくさんの交友関係をもって、他人と関わりながら生きてるよ。
僕は昔から小説家になりたかった。小説でなくとも、何か文章を書いてメシを食いたかった。
世の中には物書きになりたいという人間が腐るほどいる。僕もその腐った残飯の中であることは違いないが、しかしその夢を捨てきれずにいる。
今年、4月にある小説の賞に作品を送った。僕が生涯で完結させた小説では2作目となるものだった。今まで沢山の完結しない小説もどきは書き綴ったが、なんとか完成させたものではふたつめである。
先日、1次選考の結果が発表され、稚拙な我が作品は何とか残ってくれた。僕の書いたひとつめの作品は、とある文学賞に投稿したのだが、そちらでは箸にも棒にもかからず、下読みの段階で落選してしまったわけだが、今回は何とか生きながらえてはいるようだ。
こうやって、我が作品が落選してしまうかも知れないというやきもきした気分で毎日を過ごしていると、何故自分が小説家になりたかったのかを反芻せずにはいられなくなる。そもそも、僕にとって小説は本当に大事な存在であった。
僕は小さな頃から父親に暴力を受けて育った。言動でも行動でも、つまりそのどちらにも暴力の力が伴っていて、僕は文字通り精神的にも肉体的にも鍛えられてきた。父親はアル中だが、この話には関係ないので省く。
そんな鬱屈した毎日の中で、中学生くらいの時に本気で自殺をしようかと考えたこともある。自殺の方法をいくつか考えている内に、生きていることがくだらなくなってきて、同時に自ら死ぬことのくだらなさにも気付かされてしまい、感情が空白になってしまった。
誰かと話していても、楽しくはなく。勉強やゲームに没頭していても楽しくはなかった。何だか、全部流れていくだけの白昼夢に思えて仕方がなかった。
醒めてしまえば、全部が存在しないんじゃないか。なんて意味もなく思ってしまっていた。
僕はそんな風にして、幼少期を過ごし、共に遊ぶ「友達」と呼ばれる存在もいくつか出来たが、だけど友達ってのが何なのかよく分かっていない。それは未だに理解が出来ない。
辞書を引いてみれば友達というのは――親しく付き合っている友人。友。――だなんて説明されているが、『友達』なんて言葉を『親しい友』だなんて同意義としか思えない言葉で説明している辞書ですら、酷く滑稽に思えた。
意味が分からなくなってきた僕には、本当に心が許せる友人は存在しなかった。過去形で表されているが、だが、今でも本当の意味での友人はいないのかもしれない。
同時に、僕には本気で好きになったひともいなく、「ああ、もしかしたら彼女のことが好きなのかも知れない」と考えても、何故、好きなのか? と考えてしまうともう駄目で、顔が可愛いだとか、振る舞いが華麗だとか、性格が良いかも知れないだとか、そんな曖昧な理由で人を好きになってしまうなんておこがましくないのか? と勘ぐってしまう。こんな浅はかな理由で人を好きになるならば、別にその人じゃなくても良いハズだ。とも思う。
もっとシンプルで良いハズだ――とも、確かに思う。好きだから、好きで好きで理由はないだとか、そんな風で本当は良いのかも知れない。
そんな諸々の世界に対する訝しみ、この世界と付き合う方法を考える時には、どうしても脆弱であっても――言葉が必要だった。
僕はある日、こんな恥ずかしい話はないだろうが、中学校の頃に学んだ夏目漱石の「こころ」の抜粋部分(確か授業中には抜粋部分のみだったはずだ)を読んで、初めて文章を読むことの意味に気付かされた。「大造じいさんとガン」を読んでも気付かなかったが、「こころ」で気が付いた。
鮮烈でめまいがするような秀逸な筆致が、その頃の僕には酷く輝いて見えた。夏目漱石なんて、千円札でしか知らない人だったけど、彼が何かに煩悶しながら世間に訴えたいことがあるということは幼い僕にも分かった。それは幼少期の勘違いであったかも知れないがね。
それからは、様々な小説を読んだと思う。世間の読書好きの人々には決して敵わないだろうが、それでも本は読んでいた。昼休みや授業中や帰宅後も、暇があれば読んでいた。
ここでは、誰の小説を読んだとか、どこそこが良かったとか、そんな無意味なことをあげつらう気はない。ただ、僕が重要視したのは『本を読んで考えること』であった。
だけど、間違いだったかもしれない。
余計な言葉知識が頭に埋め込まれてしまったせいで、余計に僕は生きていく上で悩んだり、無意味さを噛み締めたり、そんな感慨を抱くことが多くなってしまい、なんて生きていくのは切ないんだ。と物思いに耽る中二病患者になってしまった。
今は、社会人として仕事をしているが、自分が雇われている企業での僕のこなす業務というのは、僕以外の何者かが代行しても全く僕と変わらないレベルでやり遂げることが出来るのではないか、と思う。当然ではあるが、大抵の仕事はそうだ。
地下鉄の駅を降りて、ホームからの階段を登り、世間の人々の波に埋没していたら、すごく自分が存在していないんじゃないか? なんて思ってしまう。
恥ずかしいことだ。だけど、こんな風な思考回路を構築してしまったのは僕だ。僕が悪いのはよく分かっている。
だから、そんな自分に対するセラピーの意味合いもあるかも知れないが、僕は文章を書くことで精神の安定を得る。実際は何でも良い。文章だったら何でも良い。ブログを作って意味の伴わない単語を羅列したっていい、誰にも理解されない主張を標榜してもいい、だけど何か考えていないと、何か書いていないと、僕は本当におかしくなってしまうんじゃないかと、そう感じてしまう。
だったら、もうそこまで来たら、僕は仕事をやめて、実家に帰ってニートをやって、インターネットの世界に没入して、日々を食い潰して、そのまま死んでしまった方が良いのかも知れない。その方が、誰の毒にも薬にもならず、迷惑を掛けないまま、緩やかな自殺として完遂出来るかも知れない。
だが、親に迷惑を掛けるのも嫌だ。これは我が儘に違いないが、僕は誰にも迷惑を掛けたくないのだ。自分以外の誰にもに、人畜無害な存在であり続けたい。本当に自殺するなら立ち入り禁止の富士の樹海へコンパスを持って行く。
そうした曖昧模糊な思考の行く末は、誰しもが抱く物書きになりたいという夢だった。
結局、こうなってしまう。馬鹿な邯鄲の夢だ。
実際、小説家の仕事についてはよく分かっている。自分の書きたいことを書けずに職業として編集者に指示を受けながら書かねばならないことや、サラリーマンよりも低い年収で、しかも売れなきゃゴミだと評価されることも分かっている。
それでも、こうして文章を書くことに意義を見い出すことが出来るのは、個人的に素晴らしく有意義に思える。自分が真っ当に生きていく結論としては、小説家になることが最も分かりやすくてシンプルなんじゃないかと、そう思った。
先述した――恋はもっと、シンプルで良い――なんて青臭い科白は、そのまま僕の文章に対するスタンスに直結している。
もっと、シンプルで良く。僕は心の底からシンプルでありたいと思っている。
だから、小説家になりたい。そう思って僕は文章を書き続けている。
(フィクションです)
大学院を修了後に上京して、大手の暗殺系企業で五年間勤務していた。エキサイティングな職場だった。厳しい先輩と、ハードな仕事を次々こなした。待遇は悪くなかった。三年目には年収が手取りで一千万円を越えた。ただし昼夜もなければ公私もなかった。殺しても殺しても依頼は尽きなかった。この激務は終わりのない日常なのだと気付いたちょうどそのとき、仲の良い同期が死んだ。ブレインストーミング中に流れ弾が頭部を撃ち抜いたのだ。桜散る春のことだった。
ゴールデンウィークも休みなく働き続けた僕は、翌週に四十度の熱を出した。近くの病院が出した診断結果は「ただの風邪」。それだけ体が弱っていたのだ。やりかけのプロジェクトがあったのでなんとか会社へ向かおうとしたが、体は動かなかった。動け、動いてよ、という言葉を自分に呟いた。動かない。結局、東京に来てはじめて自宅で時間を過ごすことになった。一日が長かった。ワンルームにはテレビも冷蔵庫もなく、ゴミ箱さえない。がらんと広い死んだような家で、死にかかっていた。
翌日も体調は戻らなかった。誰かと話をしたかったが、学生時代の友人とはもう長いあいだ連絡をとっていなかった。アドレス帳を開いてはみたものの大半の顔が思い出せない。仕方がないので、一日を布団にくるまって過ごした。誰の訪問もなければ、誰からの電話もなかった。恋人からの電話さえなかった。きっと僕は一日中働いていると思ったのだろう。ふだん彼女から着信があっても返事をしなかったのは僕なのだ。夜中にふと目が覚めて、さめざめと泣いた。ひとしきり泣いて、僕は退職を決意した。
一週間かけてなんとか体調を戻した僕は、どう退職を切り出すか迷いながら出社した。待っていたのは、リストラの宣告だった。「なぜかは君も分かっているだろう」とミシガン大卒の上司は言った。どうやら寝込んでいるあいだ会社からのメールに対応しなかったというのがその理由らしかった。「クライアントはおかんむりだ。責任はとってもらう」上司ははっきりとそう言った。パソコンは会社に置いたままだった、と言い訳する気にはなれなかった。外資系は違うな、と僕は妙に感心した。「暗殺者はともかく、外資系はやめておきなさい」と言った母の言葉を思い出した。
僕はそのとき二十九で、違う業種に足を踏み入れるにはすこし遅かった。そして同業他社へ進むには内情を知りすぎていた。残されていたのはフリーの暗殺者として独立する道だけ。僕はそうした。もちろん最初はうまくいかなかった。貯金を食い潰す毎日だった。サラリーマン時代はなぜ、あんなに高いスーツばかり買っていたのだろう。足にぴったりフィットするようオーダーしたストレートチップの革靴も。
ほどなく恋人にも捨てられた。馘首になったことを打ち明けたら「結婚する気はあるの」と聞かれ、返答に窮したらそれっきりだった。これまでに殺してきた人達の家族に明日殺されるかもしれないのに、それはそれとして「結婚しよう」と答えるのが誠実な態度だったのだろうか。僕にそんな自信はなかった。
その時期、前職の顧客からぽつぽつと頂く仕事が僕の命綱だった。貧乏はつらい。しかしそれ以上につらいのは、暇なことだ。仕事一筋だった自分には余暇の楽しみ方など分からなかった。暇を潰そうにも相変わらず我が家にはなにもないまま。だからと言って、これまでに買ってきた恨みを思うと街をぶらぶら歩く気分にもなれなかった。夜になるたび、実家に戻ろうかと真剣に悩んだ。母にはまだ退職の話さえしていなかった。
好転の契機は価格を見直したことだった。それまで用いていた大企業譲りの価格体系は、プラン、オプション、割引制度が複雑怪奇で、一般顧客には理解が難しい。そんな当たり前のことに気付くのに半年かかった。ゼロに近付いていく預金通帳を眺めて、ふと分かった。実際のところゴールド・プランだろうとプラチナ・プランだろうと、顧客にはどうでも良いのだと。殺して欲しいから暗殺者を頼む。それだけの話。そこで原則、一人につき二十万円と改めた。コンサルティング・フィーはなし。メンタル・サポート・オプションもなし。分割払い不可。にこにこ前金一括払い。失敗したら全額キャッシュバック。失敗などしたことなかったので、なんの問題もなかった。
ネット系の暗殺企業でCFOを勤める後輩の薦めに従い、なけなしのお金で簡単なネット広告も始めた。「これからは暗殺もネットで依頼する時代ですよ」と後輩は言っていた。正直に言って半信半疑だったが、ほどなく新規顧客を獲得できるようになった。暗殺系企業は大手顧客ばかりに目を向けていて、リテール向けのネット進出に出遅れていたのだ。ネット系の暗殺企業はいずれもベンチャーだが、急速に顧客の支持を集めている。僕はその波に乗った。
すこしづつではあったが、充実した忙しい毎日が戻ってきた。殺して、殺して、殺す毎日。正直に言って、サラリーマン時代は企業闘争に関わるプロジェクトばかりだったので、個人から依頼される仕事の大半が痴情のもつれであることには閉口した。それでも、大事なお客さんであることに変わりはない。ある時は依頼者の夫を殺し、ある時は依頼者の夫の浮気相手を殺し、ある時は依頼者の本妻を殺した。
独立して一年が過ぎた。流れは上向きだった。そこに不景気がやってきた。
仕事はもちろん減った。不景気で依頼人が減ったのはもちろんのこと。しかしそれ以上に、不景気で暗殺者になろうとする輩が大勢現れたのが問題だった。仕事が減るという結果は同じかもしれないが、なお受け入れがたかった。なんでもどこかの週刊誌が資格がなくてもできるフリーランス仕事として大々的に紹介したらしい。誰でも簡単、いますぐ暗殺者! というわけ。「一にも二にもコストカット。これからは自分で殺す時代」なんてことを言うコメンテーターまで現れた。
自分の腕は鈍っていなかった。一年を通して失敗は一度もなかった。評判だって悪くなかった。だからこそ仕事が減るのは堪えた。後輩が連絡をとってきたのはそんな時だった。場所は青山の隠れ家風フレンチレストラン。「安くないけど、いい店でしょう?」後輩は最初にそう言った。彼の働くベンチャー企業は今や暗殺系で一番の成長株。週刊誌にそそのかされて始めた素人暗殺者を大量に抱え、コミッションで稼ぐビジネスモデル。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
「それで、景気はどうですか?」後輩はそう続けた。もちろんこちらの景気を理解しての発言である。「今日はなんだい」と僕は言った。それから後輩は休みなく喋りまくった。要約すると:これからは暗殺にも無料の時代がやってくる。クリス・アンダーソンという人が「フリー」という本を書いているそうだ。「無料の暗殺が世界を変えるんです。嫌な人間のいない世界になりますよ」彼は言った。
「無料でどうやって生活するんだ」僕が言った。後輩は待ってましたとばかりに答える。「広告ですよ。殺害現場を広告にするんです。ちょうど三億円事件でカローラが有名になったみたいに」「面白い話だとは思うが、そんな広告を出稿するクライアントがいるか」「いますよ」後輩は笑った。「有名になれば勝ちなんです。有名になるためなら、どんな広告でも売る企業ばかりですよ。だいたい、クライアント以外はそれが広告であるかどうか分からないんですからね。たまたま殺人事件を通じてなにかの商品が有名になるだけです」
「無料で殺される人間は不憫だな」僕は言った。「殺されればなんだって同じですよ」後輩は答えた。「そうか」僕は頷き、彼の心臓にナイフを突き刺した。いつもどおりの手口。失敗するはずがなかった。入念にナイフをえぐると、後輩は一言も発さずに死んだ。僕は後輩をテーブルクロスに包み、店主に一言言い残して店を出た。景気が良かったときによく使った店だった。後輩はこの世界で生きるには目立ちすぎた。
翌日、コンビニのATMで二十万円を引き出した。趣味のひとつもないので、家賃と食費以外には使うあてもない。とりあえず向こう二ヶ月は暮らして行けそうだ。僕は家に戻り、布団にくるまって寝た。明日はなんの仕事もない。
(ブクマコメントなどありがとうございます。PCが故障中なので自分のサイトではなく増田に投稿しましたが、いつもより反響があって嬉しいやら切ないやらです。http://youkoseki.com/text/ にその他の短編小説をあれこれ掲載していますので、良ければどうぞ。また三十路から小説家デビューする方策や、いまどき短編私小説を募集している媒体情報などご存知でしたらご教授下さい)
信用ってのは、要するに社会があなたのアウトプットをどのくらい「当てにできるか」ってこと。
アウトプットの形は業種や役割によって千差万別だ。接客業なら毎日時間通り、シフト通りにその場にいるってことが重要だろう。チームワークならミーティングに確実にいること、コミュニケーションが継続的にとれること、なんてのが重要かもしれない。一方、個人作業で成果物のみが問題になる業務なら、普段何してたっていいから締切りまでに十分なクオリティのものを出せばいいってことになる。
社会の厳しさっていうのは、何であれ「社会があなたに期待しているアウトプット」を出しつづけることが求められてるってこと。あなたならこういうことが出来るはずだ、という目論見をもとにあなたに仕事が振られるわけだから。
あなたが、成果物のみが問題になる職業に進もうというなら、毎日きちんと定時に学校や職場に行く必要はない。そのかわり、求められた成果は必ず出しつづけないとだめだ。締切りに遅れてもだめだし、クオリティがプロとしての基準に達していないのもだめ。どんなに調子が悪くても、どんなに気分が乗らなくても、スランプに陥ってても、言い訳はできない。満足いくものが出せなければ、切られる=もう仕事が来なくなる、というだけ。
小説家、漫画家、俳優、スポーツ選手など、成果のみが問題になるような職業についていても、結果的に毎日きちんとしたスケジュールをこなしている人もたくさんいる(そうでない人もいるけど)。ある小説家は、書けても書けなくても、毎日何時から何時まではタイプライターの前に座る、と決めている。彼らは「毎日きちんとしているから」信用を得ているのじゃない。「確実に求められたアウトプットを出す」方法を模索した結果、「毎日きちんとスケジュールをこなす」ことが必要だという結論に達したわけだ。
「確実にアウトプットを出す」ためになら、どんなことでもする。その覚悟があるなら、好きなように生きていたって構わない。でもいざ、何でもしなくちゃならないって時になってしり込みしたら、「甘い」って言われることになる。それだけだ。
(ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロの小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。という指摘も当然のことで、普段、一人称の小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説は自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)
Ⅰ、小説概論
まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。
そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。
まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。
多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。
また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。
ここまでをまとめると、物語の筋は
欠損 – 機会 - 行動 - 充足
となる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来た(充足)。
ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。
よって、物語を構成する基本的な四つの要素は
欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)
であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。
少女は名乗り出て靴をはく(行動)。
後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。
また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。
また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。
たとえば、
鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。
黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。
おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。
というように。
このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。
一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛は成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。
物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。
ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。
ⅰ)質問―答えⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現
ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン
ⅳ)思い込み―認知
それぞれ、順を追って説明する。
物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。
具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)
ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。
物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)『動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)
というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、
『「あれ、レッサーパンダだ」』
『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)
間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。
物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線が幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。
目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプの伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。
認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。
主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。
(自己,自己)例:主人公の性格の欠陥(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵
(他者,他者)例:絶対悪
敵の仮定が4パターン、真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。
これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスターの概念を内包している。
(自己,自己)狼男(自己,他者)対応しない
(他者,自己)フランケンシュタイン
(他者,他者)ドラキュラ
物語には六種類の登場人物がある。
主体:物語の主人公。欠損を解決する。送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。
援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。
受け手:欠損の解決の享受者。
敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。
それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。
欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。
物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。
物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。
面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。
それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。
たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。
物語を組む順番として、『欠損-伏線とシチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線とシチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。
①、主人公が向かう目的を定める。②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。
③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。
⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。
⑧、整合性を与える。
また、どのような魅力的な登場人物・伏線・シチュエーションでも物語の自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。
場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。
場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。
場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。
小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。
場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。
何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。
要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。
要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。
場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。
描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。
台詞は音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。
台詞と台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。
書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語、主語と述語は可能な限り近づける必要がある。
「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。
主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。
「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。
日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。
「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。
「地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマトが地中海で育ったのか少年が地中海で育ったのかはっきりしない。トマトが地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海を少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。
ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。
「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。
一文の中に含まれる用言(形容詞、形容動詞、動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。
たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。
小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。
行を改めたときは一段下げる。
「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」
――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。
すこし考えたのだけれど。
「普通」のひとには、「諦める」ことによってなれるものではないのかな。
子供の頃に、野球選手に憧れた、アイドルになりたいとおもった、小説家をめざしていた、ミュージシャンがかっこよかった、ゲームプロデューサーが楽しそうだった・・・けれども、そんな夢を諦めることによって、普通の生活が手に入れられる。
誰かを好きになることは「普通」の状態ではない。自分を失うほどに、こころを掻き乱される。平穏な日々が遠ざかる。それが、赦されない恋であればなおさらだ。ひとの倫理を外れた恋は、赦されないからこそくるおしい。
でもね、堕ちた恋はなかったことにはできない。ちょっと島田雅彦っぽい表現だけれど。
「普通」に生きていたら経験できなかった時間を、恋をすることによって生きることができる。それがどんなに苦しいものであっても辛いものであっても。「普通」ではないがゆえに、その時間は尊い。
普通ではない経験は、深い思考へと誘う。「普通」って何だろうなんて、「普通」のひとは考えない。「普通」にどっぷりと浸かったひとは自覚なしに普通を受け止める。哲学するひとは、普通のなかに普通ではないものを見出す。
そんな人生もいいんじゃないかな。だからぼくは、普通ではなくてもいいや、とおもう。そうしてあなたのことを、あいしつづけようと考えている。
俺は、父親が本棚の奥に隠していた18禁小説で、性の知識を得た。それを読むまで、正直なところセックスの意味が判らなかった。
というワケで、俺は40年ほど前の18禁小説から、つい最近までの18禁小説まで、かなりの範囲の18禁小説を読んでいる。
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18禁小説の存在で特筆すべきは、フランス書院ナポレオン文庫だろう。
それまでおたくは18禁小説を手に入れる手段は、主にコミケだった。アニメキャラが犯される小説はコミケでのみ売っていた。そういう時期がかつてあった。
その、おたくとはかけ離れた存在だった18禁小説の分野に、ライトノベルを取り入れたのがナポレオン文庫だ。
試みは面白かった。
現代オカルト、ファンタジー、SFなどなど、その当時のオタクが大好きな分野の18禁小説だ。
その当時、ライトノベルの大家が小金を稼ぐ為に別名でナポレオン文庫を執筆していた事が明らかになったりした。
しかしその実態は、編集のやる気が全く無く、作家の熱意だけで動いていたような感じだった。人気はあったものの、ナポレオン文庫は中途半端な終わり方をしてしまう。
# この辺りの詳しい話は、雑波業がどこかのインタビューで記事にしていたはずだし、実は俺もナポレオン文庫に投稿してたので、編集の酷さは実際に会って感じた事である
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しかし、実のところ、ライトノベルにも延滞期があったように、18禁小説も、しばらく「ずーっと同じようなものばかり」が書かれる時期があった。
何しろ存在がアンダーグラウンド的なものなので、表立った批評なんぞされないし、前述の通り、作家を成長させるべき編集もやる気が無い。
なので、実際のところ、ライトノベル的手法だけが進化していった。
やれSFの巧妙さだの、設定の緻密さだの、キャラの魅力だの、18禁小説としては本筋ではない部分ばかりが成長していったのだ。
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今、おたく向けの18禁小説といえば「二次元ドリーム文庫」が代表だが、それも今までの話の延長上の路線を歩んでいる。
ただし「主人公が必ず格闘技術を身につけた少女であり、ものすごい乱交レイプされた挙句、最後には必ず大逆転して笑顔で終了」というものすごい縛りがあるのだが……(それゆえ「二次元ドリームエンド」なる言葉が生まれるほどだ)
# 更に最近、二次元ドリームコミックという漫画版も出始めた。1話読みきり漫画で単行本1冊(8話ぐらい)まるまるそのパターンが繰り返されるというのは凄いものだ
二次元ドリームマガジンを読んでも、エロ描写に限って言えば「取って付けたようなもの」なのだ。実の所、ナポレオン文庫の頃と全く同じ。
表現自体が当時と同じなのだ。まぁ18禁小説をそこまで長々と読み続けている俺みたいなのがおかしいとは思うのだが、古臭く感じている。
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そして俺は、インターネットの掲示板……具体的に言うと、2chのネトラレスレで、衝撃を受ける事になる。
今まで読んだ18禁小説が全くお話にならないぐらい、高度なエロ描写の連続。ストーリーラインも見事だし、キャラの魅力も素晴らしく、また、感情移入しやすさも抜群にいい。
そう、インターネット。毎日のようにエロ小説が投稿される場所。その技術は日進月歩。
いつからその文化があるのかは知らないが、俺が知った頃には、既に「出版されている18禁小説が足元にも及ばない」作品群の数々が、多数まとめられていた。
オタクが食いつかないはずがない。
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俺は衝撃を受けた。
俺が10年以上追い続けてきた18禁小説は、あっという間に時代遅れになってしまったのだ。
何度も読んできたお気に入りの本が、あっという間に陳腐化した。読み直すと「これはひどい」としか言えない。
更に言えば、何故か商業は取り残され、無料であるはずのネットの方が良質の18禁小説を生み出している。わざわざ金を払うのは、ネットの18禁小説の存在を知らないだけではないだろうか。
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この進歩は、本当にすごい。停滞していた18禁小説の世界が、一気に飛躍した。
今も進歩し続けている。
今まで飛躍しなかったのは何故なんだろうか。何故、古臭いままここまで来てしまったのだろうか。
そのうち、ネット18禁小説を読んだ人が、エロ小説家を目指して頑張り、今のネットのレベルに商業が追いつく日が来るだろう。その時こそ、日本の18禁小説はやっと進歩するのだと思う。