2021-05-06

鏡像を覗き込む

ある人間類型を眺めていて、一体何が起こっているんだろう、と考えている。

何人かいるのだ。「絶対的自分が正しい」と他人を排撃する人間が。そして共通して、正しい、正しくない以前のところでバッティングしていることに気づかない。そのため、彼らの言葉他者に受け入れられない。そして次々に居場所を失う。

どこがバッティングしてくるのか。自他の境界、他他の境界。そんな感じだろうか。

彼らの言動を観察すると、すぐに他者を括る。そしてそのカテゴリ内の人間思考を同一視する。この段階では、自分自分以外と言う形で、世界がくくられているのかな、と思っていた。

が、よくよく言動を追うと、違う。彼らは他者思考を断定する。その断定の基準を見ていると、驚くほどこちから見るその人物思考基準のようなものしか見えない。

サボりたいんでしょ?

→いや、あんたがまさにサボりたいように見えますけど?

有名人にでもになりたいの?

→まさにあなたの行動だよね?

ちやほやされたいんでしょ?

→まぁ、あなたそれ自分で断言してらっしゃるしね?

そうすると、彼ら彼女らの中には、そもそも「個々人の感じ方考え方は違う」と言う発想すら存在しないのではないか、と思えてきた。

思考の内容はともかく、思考なすルートは自他で同一。自分だったらどう思うか、のみが他者に対する判断基準となる。

となると、人間判断はこうなるだろうか。自分自分YES他人自分にNOの他人。あとは、自分認識していない他人だろうか。彼らが自分認識していながらYESもNOも抱かない他人をどう評価するのかはわからない。ただ「人間の発想方法が同一」という推論から引けば、ニュートラル、という評価は生まれづらそうな気もする。

なにがしか議論を前に語り合うのであれば問題はないだろう。問題フリートークだ。彼ら、彼女らの発想に自分が興味を示すことと、他人が興味を示すことの差異を、どれだけ見出し切れるのか。

そういった人たちの話に出てくるのは、とことんが自分のこと、自分のこと。他人の話は、「自分意向に沿う」か「自分拒否反応を示す」の両極端になる。真ん中を聞くことはめったにない。

他者交流は、事前によほどのバイアスを受けない限り真ん中スタートとなるわけだが、彼ら、彼女らには、どうにも真ん中が見えていないのではないか。見えていないものは見ない。見れるはずがない。当たり前のことだ。だから彼らにとっては、会話の中で見えてくるYESやNO「だけ」が極大視されていく。

一方、見られていない人間にとっては、自分の関心の外の話をされても、YESもNOも言えない。そうなんですかととりあえず相槌を打つか、興味ないですと断じるか。そのどちらかしかない……いや、知的好奇心の高い方であれば、「お、そうなんですか?」と食いついていけるかもしれない。

そしてこれは、順番に「小YES」「小NO」「特大YES」と認識されるだろう。基本的にはすべてニュートラルな反応に過ぎないのに。

彼らは、「見聞きしたYES/NO」(本当はどちらでもない)に基づき、こちらにさらなる話を展開してくる。YESであれば自分の味方なのだ。NOはこちらに対する敵対行為なのだ。このくらい単純化されているのかもしれない。

彼らは概して、語る場数を踏む。躊躇しないからだ。それは特有の雄弁さを生む。テーマトークでさえあればいいのだろうが、フリートークにおいても話題が彼ら自身と、彼らに対してのYES、彼らに対してのNOしか手札がない。つまり彼らの言葉には、どこまでも「彼ら」しかいない。聞き手たるこちらは存在しない。できない、とすら言っていいのではないか

故に彼らの批判こちらの芯を食うことは、ほぼない。彼らにとって聞き手とは「彼らの方を見る鏡像」であり、その鏡像を彼らは「他者」として認識する。聞き手たる自分は、以上のように彼ら、彼女らの語る内容を認識せねばならないように思う。

批判自己紹介乙である、と言う。ならば彼らをこう語る自分自身他者を見る目も、少なから勝手鏡像押し付けて語っているのかもしれない。やらないでいられるのか? 自信を持ってうなずけるはずがない。彼らがこちらに彼らの鏡像押し付ける、と言う考え方は、そのまま自分がまさしく彼らに自分鏡像押し付ける振る舞いに他ならないのだ。

次に出会う「彼ら」には、これまで出会ってきた「彼ら」とは少しでも違った対応を取れるようになりたいものだ、と思う。そのための端緒をテキストにあらわした。では、どう振る舞おう。そこをさらに考えていきたい。

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