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はてなキーワード: すぎとは

2009-11-30

本当に大丈夫かな…。

携帯電話の盗聴やレンタルDVDの履歴のチェックまでしてるでしょ。

盗撮されていてもおかしくないんだよな。怖すぎる話だけど。

海外の人たちが日本バラエティ番組を見た感想

割り勘はいいけれど

男子の方が明らかにたくさん飲み食いしている場合とか

女子の方が明らかに体力なくて歩き方が遅いのにさっさと先に行くとか

そういう話が多すぎ

昔は女子がかばん持たせるとか変な感じだったけど今は男子ワガママになってきてるのか

事業仕分けでの議論がエキサイティングすぎてもっとやれと思った

はてな界わいだけ見ても、凄い面白いことになってるよね

俺も分からないなりに意見言ってみたり面白い

鳩山クズだがこういう事が行われるのは良い事だと思うよ。

気ままな掌編 4/5 

http://anond.hatelabo.jp/20091128234950から続き

が、直後に球に美樹の瞳から激情が消え失せる。何事かと思った僕は、哀れむかのように眉を下げた彼女にじっと見つめられていることを理解した。

「ねえ亮太くん、もしかして私は分数の足し算引き算から教えないといけないのかな?」

その瞬間、僕の中で何かが切れた。同時に、一瞬目の前が真っ赤に染まった。気が付けば僕は勢いよく椅子から立ち上がっていた。口が勝手に動き出す。

「美樹さ、ちょっと酷過ぎるよ。そりゃ僕は美樹みたいに頭良くないけどさ、さすがに頭にくるよ」

続いて美樹が思いっきり机を叩く。噛み付くかのようにして立ち上がってきた。

「なに逆ギレしてんのよ。本当のことじゃない。こんな問題誰でも解けるわよ。分かんない亮太馬鹿って言って何が悪いのよ」

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。ちょっと公式を忘れちゃってたんだから」

「忘れてた? 馬鹿じゃないの。あんな公式一回覚えたら忘れるほうがおかしいわよ」

「誰にだって忘れることはあるだろ。第一、美樹は説明が早すぎるんだ。そのせいで僕は計算の仕方を聞かなくちゃならなくなったのに。何さ。足し算引き算から教えようかって」

「付いて来られないほうが悪いんじゃない。自業自得よ。ほんと考えられないんだけど。どうしてあんな簡単な説明を聞き逃すことが出来るのよ」

「説明だって? あれのどこが説明なんだよ。理解させようって気もなかったくせに。というかね、美樹はいつも一言多いんだよ。今だってそうさ。もっと違う言い方があっただろ」

「私にはね、しなきゃならないことがあるの。別のことに時間かけてらんないの。大体亮太だって――」

お客様

「なに!」

突然横から割り込んできた声に、僕と美樹の声は見事に重なった。

「他のお客様の迷惑になるので静かにお願いしたいのですが」

見れば店長らしきおじさんが、笑顔で僕たちのテーブルの側に立っていた。こめかみの辺りに青筋が立っている。口角がひくひくと痙攣していた。その表情に昂ぶっていた僕の怒りはすぐさま現状を理解して冷めていった。注がれる他の客たちの視線が痛い。とても痛い。涙が出てきそうだった。

「す、すみません……」

そう謝って、僕は静かに腰を下ろした。人前で喧嘩だなんて、物凄く稚拙なことをしてしまった。自分を見失ってしまっていてことも恥ずかしくもなってきた。椅子に座った僕には、ただ縮こまるしかなかった。小さく小さく息を潜めるようにして縮こまって、そのまま消えてしまえばいいと思った。

そんな僕を見てひとまず気が済んだのか、おじさんはくるりと踵を返すと、大きな歩調でテーブルから立ち去っていった。他の客の視線はまだ突き刺さってくる。僕は彼らに向かって心の中で謝った。騒がしくしてごめんなさい。恥ずかしいものを見せてごめんなさい。いや、本当にもう、何と言うかごめんなさい。そしてから――忘れてはならない――ゆっくりと目の前の人物に目を向けた。真っ赤な顔で直立していた美樹は、まっすぐに僕を睨んでいた。

「帰る」

そう言って美樹は、持ってきた資料やレポートを残したまま店から出て行ってしまった。取り残された僕は、激しい後悔に襲われながらも空になった席を見つめることしかできなかった。

――やってしまった……

思いと共に、さあっと肩から背筋にかけての部分が冷たくなっていく。やってしまった。どうしようもないほどにこじらせてしまった。

「どうしよう……」

呟きは落ち着く場所を見つけられないまま宙に溶けていく。

後に戻れないことは明白だった。美樹は真剣に怒ってしまったし、それを引き起こしたのは他ならぬ僕自身だった。

どうしよう。そのたった五文字が重なり合い、大きくなったり小さくなったり、フォントを変えて、斜体になったり、中抜きや色を変化させながら頭の中を埋め尽くしていった。

――どうしよう……

見れば、カップに少しだけ残っていたエスプレッソコーヒーがすっかり冷え切ってしまっていた。二つ分のコーヒーカップ。さっきまで目の前には美樹がいて、一緒に向かい合っていたのに――

堪らなくなって、僕は勢いよく席を立つ。好奇に満ちた視線になど、構ってはいられなかった。美樹が残していった持ち物をまとめて会計を済まし、慌てて外に出た。途端に肌に触れた外気の暖かさにちょっぴり驚いた。店内から見た時は枯れ木が立ち並ぶ路地に北風が舞っているのかと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃなかったらしい。頬を撫でる風はどこか温かく、射し込む日の光は思った以上に暖かかった。

僕はいなくなった美樹を探すことにした。

長い付き合いだ、性格はよく分かっていたつもりだった。扱い方も、悪い口のいなし方も熟知していたつもりだった。

それゆえの慢心か、それとも現実逃避を含めたちょっとした気の緩みが油断につながったのか。もしかしたら休日の朝っぱらから、美樹の電話に叩き起こされたのが種火となって、ずっと燻っていたのかもしれない。事の根に潜んでいる根源的な原因は、小さなものがそれぞれ絡み合って原型を留めていないほどに複雑な造形を結んでいた。

それでも結果論として、理由が何であれ僕はあんな風に美樹攻めてはいけなかった。少し頭に血が上ってしまったせいで、我を失ってしまっていた。あの時、瞬間的に僕の中で燃え上がった真紅の灯火は、しかしながら今はもうその輝きを失い、責めあがってくるような群青の水面に変化している。

美樹のことが心配だった。あれで彼女は結構傷つきやすいのだ。ガラス細工のような性格をしているのだと思う。光を透し澄んだ輝きを放つ一方で、一度砕けてしまえば硬く鋭い切っ先をあらわにする。どんな状態であろうとも、他の干渉を拒絶しているようなところがあったのだ。そして僕は、その実彼女が大きな淋しさを抱えていることを知っていた。

(5/5に続く)

http://anond.hatelabo.jp/20091129235145

必要とする人が少なすぎたら採算取れなくて残らんだろうな。

民主主義的な決定でもそういうことはありうるし、事業仕分けで切り捨てられる事業ってのは一部の人しか必要とされてないって事なんだろう。

2009-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20091129230432

韓国って破綻国家というほどひどくはないだろ

いくらなんでもあおりすぎ

日本公務員数は少ないが平均賃金は高い

人口当たり研究者も多い

これらを削るのはそれほどおかしな話でもない

彼女を作ろうと頑張った結果、デリヘルに落ち着いた

8月ごろから彼女を作ろうと躍起になっていた

そろそろ20代も半ばに差し迫り、女性と付き合ったことがないってのはヤバイんじゃないかと思い

非モテのカラを打ち破るべく、自分なりに生まれて初めて努力した。

まずはじめに、モテるためのノウハウが書かれた本を買い漁ったわけよ。

かいてあることといえば、まず身なりだ。清潔感。これ。

金銭的には不自由してないから、百貨店行って高めの私服を買いそろえた。

大切なのは、靴に一番お金をかけることだって、「30歳からの保健体育」にも書いてあった。

たしかに靴を良くすると気分が違う。ここまではお金をかければできる。

次に必要なのは、出会いだ。

だいたい女の子と知り合うための条件は、下記ぐらいしか存在しない。

職場→無理

ナンパ→無理

友達に紹介してもらう→紹介できるような友達はいないから無理

店員に声をかける→無理

英会話とか料理教室→面倒くさい、無理

ミクシィグリープロフィールの作成が面倒くさい、無理

出会い系うさんくさい、無理

お見合いパーティー→これならいける!

お見合いパーティーについては省略。

お見合いパーティーだよ、なんかそんな感じの。

これがもうほんとどうしようもなく悲しいのよ

なんかパーティーに来てる女の子って顔面偏差値が低い子ばっかりなのよ

そこで頑張ってようやく「普通レベル女の子を一人ひっかけることができた。

で、一緒にデートとかするわけだけど、これがまたつまらない。

世の中の男女って楽しそうにデートしてるけど、こんなにつまらないものなのか

相手が「普通レベルだったからか。

そうすると世の中の男女の半分以下はたいしてデートとか恋愛ごとを楽しんでないのか

初めてデートしたくせに、これがほんとうにショックを受けるぐらい詰まらなかった。

ドキドキしなかった。相手がかわいくないからか どうなのか

正直、こんなレベル女性キスなんてしたら吐き気がする・・・

と、童貞の俺は思った。いや普通レベル女の子相手に贅沢なことだとはわかっているが

わかってはいるが

俺は2次元が専門のオタクなのだよ

次元というディメンションの1段高いところでは、相応に面食いなの

かわいい!」というレベルじゃないと俺なんかと付き合うのは無理


そしてなんかもうどうでもよくなって、メールを無視して終了した

そこで俺は考えた

何故、俺は彼女欲しいのか、と。


彼女が出来て何かいいことがあるのか

メリットがなければいけない

メリットってなんだよって思ったら、性的サービスぐらいしか思いつかない

それってデリヘルで十分なんじゃないの?

デリヘルって若い女性たくさんのみほんの中から、己の検索技術画像解析技術だけで

あと電話するだけで好みの子がくるじゃん


俺の給料からいくと、月4回ぐらいはデリヘル呼んでも生活できるわけで

月4回、自分の好みのかわいい子をとっかえひっかえ呼んで

そうすれば彼女なんていらんのじゃないの、と思った

彼女がいても、メイド服コスプレとかしてくれないだろうしな

してくれって頼んだら引かれそうでやっぱ無理だろうし



というわけで俺は満足してしまった。

哀しいかな、今までセックスが「彼女欲しい!」というパワーの原動力だったのに

その原動力がデリヘルで失われた今、もはや彼女欲しいという願望が薄まりすぎてだめだ


一度も彼女ができてないような人間が、風俗サービスを満喫すると

取り返しのつかないことになるということでなんかもうどうでもよくなって

なんで俺彼女作ろうとしてたんだろう、と思うわけで

親身になれるオタ友達ならいるし

誰か「彼女」のよさを教えてくれ、じゃないと俺は本当に一生彼女ができない

文を書くのに疲れたからここまで

「むこう」は起源を知ったらまた「キモい」って言うだろうな

キモい」についてみんなもっと真剣に考えるべきだと思う。http://d.hatena.ne.jp/suzuchu/20091128/1259421947

内容についてはあえて言わないが、

僕は生れてはじめて「これはひどいタグを使ってしまいました。つくらないのがポリシーだったのに。僕の感想違和感というよりも怒りに近いです。

というほどの、「生れてはじめて」自分タブーを犯したほどの「怒り」が、「これはひどいタグというところに着地するというのもどうなのか。

はてなブックマークにおいて、もっともよく使われるタグのうちの一つ。

・初出はクソゲー「大冒険 セントエルモスの奇跡」のキャラクターの第一声である「これはひどい」である。この言葉が、このゲームクソゲーっぷりを見事に表した言葉であるとして有名になった。また「超クソゲー」(ISBN:4872333837)という著書の中で、「大冒険 セントエルモスの奇跡」の出来の悪さを評する言葉として「これは、ひどい」が使われたことも、この言葉が多くの人に広まった理由のひとつである。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a4%b3%a4%ec%a4%cf%a4%d2%a4%c9%a4%a4

これはほかのみんながバカのように乱発しているタグであり、サターンクソゲーネタなわけだ。独自性が何よりも大事だ、などという寝言を吐くつもりはないが、いくらなんでも安っぽすぎないか。○○ネタを使わないと僕の怒りは表現できません、とかでもあるまいに。

http://anond.hatelabo.jp/20091129204036

ほかにもちょっとおかしい点があるように思う。

小泉竹中で禁輸の規制緩和とか言ってるけど、橋本内閣金融ビッグバンでほとんどやったわけで小泉政権金融面で規制緩和が進んだって事はなかったはず。不良債権処理はしただろうけど、これは規制緩和とは逆に政府介入を大きくする行為なわけで。

あと成長率の高い国に投資すべきとか書いてるけど、それを市場が織り込んでるならその分高価格になって結局利回りの面で利点はなくなるし、逆に低成長でも市場が悲観的過ぎて価格が下がりすぎてるなら利回りはよくなるので成長率の高低じゃなく市場価格と実際になりそうな結果の違いを見ないとだめだろう。

かな書きの文章はなぜ「読みにくい」と言われるのか?

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1

ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。

●時間厳守は遅刻する人に迷惑がかかるのでやめてください

この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。

前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

●記事のブックマーク・ページ(1)

●記事のブックマーク・ページ(2)

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページ

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ

以上の4つのリンク先からブックマークコメント引用させてもらいます。

id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。

私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。

1. 漢字について

2. 「学校という空間」をこそ問題にしよう

3. 表記が生成される場に立ち返ってみる

4. 国語廃止論序説

5. 「国語廃止論序説」への補足

5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。

ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。

上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。

それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。

また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。

とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。

そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。

もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマークコメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。

id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。

日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字学習に費やされていることも。

日本学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。

いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。

あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。

●漢字が排除するもの - hituziのブログじゃがー

 漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。

 もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。

 私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者日本語学習者です。

 そうした人たちが文字情報アクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。

こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。

こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。

「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」

これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータスロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。

同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。

だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。

さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。

「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマークコメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?

前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。

id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい

id:baumkuchen555 みんなよく読めるな

id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること

id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな

id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw

id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる

id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり

id:makiyamakoji とても よみに くいね

id:feita さすがによむきがおきないね。

id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。

id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない

id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?

id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…

id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない

id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。

id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ

id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化

id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。

お疲れ様でございます。

みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。

「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。

「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。

上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。

id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。

この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。

なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。

ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。

そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。

つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。

こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。

id:Yagokoro [これはひどい] 日本語すぎて読めない。

日本語すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。

書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?

なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。

すでに述べたように、私は自分言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。

たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?

その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。

しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。

繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。

次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。

 このごろ建物階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。

 たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。

 もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。

 つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞ニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。

 何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……

(訳者注:原文ではかな書きで引用されている)

見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄り自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。

文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。

だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。

同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。

そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。

石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。

 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。

 たとえば、駅の階段エレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーター車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。

あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。

要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。

その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。

私は前の記事で次のように書きました。

 さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。

これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。

漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。

そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。

id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記

id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。

id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった

id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認

ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。

たとえば、「日本語同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。

しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。

実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。

他によくある誤解はは、漢字表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。

id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど

ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。

英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。

つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。

要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。

(続き)

http://anond.hatelabo.jp/20091129004932

個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか。私の書き方が拙いのもありますが、増田さんも「戦争考える人像」を持っているように感じました。できたらそれ、今は横に置いてください。

戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。

というのは違います。失敗の有り得ない社会体制を求めているわけでもありません。

戦中に戦争を支持した大衆の一人と同じような形で(これが言いたいがための文章でした)自分平和を支持しているんだということを踏まえて、立脚する正しさのなさに不安感を抱いた、ということです。平和への疑問を抱くほどに怖いのではなくて、平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖いんです。怖いという語では強すぎるかもしれませんが、そういう不安があるために何を思うにせよ迷いが生じます。これが発展して「なにを思えばいいんだろう」に繋がって、それが私のテーマです。

意思決定の正否の問題は、戦争平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。

1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。

妥協・他の意見を顧みた結果、武力行使が必要、という結論になることもありえる

という意見をいただくことになるだろうから

そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。

を書いたのに… 難しいな。妥協しようと他の意見に歩み寄った末に武力行使が必要と判断して戦争をするなら、それはつまり「武力行使が必要だ」という正しさに則っての武力行使です。「他者への不寛容」という表現に誤解を感じました。「不寛容であるから戦争が」ではなく、「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。

アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます。

ISAFISAFの、アフガンの各組織は各組織の正しさに則っていると思います。そもそもISAFアフガニスタン戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。

OD問題に憶う ---土方克法

就職博士 (OD) の問題がついに新聞紙上に姿をあらわした。昨年秋の札幌学会で、当地の若い人達OD問題のビラを配っていたが、内容は”われわれをどうしてくれるのだ”ということであった。筆者の大学では、1967年物理系の学科ができたが、教官定員はアッという間に優秀な人達で埋められてしまい、もう空き定員はない。その後いろいろな方面から就職の照会があるが、ない袖は振れず、如何ともし難い。このようにして、われわれも事の重大さを数年来感じてきたが、何等の有効な対策も講ぜられぬまま今日に至ったのであろう。素粒子関係では未就職者の数は600名とか1000名とか聞く。この人達は本職ならざるアルバイトをしたり、周囲の庇護のもとに生活しているのであろう。現在のわが国は数千名のODを養う経済的余裕があるのかも知れない。しかし、たいていの人はODとなって何年か後には”おれをどうしてくれるのだ”という不満をもつにちがいない。いや既に各所でこの問題が表面化しておればこそ、新聞種にもなるのだ。

筆者の近所にはいわゆる教育ママがたくさんいて、小学校のうちから一流大学を目指して子供をしごく。愚妻もその1人であって、大学非常勤講師手当を上回る額を月々進学塾に貢いでいる。このまま大学までずっと勉強を続けるのが母親の念願なのであろう。大学で勉学をするのは当然なことだが、最も熱心に勉学を続けた人のなれの果てがODではないか。筆者は時々愚妻に”子供ルンペンに仕立て上げるつもりか”と言う。しかし、大学入学以後のことまでは考えが及ばないようで、あまり効果がない。

たしかに物理学若者の心を魅了するものをもっている。筆者の教壇からの経験をいうと、1年のクラスでは話が熱力学第2法則とか相対論のくだりになると、日頃ゴソゴソ私語を交わしている学生でもフト熱っぽい眼をする瞬間がある。”私は物理学にだけは強い幻想をもっている”と言ったある全共闘学生を忘れることができない。”1次元振動子の理論はよくできすぎている”と溜息をついた学生もいた。同じ意味で、群論量子力学への応用とか、Dirac方程式などには何者にも替え難いBeautyがある。ところで本講座『現代物理学の基礎』の各巻を執筆される方々は、物理学をいかに美しく展開するかに薀蓄を傾けておられるであろう。そして多くの学生を魅了することであろうが、彼等に対してわれわれは責任を感ずべきではないだろうか。少なくとも彼等が物理学への興味を失うことなく、正常な姿で生活できるようにと願うのは自然の感情であろう。筆者は博士課程、とくに理論方面に進む希望学生に対しては、OD現実を説き、物理学の汚い半面を強調して、その夢を醒ますことをまず試みる。それにもかかわらず、素粒子とか生物物理を志す学生はあとを絶たないのである。

しかし、思ってもみるがよい。なぜOD問題が生じたのか。講座増を希望したのはわれわれである。教官定員が増え、万年助手が昇格し、研究室が活気を帯びたのも束の間、学生は年々入ってくる。これらの学生産業界には出てゆかない。そこで再び教官定員増を要求する。しかし政府はある学生数に対して教官を配置するという方針を墨守しているから、この悪循環は急速に発散して今日の事態となったのではないか。すなわち、非は数年先のことを考えずに(または考えていながら)教官の定員増を要求した大学側にある。

一昔前の話になるが、筆者が米国の某大学で、物理学科の学生1人1人に、学位を取ったらどこへ行くかを問うたところ、1人の例外もなく、"Industry" と答えたのに驚かされたことがある。学位を得て産業界に入れば指導的地位を約束されるそれに対して日本産業界は、修士を受け容れる体制はできたが、博士となると”固まりすぎて融通性がない”という理由で敬遠する。わが国の産業界はまだ博士を必要とするほど発達していないというのは一面のいいわけで、これも大学側に責任があると思う。米国大学では博士たるものは1つのテーマについて研究を仕上げると共に、年に何回か行われる試験によって物理学全般の知識についてチェックされる。また学部下級生の講義実験指導をする "Teaching Assistantship" の制度もひろくゆきわたっていて、これがどのくらい彼等の学問社会性を育てるのに役立っているかわからない。一方、日本博士課程では3年なり4年なりの間自分の専門に閉じこもり、社会とは隔絶して研究をしていればよい。このようにして彼等は”固まって”しまい、物理学の極めて狭い分野の専門家となるのである。われわれの世代も実はこのような道をたどったので、あるいは、物理学者社会に眼を奪われるのはもっての外、就職に頭を悩ますなど言語道断と言われる方もあるかもしれない。現に某大学学生就職に無関心であると非難された教授が、多分売り言葉に買い言葉であろうが、君達が大学院に入ったのは学問をするためか、就職をするためかと開きなおったそうである。たしかに就職など世俗のことにわずらわされることなく学問ができたらそれにこしたことはない。そこで筆者はこのような理想的な環境として、またOD問題の解決策として次のことを提案する。

それは宗教的教団に似たInstituteを作ることである。名づけて日本素粒子教団、生物物理教団等。この教団に属する人は、世間から僅かな喜捨を仰ぎ、粗衣粗食に甘んじ、妻帯の望みも絶ってひたすら学究生活をする。たまたま在家のわれわれも修業をしたければ年期を限り、なにがしかの費用を払って入団できる。このような教団は古代にもあったようだし、僧侶階級をみてもわかるように、比較的永続きし、しかもすばらしい業績を挙げうるものである。もしかするとOD問題は古代からあったのではあるまいか。

しかしODの中には一応の社会的なセンスをもち、このような教団に属するよりは、世間の人と混ざって生活し、積極的に世のため人のために尽したいと思っておられる人もいるにちがいない。その方々に筆者の日頃思っていることを述べて同憂の士をつのる。われわれは実は手がなくて困っている。現に筆者は、1年・3年・4年・大学院と週10時間講義を持っているが、年々新たな講義をしようとすると並大抵のことではない。しかも、どの大学でもそうだが、1年生は大教室で講義を受けさせ、入学当初から大きな幻滅を与えている。この1年生への講義ほど、物理学者にとって大切なものはない。つまり受講生の大多数は、将来物理学を専攻しない学生であり、これらの学生教育こそ物理学社会全体に正しく理解される足がかりとなるはずである。物理学が正しい姿で社会に浸透すれば、物理学者の発言権も強まり、ひいてはわれわれの社会的地位の向上にもつながる。それなのにわれわれは、その教育に手を抜いている。少なくとも上級生の教育ほど力を入れていない。これは間違っていると思うが、人手が足りないから致し方ない。若しも教官の数が、学生数が現在のままで倍になり、昔のように少人数の講義ができたら、どんなに幸せであろう。さらに少数の学生が1人のTutorまたはAdviserの指導を受けるような制度でもよい(英国大学またはモスクワ大学のように)。そしてODを全国の大学に吸収するのである。しかし、これを実現するには、学生数に対して教官数を算定する政府の基準を改めさせ、さらにはその根本にある考え方を変えさせなければならない。これを行うだけの政治力物理学者基礎科学者)にはないものだろうか。 OD問題をこのままで放置し、破局的状況に持ちこんで、政府をして嫌でも対策を講じざるをえないようにするのも1つの方法ではあろう。しかし筆者は歳のせいか、できるなら破局的状況は避けたいと思うのである。

(ひじかた・かつのり、電気通信大学物理工学科)

岩波講座 現代物理学の基礎、量子力学II(1972年付属の月報

韓国病院遺体返す代わりに1500万円支払え」の件まとめ

てか痛いニュースタイトルひどすぎだよねー。

 

遺体返す代わりに1500万円支払え」 韓国病院雲仙市にまた要求…射撃場火災

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1343668.html

 

この件については読売が比較的いろいろ情報出てるので、ググった結果を読売中心にまとめ。ソースは貼るのめんどいから自分で「韓国射撃場 火災」とか「海外旅行 治療費」とかでググれ。

ごめんなさいソース集め直したよ><

http://anond.hatelabo.jp/20091130235610

 

以下まとめ。

・全身火傷の重傷患者がハナ病院に運ばれる。

・高額の治療が必要だったが、ハナ病院は人命優先でとりあえず支払い保証デポジットもなしで治療

・ハナ病院保険会社治療費を請求しようとしたら、被害者たちは任意の旅行保険に入っておらず

島鉄観光自分の加入した保険でまかなうことを約束。ただし島鉄観光保険は、病院側から直接請求できない契約。(直接の支払者は島鉄観光になるっぽ)

・ハナ病院「えっ、地方観光会社最後の砦かよwwwないわwww何千万持ち出しで治療してると思ってんだwww」

・ハナ病院が、釜山市と韓国日本領事館に支払い保証を要求。

釜山市「日本観光会社の支払いを釜山市が保証とかないわwww」

日本領事「検討はしますwww検討はwww」(日本語で「検討しない」の意)

・ハナ病院「公的保証なしで何千万も持ち出しとかないわwww雲仙市頼むww保証ないと遺体返さんwww」

雲仙市「背に腹は変えられん。もし島鉄観光がトんだら雲仙市が支払いする。でも邦人保護って本当は政府仕事だよね?」

日本政府「そんなんいちいち保証してられるかwww個人の契約の話だろwww」

雲仙市「(個人の契約じゃなくて島鉄観光債務の話なんだけど・・・)」

 

まぁ個人的には、釜山市と日本政府はもうちょい考えろと。特に釜山市、立場はわかるが観光イメージ最悪だろうに。雲仙市GJかな。ハナ病院遺体を返さないという手法はかなりどうかと思うが、持ち出し額を考えると仕方ない面もあるし、保証もないままここまで治療してくれたことは基本的にGJと思う。

あと海外旅行の際は必ず旅行保険に入るように。海外ICUなんて入ろうもんなら、最低でも数100万円。夢の2000万円突破なんて話だってググればいくらでも出てくる。この件についても、普通に旅行保険にさえ入っていれば、ハナ病院保険会社の話し合いだけで済んだことだった模様。

ちなみに、まだ入院中の方については治療費保険限度額の2500万円を超える可能性があるため、韓国観光協会韓国募金を企画中とのこと。さてどうなるか。

 

大事な追記!

なんか「任意の保険に入っていなかった」を無保険解釈して叩いてる人がいるけど、(契約の詳細はわからないけど)結果的には島鉄観光経由で2,500万円まで保証保険には入っているようなので勘違いなきよう。(ただ病院側に直接支払われる契約でなかったので、今回のもめ事の理由の一端となった。)

普通に旅行保険に入っていれば」というすごく語弊のある書き方した自分が悪いんで申し訳ないんだけど、任意の旅行保険でもこの事例をカバーできないような格安保険があるので、単に任意保険に入ればいいわけでなく、リスクを把握したうえで保障限度額をちゃんとチェックしてね。

http://anond.hatelabo.jp/20091129023638

もちサビ残

まぁ平日は毎日8時半朝から深夜までだけど、土日は昼まで寝てそれから行ったりしてるし。

つーか平日遅刻しても、喫緊のことがなければ何も言われないし。その辺は気楽なんだよね。

しかし仕事量が半端ねえ・・・

明日午後あけて彼女とすごしたいので昼すぎまでに仕事終わらせるために早く行くのでもうねる。

http://anond.hatelabo.jp/20091129023638

それサビ残じゃないよね?

2ヶ月休みなかったらおかしくなるよ

半休でもいいから無理して休むべし

やりすぎると鬱か心身症になる

そうすると何年も仕事できなくなるし生活もおぼつかなくなるよ

休みが難しいのはとてもわかるが何とか休め

じっくり寝坊して映画見ておいしいもの食べるだけでも体にはすごくいいから

中途半端にチンコがでかい男の悩みを聞いてくれよ

あまりにナニが大きすぎて困る話はたまに聞くけど、「中途半端に」困る話はあまり無いので、ニッチ

需要(あるのかそんなもの)を狙って書いてみる。

俺は、「中途半端に」チンコがでかい。自分の場合、長さは平均程度で、問題は太さである。

リアルでこういう話をすると、たいてい「ふざけんな」とか「自慢かよ」となって話が進まない。なので、こういう増田しか書くところがない。需要とか書いたけど、要は自分が発散したいだけ。

まず、「中途半端にでかい」とは具体的にどれくらいか。

センチメートルとかいった長さだと、あまりイメージがわかない。というか、正しく測定できている自信が全くない。だから、もっと現実に即して説明してみよう。

現在日本で一般に流通している日本製コンドームで最もサイズが大きいのは、俺が知る限り、不二ラテックスの「シャポーウルトララージ」とオカモトの「メガビッグボーイ」だ。両者に微妙なサイズの差はあるかもしれないが、この2つがほぼ並んで一位だ。この2種なら、普通に使える。その一つ下のサイズ、すなわちオカモトの「ビッグボーイ」だと、使えるけれども少し窮屈かな?という感じである。

要は、日本企業が作ったコンドーム普通に使えるというとだ。日本人として、平均よりは大きいにしても想定の範囲内だ。商売が成立する程度の市場は存在しているわけ。たぶん。(ちなみに、これらのビッグサイズのコンドームは、ドンキホーテには高確率で置いてある)

女からみてわかりやすい基準で言うと、身長が160cmくらいの、普通の体格の女の手首の太さだ(と思う)。平均よりデカイが、巨根ネタにするほどデカくはない。中途半端である。


さて、ここからが問題であって、このサイズに対する女の反応はどうか。今までに自分がお手合わせを願った女性は、彼女と、その場のノリでヤッた女性と、(恥ずかしながら)プロ女性を合わせて10人である。内訳は、

  • 「ふーん。まぁまぁ大きいね」と普通リアクション…2人
  • 「ちょ、今までで一番大きい」などと驚きつつ行為は成立…4人
  • 「無理かなぁ…」と、頑張るものの挿入には至らずソフトプレイで終了…3人
  • 「無理。ごめん。帰る」と敵前逃亡…1人

と、女性の体格・個人差によって反応が分かれる。ちなみに、プロ女性でも1人は不可であった。まぁ敵前逃亡は別に原因があるような気がしなくもないが、一応、ナニを見ての反応ということでカウントする。

というわけで、たとえば無作為に女性と行為に及んだとすれば、3割強の確率で挿入不可である。はっきり言って、この割合が多いのか。少ないのか。いや、大きいのか。小さいのか。どうなのか。よくわからない。世間に存在する「巨根コミュニティ」の中で言えば、小さい方だろう。逆にいえば、半分以上は行為成立するだけ、彼らから観れば「普通」で「幸せ」である。というか、全く問題のないという女性も一定数いるわけで、彼女らにとてみれば、別にどうこう言うほど大きくはないのだ。

おそらく、「余裕で受け入れ可能な女性」 と 「受け入れ不可の女性」 が混在する、絶妙のゾーンなのであろう。

だから、「挿入らない」という約3割のリスクを抱えつつ、しかしながら開き直ってネタにするほど大きくはない。例えば、飲み会等でカミングアウト(?)して、「大きいのが好きな子を紹介してよ」と言ったとする。仮に、その話を聞いてやってきた女性がいたとして、おそらく彼女にとっては期待ほどではなくやや失望なのである。

と、グダグダした文章になったしまったが、別に何か解決策を探しているわけでもなく、具体的に何か相談しているわけでもなく、書き散らしただけである。

女性の「空間的余裕」を外見から見分ける術があればうれしいけどね。たぶんそんなものは無い気がする。

署名したならもうすこし問題に目を向けてみようぜという話

漢方薬署名活動に対する疑問

http://anond.hatelabo.jp/20091128040524

↑では、署名活動の趣旨や内容について疑問を抱いたので、

それについていろいろ調べたり素人なりにぶーたれたりした。

そのとき書き忘れたというか頭から抜けてたことがあるので補足する。

俺は「署名活動をする」こと自体を否定しようとは思わないんだ。

なぜなら、「署名活動をする」ってこと自体が社会にはこんな問題がありますよーって知らしめる

問題提起になるからだ。(反応を見るに似たようなこと書いてた人もいたと思うけど)

そもそも、上記の疑問だって「署名活動」さえなければ問題自体を知ることなく、

問題について調べようと思ったり増田情報をまとめようとすら思わなかったんだ。

もちろん、署名活動の内容について疑問があれば、それは気になる。

疑問が出るのは、俺の知識が足りなかったり提供されてる情報が足りないせいだ。

疑問があると、署名を保留にしてしまう俺みたいな人が出てくるんだ。

だから、署名活動を広めようと思う人は、是非疑問もしくは俺達の認識ミスを解消してほしい。

素人でも納得できる理由をもっとわかりやすく明示すれば、

もっと署名してくれる人も増えるはずだ。誇張とか嘘はなしでさ。

もちろん、それは大変だとは思うけど、それぐらい重大なことなんだろう?

で、タイトルの話になるけど、

先の記事冒頭ではちょっと煽り気味に「みんなホイホイ署名すぎじゃね?」とか書いてしまったが

これは軽い気持ちで無知なまま署名した奴 m9(^Д^)プギャー とか言いたいわけじゃないんだ

その場の勢いでもなんでも署名したからには、

みんな責任もってもう少しこの問題に目を向けてみようぜ、って思うんだ。

「俺はもう署名したから責任は果たしたあとはよろしくー」とか

もしくは、疑問の記事を見て、「アチャー、署名したの早まったなー」とか

じゃなくてさ

さっきも言ったように署名活動は問題提起の一環みたいなもんだからさ。

署名したからには、ちょっとこの問題に対して興味関心も湧いてきただろう?

署名した人がそんな軽い人ばかりだと思ってないけど、

そう思っちゃってる人もいるんじゃないかな?

1日やそこらしか目を向けてない俺が言うのも変かもしれないけど、

軽い気持ちすぎたなーと自覚できたらば、そこから更に気持ちを改善してみようぜ。

もちろん、みんな忙しいだろうから

イチイチ時間をかけて調べたりとかできないかもしれないけど(俺も)

たとえば、ニュースをよく眺めて今後の動向を気にしてみるとかさ、

ちょっとでもいいから目を向けてみようぜ。これをきっかけにさ。

2009-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20091128223140

日本があらゆる面で豊かだとかいう根拠の無い妄想を捨てられない奴が多すぎるんだよな。

当事者意識皆無っつーか、危機感無さすぎっつーか。

http://anond.hatelabo.jp/20091128203617

むしろその文脈ですぎやまこういち先生を味方に取り込むと規制反対派に死亡フラグが立ちそうな予感が。

規制反対派の中からですらウケが悪そう…俺自身もすぎやま先生政治的主張の数々はどうかと思ってる)

政治的なセンスに優れる人というわけでもなさそうだし、味方につけて規制反対の流れを強化できるかというとちょっと見通し暗いんじゃないかな。

あと、そういう話とはまた別に、彼がガチガチ保守派であったなら、いわゆるロリペドっぽい同人誌にはあまりいい顔をしないと思うの。

その辺の問題点を全部解消できるんなら、まあ上手く行くんじゃないかと思う。

すぎやまこういち氏が規制反対派かもしれない件

この前、俺はニコニコでこんなのを見つけたんだ。

[すぎやまこういち] 西ドイツポルノ解禁のお話

http://www.nicovideo.jp/watch/sm7749588

21年前の対談番組で、すぎやまこういち氏が景山民夫氏と対談していた時の話なんだけど、

すぎやま氏がこんな発言をしていたので紹介しとく。

僕がね、新聞で見てね、非常に感動した話ってのがね、西ドイツがね、ポルノグラフィーを解禁するときに、その議会の演説でね、西ドイツのその、上院議員がね、私自身はねポルノが大嫌いであると、ポルノグラフィを見ると気持ちが悪い。大嫌いだけども、今までのWHO統計その他を見ると、ポルノの解禁した解禁国は解禁前よりも解禁後の方が全部性犯罪統計的に減っていると。で、ポルノグラフィーは私は大嫌いだが社会にとって有用なものだから、これは解禁するべきであって、ポルノグラフィー解禁の方に一票投じるという演説をした議員がいたの。感動しましたね。

俺はもしかしたら、すぎやまこういち氏はうまく説得できれば規制反対派になってくれるんじゃないかと

前々から思っていたわけ。

なぜかというと、

・「ドラゴンクエスト」をはじめとして多くのアニメゲーム仕事に携わっている。

人権擁護法案に反対する意見広告に、「コミックマーケットに出す同人誌も」という文言を盛り込んでいる。

(参考 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4c/f1285d9eb17f53fa214a841e49b19f8c.jpg

秋葉原連続殺人事件に関して、ゲームと事件を結び付ける言説を批判している。

(参考 http://warasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-554.html

2ちゃんねらーであることを公言している。

慰安婦問題に批判的であり、APP研ECPAT思想的背景と敵対的であること。

典型的ネット右翼思想信条の持ち主であり、自民党を支持しながら表現規制に反対するということが不自然ではないため。

といった理由があるわけ。

でも、これで確信した。

すぎやまこういち氏はうまく訴えることができれば、

児ポ法とかのような表現規制にも反してくれるんじゃないのかと思う。

すぎやま氏が規制反対派になってくれるなら、

"THE FACTS"などのように保守系意見広告を載せているように、

是非とも表現規制反対の意見広告を載せてほしいと思っているわけ。

楽観的すぎるかな?

ブーツはえろい。

ブーツはえろすぎる。

あまりゴタゴタしていないストイックなブーツは最高にえろい。

もうふざけんなってくらいえろすぎる。

ブーツを履くおんなのこは、俺からえろい目で見られている事を覚悟すべきだ。

俺は溶けていく。

http://anond.hatelabo.jp/20091128191402

何を思えばいいか、なんてのを他人に聞くのは良く分からないなあ。なんか変な道徳意識に捉われてない?

当事者以外は戦争を語れない、と思ってるのかな。それはそれで窮屈だと思うんだけど。当事者経験聞いて、何か思ったり考えたりするぐらい自由にすればいいじゃん。というか、戦争全体を理解するなんてのは当事者にもまず不可能だし(群盲象を撫でるが如しって奴)。増田が思ったように語ってもいいと思うよ(もちろん、戦争の各分野に於いてそれぞれ専門的な知識が要求される分野はあるので、そういう領分は侵さない程度に)。具体的に批判も受けてないうちから増田が「戦争を知らない私も知ってそれを理由に平和を求めるべきなのか、求めていいのか」とか考え出すのはちょっと考えすぎなんじゃないかなー。

あと、知ることや考えることだけで問題は解決しないだろうけど、知ることも考えることもないまま問題が解決することは一層ありえないと思うので、知ることについて「どんなに誠実であろうとしても限界があるじゃないか」という発想の扱いには気をつけた方が良いと思う。「だから知ること・考えることに意味がない」にはならぬようにね。

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