朝起きることができたが、これは自分を授かってくれた母に感謝しようと思ったがする全く気が起きないな。
人間が子孫を増やしたがるのは当たり前のこと。むしろこの世に産み落としたことで俺は被害を被ったと言ってもいいし、母も俺に出費したことで損を被っている。こんなのは生産的とは言えない。
朝コーヒーを飲む。このコロナ禍でコーヒーを消費してやってるので農家は俺に感謝すべきだろう。
クズと言われることもない。何故なら消費行動は正当化されるからだ。
コメ一粒一粒を噛みしめる。とても甘い。甘い意外に感想などあるか。せいぜい歯ごたえ程度だ。
お米一粒一粒には神様が宿ってるんだよ、という走馬灯が思いうかぶような気がするが、あいにくそんな事を言う人物はうちにはいなかった。したがって米粒の神様には感謝する必要はない。セーフだ。
米に感謝しなければならないならば、味噌汁にも感謝しなければならぬ。しかし大豆に感謝すべきだとは誰も言わない。俺も言いたくないからウィンウィンということか。大豆も随分損な役回りだが、運が悪かったと思って諦めてくれ。いつかお前を褒めるやつが来るだろう。もっともあんことして化身したときかも知れないが。
会社に出かける。満員電車に感謝するものはいない。満員電車でありがとうなんて言うやつは相当な閉所フェチだ。俺は閉所フェチではないので感謝する必要がない。JRの駅員が扉に押し込んでくれた恨みしかなく、感謝など発生する理由がない。まして彼らは単なるサラリーであり、仕事をするのは当たり前だ。彼らの電車押し込みが彼らの明日の米食を生むのだ。なぜ感謝しなければならぬ。それはそうといい加減米から離れたほうがいい。
会社に着くなり脂ぎった部長がかつらを付けて鎮座しているところが目に入る。あの前頭部を見なくて済むと思うと思わずかつらに感謝仕掛けたが、うかつにも気を許しては感謝してしまう。それでは微塵も感謝しなかった大豆に申し訳が立たない。
帰り際、アルタビジョンに在りし日のSMAPとその名曲『KANSHAして』が流れる。思わず感謝しかける。危ないところだった。
もはやどうやって感謝を回避するか、という想いに囚われた俺の目の前に、アクシデントが起こった。俺がKANSHAしてしてに聞き惚れている間に、かばんを落として中身の書類がこぼれ落ちてしまったのだ。
そこに容赦なく通りかかる若い美女。彼女は微笑みながら書類を手に取り「落としましたよ」とにっこり微笑んだのだ。しまった、俺としたことがうかつにも感謝タイミングを創出してしまった。美女に親切にされるなどまさに感謝の極み。この幸運を授けてくれた神と美女、両方に感謝しかねない事態だ。
「そんなの拾わなくていいですよ。ありがた迷惑です」
完璧だ。完ぺきな感謝避け。どう感謝イベントが起こっても拒否できる強度だ。神など容易い。
「ちっ、もうすこしで感謝させることができたのに……」