http://anond.hatelabo.jp/20091128234950から続き
が、直後に球に美樹の瞳から激情が消え失せる。何事かと思った僕は、哀れむかのように眉を下げた彼女にじっと見つめられていることを理解した。
「ねえ亮太くん、もしかして私は分数の足し算引き算から教えないといけないのかな?」
その瞬間、僕の中で何かが切れた。同時に、一瞬目の前が真っ赤に染まった。気が付けば僕は勢いよく椅子から立ち上がっていた。口が勝手に動き出す。
「美樹さ、ちょっと酷過ぎるよ。そりゃ僕は美樹みたいに頭良くないけどさ、さすがに頭にくるよ」
続いて美樹が思いっきり机を叩く。噛み付くかのようにして立ち上がってきた。
「なに逆ギレしてんのよ。本当のことじゃない。こんな問題誰でも解けるわよ。分かんない亮太を馬鹿って言って何が悪いのよ」
「そんなこと言ったってしょうがないだろ。ちょっと公式を忘れちゃってたんだから」
「忘れてた? 馬鹿じゃないの。あんな公式一回覚えたら忘れるほうがおかしいわよ」
「誰にだって忘れることはあるだろ。第一、美樹は説明が早すぎるんだ。そのせいで僕は計算の仕方を聞かなくちゃならなくなったのに。何さ。足し算引き算から教えようかって」
「付いて来られないほうが悪いんじゃない。自業自得よ。ほんと考えられないんだけど。どうしてあんな簡単な説明を聞き逃すことが出来るのよ」
「説明だって? あれのどこが説明なんだよ。理解させようって気もなかったくせに。というかね、美樹はいつも一言多いんだよ。今だってそうさ。もっと違う言い方があっただろ」
「私にはね、しなきゃならないことがあるの。別のことに時間かけてらんないの。大体亮太だって――」
「お客様」
「なに!」
突然横から割り込んできた声に、僕と美樹の声は見事に重なった。
「他のお客様の迷惑になるので静かにお願いしたいのですが」
見れば店長らしきおじさんが、笑顔で僕たちのテーブルの側に立っていた。こめかみの辺りに青筋が立っている。口角がひくひくと痙攣していた。その表情に昂ぶっていた僕の怒りはすぐさま現状を理解して冷めていった。注がれる他の客たちの視線が痛い。とても痛い。涙が出てきそうだった。
「す、すみません……」
そう謝って、僕は静かに腰を下ろした。人前で喧嘩だなんて、物凄く稚拙なことをしてしまった。自分を見失ってしまっていてことも恥ずかしくもなってきた。椅子に座った僕には、ただ縮こまるしかなかった。小さく小さく息を潜めるようにして縮こまって、そのまま消えてしまえばいいと思った。
そんな僕を見てひとまず気が済んだのか、おじさんはくるりと踵を返すと、大きな歩調でテーブルから立ち去っていった。他の客の視線はまだ突き刺さってくる。僕は彼らに向かって心の中で謝った。騒がしくしてごめんなさい。恥ずかしいものを見せてごめんなさい。いや、本当にもう、何と言うかごめんなさい。そしてから――忘れてはならない――ゆっくりと目の前の人物に目を向けた。真っ赤な顔で直立していた美樹は、まっすぐに僕を睨んでいた。
「帰る」
そう言って美樹は、持ってきた資料やレポートを残したまま店から出て行ってしまった。取り残された僕は、激しい後悔に襲われながらも空になった席を見つめることしかできなかった。
――やってしまった……
思いと共に、さあっと肩から背筋にかけての部分が冷たくなっていく。やってしまった。どうしようもないほどにこじらせてしまった。
「どうしよう……」
呟きは落ち着く場所を見つけられないまま宙に溶けていく。
後に戻れないことは明白だった。美樹は真剣に怒ってしまったし、それを引き起こしたのは他ならぬ僕自身だった。
どうしよう。そのたった五文字が重なり合い、大きくなったり小さくなったり、フォントを変えて、斜体になったり、中抜きや色を変化させながら頭の中を埋め尽くしていった。
――どうしよう……
見れば、カップに少しだけ残っていたエスプレッソコーヒーがすっかり冷え切ってしまっていた。二つ分のコーヒーカップ。さっきまで目の前には美樹がいて、一緒に向かい合っていたのに――
堪らなくなって、僕は勢いよく席を立つ。好奇に満ちた視線になど、構ってはいられなかった。美樹が残していった持ち物をまとめて会計を済まし、慌てて外に出た。途端に肌に触れた外気の暖かさにちょっぴり驚いた。店内から見た時は枯れ木が立ち並ぶ路地に北風が舞っているのかと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃなかったらしい。頬を撫でる風はどこか温かく、射し込む日の光は思った以上に暖かかった。
僕はいなくなった美樹を探すことにした。
長い付き合いだ、性格はよく分かっていたつもりだった。扱い方も、悪い口のいなし方も熟知していたつもりだった。
それゆえの慢心か、それとも現実逃避を含めたちょっとした気の緩みが油断につながったのか。もしかしたら休日の朝っぱらから、美樹の電話に叩き起こされたのが種火となって、ずっと燻っていたのかもしれない。事の根に潜んでいる根源的な原因は、小さなものがそれぞれ絡み合って原型を留めていないほどに複雑な造形を結んでいた。
それでも結果論として、理由が何であれ僕はあんな風に美樹攻めてはいけなかった。少し頭に血が上ってしまったせいで、我を失ってしまっていた。あの時、瞬間的に僕の中で燃え上がった真紅の灯火は、しかしながら今はもうその輝きを失い、責めあがってくるような群青の水面に変化している。
美樹のことが心配だった。あれで彼女は結構傷つきやすいのだ。ガラス細工のような性格をしているのだと思う。光を透し澄んだ輝きを放つ一方で、一度砕けてしまえば硬く鋭い切っ先をあらわにする。どんな状態であろうとも、他の干渉を拒絶しているようなところがあったのだ。そして僕は、その実彼女が大きな淋しさを抱えていることを知っていた。
(5/5に続く)
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