2024-07-12

東京喧騒が静まりかけた夜、都知事選の熱気も冷めやらぬ中、私は取材を受けていた。窓の外では、選挙ポスターの残骸が風に揺れている。その光景を見ながら、私の中で一つの思いが膨らんでいった。

民主主義が、今、崖っぷちに立っている」

選挙。それは民主主義心臓部だ。しかし、今回の都知事選を見ていると、その心臓が危うい鼓動を刻んでいるように感じた。有権者たちは、もはや政策を選んでいない。彼らが選んでいるのは、「自分と同じ部族なのだ

想像してほしい。あなた投票所に立っている。目の前には候補者たちの顔が並んでいる。あなたは誰に投票するだろうか?かつては、「この人の政策が私の生活を良くしてくれる」と考えて投票したはずだ。しかし今は違う。「この人は私と同じだ」という感覚投票する人が増えている。

まるで、政治が巨大な鏡になったかのようだ。有権者自分の姿を映し出す鏡を探している。そして、その鏡に映る自分の姿が、たとえ歪んでいても、幼稚でも、それを受け入れようとしているのだ。

自分のようなダメな奴が権力を握ったって、別にいいじゃないか

この危険な考えが、静かにしかし確実に広がっている。

私は思わず叫びたくなる。「本当にそれでいいのか?」と。

人間は、不完全で、時に愚かな存在だ。だからこそ、私たちは常に成長を求めてきた。より良い自分になろうと努力してきた。しかし今、その努力放棄しようとしている人々を目の当たりにして、私は戦慄を覚える。

そして、この現象都知事選だけの問題ではない。国政の舞台でも、同じことが起きている。

安倍政権以降、国会形骸化の一途を辿っている。重要な決定が、国民代表者たちの議論を経ずに行われる。野党の声は無視され、強行採決が繰り返される。まるで、民主主義劇場で、一人芝居が演じられているかのようだ。

そして、その劇場の観客席では、人々が無関心を装っている。「どうせ政治なんて…」という諦めの声が聞こえてくる。

しかし、それは危険な諦めだ。民主主義は、市民の参加なしには機能しない。それは、常に私たちに「より良い大人になれ」と要求する、厳しくも愛のある親のようなものだ。

他の政治体制は、市民に「考えるな、従え」と命じる。しか民主主義だけは違う。「考えろ、議論しろ、そして決めろ」と私たちに求める。そう、民主主義は面倒くさい。だからこそ、嫌われやすい。

しかし、考えてほしい。私たちが今、この「面倒くさい」民主主義を手放したら、その先に待っているのは何だろうか?

暗い部屋で、一人、こんな思いを巡らせていると、急に寒気を覚えた。外は真夏の夜だというのに。

民主主義は今、深い眠りに落ちようとしている。そして、私たちはその眠りを誘う子守唄を、自ら口ずさんでいるのかもしれない。

「このままでいい」「変わる必要はない」「今の自分が一番」

こんな甘い言葉を、私たちはお互いにかけ合っている。しかし、その甘さの中に、民主主義を溶かす毒が隠されていることに、気づいている人はどれだけいるだろうか。

今、私たち必要なのは、目覚めることだ。自分自身を、そして社会を、より良いものに変えようとする意志だ。それが、民主主義を救う唯一の道なのだから

取材を終え、深夜の街に出た。選挙ポスターはまだそこにあった。しかし今、それらは私に問いかけているように見えた。

あなたは、どんな未来を選ぶのか?」

その問いに、私たち一人一人が真摯に向き合う時が来ている。民主主義の命運は、まさに私たちの手の中にあるのだから

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