「傷ついた!」「お気持ち!」「ミサンドリー!」「ミソジニー!」「表現の自由!」
実際にはてブに上がってくることも多くて注目度の高い話題ですが、では、そこに注がれている視線とはどのようなものでしょうか。
フェミニスト、アンチ、野次馬の3つに大別できると思います。政治に例えると保守と革新とノンポリのような感じでしょうか。
アンチの中にも色々いて、そもそも男権社会のままであったほうが自分に都合がいいから男女同権の拡大に抵抗している人と、人権という錦の御旗を悪用していいとこ取りしようとする小狡いフェミニストを批判する人とがいます。そもそも折り合う気のない前者とはいくら戦っても戦いは終結しませんし、後者については戦う相手としては明白に分が悪いし言い負かされた時のダメージが大きい。つまりいずれにしてもアンチとやり合うことにはほとんどメリットがないのです。
なのに、なぜかフェミニストたちは「これは闘争であり、その姿を見せ続けることで宿願の達成に近づくことができる」と信じているように見えます。
私は、フェミニズムのすべきことは「アンチを論破すること」ではなく「野次馬を味方につけること」だと思っています。
現状、私を含む野次馬たちは日和見(どっちの味方につこうか決めかねている人)ではありません。どっちの陣営にも肩入れする気はなく、ただ言い争いを眺めている人です。もめごとが起こるとそれだけで「お?なんだなんだ?もめてんのか?」と人は集まってきますが、そこに居合わせたのはただの偶然です。
いわば、居酒屋のテレビでたまたま映ってるプロレスを眺めている客です。リングの上のふたりの選手はベビーフェイスとヒールに色分けされてはいますが、元々プロレスに興味がないのでどちらに肩入れすることもありません。でも目の前のテレビにたまたま映ってたらつい見ちゃう程度には試合が面白いし、よく知りもせずにちょっと的の外れたコメントを言いたくなったりもします。しかし、そこで奇跡的に魅力的な試合展開でもない限り、その人がそれをきっかけにプロレスファンになることはありません。居酒屋を出たら忘れてしまうでしょう。
今のフェミニストたちのいざこざの大半はこのように「無関心なまま通過されるエンタメ」になり果てている気がします。どちらが優勢でどんな戦略・戦術がとられるかは勝負事としてその場限りの関心があるけど、自分自身のイデオロギーにまではその影響が及ばない。いざこざに使われるエネルギーの大半はフェミニストとアンチの間を往復しているだけで、ベクトルが自分のほうを向いたエネルギーがないからです。
この状態が続けばいずれこうした論争は「鬱陶しいけれど本質的にはきのこの山とたけのこの里の争いに近いもの」と認知され定着してしまう気がします(すでにそうなっているかもしれませんが)。
いや、よかったやん そのうち、ツッパリ→暴走族→旧車会、の流れで、BBAばっかりやってる古くさい伝統芸能になって埋もれていくのだよ